忍者ブログ
幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

看板を変えた。
「募集中」だと、寄ってくるのが腰の軽い人間ばかりだったからだ。

「おじさん、なにやってんの?」(おじさんじゃねーよ)
「えーと、時給いくら?」(内容よりまずそっちか)
「ねえねえ、お兄さん暇?」(君ほどではない)

もちろんそれはそれでよくて、というかそれは予想通りだった。
意味不明な状況に、今を真面目に生きる人は近づかない。
時間をかけて顔を売っていけば脈が広がるとは予想されるが、
よくない感じの想定外の路線が見えたのでひとまず中断した。
ひとまず選べないなりの選んだ選ばれ方をしたいと思う。

あと、小道具も揃えなければいけないようだ。


今住んでいる古民家は背中を山と接している。
目の前の通りから一つ折れればすぐ山道に入れる。
それほど整備されておらず、森のところどころには空間がある。
土地の所有者が伐採しているらしく、丸木や枝が散らばっている。
これが本当の選り取り緑である。

ほどよい長さの丸木を持ち帰り、土間で鋸を引く。
板目で平たく切った板にし、軽くヤスリをかける。
板の形は気にせず、文字を入れる面を丁寧に磨く。
墨汁が滲みそうなのでニスを塗って乾かす。
筆と硯と墨はすでに手元に揃っている。

ここはひとつ「応相談」で、いってみようか。
毛筆二級の腕が鳴る。
「やっとわいの出番でんな」

耳鳴りだろうか。
PR
「視線に慣れること」と「鈍感になること」はひょっとすると違うのではないか。

僕は中学校に入学した頃から「人に見られている」という意識が強くて、そのことをずっと自意識過剰だと思っていて(思わされてきて)、何度も改善を試みたが治らず、途中で「これはもうこういう自分なのだろう」と現状を納得する論理の構築に目先が変わったのだった。
その論理の一つが「周囲の状況に対して敏感であること」で、危機に遭遇した時に遅滞なく適切な対応ができる体勢を常に整えている…というと動物みたいだが、人間社会に危機なんてそうそうないのでこれは意識の問題で、要するに(予想外のものを見たり想定外の人に会うなどして)「びっくりしたくないだけ」なのである。
それじゃ単なる臆病者かと思われるが言い訳はあって、びっくりするというのは「びっくりした瞬間に隙を見せる」ということでもあって、隙を突かれる可能性(そもそも誰に?)の多寡に関係なく隙のある状態が自分の覚醒時に存在することそのものが危機であるという認識があるわけで、要するに考え過ぎである。(言い訳になっていない)
こうなったことの発端も考え過ぎに因るのだから特に違和感はなくて、意味のあるなしとか生産性以前にそういう機制が出来上がってしまっていることと、本気で悩んで「長い目で見て計画的に」治そうとこれまで思わなかったために、この性質は変わることなく今に至る。

以上のことは悩んでいた頃の復習であって、最近はいくつか別のアプローチで(改善ではなく)変化を目論んでいる。

見られているという意識は「相手が自分に関心をもっている」という勘違いを呼ぶもので、というか自分の中で両者は等値の関係にあるのかもしれないが、日々の行動が専ら受け身的でいられる理由はこの勘違いの強靭さによるのかもしれなくて(自分が周囲に全く関心を持たれていないという意識があれば自分から構ってもらいにいくものだろうし)、そうすると孤独が好きという僕自身の基本的に独りでいる生活はあまり上質ではないと思えてくる。

孤独については「真の孤独は砂漠の中ではなく群衆の中にある」という言い方があって、これは独りでいることに慣れると孤独であることを忘れるという意味なのだが、「群衆の中にいる孤独」というのは言い換えれば「周囲の人々から全く関心を持たれない」ということで、だから孤独を忘れるというのは上の話と繋げると「油断して人が自分に関心を持っていると思ってしまう」ことで、つまり周囲の状況に関係なく見られているという意識を持てる自分は常に「油断大敵火がボーボー」状態だという結論になる。
あれ、なんだか書いてるうちに「敏感なはずが鈍感」みたいな話になっている…
というのも「敏感」と「鈍感」がそれぞれ照準している次元が違うからなのだけど、これはこれで面白い話ではあって(次元の混同はよくするもので、つまり矛盾と思われる話が構成要素の次元を整理すれば矛盾ではなかったということはよくあるのだが、その「勘違いの矛盾」を乗り越えようとする努力の駆動源が(勘違いであれ)矛盾そのものにあるのだ)、今の自分もご多分に漏れずということになるのかもしれないがとりあえず話は戻る。

