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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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幸福の純粋性を本当に味わうためには、「今、ここ」で起きた幸福感を、そのまま時と共に流していかなきゃいけないんでしょうね。そういう意味では「幸福は絶対に過ぎ去るもの」なんですよ。
 それを覚悟しておかないと、一度つかんだ幸福に固執するあまり、「あぁ、あの時は楽しかったのに……」というマイナスの感情に変化してしまうわけです。そして、自分の規定した楽しさの形に囚われて、そこから少しでも外れると嫌な気分になってくるんです。(…)
 頭の暴走というのは、意志の力が弱くなった状態であればあるほど起こりやすくなる気がします。でも、その暴走はやはり、自分の意志で止めるしかないんですよ。(…)その困難を可能にするのは、おそらく集中力というものなんですね。「今、ここ」の状態を冷静に見つめられる集中力が身につけば、自分の頭、そして自分の心をかなりのところセルフコントロールすることができるはずなんです。

名越康文『心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」』p.61-62

自分に引き寄せて考えるにつけ、ここからは2つの教訓が得られる。
ひとつは「現状維持志向はかんたんに過去に引きずられてしまう」こと、
もうひとつは「身体性への意識が"頭の意志"を弱めることがある」こと。
言葉だけで捉えた気になりその内実から目を背けると必然的に偏向するという二例。


「現状維持」ならニュアンスは伝わるが「今を楽しむ」になると分からなくなる。
ともすると抜粋にもある「今、ここ」と完全一致すると考えてしまう。
要は「今を楽しむ」がある時点で冷静でなくなると暴走すると言いたいのだが、
そのプロセスを素描してみようと思う。

 今自分は楽しいと思っており、今感じている快楽をずっと味わっていたいと思う。
 こうなると「今を楽しむ」が「楽しい状態(現状)の維持」に早変わりする。
 この現状維持が意識の大半を占めると楽しさが減衰するのは容易に想像できる。
 曲者は、この段落の一文目だけを眺めると特に違和感がないところに潜んでいる。

 名越先生の言葉によれば、「幸福感を時と共に流す」作法を身につけていれば
 現状維持に囚われずに「今、ここ」にある幸福感を味わえるということになる。
 この作法の身に付け方は経験していくしかないのだろうが、
 作法の内訳は想像するに「気付き」と「対処」の2つに分けられる。

 このうちの「対処」は既に名越先生が言われているように「集中力」がキィだ。
 「楽しんでいるはずが何か現状維持に傾いているな…」と自分の状態に気付けば、
 「純粋に楽しんでいたついさっき」という過去に引きずられそうな意識を
 集中力をもってして「今、ここ」に引っぱり上げる。

 一方の「気付き」だが、このためには常に冷静な自分がどこかにいればよい。
 「どこかに」というのは、分裂症みたいだが「自分の一部」という意味だ。
 人はふつう多面的であって、それを一貫性が無いと否定する向きもあるが、
 もともとがそうであるならば多面性を好意的に捉え、利用しない手はない。

 「多面的である」例は、出力としては時と場合に応じて振る舞いが変わること。
 家と会社と休日の街中で違うだろうし、話し相手が誰かでも違ってくる。
 そして実際には「同じ時と場合」であっても自分の(精神・健康)状態が違えば
 また振る舞いは変わるだろうし、その順列組み合わせの定量は困難を極める。

 何が言いたいかといえば、「ふと表れる別の自分」を大切にしてみては、と思う。
 友人と楽しく笑っていて、ふとそんな自分を外から眺める視線を感じる。
 その「別の自分の視線」を楽しみの邪魔だと斥けるのではなく、
 (それに過剰な意味を求めるのもまた良くないが)まずは「へぇ」と思ってみる。

話を戻すと…自分には「もったいない精神」が強く備わっていると自覚している。
この自分の性向を「ついで症」(「何かのついでに」を非常に好む)とも呼んでいて、
つまりムダにしない対象が物に限らず、時間や意志や発想などとかなり幅広い。
これをポジティブにばかり捉えていたが、病的であるという認識も必要と気付いた。

「何か楽しいと感じていて『これがすぐ消えてしまうのがもったいない』と思う」
油断すれば自然とこのような発想をする自分が今ここにいて、
これは上記の話の流れからすると「今を楽しむ」が一瞬にして「現状維持」に
切り替わるという自虐的でたいへん不幸な悪習と言えることになる。

自分で書きながら思うに、こう書いてしまうと恐ろしい…直そうと思います。


一つ目が長くなったが、もうひとつにも軽く触れておきたい。
それは「身体性への意識が"頭の意志"を弱める」可能性について。
何やら考え過ぎて気分が塞ぎ込んでいる時に、
「身体がなおざりにされているからだろうか」と思うことがよくある。

「身体と脳のバランス」とは言葉ではいつも意識していて、
それが脳に偏っている時に身体が不調を来し、
器官として身体である脳に悪影響を及ぼしているという予想がそう思わせるのだが、
そうであるばかりではないということに今回の抜粋部分を読んで気付いた。

「脳の暴走を止めるのは自分の意志である」という指摘がほんとうで、
その意志が(身体の関与が全くないとは言わないまでも)脳に担われるのであれば、
「脳の暴走は自分の意識が脳に偏り過ぎているからだ」という認識は、
暴走を止める意志の放棄につながりかねないのだ。

血管が額に浮き出るまで根を詰めて考えろと言いたいわけではない。
思考がうまく回らなかったりどこかで行き詰まった時に、
安易に身体性にすがりついて思考を放棄するなと(もちろん自分に)言っている。
だいたい「身体性を取り戻す」と言って、言葉以上のことが全然分かっていない。

いろいろ考えるのは好きだが無理をしない生活を常としていて、
無理をしないこと自体は身体に良いはずだが中途半端は結果的に毒である。
本が相手でも「完全燃焼」は可能だと思う(おそらくまだ経験はない)。
活力が減退し倦んでいた時期は「思考の不完全燃焼」が元凶であった可能性もある。

一人でいる時はひとまず身体性はおいといて、じっくり考えてみることを勧める。


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