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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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「自然な感覚」について。

自然な感覚、という言い方がある。
賢しらな企てなく、身体の赴くままに、なにか大きな流れにのる感覚。
その感覚は「大きなものの一部であること」からくる心地良い感覚だろうし、生物的な「適応」の源でもある(その感覚に従うことで生物は環境に適応して生き延びられる)。
しかしこと人間に関しては、この自然な感覚の全てを肯定するわけにはいかない。
誰もがそんなこと敢えて言わずと分かってると思うだろうけれど、その一方で、地道に考え続けないと判断できないような(環境を大きく変えるような)問題に対して「自然な感覚に従えばいいんじゃない」と即断する。
考えるのが面倒だから、という理由が目に見えて、そして「考え(過ぎ)るのは自然に反する」という意識も垣間見える。
もちろん「頭を使わずに身体(感覚)で判断すべき問題」もある。
あるけれど、ある問題が「頭の問題」なのか「身体の問題」なのかを判断すべきなのは、身体ではなく頭だ。
そうと断言できるのは、社会が頭でできている(現代は養老先生のいう「脳化社会」だ)からだ。

自然な流れがあって、それに従った結果になにか「よくない」ものを感じた場合、疑うべきは「自然な流れ」か「その結果を吟味する自分の感覚」のどちらかである。
後者を疑えば楽である。
「よくない」と思ったのは自分の勘違いで、自然な流れに何も疑わず従えばいいのだから。
しかし自分の感覚を信じており(信じたいと思い)、自分の感覚が前者を疑うのならば、その判断を補強してくれるものを自前で用意しなければならない。
これは骨が折れる。
折れるし、明らかに「自然な感覚」に従っていない。

しかし意識とはそういうものではないのか、と思う。

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