上で触れようとした「別のアプローチ」の一つに「あんまり見えてない目で街を歩く」がある。
見られている意識はたとえば周辺視野に映る通行人の顔の「目が自分を向いている」という認識につながるのだが、これはその実際を確かめたところで解除されるものではない。
なぜならそれは可能性の認識ではなく「周辺視野に映る顔」がそう見えるからで、そう見えるというのも通常の視力が周辺視野であることである程度ぼやけた結果なのであって、それでは街を歩く時にあんまり見えてなければいいということになる。
僕の場合は右目がこの方法に使えて、じっさい右目だと人の顔を中心視野に据えても視線や表情をちゃんと把握できないのでうってつけではある。
裸眼だと視力は右目の方がよいのに「意味の解像度」が左目より悪いのは経験の差だろうと思う(生まれて25年はずっと左目を頼りに生活してきたので)がそれはよくて、見られている意識が高じると本当に見られているかどうかの確認をせずにはいられなくなるものだけど、ひとつは「この確認をするまでのハードルは見る手間がかからないほど低くなる」こと、もうひとつは「この確認作業は何度かやっているうちに癖になってしまうことでもハードルが下がる」ことがあって、僕が右目で街を歩くというのはそもそも「確認作業ができない」ことになるので(メインに使用する目を右目から左目に変えるというのも手間というか負担がかかる)見られている意識があまり刺激されないようになるのである。

で、二つ目のアプローチが本題というか、思い付いたから本記事を書こうと思ったことで、「日常的にずっと見られていれば慣れるのでは?」と。
他人と一緒に生活していれば同居人から見られるというのは極端に言えば空気を吸うようなもので、そんなことをいちいち意識することはないはずである。
そりゃそうだと思って、しかしその前に「人から見られることを意識しなくなるということは鈍感になることだ」と思っていた僕ははたと考える。
これはなんだか矛盾していて、それは「他人と一緒に生活している人のすべてが鈍感ではない」からで、そうだそもそも「人から見られることを意識すること」は「人から見られていること」ではなくて(うん、当たり前過ぎて鼻血が出そうだ)、視線というのは意識より先にやってくるもので逆に余計な意識がその感知を阻害することの方が多いはずだ、と。
つまりこの件の思考において実際的でなかった自分は「視線の性質」を考えていなくて、まあある意味幸福な生活をしてきたのだなと今の僕は思う(ひとつは幼少期に「親の視線が(自分が求めるまでもなく)常に自分に注がれていたこと」の結果かもしれないこと、もう一つは「粘つくような」とか「身をすくませるような」と形容される視線に対峙せざるを得ない状況に遭遇しなかった、つまりそのような視線への対処という要請がなかったということで、これは「幸福」というよりは「気楽」かなと思うけれど、「視線に強い」(し、同時に「視線が強い」)女性なんてのはこの後者の意味で経験豊富なのだろう)。
だから要請のないところで慣れる必要はなくて、つまり単なる実験以上の話ではないのだけど、「視線の性質」について実際的な思考ができるような「経験」をしておいてもよいのかな、と。
まあ、まだ詳細は書けませんけどね。ははは。
(あ、話のきっかけは森博嗣の『MORI LOG ACADEMY』です。と書いてもまず分からないだろうけど。はははのは)
 お客と「わたし」の関係は、この[お互いを信じるという]「建前」という概念上のインターフェースを境界として向き合っている。境界の向こう側によく見えない「本音」がある。こちら側にも相手に見せてはいない「本音」がある。この関係をもう半歩ひねってみれば、商品やトークを媒介にしてお互いの本音が沈黙のコミュニケーションをしている光景が見えるはずである
 売る人と買う人という擬似的な人間関係を、それがあくまでも擬似的な関係であると知りつつそれを演じる。この演じ方の中にお互いの「生身」を仮託し、信頼とか誠実と言った「本音」を見せ合う。

