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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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できかけた法則や習慣を、崩してみる。

「こだわらないことにこだわる」の実践とは絶え間のないもので、この言葉は禅問答というより矛盾なのだが、絶え間のなさは「変化が」ではなく「変化の仕方の変化が」であって、忙しいとか落ち着きがないという表現は適切でなく、落ち着いているが流れている、周囲と質が異なる「静謐な流れ」に常に身を浸すというイメージである。
前回と同じく今読んでいる『目から脳に抜ける話』から養老氏の言葉を引くが、「行く川の流れは絶えずして〜」という徒然草(でしたっけ?外すと相当恥ずかしいが…)の冒頭に触れて、淀みなく流れる川は不変に見えるが、本当の(流れ学で言う?)定常流とは流れが止まって見えるもので、川面の揺らぎが見えたり岩の手前で飛沫があがるのが見られる通常の川は至るところに乱流が混じっていて、だから川を見る人は見ただけで「川の水が流れている」ことがわかる、といった話をしている。この「川の絶えない流れ」は、(ある程度規模が大きくなれば実感もできようが)ある領域を固定して観察するにおいて別の時間で同じ状態(空間座標に占める水分子の量と位置が一致する)が実現することは川の発生から消滅に至るまで一度もないと推測できる。こんな話をすれば地上のある単位空間の空気の構成分子とか厳密に考えればいかなる空間でも同じことが言えるのだが、それらのほとんどは人間の実イメージに即した認識の限界を超えていて、水分子とつい言ってしまったけど川のイメージは実感できやすいと思われる。言いたいのは、例えば「常に変化し続ける流れ」として(少し厳密な)川の流れがイメージしやすいということ。するとこのイメージにおける「変化の仕方」はどう考えられるか。水底の土や小石の配置、空気と水そのものの温度、それに風などが川の流れの変化を決定すると思われるが、これらの要素の種類はそう多くはなさそうだ。しかしこれをして「変化の仕方は変わらない」と言うよりはそれら影響因の(量的な、質的な)組み合わせの際限のなさを捉えて「変化の仕方は無限大だ」と言いたい。同じ人がつくる社会において、その未来がまったくの未知であることも同じことだ。

最初に書いた「できかけた法則や習慣」が最初に書いた時に僕が意図して指していたのはこの「とりたま」シリーズの記事ごとのテーマの決め方のことで、まずこれは自己言及であるのだが、この自己言及という行為そのものが(今回の)自己言及の内容を満たすという、これは何と呼べるのだろうか?
まあそれはおいおい考えるとして、自己言及は一つの筋道に沿った思考よりエネルギィを要するものの使い勝手がよく、文章に行き詰まった時に流れを取り戻すためには重宝する。
文章を書くためにはネタが必要なのだが、そのネタが否が応にも決められてしまうからだ。
行き詰まった時には、「行き詰まった時の自分」をネタにする。
それがパターン化しそうになったら、その「パターン化のパターン解析とそこからの脱却の方途」をネタにする。
これがエネルギィが要ると言うのは、人によってはプライドが邪魔するということもあるだろうが(ある意味で「自分は徹底されてない半端者、軟弱者である」という自己アピールでもあるから、というのは僕の勝手なイメージかもしれないけれど、これはこの書き方がある程度堂に入ってくれば解消できるものだと思う)、重要なのは思考の流れとして不連続(飛躍)であるという点だ。
ある単純な文章の展開を考えたとき、例えばAという現象のイメージを膨らませるために色々な別の具体例で言い換えるような文章を綴るとして、それは「AとはBのことです」「Bとは例えばCがDである時の…」という文章が続くものだとして、この文章における思考の飛躍とは「Aは現象を指すがBは人の性質を指していて、両者が等値されているこの文章は隠喩であって…」のようなもので、「いや確かにAとBのことを話しているけどそういう話じゃなくって…」とこれがコミュニケーションの場であれば文脈の汲み取れないすっとぼけた人の発言にもなってしまうが、

たぶん今必要な「思考」とはこういう思考なのだと思う。

つまり、通常の脈絡を無視して異なる要素を結び付けるような思考。
その思考の初めではうまく言語化できなくとも、着実な感覚に基づいた脈絡がそこには潜んでいて、あるいはその「脈絡の言語化不能性」が底流することで他の多くの要素を引き寄せられるような思考。
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遅くなったけど、みそ汁の名前の由来のヒントは伊坂幸太郎と森博嗣です。
これで分かったら凄い。

