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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
「二カ国語」でお送りします。


帰阪中に元高の友人と飲んだ。
帰るたびに同じ人と飲んでいる気がする。
もちろん帰る回数が少ないのだけど(たぶん次は年末)。
楽しかった。

何を話したかを覚えていない。
酒はいつもより飲んだかもしれない。
(1軒目に生中1杯、日本酒1合、2軒目に焼酎ロック2杯。「山ねこ」が美味)
というかその「いつも」が存在しないような。
(前にいつ飲んだかが記憶にない)
とはいえ惚けるほど飲んだわけではない。

思い付くまま喋っていた。
それがお互い言いっ放しではなくて、キャッチボールはしている。
しているが、キャッチボール「だけ」をしていた感じ。
あれくらいがちょうど良い。

「カフェでの女性同士のお喋り」のイメージがある意味近い。
あれは個人の「喋りたい」が前面に出ていて、会話ではない(場合が多い)。
自分の内に溜まったものを発散できればストレス解消になるのだろう。
(きっと「相手に構わず喋り続けるストレス」なんてのは存在しないに違いない)
…。
「男性同士の飲み」と比較しようとしたのだが、イメージが湧かない。
(これを「男性同士のお喋り」と言わないところに違いがあるのだが)
忘れたのだろうか。
忘れたかもしれない。
付き合いの悪い人間だこと。

気持ちよく喋れれば、それで良いのだ。
多少の気遣いがあって、話に多少の一貫性があれば。
この「多少」の加減が難しいのだが、旧知の仲だとほとんどエネルギィを要しない。
これを単に「楽だ」と言っておしまいにもできるのだけど。

あれ、おしまいにしかならない。
二日酔いで頭が動かないせいかしら。
まあいいか。
なるようになります(何が?)

そういえば年末の楽しみが2つ増えました(どっちも元高関連)。
忘れた頃にやってくるのでしょう。
…。
「長期記憶」をぜんぜん使わなくてなまってきてる気がする。
ま、いいか(いいのか?)


+*+*+*(以下、関西弁バージョン)+*+*+*


地元おる間に元高の子と飲んだ。
あいつテンション高いから毎回ついつい誘てまう。
ゆうてそんな帰っとらんけど。
えかったー。

なん喋ったっけか、よう覚えとらん。
いつもよかぎょーさん飲んだせいやろか。
ま、いつもゆうほど飲んでへんけど。
ほんでじっさい飲んでる間は全然平気やったし。

おもたそばからどんどん喋っとった。
けどお互い言いっぱやなくて、キャッチボールはできてる。
けど、ほんまそんだけ。
それでええ。

「カフェで女同士がだべっとる」ゆーのにどっか似とる。
あれはたいがいみんな自分が喋りたいだけで会話になってへん。
溜まったもん吐き出してストレス解消ゆー寸法や思う。
…。
「男同士の飲み」のノリて、どんなやっけか。
忘れてもーたんやろか。
忘れてもーたんやろな。
ほんまノリ悪いやっちゃな。

要はオモロかったらそれでええ。
ちょいと相手のこと見とくんと、話がぶっ飛んどらんかったら。
この辺の加減は基本メンドくさいけど、よう知っとる人なら手間はかからへん。
ま、「楽やねん」ゆーたらしまいやけど。

あ、ホンマにしまいなってもた。
二日酔いで頭動けへん。
ま、それでええんちゃうかな。
ほんまに。


+*+*+*

「なぜ訳したし」(訳:どうして訳したのか?)
思い付いた理由を探せば、2つある。

1つは、今回は飲んでる間完全に関西弁で喋っていたから。
大阪に生まれ育ちながら標準語に親和性が高かった自分が、
関東で暮らしながらたまに帰ってきてのこの結果は「偉業」なのである。
関西にいる頃は大阪弁と標準語が混ざっていたが、こちらに来てから後者への純化が進行している。
(今年なんか会社内で「〜じゃん」を使って自分でびっくりしたくらい)
原因ははっきりしないが。

もう1つは、帰省の行き帰りの車中で読んでいた本に翻訳の話があったから。
その本は『現象学の視線』(鷲田清一)で、たしか「原文とは翻訳という行為が行われてはじめて存在する」といった決め言葉が書いてあった。それは翻訳という行為は他言語の文章(つまり異文化)を自国語で完全に再現するのではなく「完全に再現することはもともと不可能で、自国文化の下地では理解不能な部分と相対した時にそれを理解するためにいかにその下地を組み直すかに注目すること」にその要諦がある、というかすごく単純化すれば「翻訳に正解なんてない」ということ。
で、標準語を関西弁になおすのを「翻訳」とは言わないけれど、言い換えることでニュアンスとして抜け落ちる部分と付け加わる部分があって、そうだ翻訳作業ってこのズレが楽しいんだよなとこの記事の訳部分を書いてる最初に思って、でもすぐ飽きた(笑)

関西弁ってほんとに文字にしにくくて、読書で標準語に完全に慣れているので関西弁を文章にするとものすごくわざとらしく見える。
もちろん喋る時はそんなことはないのだけど、関東にいて関西で友人と喋るように関西弁を喋るとやはり同じようなわざとらしさを感じてしまう。
それはおそらく「ニュアンスとして抜け落ちる部分と付け加わる部分」が余計だと僕が思っているからだと思う。
だから関東で喋っていても、そのニュアンスのズレ部分を必要とする場合にはするりと関西弁が出てくるのではないかとも思うけど、そういう考え方ができるというだけで実際そうはならない。
「相手の喋りに合わせてしまう」というのが身体に染み付いているから。
ただそれを「面倒臭い」と思って解除できる術を身に付けつつもあるけれど。
便利だなー
しかしこれが怠慢に堕ちないようには注意せねば。

そう、「まっとうな面倒臭さ」というものがあるんです。
あとは「まっとうなどっちでもよさ」とか。
ほんとに。
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