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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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(…)私は「自分の基準」にしか合わせられない。しかも、専門課程へ進級する時、「それでいい」と教授達から肯定されてしまった。なにしろ私は、「私達は、皆さんが講義に出て来ることを期待しません」ということを、二十一の年に大学教授から公式に告げられた学生だったのである。教授はそれに続けて、「論文にはなにを書いてもかまいませんが、私達に分かるように書いて下さい」と言った──その一言が、今に至ってもまだ生きている「私の文章の基本原則」なのである。(…)
「なにを書いてもいい」だから、私の書くものはアトランダムで、相互に連繋してるんだかしてないんだか分からない支離滅裂状態でもあるが、その支離滅裂に頭を抱えるのは、「ちょっと抱えてみるか」と思う当人なんだから、当人がよけりゃそれでいいだろうと思っている。この件に関して、私はどこまでも自由でありたくて、問題が生じるのだとしたら、その先である。つまり、「私達に分かるように」の部分である。

「在野というポジション」(橋本治『橋本治という行き方』p.70-71)

言わずもがな「ドラゴンボール」が念頭にあったタイトルなのだけど、では「スーパーザイヤ人」とは何かといえば、言い換えれば「"在野"を超える」になって、まあアカデミズムと"在野"の二項対立の外にいるということで、しかしそうなると「アカデミズムと対になっている在野」とはなんだろうと思うとどうもそれは在野ではないのではないか。
言論を世に展開するにおいて専らアカデミズムを意識して、権威に寄り掛からず一個人発を金科玉条とする、などと言ってみて、これが「ある性質においてアカデミズムと双生児的である」という前に取り上げた図式を結論ありきで先に当てはめてみると、性質以前に「アカデミズム⊃"在野"」だなと気付く。持ちつ持たれつ。餅つき食ってもたれる胃。

本来の言葉の意味を超えて、つまり組織というに留まらず価値観において集団に「所属」していなければ("在野"でなく)在野ということになる。
しかしそれは「社会からも外れている」わけではなく、集団と同じく在野も社会を成り立たせる役割を持っていて、進化論でいえば突然変異を引き起こす因子かもしれない。
ある生物種が急激な環境変化に遭遇した時、種の存続はその因子の発現如何にかかっている。
だから在野の存在意義があるとすれば、それは個を超えているということになる。
そして「突然変異」のメタファーの勘所は、この話の全てに蓋然性の極めて低い、「かもしれない」がくっつくということ。
もちろん、それは在野にとって織り込み済みのオリコカードなのである。

期限が再来月なんです…
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「他者からの需要」がなければ、「自分の存在する余地」も生まれない。そんな風に考えるから、私には近代的な「自主性」がない。私の自主性は「他人の存在」を前提にして存在する前近代の自主性だから、あまり近代的ではないのである。
 私は、近代的な自主性を持たないから、平気でぐずぐずしているし、一向に曖昧である。私はそれを、「他人に規定されない、自分の取り分としての自由」としか考えない。(…)
 私の中にある、「前近代的な自主性」は、まず「他人の存在する自分の外側」を第一に設定する。「自分」が確固とする前に、他人に確固としていてもらえないと困る。確固としている「外側」があって、「自分」というものは、それに対応して確固としていく。だから、前近代的な人間は「世のあり方」を嘆くのである。

橋本治『橋本治という行き方 WHAT A WAY TO GO!』p.18 「小商人の息子」

橋本治のような人は近代人から見れば自主性のない、確固とした自己を持っていない人間ということになる。
論理的にはそういうことになって、ハシモト氏も揺るぎくそれを認めていて、しかし実際には読者(僕)からすればハシモト氏は「あまりにも自己が確固としていてまぶしいくらい」である。
そのように見えてしまうことも本当だとすれば、論理と感覚が一致していないということになるのだが、抜粋にあるようにこれは僕の論理が徹底されていないせいである。
つまり近代的な価値観にどっぷり浸かって暮らしている僕らにも前近代的な感覚は残っていて、それを自覚していないのだ。
あるいは近代的な価値観が「脳の独断専行」であるのに対し前近代的価値観が「脳と身体の折衷」であって、価値観に関係なく人は脳と身体をセットで持っているという言い方もできると思う。