+*+*+*

収拾がつかなくなること必定の前回提示テーマを受けてみる。
すなわち「自由のための不自由」について。

まず思い付く、というか読んだ時に印象に残ったのですぐに取り出せるのは、『恋恋蓮歩の演習』(森博嗣)冒頭の保呂草探偵の独白だ。
たしか「孤独を感じるには砂漠のまっただ中にいるより都会の群衆に紛れている方がいい」といった内容で、それは孤独は参照項を必要とする相対的なものである、という解釈ができるのだけど、自由もそれと同じなのだ。
つまり「絶対的な孤独」が孤独としての意味をなさないのと同様に「絶対的な自由」は自由の意味を超えている。
「自由」を「制限・制約がない状態」と言い換えた時、何を制限や制約と捉えるかで自由の意味はがらりと変わる。
そういえば今『目から脳に抜ける話』(吉田直哉・養老孟司)という少し古めの爺二人の対談本を読んでいるのだけど(勿論「古め」は「本」に係ります)、養老氏が年上と対談してるのが珍しいなと思いつつ話し方が別に変わるわけでもないが昔の対談本というのは今より「対談そのまま」なんやないかなと相槌の感じや話の切り替わり方(話の途中で発言が意味をなす前から「……」で途切れる、とか)を見て思ったのだけどそれはよくて、対談の中で進化論の話で「目的論的な考え方は人間が想定する枠組み如何で決まってしまうのであって、僕(養老氏)は進化論そのものより進化論を語る人間の方に興味がある」みたいな発言に激しく共感して(と言って単に今まで何冊も養老氏の本を読んで「なるほどねえ」と頷いてることの延長なのだが)、それは「唯脳論」が「結局脳が全てだって言いたいんでしょ」という短絡ではなく「思考を司る器官そのものを思考の対象にするアポリアをどう解剖していくか」という無限マトリョシカのような「終わらない問いの提示」の一つのバリエーションだと思うのだけど、要するに自由を考えるにもまずは目的論的な枠組みを押える(可能なら取り外す)必要がある。

「思考の自由」と言った時、脳が思考するのであるが、脳は身体の一器官であり、身体の他の器官と恊働することで人間が活動する以上、脳は単独で機能することができない。
空腹の時や病気の時にはいつものように頭が働かないことを想像すればそれは分かる。
これを「思考の自由が脳以外の他の器官によって制限されている」と言うことは、できる。
また、ある共同体で生まれ育ったがゆえに、ある特定の言語運用しかできぬがゆえに、想像の届かないもの、思考の枠組みから漏れる概念もあるだろう。
キリスト教を信仰することが生の深いところと繋がっているヨーロッパの人の感覚を日本人はうまく想像できないだろうし、イヌイットのように雪の特徴について二十種類以上も区別することはできない。
このことを「思考の不自由」と呼ぶこともできるだろう。

上で触れた二つは思考の前提(構造)と内容(機能)に関する不自由である。
と思い付くまま挙げてみたものの、一般的に「思考の自由」と言った時は「思考にバイアスがかかっていない状態」を指すものと思われるが、これはジャンルとしては後者(内容)だが内容をもっと絞っていて「ある特定の言語文化内にいること」を前提としていると思われる。
が、自分が最初にしたかった話は「身体の不自由(諸器官の脳への把握し切れぬ影響)を込みにしてこそ思考の自由(←これはきっと「広がり」とか「未知が魅力を発すること」を指している)が得られる」ということで、この本題に別のところから始めて上手く導けたらなあと思ったけどちょっと難しかったね、という降参宣言。
日常的にその「”込み”の例」(不自由から自由が生まれる、とか)がたくさんあって、森博嗣がシリーズもののエッセイ(確かI Say Essay Everydayのどれか)で言ってた「一日一発見」とも言えるくらいあるという自負もあるがしかし同じく「思い付いたことをメモに取ることはなくて、後で忘れてしまったらそれはそれだけのことだったということ」と書いてあるのにも納得して面倒臭がりの口実としていたりもして、書こうと意気込んだ時には音沙汰無し、てのが簡単に想像できるので、相応の話題を雑然と書いてる時に雑然と思い出てくることがあれば雑然と記すこともできるだろうなあと風任せ。
花粉も飛ばなくなったからそろそろ網戸にして、部屋にも風が吹くことでしょう。

ちょっと納得いかないなあ…
どうやらひとつ前の記事からネタを拾って広げてく、というスタイルになっているようだ。
(これは書き手のメタ・メッセージです)

