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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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見る意志の話。

所属部署の後輩が面白い実験をやっていて、手伝いがてらモルモットになっている。
社内でやる実験なので被験者は全員身内ではあるのだけど(つまり全員がモルモット)、実験方法が確立するまではグループ内の融通の利く人が助言しながらの試行錯誤が必要なくらい「未開のテーマ」であって、その意味で自分は「身内の身内」で「モルモットのモルモット」ということで「モルモル」という可愛い渾名を付けてみた。
(が、間違っても「モルボル」ではない)

もちろんそれはどうでもよくて。
実験内容は書けないけれど実験に用いる装置が興味深い。
それは「被験者の目の焦点位置を測定する」装置で、眼科にあるような顎をのせる台の前方上部に赤外線を発する機構がついていて、目にあてた反射光を検知して(黒目の大きさ?とかで)「被験者が何cm先を見ているか」が測定できるらしい。
で、それは片目ずつ測るのだけど、実験の中で一度間違えて、左目を測ってるつもりが右目を測ってしまった。
60cm先の物体を見ながら測定していたので通常なら測定結果も60センチあたりを指すのだけど、なんと数十メートルという結果が出てきた。
焦点距離の振幅の経時変化がぐちゃぐちゃで測定ミスにも見えたが、どうもそうではなかったらしい。
話を整理すれば、左目が60センチ先を見ている時に右目は数十メートル先に焦点が合った状態であるということで、そうか両目のバランスはこんなにデタラメだったかと感心したのだった。
数値で見るととても気持ち悪いのだけど、これが自分の標準なのだから仕方がない。
だからどうなんだ、という話には進まない話なのだが…

あ、一つ思ったのは、右目をメイン視野にして散歩するという半分遊びの半分訓練を日常的にしているのだけど(だから上の実験結果からすると右目で数十センチ先にピントを合わせている時は左目はホントに「目の前」にピントが合っていることになって、そりゃ目玉も内側に動くわなと納得)、その訓練の成果が「両目のバランスが取れてくる」ことだとすれば、その成果を上記の測定装置を使って定量的に評価できるな、と。

その装置がウン百万するらしく、彼は試用期間中に面白いデータを出して社長を説得して正規購入できるように今頑張っているところなのだけど、ゼヒ成功してもらいたいですね。
「モルモル」権限で私用に使えるかな、と…ふふ。
生理学(?)的に面白いサンプルになると思うんだけどなあ。
まあ研究開発には全然関係ないけどね。

ああ、またタイトル放置…
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養老 結局死んだ人から見てると、生きた人間てのが見えてくる面があるわけですね。
吉田 ええ、でも、それも養老さんのお書きになったものを読むとそう思える、というだけなんですけどね。解剖学ぜんたいがそう言えるわけじゃなくて。
養老 やっぱり死体ってのは面白いもので、「これ何だ」ってのを誰でも思いますね。「一体全体おれの目の前にあるこれは何だ」って。
吉田 それはすごいことですね。
養老 私、精神科に行き損ねて解剖学に行くというまさに一八〇度の転換だったんですけれども、文科系に行ったらどうかって言われたこともあるんですね。でも文科系に自分は行けないなと思った理由は、あれやってると気が狂うんじゃないか(笑)。つまり自分がどこに立っているかというその立脚点が見つからないって感じなんですね、小説とか所詮文字に書かれたものでは……。そうすると絶対的に近い足場みたいなものがほしくなる。そういうものを考えた時に、生きた人間というのはフラフラしてかなりあてにならないわけですね
吉田 死体という立脚点は一番強いですよね、座標軸としては。
養老 やっぱりかなり強いものだなという、本能的にそういう感じがして、これならば気も狂わないんじゃないかと……(笑)。
養老孟司/吉田直哉『対談 目から脳に抜ける話』p.123

立脚点、ね。
機械系には、がっちりあった気がする。
が、自分はそこから遠のくような道を歩んできた。
きっかけは「もっと考えねば」と思ったことにある。
別に機械系の頭が空っぽと言いたいわけではない(それじゃ仕事にならない)。
要するに「文科系の思考に憧れた」ということだ。
それが本気だったのかどうか、思えば今までズルズル引きずっている。
文理の境目をうろうろしながら、体は少しずつ文の方へ傾いている。

それは構わないのだが、何も身一つで境を越える必然はない。
使えるものは身に付け、あるいは脇に抱えて持って行く。
リセットという短絡に逃げず、プラスとマイナスをきちんと選り分ける。
さて、何があったかな。

そうそう、「今も使える」だけでなく「かつて使っていた」という視点も大事。
それがもはや使えないものであっても。
何も考えずにいられたのは、それだけの理由がある。
昔と今の、どちらが自分という話でなく、昔も今も、どちらも自分。