まあそれはよくて、言いたかったのは「(あなたの)自己が確固としているか?」を問う時に「どういう価値観から見て」を言い落とすことはフェアではないなということ。
そう言いながらもこの言い落としは当たり前に行われていて、例えば教育の場がそうである。
「つべこべ言わずに言われた通りにしろ」が教師の生徒にたいする正当なスタンスなのだが、これが実際に正当となるのは前近代的な価値観で成り立っている社会においてであって、というのもこのスタンス自体が前近代的だからであって、近代的な社会でこのようなスタンスを教師がとる時(しかもその教師は近代的な価値観を持っている)、生徒は混乱することになる。
前提がはっきりしないからこそその都度前提込みで考えていかなければならない社会で、前提抜きで(つまり思考抜きの)服従を強制されることは理不尽である。
だからこそ近代的価値観を確固とさせた生徒は学習における前提(「将来のどんな役に立つんですか?」「金になりますか?」)の確認に余念がないのだが、それにきちんと(生徒の理解の及ぶレベルに落として)答える教師は教師でなくなってしまう。
だから近代的な社会でも教育の場は前近代的であるべきで、教師は「つべこべ言わずに…」だけでなく「○○○」も同時に言わねばならない。

いつの間にか教育の話になっていたが、言いたかったことに戻せば、社会に流布する様々な言説(特に当為の語法で語られているもの)が本来多様であるはずの前提を抜きにして展開されているということ。
言い方を変えればそれらは「宛て先不明の言説」であって、書き手の思いとは別に読み手はちょっと油断すれば「全てが自分に向けて書かれている」と思い込んでしまう。
ネット空間に浮かんでいる膨大な情報をネットユーザは(必要な手続きを行えば)自由に扱うことができるのだが、それを「自分を資する情報が膨大にある」と言った時、捉え方を間違えて「膨大な情報が自分のためにある、自分に関係している」と思い込んだユーザは身体的な限界を超える量のデータを前にして正常な判断ができなくなる、という状況と同じである。
このような場面での「言説(情報)の宛て先を適切に判断する能力」をうんたらリテラシーと言うと思うのだが、このリテラシーの涵養が進まないのは消費至上主義社会の要請するところである。
珍しく有言実行で、昨日の続き。

昨日書こうと思ったのは、まずもやもやとした思考の中で雑多な要素が時間を飛び越えてリンクを張る気配があって、それを整理する前に気の利いたフレーズ(タイトルのこと)を思い付いたから「これなら書きながら整理できるかな」と思ったからである。
で、抽象的な話が好きな僕はしかし抽象に先立つ具象が必ずあって、それが具体的に何かやっていて意識的に帰納する場合とまず抽象が意識にのぼってきてその出所を探るうちに一つの具象にたどり着く(これがこじつけにならないとも限らないが)場合があるのだけど、なるべくならその思考を言語化する際に抽象と具象をセットにしたいとは思うが表現が慣れていないというか体系的な記述方法を(「体系」に対する関心しかないために)習得することに興味がないので昨日の最初に書いたような「書く時に先立つ具象がとんでしまって抽象だけ残る」というポカばっかりで、このことを不親切と呼んではいても自分の書いた記事を読み返す自分がこの不親切に苛立ったことがないのできっと自分は「他者の不親切に堪(こた)えない純粋に不親切な人間」なのかもしれなくて、これが事実認知的というよりは遂行的な認知(「認知的な認知」と書くとおかしく聞こえるけどちゃんと意味は通る)であるという事故認識はおいといて、「不親切は親切のツンデレ的な顕れ」という巷間の説にも一理あると思う。

