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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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忘れてた。

このところ調子が悪かったのだけど、クーラーのせいだったようだ。
この暑さで「汗はかかない方がいい」なんてのがそもそもの間違い。
誰が言ったかって、言ってないけど、つまり「社会の無言の圧力」。
社会とは具体的には会社だけど、そう、デオドラントとかいうやつ。

(ロッカー部屋でこれみよがしに制汗剤ふりまくのやめてんかー)

先週末に部屋のクーラー切ったら元気になってきた。
確かに暑いのも汗をかくのも疲れるし不快ではある。
が、そもそも不快にさせてる理由は自分の中にない。
そして疲れるといってもこれは受け入れるべき疲れ。

(「疲れるのヤダ」って身体が言ってるの、一度でも聴いたことあって?)

体がもう、そうなっている。
刻印された、四季のリズム。
自分は日本人、なのだった。
思い出すまでは、誰だった?

なにはともあれ暑いね。
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難しい話。

寮のすぐ横に背の高い一本の木がある。
毎日それを仰ぎ見ながら通勤を始める。
幹の上の方に視線を固定して横を通る。
木を中心に全てが回転するかに見える。

目の前にいる人形の目を凝視してみる。
人形の目の視線が微妙にかち合わない。
だが見つめるうち人形の目線が変わる。
お互いが見ているものを見ている錯覚。

易しい話。

静止したものを動きながら見ると動いて見える。
動いているものを静止して見ると動いて見える。
動いているものを動きながら見るとどう見える?
大体は動いて見えてごくまれに止まって見える。

ものを見る目はわずかに動いている。
身体や目線の動きとは別に振動する。
その目がものの静止を認識している。
静止したものは本当に止まっている?

4/4の話。

野菜のCは黄色の栄養。
人間のCは灰色の形容。
視覚のCは経路の開放。
回路のCは正誤の内包。
前のブログを読んでいて面白そうな話題を見つけたのでお題の(再)提示をしておく。
一つ前のお題が放ったらかしやけど…ま、そういうもんです。

「体の疲労や気分の変化と,意識される徒歩時の身体部位との対応」

2年前に書いたこの話がずっと(週末限定ではあれ)念頭にあり続けたという実感からすると相変わらずな生活をしてるな、とつい思う。
「経験に基づく洗練」がなされていると信じたいけれど。
…それはこのお題の展開如何に関わりますな。

ということで少しハードルを上げておいた。
よろしく!
身辺雑記というか、思い付いたことを書く。

最近書いていない理由はいくつかある。
仕事が少し忙しい、読む方で満足している、書いて「何かが生まれる」予感がない。
どれも書く意欲の低下に結びついていて、
そんな状況で敢えて書こうと思うと一つ前のような記事になる。

先月末から昼食を軽いものに切り替えている。
なんたらブランとかいう健康食品をふた切れ。
発端は暑過ぎる食堂で汗だくになりながら食べることに嫌気が差したからだが、
「一日ほぼ二食」にしてからトータルではプラスが上回っており調子はよい。

朝食は毎朝大量なので、今の習慣でやっと夕方に空腹を感じるようになった。
習慣を変えた最初はいつもの夕食がめっぽう旨く感じたが、今はふつう。
空腹を(そういえば久しぶりに)感じるようになって、身体の存在感が少し増した。
あとよいことは、昼食休憩時間を自由に使えるようになったこと。

で、小田嶋隆氏の「ピースオブ警句」を毎日二週分読んでいる。
これは日経ビジネスオンラインでの連載コラムで、無料で会員登録して読める。
バックナンバーが08年まであるのでこのペースで遡って読んでも長持ちする。
氏に興味を持ったのは内田樹がブログで「オダジマ先生」と呼んでいたから。

コラムのソースは日々のニュースなので新聞を読んでいれば内容はまず分かる。
が、いちばんの読みどころは文体というか「書きっぷり」だと思う。
2chに詳しくtwitterで世間相手の乱闘の日々を送る氏の語りは皮肉に満ちている。
がそれは見せかけで、緻密に考え言い淀みを含めてぐるぐる書き起こす氏は誠実。

「引きこもり系コラムニスト」の氏が書く文章はサラリーマンの心を打つ。
人が日々の生活で抱く些細な違和感をこれでもかと掘り下げるスイーパーの勇姿に、
自分の価値観に抵触さえしなければ大体の読み手は喝采を送る。
その内実の多くは「溜飲を下げる」だろうが、中には「激しく共感する」人もいる。

僕がその一人なのだが、その意味するところは簡単に思い付く。
思い付くがしかし面白くないので書かない。
コラムを読んでの感想を言えば、日々考えて生活していると時に倦んでくるのだが、
氏の文章を読むと正気に戻れるのだ(あるいは「これが正気かと思い出す」)。

+*+*+*

唐突に話題を変える(というか戻す)が、こういう書き方をせねばと思う。
何の話かというと、「自分の内側から出てきたものを書くべきだ」と。
この「べき」は自分に剥けての当為なのだが、ある意味で普遍性を持つ。
氏の去年末の総括コラムを読んで強く感じたのだった。
 原稿を書く仕事を20年以上続けていて、いまさらながらに思うのは、テーマは外部には無いということだ。
 アイデアは、あらかじめ自分の中に眠っている。
 もう少し丁寧な言い方をするなら、「自分の中で内部化できていないテーマは、書き起こしてみてもロクなものにならない」ということだ。
 青い鳥と同じだ。幸せは自分の中にある。

2011年12月26日 パソコンの電源を落として今年を振り返ってみる
そう、ロクなものにならない。
文章を書いておこうと思ってテキトーに題材を探して書いた文章は書いて後悔する。
「文章を書く」という本来手段であるものが目的に堕した瞬間だ。
これを後悔しておかないと、ある種の文章は永遠に書けなくなる。

ある種のとは「生成的な文章」ということなのだが、
話として分かるだけなので偉そうなことは何も言えない。
その「生成的」なる感覚はまずもって書き手が感じるものであるのは事実だが、
その(その時々の)感覚が普遍性をもつと主張するために経るべきプロセスがある。

どこかでそれを追求してみたいとは思うんやけどね。
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