平川克美『ビジネスに「戦略」なんていらない』p.158-159(第六章 一回半ひねりのコミュニケーション)
「なぜ人は"なぜ人は仕事をするのか”と問うのか」というメタな問いがこの章の山場で、こういう「意味の手前」を探る話はいつもながら興味深いのだけど、僕がこの章を読んでタイムリーだと思ったのは、ビジネス(仕事)の場面に否応なく表出せざるをえない「個人としての自分」の扱いについての話だ。
それは仕事の効率的な遂行においては邪魔になることの方が多く、理想的にはない方がよいとされるのだが、その理想は会社の理想であって個人の理想とは折り合わない。
…というのは本当だろうか?
「効率」という概念が、そもそもは「人が仕事をする理由」とは関係がなくて、「効率的な業務の運用によって会社を存続させる」のは会社を生かす(延命させる)ためであって、「会社で働く理由」ではない。
そのことを見失いがちだと本章には書いていて、そして僕はそう読んだということなのだが、「そのことを見失わないためにどう考えるか」も書いてくれている。
 もしビジネスに面白さを見出すとすれば、それは自己の現実と自己の欲望との関係の中にあるのではなく、そういった欲望の劇や商品に値づけをして販売するという社会的な行動プロセスの背後に非言語的なコミュニケーションが行われているというところから来るのだろうと思います。つまり、ビジネスが提供する人と人との関係性の面白さに起因しているということなのです。(…)
 ここで重要なのは、ビジネスの舞台では、それぞれがそれぞれのキャラを身にまといながらも、そのキャラを操っている交換不可能な「わたし」という個性が同時に存在しているということなのです。(…)個人はここでは業務遂行的な課題と自己確認的な課題に引き裂かれたような関係にあります。この引き裂かれたような関係こそが仕事の面白さの源泉であり、エネルギーを生み出す源泉であると言えるのです。(…)自分の演じているキャラと自分の個性(=自分が自分であるところのもの)との落差の不断の交換プロセスが、ひとりの個人の中で生起しており、同時に他者とのあいだにおいても行われている。ビジネスのコミュニケーションは、遂行的な課題についての遂行的なコミュニケーションですが、同時にそれぞれの「社会的な自分」と「個としての自分」がつくる落差と落差のコミュニケーションでもあるわけです

同上 p.163-166
そう、「当たり前」でいいのだった。
仕事に自分の内側(「個としての自分」)が出てしまうのも(出てしまう、という意味で)当たり前で、それを何とかしようとするのは「社会的な自分」であって、その努力の上でどうしようもない部分が残るのも当たり前。
そのことを嘆いてもいいのだけど、嘆く主体は「社会的な自分」であって「個としての自分」ではない。
両者が仕事をする中で混ざり合ってしまうのは仕方なくて、しかしそのことは障害ではなく前提なのだった。

「自分はなぜ仕事をするのか」を常に問い続けること、と本書には書いてある。
それは答えを出すための問いではなく「コミュニケーションのための問い」なのだ。
3つ前の記事(「先んじて狂う」)を読むと何か現状に対するネガティブな印象を僕が抱いているように受け取れるかもしれないが、それは今あるこの一つの状況に対してだけではなくどのような状況に対しても(基本的には)同様のスタンスでいたいことが含意されているので別にネガティブではない。

集団を避ける人間は集団を否定的に思っていると思うのは集団の視点であって(そういえば一年ちょっと前に「集団が嫌い」というテーマでシリーズ化したが続かなかった。内容として間違ってないのだが「嫌い」というニュアンスで書こうとして筆が乗らなかったのだろう)、集団と距離をおく人間にもその集団における役割がある(ある意味でその集団に貢献できる)という感覚を持っていれば、「集団の境界の曖昧さ」がいい風にはたらいて安定してくるものである。
その規模や精神を問わず集団と距離を置かずにはいられない人間は社会に一定数いるはずで、ある見方では彼らは「社会不適合者」になってしまうのだけどもちろんそれでは浮かばれなくて、もっとポジティブに考えましょうよというか実際にそういう性質を持っていても世渡りできている人がいて、そういう人が理論立ててくれたりすると喜ぶ人は意外に多い。