「個から立ち上げる普遍」について。

全く個人的なことを、理に頼りながら時に無視しながら、けれどまったき己が感覚に従うことだけには忠実に思考を重ねて記述された文章が、書き手本人以外の心を打ち、共鳴を呼び起こし、人生の指針にしようとさえ思わせてしまうことがある。
「一般」とか「常識」とはかけ離れた感覚のもとに形成されたその思考が多くの個人の感覚を動かす時、その思考は普遍性を獲得したといっていい。
それは「一般」も「常識」も多くの人々の間で共有されている、コミュニケーションの土台として効果的な位置を占めるという意味で普遍性という性質を持つ一亜種であって、「常識」が地域でも国でも各々異なるように、普遍性を備えた「○○」(まんま「多くの人々の間で共有されるもの」?)もいろいろある。
たとえば全く他者との交流を持たず万年床で妄想を弄ぶ人間の思考が他者の共感を呼ぶことがなぜ起こるのかといえば、ざっくりとは「彼も他者とおなじく人間だから」であり、要点は「他者とおなじく持つ"身体"(ここの場合は脳の方がしっくりくるか)が己が妄想によって賦活される限りにおいてその共感が成り立つ」ということ。
つまり自分の感覚に従って為されたものには、同じ感覚を持つ他者の感覚を刺激する要素が含まれる。
別に難しいことは言ってなくて(というか同じ事を繰り返して言ってるだけか)、けれど実際これをやるのが非常に難度が高いと思われていて、すなわち「一般」や「常識」の参照のないところで自分の感覚を「当たり前やがな」と疑念なく掘り下げることが難しいと思われている。
しかしこれは正しくは「難しい」ではなく「めんどくさい」で、「めんどくさいし得にならないし面白くもない」と思われている。
そんなことはない!…ではなく、「それは君の言う通りで、これはめんどくさいし何の得にもならないことは確かだ。そして面白くもないのかもしれないが、そうだとすれば面白くない理由は君自身が面白くないからだ」なんてことは言ってないけど、「わかんないならわかんなくていいよ」とあくまで自省を始めない限り(「個から普遍を立ち上げる」ことの)スタートを切ることはできないと橋本治は言っているように僕には聞こえる。
世の中を問う本を沢山書いてるし、あーしろこーしろと本の中で説教を垂れることも非常に多いのだけど、そこに手加減はない。手加減というのは例えば「読者のために難しい表現や使用頻度の低い漢字は使わないようにしましょう」という新聞のユーザーフレンドリネスのことで、これは一面で読者のリテラシーをなめてかかってることにもなる。だから橋本治の本には役立つ情報とか話題になるネタのような「つるりとしたもの」なんてなくて、読者の進む道は「つまり何が言いたいの?」という疑問が最初から最後までついてまわって読み終わって何も残らないか、のっけから衝撃を受けて返す言葉も見つからず今の自分に全幅の理解は不可能と悟りながらも必死に追いすがるかの二極しかないのである。ここでいう新聞は巷あふれるハウツー本としてもよいだろう。

言いたい事に戻ると、「個から普遍を立ち上げる」難しさは現代特有のものがあるとして、ここには何が得か、何が面白いかとは別の、生きるうえでの大事な作用がある。
自分の正直な感覚が人に共有される喜びはもちろんあるだろう。それは言葉で伝え合うコミュニケーションの目的でもある。
もう一つ、これが大事だと思うのは、「一般」や「常識」を相対化できることだ。
上で書いたが、性質として、自分発のその「普遍」は「一般」や「常識」と同じなのだ。
だからそれによって「一般」や「常識」の成り立ちがわかるというか、「昔からみんなそうしてきたから(しょうがなく)やっている」ことにも起源や(当初の、あるいは現在の)効果があることに意識が届くようになる。
それがすっかり見通せるようになるのは至難の業だが、詳しくは分からず言語化も難しくとも「意識が届く」ことがまず重要で、それを「化けの皮が剥がれる」といってもいい。
「一般」や「常識」が不条理なもの、曖昧なもの(もきっとあるのだろう)であることの善し悪しとは別に、またそのことによって伝統や集団が機能していることの善し悪しとも別に、「一般」や「常識」の中で生きる一個人として、思考の自由を獲得することができる。
(もちろん「思考の自由」の善し悪しも別の話で、誰もが求めるものではない)

