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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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 みんな青春が悪いんだ。一番多感な時期に、一番多感である部分(それは人に寄ってそれぞれ違う)を刺激されると、抵抗力のない──それ故にこそ局地的に純粋である青年達はそこにのめり込んでしまう。”芸術”というようなものにのめり込んだ人間の犯す最大の誤ち(”稚さ”と言おうか)は、書いてないことを見、言ってないことを聞いてしまうという、そのことね。そういうものがほしいんだから、そういうものを現出させちゃってもいいと思う──幻想を求めざるをえないその人間の”を、えない”の部分は本物なんだから。ただし、それが幻想であることも確かな事実で、それと幻想を求めざるをえないこととは自ずから別。別なんだけど、のめり込んだ人間は、そのことだけは決して認めない。それが幻想だということを認めた途端、その幻想から出なくちゃならないというのが、そののめり込まざるをえない人間が忠誠を誓う”現実社会”の掟だから。私がつまんないのは「その”掟”だってどれくらい本物なの?」ということを、その掟に縛られて(実は)逃げたがっている人間達が一向に認めないでいることね
10=それぞれの青春(橋本治『ロバート本』p.55-60)以下同
この「”現実社会”の掟」の(それが十二分に機能していることとは別に)内実がほとんど問われない(=個人の中でしか、もっと言えば非言語的な形でしか問われない)ことが、これが”現実社会”で機能している妥当性を保証しているという考え方は論理的なようで単なる循環で、このポジティブフィードバックはつまり単なる慣習的惰性で、しかしこの単純さこそが身体性と抜群に相性が良い。
個で閉じても周りを取り込もうとしても身体性は身体性で、それが満たされている時の心地よさの種類は異なるはずなのだが、片方ばかりを追求するともう片方がなおざりになる。
このあたりは個とシステムの相反性と似ているが、たぶん複数の個体が一つにつくりだす場の身体性から身体性が損なわれたもの(何を言っている?)がシステムなのかもしれない。
ここでいう「掟」を僕なら常識におきかえるが、常識の内実が公に問われるような状況はありえない、というかその時それは既に常識ではない。
 意識からすり抜けるものという意味ではイデオロギーと似ているのだろうか。
 いや、狭義の(=通用範囲が狭い)常識に論理をかませればイデオロギーになる?
時代の変化に応じて常識も変化するというが、その変化に目的があるわけはなく、自然法則なのかもしれないがそれが生態系の維持とセットになっている保証がどこにもないのは「そのもの」と同じである。
だから常識にも手入れが必要なのだ(日本の里山が「雪かき仕事」としての手入れを必要としていたように)。
「雪かき仕事」は市場原理に全く馴染まない。
馴染まないがそれなしに市場原理(を展開している社会)が成り立たないということは、市場社会は「頭の中にある」ということだ。
皆がそれを忘れると崩壊するが現に崩壊していないのはそれをいつまでも覚えている人や時々周知してくれる人がいるからで、そのアナウンスに市場価値をつけるという複雑なテクニックもあるが、原理的に「雪かき仕事」はボランティアである。
そのボランティアであるはずの仕事でお金がもらえるのは共同体(大きくは国)があるからだし、つまり市場原理主義が徹底されていないということで、ここに人間の身体が存在する余地がある。

それはよくて。(ぶちっ)
今回これを抜粋したのは「青春」という言葉に反応したからで、きっとここでは世間一般でいう中高生のそれに留まらず、大人も含めて誰しもが捨て切れずに残して抱えているものを指している。
それは「大人になる前に捨てなければならない」わけではなく、「ずっと持っているという自覚を持て」と言っているように聞こえる。
…押し付けがましくなく、社会の抱える問題を冷静に指摘する文章がほぼ例外なく読者の自覚を促すことは、問題の解決はまずもって自覚という個人の主体性から始まることを知っており、つまり読み手の思考力をその書き手は信頼しているからではないかと思う。
その信頼は不確実性の許容であり、「人事を尽くして天命を待つ」ことのようで、そしてそれは結果を期待しているのでなく「ただ期を待つ」のである。

うーん、これじゃまるで「片思い」だな。
「片思いが幸せになれない世界は、とてもさみしい世界だと思う」
とは"ライテックスの社長の息子"(@髙橋しん『いいひと』)が言っていた。
そういえばまだ最終巻に辿り着かずに立ち読みやめちゃったんだよな…
わかりやすく示唆的だなあ…再開できるのかしら。

という自由記述。
 俺、人生なんて”大人”と”子供”の二分法だけで一向にいいと思うの。ただ、その境界は、機械的に「ここ!」と決められるようなもんじゃないっていう、それだけの話。子供は子供でトータルに人間で、大人は大人でやっぱりトータルに人間である──但し、その移行段階で破綻は必ず起こる。Aなる完成が一度御破算にになって、Bなる階段へ至る以上、そうなるのが当たり前だから。だから、破綻状況を過大に持ち上げる”青春”てのは好きじゃない。(…)
 青年の論理って、実は現実にあってはいけないもんなんだよ。だって、青年ていうのは便宜的かつ観念的なある時期なんだから。現実化してしまった青年の論理の一典型がナチズムだなんて、簡単に分かるでしょ? だから嫌いなの、頭悪い青年てのが。
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