ある集団に属しながらもそのメインの価値観から距離をおく人間は要するに集団の端っこにいるわけで、僕は「境界人」と呼んでいる(もちろんレヴィンのマージナルマンとは別物)。
高村薫氏の書く小説の主人公はみな境界人で、氏自身もそうであるところの性質が主人公たちに投影されているといったことを昔ちょろりと書いたけど(あった、これです)、合田雄一郎に特別な魅力を感じている僕自身も紛れなく境界人だと思っている(そういえば最近朝日新聞に氏は雄一郎のことを「疲れた中年」と書いていた)。
境界人は無駄に悩んだり逡巡して行動が鈍ったりして要するに「無駄に疲れている」のだけど、きっと自分は本音でそれを無駄とは呼んでいなくて(何せ「生きる=疲れる」という等式にさほど違和感を持たない人種なのだ)、しかしその本音が滅多に出てこないのが日頃ウジウジしている原因でもあって、何が言いたいかって「疲れる境界人」が(疲れないために、ではなく)疲れる日常をなんとかこなしていく(そして上手くやれば充実が得られる)ためには「境界人の作法」を会得することがカギで、そのために学ぶべき先人は実はたくさんいるのである。

で、下の抜粋はその先人の話ではなく「境界人の立ち位置や役割」の話で、まあなんと飽きないことにこれも「前提」の話です。
この「まあなんと飽きないことに」という表現は、「ま、ふつうの人は同じ話ばっかしてたら飽きますよね」ってなことを意味していて、もっと言えば「飽きても読み手のあなたは悪くない」と暗に言っていて、「要するに”読んでくれたら嬉しいな”ってことだろ」って所まで読み取れたあなたを「メタメッセージのシャンポリオン」と呼ばせて頂きます!(テンションおかしい)
 マジョリティに対する自分の立ち位置がどこか、という問題ですよね、それは。ほとんど人は生存戦略上「マジョリティと行動をともにする」という選択をするわけですね。その方が生き延びる確率が高いから。(…)ただね、[トムソンガゼルの]群れが遭遇するリスクは「一頭のライオンに襲われる」という場合だけじゃないでしょ。群れ全体が、ライオンに追われながら崖っぷちに向かって走っているとか、ハイエナの大群めざしているということもあるわけで。そういうときは群れから外れて逃げる方がむしろ生き延びる可能性が高いということだってある。この見きわめが難しい。(…)マジョリティを見切ってそこから逃げる能力というのは、ふつうの家庭教育や学校教育では教えてくれない。当たり前ですけどね。特に母親は絶対教えない。だって、母親にとって子どもは「弱い生物」としてインプットされているんですから。(…) 
 母親の「ふつう化」戦略は社会が安定しているときはたしかに正解なんですよ。(…)でも、時代のパラダイムが変わるときとか地殻変動するときには、この「ふつう化」戦略はそれほど安全を約束してはくれない。 
 そこで「変人」戦略というものを採用する人がいるわけですね。春日先生とかぼくとか。「変人」というのは最初からマジョリティの端っこの方にいるわけですよね。群れの中にはいるんだけれど、いつでも逃げられるように端にいる。真ん中にいると逃げられないから。マジョリティの中にいれば絶対に安全だと思っている人は、どのへんに立ち位置をとるかなんてことはあまり気にしないんですよ。

内田樹・春日武彦『健全な肉体に狂気は宿る』p.97-99
「逃げる」のは面倒臭いからでも楽をしたいからでもなく、「生き延びるため」であって、「逃げないと命に関わる」という判断がそこにはある。
群れから離れる以上、群れから離れるという判断の根拠を「群れの価値観」に求めることはできない。
ちょっと考えれば分かるのだけど、「逃げられる体勢でいる」のは「群れの中で悠々と暮らす」よりはるかに面倒臭い。
面倒臭いがそうせざるを得ないのであれば(その理由は「簡単には書けない」)、せめて充実してそうありたいという先人の努力をまず学ぼうという意志を賦活してくれるのがこのウチダ氏の文章(メッセージ)なのである。
なんだか「前提」の話ばかりしているような気がする。
準備運動だけ念入りでスタートに立たない、というような。
あるいは準備運動ではなく「基礎体力作り」なのかもしれない。
これだと日々の走り込みのように、それをすることで安定した生活を送ることができる。
何かをするための思考ではなく、ある状態でい続けるための思考。
何かと手段や目的にしたがったりするけど、日課は手段でも目的でもない。
そのように生活している、の「そのように」に含まれる。
過去の勘違いや思いもよらぬ繋がりを発見したりして、そうして思考が躍動的になるのだけど、「これは使える」みたいなさもしい(?)発想が浮かぶと日課であるはずのものが日課を超えてしまう(ある晩に作った味噌汁がことのほか美味しくてつい「これは売れる」と思ってしまうような。まあそれはないけど)。
「思考の宛て先」が(滅多に考えないけどよく考えてみれば)いつもブレてることが悪いのかもしれない。
じゃあ宛て先を決めればよいのか、と言えば、それはそれで副作用がある気もする。
宛て先を固定するのではなく、毎回何か書くごとに「どのような人に向けて書いているか」を意識しておくくらいが丁度良いと思われる。