その「思考の自由」を発揮するためには、一定の不自由を敢えて抱え込む必要がある。

という「次のお題提示」をやってしまうと続かない、というジンクスがあるのだが、流れで提示してしまったので仕方がない。
何より「自由を自由にする不自由」(続けて書くと妙だな)については昨日か今日か頭の隅にあったことを覚えていて、それが今ここで出てきたことが一ついいことなのだ。
とりあえず前回書いた「色々な可能性」の例から。

まず、「知識を溜め込む必要はないんだ」ということ。
サーバだのクラウドだのネット上に情報が無尽蔵に蓄積される今の時代は人間の頭の中に情報を詰め込む必要はなくて、情報の手に入れ方(ネット用語でいえば「検索の仕方」)と情報の使い方を知っていればよい、というのは感覚的に理解できる。できるがしかしそれを追求すると人の名前が覚えられない、世間話についていけない等の日常に障りが生じるのも事実で、トレードオフというか要はバランスが大事なのだけど、バランスが大事と言わせるのは極端に走った時の(だいたい高めに見積もってしまう)苦労に対する恐れであって、「極端に走った実例」を知っているとその見積もりが適切にできるようになる即ち「躊躇なく極端に走れる」ようになるということ。
橋本治は自分で言っているのだが常識に偏りがあって、自分の感覚に全幅の信頼をおいているからこそ知識の蓄積なんかなくとも「今の自分に必要なもの」の見当をつけて勉強してどんどん思考を組み立てていくことができて、その「個の追求から普遍が立ち上がる様」を氏の著作を読んで何度も見せつけられている身としては憧れずにはいられない。
ただ僕の場合人に憧れることはなくてその対象は「性質」であって、それは「自分の感覚に信頼がおけること」だ。それは自分の思考に価値があるとか自分の発言に間違いはないという意識ではなく、考えても分からない時は分からないし間違うこともあって、しかし分からないことに納得できるし間違うことの必然性を悟ることができる、という意識のことだ。僕がその本のジャンル・内容に関わらず「著者買い」する書き手はだいたいこの意識をもっていて、それはそのような意識に憧れているからでもあるし、既に自分も仲間に入りつつあってそのような文章を読むと(「こんな風に考えてていいんだ」と)安心するからでもあるし、その安心は何よりその人が現に楽しげにこのような文章を書いて生きているという「先例」を示してくれることによるものだ。
少し話がとぶけれど、「(特定の)個人の時間」にも「世間の時間」にも、人ひとりに親しみを感じさせる性質がある。ここでいう時間とは時間の流れ方のことで、後者「世間の時間」は新聞やテレビであるような「人気のハイソな週末の過ごし方」とか「高視聴率のドラマ」といったものに個人がのっかる時に流れる時間のことで、「多くの人がこれをやっている」という安心感があり、実際に知り合いも同じ事をやっていてその話題を共有できたりする。一方の前者「個人の時間」とは、たとえば橋本治がうんうん唸って原稿を書いている時に流れている時間のことで、氏の本を読むことはそのような氏の時間を共有することでもある。どちらも幻想であることに変わりはない。また、どちらの時間に共調することが重要かという問いもあまり意味はなく、その人が過ごしたい時間がどういう性質かによるだろう。…僕は「個人の時間」への共調に大きな意味を見出しているし、安心すると同時に充実感を味わっている、としか言えないか。そしてそのことを普遍化(抽象化)したければ具体例から出発せねばならないだろう。
その具体例を書こうとして、途中から分類志向に吸い寄せられて話がつまらない方に流れてしまったようだ。分類への魅力は恐らく深く根を張っていて、それができればすっきりするし何かまともなことを言えた気になるし実際仕事上大事な作業であるために蔑ろには当然できないのだが、時間の限られたあるいは趣味的な思考における分類志向は「新たな思考を立ち上げる」よりも「思考に一区切りをつけて終わらせる」ベクトルを持っていて、端的に言って日常で思考を深めたい自分にとってそれはあまり好きではない。だから「時間の限られた思考」という捉え方をまず修正する必要があって、毎日コンスタントに(ある設定した枠内での)思考を積み重ねるという習慣をもつことがおそらく一つの方法で、それは習慣であると同時に技術でもあるのだが、技術は後回しにして習慣を先に身に付けてしまえば、必要が「本当の必要」になった時に自ずと技術が形成されていくものと思われる。