結局言いたいのは「やっぱり思い出せなかった」ということで、タイトルから連想できる抽象だけ書いておく。

「鶏と卵」と書くのはそれからすぐわかる通り、物ではなく関係を指している。
どちらが先か、というやつで、起源のわからない事柄を表現する慣用句である。
人は生活するにおいて一つひとつの行動には起源がある。
ある目的のため、またはある指針に基づいて、または考えもなく単なる習慣で。
自分の日々の行動の起源を反省するとき、行動のいくつかが共通の指針や習慣の連鎖によって選択されていると気付くことがある。
「複数の行動に共通の指針」と言った時、きっとその指針に従って始められた時期が各々の行動で異なるはずである。
「習慣の連鎖」とは、特に目的もなく始められた行動があり、その行動に付随する(という以外に意味のない)行動が余地なく選択され、という「気が付けば日常に組み入れられていた行動群」の形成過程を指すが、これもやはり「複数の行動に先立つ唯一つの行動」があるはずである。
これらの意味での「最初の行動」を特定しようと思うのは、自分の生活の見直しが念頭にある場合もあるだろうし、「生活設計の仕組み」を考える好材料になるという興味もある。
自分が考えているのは言うまでもなく後者で、それは「よりよい生活を設計したい」という現実的な目的とは関係がなくて、「生活を設計するとはどういうことか」とか「"生活を設計する"という意識の外で生活の形成に寄与する部分とは何か」とか形而上的な興味なのだけど、その底には現実を超越した机上哲学を弄ぶのでなく「現実に影響を与える無意識にアプローチしたい」というかなり大変な目論見があって、もちろん無意識はモノではないので(意識もそうだけど)、簡単にまとめれば生活を抽象化してから具象化する「生活のフリーズドライ工法」で長期保存可能の湯戻し式即席味噌汁をいかに美味しく作るかに関する考察なのである。

ああ終わんない…

落としたかった引用を先に出しちゃおう。
次でたどり着けるとも思わないけど…はは。

 たとえば、私が高校生で、自分の周りにいるオッさんやオバちゃんや、兄ちゃんや姐ちゃん達に違和感を感じている。「一体、この人達ってなんなんだ? 自分のいるところって、そもそもどんなところなんだ?」という疑問を感じている。私の、「日本人の中にある仏教ってなんなんだ?」という疑問は、その疑問とシンクロしている。高校生の私が、「日本仏教史」の類を読むのなら、仏教への疑問が、「オレの周りにいる見知らぬ人達ってなに?」の答と重なるものだと思って読む。因果なことに、これは今でも私の中に生きている根本体質だから、動きようがない。
(…)
「なんか分からない。なんか難しい。でも、なんか分かるところがある」というものを抱えなければ、人間の問題意識なんか、絶対に伸びない。それを抱え込むことが、「読んでよかった」と思うことなのだから、私は、そういう高校生を内に抱えているような、抱えていたような人間にしか関心はない。

橋本治『橋本治という行き方 WHAT A WAY TO GO!』p.205-206


橋本治からは最近読了した『風雅の虎の巻』の抜粋&コメントに挑戦。
本書では手加減なしの「本質尽くし」がこれでもかと展開されていて、
現代人の良心を持つ読者には眉を顰めずして読み進めることができない。
あるいは本書を軽快に読むことが“それ“を捨てる修行になるかもしれない。
"思想的に分かりやすく、しかし技巧的には高度である"ことがイデオロギッシュになる時というのは、それが"真面目なイナカの人”を対象とした時に初めて成立するんです。思想がイデオロギッシュなんじゃない、その思想を入れる”型”が──そういう“型”を選択してしまう思想が、イデオロギッシュなんですね。(…)
 藤原定家には歌論書というのが結構いっぱいあって、そこで色んなことを言ってるんですけれども、その内容と彼自身の歌とはとんでもなく違っているっていうのは昔っから言われてることです。「和歌は分かりやすいのが第一だ」なんて人には言っといて、自分の作る歌は全然そんなもんじゃない、とか。
 お分かりでしょう? 彼が歌論書を与えた”人”っていうのは、新大衆の田舎者ンだったんですよ。そんな相手にホントのことを言ったってしょうがないって分かってて、彼は”大衆相手の分かりやすいハウツー書”を作ってたんですね
 カルチャー・スクールの元祖で家元の最初というのはこういうこと。