一つ前の「自然」の話と繋がる話。
(今日読んでいて繋がるかなと思い付いた箇所というだけなのだが)
惰性化によって現れる<自然>の話。
ちょっと難しい。
というか短い抜粋ではよく分からないので雰囲気だけ。
われわれは、自分たちにとって何が現実であるかを「定義」しながら生きているのであって、われわれの共存の空間は、共同的な承認と否認という規範的な軸線によって切り取られている。言いかえれば、共存はいつもある特定の<自己意識>を通して制度化されるのだ。 
 ところが、こうした<自己意識>はたえず惰性化してしまう。(…)言いかえれば、習性化した対世界関係の間主観的な等質性(homogeneity)ないしは同型性(isomorphism)が、制度化された<世界>に、”客観的な同一世界”がそれ自体として存立しているかのような仮象を生じさせる。<わたし>たちをそのうちに取り込んでいる<世界>が、その構成の<歴史>を忘却されて、ひとつの<自然>として立ち現れてくるのだ。(…) しかし、われわれが自明のものとしている<世界>が、実はさまざまの可能的な<かたち>のうちのひとつにすぎないことを忘れてはならない(…)。「あらゆる規定は否定である」というスピノザの言葉を想いだしてもいいが、まったく問題にもならないような自明の「事実」が実は「さまざまな可能的秩序のうちのひとつ」にすぎないことに気づくこと、<世界>の実定性[ポジティビテート]のうちに否定性[ネガティビテート]の働きを読み取ることが重要なのだ。

鷲田清一『現象学の視線』(講談社学術文庫)p.165-166
いや言いたいこた分かるけどほな何したらええねん…てなもんであるが、
この文章はワシダ氏(実は氏は僕の在学時に学長をしていて、卒業式で式辞を聞いたので僅かながら身内感覚がある)が85年に書いた文章で(その当時僕は−1歳ですね)、それはきっと氏が基礎体力作りに励んでいた頃の論文で、長きにわたり氏が推し進めている「臨床哲学」がその実践にあたるのだと思う。
だから最近の一般向けの氏の本から入ってここに立ち戻ってくるならば、この難解な文章も「ああ、あれか…」と、思えるはず。
と信じて僕は「知ったか」で読んでます。

「自然な感覚」について。

自然な感覚、という言い方がある。
賢しらな企てなく、身体の赴くままに、なにか大きな流れにのる感覚。
その感覚は「大きなものの一部であること」からくる心地良い感覚だろうし、生物的な「適応」の源でもある(その感覚に従うことで生物は環境に適応して生き延びられる)。
しかしこと人間に関しては、この自然な感覚の全てを肯定するわけにはいかない。
誰もがそんなこと敢えて言わずと分かってると思うだろうけれど、その一方で、地道に考え続けないと判断できないような(環境を大きく変えるような)問題に対して「自然な感覚に従えばいいんじゃない」と即断する。
考えるのが面倒だから、という理由が目に見えて、そして「考え(過ぎ)るのは自然に反する」という意識も垣間見える。
もちろん「頭を使わずに身体(感覚)で判断すべき問題」もある。
あるけれど、ある問題が「頭の問題」なのか「身体の問題」なのかを判断すべきなのは、身体ではなく頭だ。
そうと断言できるのは、社会が頭でできている(現代は養老先生のいう「脳化社会」だ)からだ。

自然な流れがあって、それに従った結果になにか「よくない」ものを感じた場合、疑うべきは「自然な流れ」か「その結果を吟味する自分の感覚」のどちらかである。
後者を疑えば楽である。
「よくない」と思ったのは自分の勘違いで、自然な流れに何も疑わず従えばいいのだから。
しかし自分の感覚を信じており(信じたいと思い)、自分の感覚が前者を疑うのならば、その判断を補強してくれるものを自前で用意しなければならない。
これは骨が折れる。
折れるし、明らかに「自然な感覚」に従っていない。