課題はたくさんあって、書いてるそばから同じ単語の指す意味(範囲)が変わっているようだし、最初に書こうと思っていたことからどんどん話が逸れていって戻って来れなくなるのもまあいいとしても勢いに任せて面白くなさそうな話に踏み込んでいってドツボに嵌ることもよく見受けられる。こうやって書きながら反省もして、それが身に染みていけば勝手に修正されていくだろう、というような意識を僕は「他律的」と呼びたいが、自分一人で文章を書いていて他律もないだろうという常識側の指摘もそれに対する回答もすぐに連想できて、それを書く前に(というかそれを書くことをすっ飛ばして)書くべき別のことに瞬時に思い至れば「流れるように書きかつ他人にももう少し読み易い文章」が書けるのかもしれない。

さて、「筆の勢い」と「読み返し易さ」との相関は正か負か、明日の自分が判断してくれるでしょう。
ことばを用いて考えるパターンについて。

思考そのものは単線的ではなくて「一つのことを考えよう」と思って、その道に従っているという意識の中において思考は単線的となる。
で、その線上をそのまま進むとはふつう、言葉をツールとして使う。
言葉にしてから自分の考えに気付くのであれ、先行するもやっとしたイメージを言葉になおしてそういうことなのだと確認するのであれ、そこで使う言葉そのものについて考えることはない。
が、往々にして独りでぽーっと考えていて、すなわち目的もなく予想到達点も見あたらないままとりとめなく考えていると、文章(上でいう「単線」)にするつもりの言葉をいつの間にか分解し始めていることがある。
それも定まった道がないというだけで同じ思考ではあって、獣道(いつか通った道かもしれないがぼうぼうの草に覆われてその判別はかなわない)であれうねうねしていようとも単線に変わりはないとも言える。
そしてそれらの意味で同じ(違う)とは言えて、でも今挙げた以外の「質の違い」があるとなんとなく思う。
質ではなく構造かしら。

…単に「我を忘れて(ひとつの)思考に耽るのがイヤで客観的な(?)視座を確保していたい」という願望の、わりとレベルの低い顕れかなと思ってみる。
当事者意識と呼ばれるものが最近「責任を感じろ」という物事の円滑な進行と(本質的には)関係のない意味を主に帯びているように思われていて(と言って会社でそんな会話は露とも出てこないのできっと新聞を読んでいてそう思っているのだろう)、その反発からか(とある問題に対し言ってみれば当事者である)自分の立ち位置に対する意識を希薄にする傾向が自分にはあって、それはどちらかといえば当事者意識が薄れる側に傾くことになっている。
しかし完全に無責任というわけではないが、負うべき責任の多寡(問題を起こした時に自分がとるべき対応など)を想像の及ぶ限り(という表現は物凄く弾力的なのだが)は想定するがその想像は「ではその責任を取らないでもよいように頑張ろう」ではなく「取らざるを得なくなる状況が生じれば仕方ないよね」という認識の定着に活用されていて、その結果何が起こっているかといえば「当事者意識が表に出てこない」ために外からは無責任に見えて、とはいえ以上の想像に執着はないのでその外見を咎められれば(しばしば必要以上に)当事者意識を湧出させるという、いちおう言葉にすれば長いが「組織内での仕事意識の持ちよう」としての一つのスタンスを形成してはいて、ではなぜこんなややこしいことをしているのかと言えばこれが「非{非(非原理主義的原理主義)的原理主義}的…」の実践と思い込んでいる。

この{ ( ) }は高校の英文法で関係代名詞を習った時の使い方をしていて、同じ括弧で閉じられればその中身はひとまとまりとして考えることができる(英文法の話では主語や補語の抜けた一文がwhichと等価になるというワザでこのwhichが関係代名詞と呼ばれる…って自分は誰に向けてこんなことを書いているのか?)という実は抽象すれば(もうしたんだけど)画期的な思考方法であって、構造主義の基本的な思考概念を「括弧に入れる」と訳してあるのは本当にイメージにぴったりだなと思うがそれは今は関係なくて、上に書いた「スタンス」はこの括弧を2つは使えているはずなのである。
この括弧は原理的に無限大まで増やすことができて、けれどその括弧に伴う実質というのは括弧が増えるほど薄くなっていくのだが(というかふつう誰も増やそうと思わない)、原理主義の打破を「可変的に」追求する人間の中ではその試みが上手く行っていれば時の流れに従い括弧が増えていくはずである、原理的には。

閑話休題。
思考が単語の分解に流れてしまう意識を解析しようとしていたのだった。
簡単にまとめれば、本来の単線思考を紡ぐ集中力がないだけかもしれないし、その単線思考が今やってもろくな方向にいかないという感覚があってやらないでいるだけかもしれない。
…これは解析ではなく「意味付け」ですね。
ここでの意味付けは、思考を続けるためではなく思考を終わらせるために用いられたことがよく分かる。