橋本治『風雅の虎の巻』p.128-129
これはカルチャースクール一般に対するイヤミではあって、言い方を変えれば
「名前に惹かれてやってくる人に実質なんて分からない」と。
ただそれは文化の需給関係とは別次元の話であって、要するに
講師も受講者も(お金やイデオロギーによって)満足していれば市場は成立する。

「お金が全て」の資本主義社会では実質が軽視されるとはいうけれど、
(日本の大衆文化については)昔からそんなものはなかったらしい。
文化は生活の実質を充実させるためにあり、文化人が備える「文化の実質」は
生活に応用される際にその本質を骨抜きにされる。

だから(本質的に孤独ゆえ)文化を担う人々には様々な覚悟を必要としたのだろう。
それが境遇によって否応なく決定されていればいずれ達観が訪れるのだろうし、
あるいは外の世界を知らずに純粋培養されていれば(余裕の)風雅が醸されるのか。
そして、文化人が生活の実質をも獲得することは叶わないのか?
「既成から出ろ!」「既成を脱ぎ捨てろ!」が既に”既成”になってしまったら、それは二重の”既成”によって窒息させられるようなもんです。別の言い方をすれば、分かりやすい既成の本歌によって出口を塞がれてしまったに等しい。「人工の中から自然な叫びは生まれない」という単純な考え方は、「人工という既成現実はまた人間の自然の叫びをねじ曲げる」という、もっと大きな”本当”を理解しないんです。単純な正義感は屈折した心理を理解しない、とかね。“わざわざ人から”屈折”と言われかねないような心理状態を取らざるをえない必然性”なんていうものだってあるんですけどね
 新古今というものは、一言で言ってしまえば、「俺は簡単に理解されたくなんかないよ!」っていう叫びを、いとも素直に述べた和歌世界ということにもなりましょう
 素直であらんが為に「バカに分かられたくないね!」っている装飾をふんだんに凝らした世界──つまり現代の新人類なんです。

同 p.133-134
簡単に言えば「素直にひねくれる人間も存在し得る」と。
素直にひねくれる人間は、素直な自分を人に理解されたいと思っても、
”素直”な人からは屈折しているようにしか見えないから諦めるしかない。
共生的な身体が生育過程で損なわれた人間には、共生に実感が伴うことがない。

…どうにも救われない話だと思ってしまうが、人間以外ではありえない現象ながら、
人間だからこそ別途救われる方法もあって、きっとそれは、
「徹底的に頭で生きる」ことだろうかと想像する。
昔(千年近く前)の日本の身分の違いは、お互い想像を絶するものであったのか。
世界広しといえども、折にふれて和歌を詠んで、その後はなにかっていうと俳句を詠んで、自分の周りにある“風景”というものを人間感情でどこもかしこもビショビショにしちゃった文化は他にあるまいっていうようなもんですが、日本文化っていうのは、自分の中には自分がなくて、自分を探したかったら自分の周りの風景にさわれっていう、初めっからアイデンティティーなんてものを無視してる文化なんですね。言ってみれば、自分という”肉体”はなくて、”自分”を知りたかったら、感じたかったら、自分にふさわしい“衣装”をまとえという、そういう文化ですね。
 自分というものは平気で”空洞”になってるから楽だけど、でも探そうとするとどこにもないから苦しい──日本が”伝統的日本”を捨てて”西洋近代”っていうのを求めたのは、この後者”自分が見つからなくて苦しい”からの脱却をはかりたかったからですね。

同 p.152-153
現代日本において「西洋近代化はどこまで進んだか?」を考えるにおいて、
本書はよいテキストになると思う。
和魂と洋才の比率がどの程度であるのか。
きっと本書を読めば「和魂の残存比率」の想定値がガクンと下がるだろう。

ちと散漫に過ぎたか…

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