しかし意識とはそういうものではないのか、と思う。

僕が「不健康な方が仕事が捗る」と前に書いた時は、健康だと他のことを色々考えて仕事に集中できなくなるからといった濁し方をしていたが、正直な表現をすると「健康だと精神が病む余裕ができてしまう」ということなのだった。
[内田]そういえば、戦争中は、精神科医のところに来る患者はあまりいなかったそうですね。
[春日]そうですね。戦争中もそうだし、それから精神病院で長いこと入院している様な患者さんでも、死にかけるとよくなったりしますからね。あれを見てると、そうか、身体の方にゆとりがあるから狂ってるだけなんだなって。(…)つくづく「健全な肉体に狂気は宿る」なんだなあと思いますね(笑)。
[内田]それだけ日本が豊かで平和だということなんでしょうね。豊かで安全だから、いくら身体感覚が鈍感でも、コミュニケーション能力が低くても、とりあえずは生きていける、と。

内田樹・春日武彦『健全な肉体に狂気は宿る』p.163-164
自分の生活(人生)において何を優先させるのか。
何を優先させると何が犠牲になるのか。
「身体の健康が第一」という分かりやすい前提が前提でなくなったのはそれだけ社会が複雑になった(豊かになった)からで、「健全な魂は健全な肉体に宿る」という諺があるじゃないか、身体が健康で精神が狂うなんておかしいと言えば、それはその通り社会がおかしいと思ってよいのである(そして同時にその「おかしい社会」に自分は適合したくない(できない)ということにもなる)。

集団に合わせるということはその内実を問わないということで、油断すれば「円滑なコミュニケーション」や「物語の共有」の裏にその集団の内実(仕組み)は全て隠れてしまう。
その内実を意識し続けるのは負担になるのだが、それは集団の仕組みの把握が集団内で上手く立ち回ることにいつも資するとは限らないからだ。
とはいえ誰しも自分が属する集団を意識するものだし、上の油断は深刻な状況に至るほど放置されるものではない。
しかしそこに別の油断が生じるというのは、仕組みを見ていたはずの「集団への意識」が慣習化すると専ら実際的な効果を求めることになって集団内に取り込まれてしまうことがある。
それはつまり「郷に入っては郷に従え」で当たり前のことなのだが、「郷の文化」に自分が丸ごと染まってよいのかどうかについては一度考えておいてよいと思う。
そして「"丸ごと"はイヤだ」と思った時には、「染まり切らずに残したい自分の一部」を守るための手段が必要になるが、その手段の前提には「("実際"には役に立たない領域の)集団の仕組みの(継続的な)把握」がある。
手段の具体的な内容は色々あるだろうけれど、このような状況の成り立ちが分かっていれば、自分のやり方や立ち位置に対して「腰を据えた自信」を持つことができる。
[内田]春日先生のように「自分はこういう人間なんだ」というシールドを張って、まず遮断しておくということは、コミュニケーションにとってはすごく有効なことですよね。コミュニケーションというとみんな発信することばかり考えてますけど、人間て外からくることばに想像以上に影響を受けやすいものなんです。ですから、まずはディフェンスを固めておかないと。 
 人間がまわりから受ける影響ってすごいですよ。無意識のうちに、信じられないくらい簡単に影響される。精神レベルだけじゃなく、身体レベルでも。誰にも経験があると思うんですが、ある種のフィジカルな波動みたいなものがあって、その人のそばにいるだけで、こちらの生命エネルギーがどんどんすり減っていってしまうような人間が現にいるんです。(…)春日先生は、患者さんと関わること自体が仕事なんだから、まずはシールドを張るというところから入らざるを得ないでしょう。一般の人でも、このシールドを張るということは必要です。

同上 p.94-95
自分が所属する集団には選べるものと選べないものがあり、選べないものを嘆いてもしょうがないし、選べるものは選べばいいということである。

一つ前でハシモト本を抜粋しながら連想された話。
(…)親の求めている部分に合致するところは受け入れるけれど、それ以外は無私されるという育てられ方をすると、母親がやってみせたコミュニケーション遮断がボディブローみたいにじわじわと効いてきて、子どものある種のコミュニケーション能力を深く損なってしまうように思うんです。
 そういう経験をしてきたらしい学生たちと話をしていると、話の途中で、何かがすっぽりと抜け落ちていることに気がつくということがあるんです。ぼくがしゃべっていることのうちで、どうやら「聞いている部分」と「聞かない部分」がある。(…)
 そういう学生に文章を書かせてみると似たようなことが起こります。意味が通らないことを平然と書いてしまうんです。(…)
 たぶん、世界が彼女たちには「そう」見えているから。彼女らにとっては、世界そのものがあちこち虫が食った意味の定かならぬものなんです。だから、変な話ですけれど、自分で書いたものが虫食いだらけの意味不明なものでも、世界の「地」とはちゃんと折り合っている。自分が自分の発信しているメッセージを理解できなくても、それは世界の「理解できなさ」ときちんと調和している。だから、別に気持ちが悪くならない。