そう、「予定」がある限り思考はどこかで打ち止めにしなければならないのだ。
一つのことを何日にもわたって考え続けることを「集中力がある」と誉め讃えることは可能だが、公私の切り替えをスムーズにこなさねばならぬ社会人の「バランスの維持というノルマ」とそれは両立し難い。
それが両立されているように見える場合、恐らく後者が犠牲にされている。
こんなことを断言できるのは自分の精神体力が未熟だからにほかならない。

高校時代の話だが、僕は短距離走は大の苦手で、長距離走にも全く自信がなく(体力以前に腹痛ですぐ走れなくなる)、その頃からこの傾向が改善されたとは思っていなくて、今は徒歩(あるいは競歩に近いかもしれない)の継続に要する精神力(実は体力ではない!)を自負している。
「脚による歩み」を思考のメタファーとしようとしているのだが、上で精神体力と書いたのは持続力に見えて実は瞬発力であって(1週間も1年に比べれば一瞬…とまで言わずとも短いだろう)、自分はとても長い基準における持続的な思考に自信を持ってよいのだと思う。
というか身体がそれを要請していて、頭は「そうなってもいいな」と思っているのだと思いたい。

つまりバランスを維持しながらの持続的な思考とは、ひとスパンの思考ごとにふんぎり(落としどころ)をつけつつも同時に「もやもや」も残して次につなげるという技術の洗練がカギだということだ。
だからこんなにズルズルやっててはいかんのだよ。
というオチでした。ガオー。

+*+*+*

2012/08/27(Mon)22:15:58
そうか、単語を分解して遊ぶのは「お手軽トリップ」効果をアテにしてのことなのだ。何か今と違うことを考えたいな、気分を変えたいな、と思っている時、その考えを構成する単語を分解する(そうして全く別の意味が生まれる)だけでそれが達成されてしまう。レベルが低い、と言ったのはこれがたんなる連想ゲームに終わることが多いから。「深めうる予感」もすっ飛ばして言葉の表面で転がり回ってるだけ。そしてもちろんこれは集中している状態とは程遠い。もはや縁遠いけど、テレビを流し見しているようなものかもしれない。

+*+*+*

2012/08/27(Mon)22:22:40
「お手軽トリップ」とは例えば…家にいるのに仕事の文脈で「長所と短所」という考えが浮かんだ時、「ちょうしょとたんしょ、ちょうたん、たんちょう…タンチョウ」とくればもう(もちろん頭の中で)体は湖に浮かんでいることになる。
構造主義の役得について。

構造主義という哲学の分野がある。
日常的な意味としては「物事の仕組みに目を向ける思考方法」くらいに考えている。
冷静にかつ客観的に考える方法としてかなり有用だと思い、「構造主義」という名前に飛びついて何冊も本を読んできた。
橋爪大三郎氏の『はじめての構造主義』がよい入門になって、思えば現代思想という大枠に興味を持ち始めたのも構造主義がきっかけかもしれない。
最近はやっと『悲しき熱帯』を読み終えたところ。
未開の地(ではなく実際は先進国の物資や疫病が浸透していた)での文化人類学者の奮闘はその逐一がスペクタクルではあるのだが、見所はやはりレヴィ=ストロースが帰って来てからの思考の部分だ。
そう、氏は帰ってきたいと思い、そして帰ってきたのだった。
欧米の自文化中心主義を戒める語勢が強いのは確かだが、それがそのまま後進文明の礼賛につながるものではない。
人の価値観は育った文化の影響を避けようなく多大に受け、しかし人類学者は自分の文化を捨てて別の文化に溶け込む。溶け込みつつその文化の仕組みを探り価値付けるが、現地の素晴らしさの対照として自文化を反省的に眺めるその眼は既に濁っている。自文化を批判的に考察できるそのことが自文化の(自浄作用としての)優越性を示してしまうジレンマ。このジレンマを抜け出す道が、まさに「道」にあった…下巻の最終章で仏教に関する体験を交えた記述があって、「世界は人類なしに始まったし、人類なしに終わるだろう」か確かそんな風だったかの有名な一句に向かうまでの記述こそが僕の心に強く響いた、と思ったのは確かだがそれはその一句を書評やらで何度も見た経験があるからに他ならない。

といった感想はもののついでであって、書こうと思ったのは自分なりの「構造主義」というものの位置づけについて。

…きっと続きます。
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