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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
前記事の抜粋を皮切りに、続きを考えてみようと思う。
鍵は、保坂和志のいう「解析的に言葉を使う」ことだと思う。
状景を、現象を、正確な言葉をもって記述する。
上っ面をなぞる表現使用に慣れると自分の言葉から強度が遊離する。
かちりと噛み合う歯車を一つひとつ拵え、絡繰りを組み上げていく。
「正しい思考」のあるべき姿についての記述を試みているのであった。
保坂和志氏の小説を読んでいて独特な充実感がある所から氏の名前を出した。
氏のエッセイからも全体が硬質ながら(それゆえ?)確実な強度をこちらは感じ取る。
まずは氏の小説作法について書いてみよう。

保坂氏の小説は「言葉を解析的に使う」にふさわしく、描写が細かい。
ただその描写の緻密さが、独特な興味に導かれて発揮されているように思う。
印象を言えば、緻密な描写そのものが一般性に回収されることはないが、
その描写の一つひとつから立ち上がる全体がある普遍的な風合いを帯びてくる。

「小津安二郎的」と小説の帯の紹介文に書かれているのを見たことがある。
小津映画は自分は映画評でしか話に聞いたことがなく、実際に観たことがない。
だから映画評からの想像でしかないが、思い付く形容は次のようなものだ。
ほっこり、人情味のある、暖かく穏やかな、太平楽な、何気なく過ぎる日常。

その同じような雰囲気を保坂小説に感じるとして、
そしてその雰囲気を作り出す鍵が「解析的な言葉の使い方」にあると思うのだ。
恐らく小津映画(の脚本?)は同じようには書かれていないはずで、
その差は「時代の差」にあるのだと思う。

ここから話がずれていく予感がするので、そのような予告だけしておく。


情報技術の発達した現代社会では伝達される情報量がとてつもなく大きい。
文章だけであった時代から、音声、動画、そしてあらゆる形式のデータ。
世界広しと言えど、現地に行かずとも画面を通じて世界を見渡せる。
この知覚(主に視覚、聴覚)範囲の拡大は、知覚の意味を変えたはずだ

例えば、ピラミッドを砂漠にいる中で見る場合とテレビで見る場合に、見る人の認識の違いはいくらかあるだろう。
やはり現地で見る臨場感がたまらないという感覚もあるだろうし、手軽に世界の他の遺跡と並べて見られることで夢が広がると思うかもしれない。
ここでは文章から風景を想像することと(画面上であれ)風景そのものを見ることの違いについて考えてみたい。

息を呑むほどの大自然であれ価値ある古代遺跡であれ、風景そのものの強度があるとすれば、その場にいる人間は誰もが同じように感じられるはずだ。
しかし風景から人間が受け取るのは強度だけでなく、意味もある。
例えば意味の中には希少性があるだろう。
希少性は「意味(物語)を自分に引きつける好材料」になるかもしれない。
写真を撮ることは征服感を満たすと聞いたことがあるが、自分だけが見ることが出来る(と思える)風景は自分に固有の結びつき方をするだろう。
しかしその風景を世界中の誰もが見られるとすれば、希少性という意味の価値は薄れる。

つまり、情報化手段とその転送能力の拡大、これに交通手段の発達を加えてもよいが、これらによる世界へのアクセス可能性の拡大が「一人の人間の固有性」感覚を希薄化させているのだ。
夢は広がるかもしれない、しかしその夢は自分だけのものだろうか?

この不安を手っ取り早く解消するのは、身体感覚の充実だろう。
頭でなく、この自分の身体が感じるものは自分独自としか言いようがない。
それは確かなのだが、それを長続きさせるのは難しい。
なぜならば、世界は「頭の中で考えているように」動いているからだ。
正確には、そのような世界の回り方を理想とするようになっている。
身体感覚の充実のみを永遠に追求するのは要するに動物だ。
それは文明の発達した人類社会で公然と振る舞える態度ではない。
文明ありき、意味ありきだからこそ、身体感覚の充実(のうち個的なもの)は私的な領域に秘められてきた。

恐らくこの「文明の前提」は揺るがないと思う。
だから上で述べた不安の解消、すなわち個別感覚を取り戻すためには、頭の使い方に目を向ける必要がある。



自分で書いていてよく分からなくなってきた。
大枠の流れが最初にあったはずだが、途中の細部の記述に引っぱられると見失う。
文章を書く練習も兼ねているのでここまで書いた分は残しておく。
次回は路線の修正から入ろうと思う。

筆を置く前に今日たどり着きたかったことだけ書いておく。
保坂氏の小説の細部描写は、風景描写や会話する人々の何気ない仕草やら行き交う視線やら語り手の思考の展開やらが無秩序に混在しており、その一つひとつから意味を感じ取ることは難しい。
(語り手の思考の断片には興味深いものがいくつもあって、自分はそれもとても好きなのだがここではそれはおいておく)
だがそのような時々ムダにも思える細部を逐一読んで想像していく過程に、大きな効果があると思うのだ。

たとえば自分が朝起きてから会社に向かって家を出るまでの、目線や身体の動きや思考の移り変わりなどは、普段の生活リズムからすれば全く意識化されない。
それを書き出せと言われた時、できないことはないだろうが面倒だ、と思うだろう。
考えなくてもできていることをわざわざ言葉にすることはないし、まどろっこしいだけだと。
しかし実際にそれをやってみると分かるのだが(と言っているこれは想像だが)、本当にいつもやっていることだけを書き出しただけでも、その文章をあらためて眺めると違う印象を受けるのだ。
(自分の行動を書き出す間に連想がはたらくことももちろん面白いのだが、ここでは敢えてそれを省いている)
これは「自分の行動を意識に落とし込んだ」ことになるのだと思う。
身体の、脳への翻訳。

…違う話になっているかもしれない。
小説の内容は、もともと自分が経験したことではないのだ。
文章から情景が思い浮かぶというのは読み手が既に似た様な経験をどこかでしているからなのだが、それらの断片をつなぎ合わせてできる「流れ」=物語は読み手にとって初経験である。
その情景描写が細部にわたるところに意味がある、という話をしていた。
「細部だからよい」という言い方にすれば、もしかすると普段自分たちは日常で遭遇する情景を淡々と眺め過ぎているかもしれない、という認識が生まれる。
それは「自分の日常も細かく記述すれば劇的になる」といった意味ではなくて、自分をとりまく情報の量が多過ぎて自分の内に深く取り入れずにやり過ごしているけれど、一部分でも深く取り入れてみると(その内容に関わらず)何やら個的なもの、すなわち強度を感じる、といった意味だ。
「考えることが好きだ」と思っているからこんなことが言えるというだけだろうか。
いや、それは違う。
細部にわたる描写の一つひとつを頭に浮かべながら小説を読むというのは、自分の生活の細かいところを捉え直す、ひいては「感覚を拓く」ということではないのか。
おそらく「自分の中の深いところで出来事を感じる」経験自体に喜びをおぼえるのであって、保坂氏の小説はその感覚を呼び起こしてくれるのではないか。



なんだかとっても散漫な記事になった。
ブログを変えてからしばらくは「4行スタイル」を続けていたのだが、
それでなんとなく整って見えてはいたのだが、
リアルタイムで思考を進めながら書くのには向いていないのかもしれない。

と言いつつ今回のような書き方ではまるで整った文章にはならない。
この加減が難しいところだが、模索を続けていこうと思う。
思考で頭をぐるぐる回すことが目的か、思考をきちんと形に残すことが目的か。
そのどちらも達成できれば理想的なのだが。

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