内田樹・春日武彦『健全な肉体に狂気は宿る』p.21-22
たぶん論理性というテーマで想起されたのだと思う。
理解不能な相手の「主観的な合理性」をすっと提示してみせるウチダ氏の論理は何度読んでも驚いてしまうのだけど、その飽きない所以は「話としてはよく分かるけれどいくら頑張って想像しても実感できない」ことにあるのかもしれない。
合理的な話に必ずしも実感が伴うとは限らなくて、それは理解が実感とか体感そのものではなくそれらへの架け橋でしかないからだ。
だから単に理解するだけでは「橋は架けたけど渡らずにいる」状態に留まっていて、ちゃんと渡れるかどうか分からないし、渡っている途中で崩落する脆さが隠れているかもしれない。
行動に結びつくような理解というのは同じ比喩を続ければ「見ていると渡りたくなる橋」で、橋を架ける前は靄で視界が遮られ対岸が見えなかったが橋をしばらく渡る間に今まで見たことのない景色が眼前に広がってくる、といった経験をさせてくれるような橋のことである。

ということで「渡りたい橋」はたくさんある。
それらの一つを選んで対岸に上陸するのは恐らく、「渡りたいという欲望が機能している状態に満足している状態」に満足できなくなった時だろう。
欲望を制するのは別の欲望…最近何かで読んだな。
あ、これだ。
 フィジカルな欲望は、いわば人間一個の身体内部での出来事です。身体性というものが、欲望の培地であり同時に欲望を囲い込む垣根でもあるわけです。対するに、観念の領域は無際限であり、ここに生起する欲望は身体の内部から這い出して、観念の中で自己運動を始めます。ここに欲望は制動器を失い、欲望が欲望を再生産しながら拡大してゆきます。身体のような物理的な緩衝装置がないだけに、これをコントロールするためには欲望を無にしてゆく何かが必要になるわけです。
 わたしは、ひとつの欲望を無化してゆくものは、もうひとつの欲望であると言いたいと思います。金銭欲や出世欲、権勢欲をコントロールするのは、そういった欲望とは次数の異なるもうひとつの欲望です。それは、簡単には手に入らないものを欲することであり、金銭や地位によっては制御しようのないものを手に入れたいということになるはずです。

平川克美『ビジネスに「戦略」なんていらない』p.124-125
「満足できなくなった時」とは、複数の欲望の均衡が破られる時。
お互いを制し合ってきた欲望のうちの一つが突出し、自分をある一つの方向に駆り立てる時。
僕が思うに、それは通常思われるとは逆の「不安定な状態から安定な状態への移行」ではないかと思われる。
それを望むか望まないか、という話でもない。
自分と欲望はイコールではないのだから。
パナウェーブが世間を騒がせていた時、マスコミは彼らを「不気味な白装束集団」と呼んでいた。
「共産ゲリラに電磁波で攻撃されている」とか、わけの分からない理由で、山の中を迷走している集団がいた。(…)
「わけの分かんないこと言ってるな」は、判断の保留である。それが、「不気味だ」になったら、もう結論は出てしまっている。だから当然、「わけ分かんない」と「不気味」の間には、なんらかの思考処理があるのである。いかなるものか? 私は、「バカげたことを言っている」という断定が抜けていると思う
「わけの分かんないことを言っているな」は保留である。相手の言うことが分からないのは、相手の言うことが矛盾して「わけが分からない」になっているのか、それを受けるこちらに、相手の言うことを理解するだけの思考能力がないのかの、どちらかである。(…)「不気味」かどうかは分からない。だから、「不気味だ」という断定をする前に、もう一つのステップが必要になる。それは、「こっちはバカげていると思っているが、向こうは"バカげている"と思っているのかどうか?」という判断である。

「批評言語としての日常言語」(『橋本治という行き方 WHAT A WAY TO GO!』p.130-131)
「不気味だ」は曖昧な印象を表現しているだけに見えるが、じっさいはイメージの断定である。
そしてハシモト氏が「"バカげたことを言っている"という断定が抜けている」と言う意味は、「不気味だ」という発言にはその集団と関わりたくない、距離をおいて遠巻きに眺めておきたい(がニュースのネタにはしたい)という態度が顕れているということで、逆に言えば「バカげたことを言っている」という発言は体を張った発言なのだ。
その「不気味だ」というマスコミや内閣(の閣僚も言っていたらしい)の断定を真に受けて「ホント、気味悪いわよねえ」と世間話に用いられるのも無理はないのだが、その傍観者的価値観は日常の他の場面ともつながっている。
「そんなバカげたことを信じている連中なんだから、「バカげている」なんて思っているはずがない」と決めつけるのは、早計である。もしかしたら、「バカげている」という批判に出合わなかったから、平気で「わけの分からないところ」へまで行ってしまったのかもしれない──という可能性だってある。
論理の矛盾」を指摘されなかったら、論理の「矛盾」に気がつかない。更には、「論理の矛盾」ということが存在するのかどうかさえも、気がつかない。それを気づかせるのが、教育というものである。そういう教育は、あるのか、ないのか? 「あなたの言うことには、矛盾がある」と言って、その相手から、「そんなこと言ったって、言うのは個人の自由だろう」と言い返されてしまったら、多くの人は、そこで言葉を失う。残念ながら、そういう日本の現状はあるだろう。

同上 p.132
この「教育」とは広義の教育で、「日常のあらゆる場面が教育(的)である」と言う時の教育だと思うのだが、これが今の日本ではどんどん減っていて、そして減っているのは「教育の機会」ではなく「教育の必要性」だと思う。
「幼児的な大人」の増加が指摘されていて、それが「戦後65年の平和の代償」などとウチダ氏は言うが、要するに「必要でないものはどんどん端折って易きに流れる」で消費至上主義と高度に発展したシステムへの依存が個人の内実を不問にする価値観を増長させていて、「抑圧すると病は別の形で徴候化する」というフロイト的な話に繋げられそうだけど今言いたいのはこれではなくて、言葉を大事にしなくてはならないという僕の年来の思いの中にある「確固とした論理性の構築」(と同時に「論理を超えた身体的な言葉の力」というのもある)が通常思われているような「客観的視点(思考)への志向」にのみ結びつくものではないということだ。
「自分を消す」のは「消そうとする自分」であって、透徹した思考の追求の過程で必然的に噴出してくる主観があり、両者を「うねる双龍」のごとく前へ前へと駆り立てる言葉の運用法(術?)が恐らくはある。
「価値観の違い」という思い込みが、「批判」を成り立たなくさせる。その結果、「論理の矛盾」が指摘されなくなる。「論理の矛盾が指摘されない」とは、「論理を構築する必要を感じないまま放置される」ということでもある。「なにバカげたことを」が、社会から減少するのは、大問題だ。
同上 p.134
大問題だ、というハシモト氏の認識に同感で、しかし当面一人でつらつら考える自分はその大問題の(社会的な)解決にはあまり興味はなくて、ただ今の自分に必要なのはこの大問題だという認識を自分の中で前提にすることで、何のどのような解決に向かうのかは知らないが、まずこの大問題は「自分の問題」なのである。

(承前)

真新しいタイル張りの広場は駅の西口に面している。
広場を挟んで西口の前に広々としたロータリーがあり、片側3車線の主要道は東に延びている。
ロータリーを囲んでコンビニや牛丼屋、学習塾などのありふれた店が並んでいる。
デパートの地下では地元名産の「生湯葉丼」を食べられる軽食屋がある。
広場から北へ向かう道はビルに囲まれて日陰になっている。
いくつかのオフィスビルやパーキングタワーが日陰の細い上り道を無機質にしている。
日陰をくぐり抜けると上り坂の先に城が見える。
城の石垣の上は高台で、街並を遠くまで見渡せる。
ビルは駅前に集中しており、そしてそれほど高くないことが分かる。

城の南東口の向かいには市庁舎がある。
プロフィール
HN:
chee-choff
性別:
非公開
自己紹介:
たまに書きます。現在メインはこちら↑
カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
ブログ内検索
本が好き!
書評を書いています。
カウンター
忍者アナライズ
忍者ブログ [PR]