アグレッシブな受け身といきましょう。

あ、あと忘れてたもう一つ。
まだ狂ったことないのだから、一度狂っておいてもいいと思う。
真反対なこと言ってるけどね。
分裂してるなー、鋤蔵だわ。

この「どっちでもいい」は、ありえないはずなんだけど。
悩める者は、悩まねばならない。

言葉にならない思いを言葉にする努力をする。
その努力は言葉を紡ぐと同時に口を噤むことで為す。

遠く、辿り着くべき地点が見えても急いてはならない。

歴史に学ばなければならない。

同じことを繰り返すことが「空虚」なのではない。
それと知らずに繰り返すことを、「空虚」と看做す。
それと知らずに繰り返し、その後に気付き、安堵することを「空虚」と看做す。

それと知りながら繰り返すことは、単なる繰り返しではない。
それは歴史でしかなかった繰り返しを、自分のものにする過程である。
自分のものにした時、「繰り返しの先」を目指す者は、悩まねばならない。

悩める者とは、悩む可き者のことである。

歴史は、過去は、今に開かれている。
それは今を生きる者を、静かに待ち続けている。
その声を聴いた者は、いちど立ち止まらなければならない。
周りを見回す必要はない。
他でもない自分が、呼ばれているのである。

耳を澄ませば。
最近「保坂成分」が不足気味だったので補充しようと読み返す。
「熱心」「勤勉」というのは美里さんが好んで猫に使う形容で、猫というのは人間とは別の部分で熱心だし勤勉になる。部屋に迷い込んできた虫を見つけたらそれを捕まえるまで目を離さずずうっと追いつづけ、虫が簞笥の陰に隠れたら出てくるまでじっと待ち、それを美里さんが捕まえようものなら、どこに隠したんだと追及でもするように美里さんの手を見ながら十五分でも二十分でも美里さんについて歩く。そういうときのしつこさはきっと捕食する側の動物に特有のもので、草食動物にはないものだろうし(食べるものが逃げていかないから)、捕食動物としての猫のしつこさは実際に飼ってみないと観察できない
保坂和志『猫に時間の流れる』p.35
この小説もいつも通り、人と猫との生活が淡々と描かれ時間も淡々と過ぎて行く。
それは「観察する日々」でこその淡々で、躍動があるといえば頭の中にはある。
隣の部屋にきれいなお姉さんが住んでいて、彼女の飼い猫をきっかけに交流が始まり、何かが始まりそうで主人公も何かを期待しているのかといえば全然していなくて、そして実際何も起きないし、「途中から始まって、何かが変わったようで変わらないまま途中で終わる」という構成にスペクタクルのかけらもなくて、慣れた読み手も最初からそれを期待せずに淡々と読み始めて淡々と読み終える。
「生まれた時に既にゲームが始まっていて、ルールを知らないままボールを受け取って走り始める」というウチダ氏の「パッサーの話」を思い出すが、あの話は当たり前だけど普段忘れがちな原理をウィットを効かせて表現したものでキャッチーな評論といったところなのだけど、同じテーマのこの小説は油断すれば「そのまんま」、つまり人って生まれて死ぬものだという一例の提示に見える、つまり(二度目)通常思われるところの「敢えて小説として表現する意味」が見出せない。
なぜ読むのか、読んで何が得られるのか、という実利志向というか生産主義的発想を空回りさせるこの手の小説は、面白くない人にとってはほんとうに面白くない(のではと思う)。
そしてこのようなことを語る自分が何を考えているかといえば、(毎度のように最初に書こうと思ったことから盛大に逸れていると思いつつ、)恐らく実利志向とやらから抜け出そうともがいているが左足(軸足です)がどうしても「生産主義の底無し沼」から抜けなくて、しかし本気で左足を抜こうとは思っていなくて、それは沼自体は社会の地盤(言葉通りの「基礎」なんだけど沼だからゆるゆるというかぬるぬるしている)だから完全に抜くと「(社会から)宙に浮いてしまう」ことになって生活の大前提が変わってしまうからで、しかし抜こうとする動作は「沼の浅いところに留まりながら、沼には底がないことを絶えず意識し続ける」ためのフリであって止めることはできない(その一方、両足どころか体ごと浸かって下を見れば海底生物の怪しい燐光が興味を誘い、潜り始めると日光は遠のくが振り返らなければ気付くことはない。そして潜り続ける人に近づいているという確信を抱かせない海底の幻想世界は、底の無さに「終わらない欲望の連鎖」という麻薬的魅力を展開させている)。
つまり潜ると観察ができない。
それにだいいち僕は泳げない。
海は眺めるためにあるのだし、浜辺でするのは散歩かビーチバレーに限る。
もちろん日焼け止めは忘れない(肌が弱いので焼けると赤くただれて剥けるのだ)。
日焼け止めに覆われた肌が放つのは「冷やかしオーラ」だろうか。
違うな。海の外だから、「自室でクーラーつけて引きこもり」だろうか。
外にいながら、外との直接のやりとりを避ける。
(思えば「服」もそうか)
その「直接」が刺激が強いというのは、人間が変わったからではない。
人間のつくったものが人間を変える。
その作用が劇的になるのは、「頭の中の出来事」に近づいているから。

うーん、自由記述をすると高確率で「脳化社会」にたどり着いてしまうんだが。。

+*+*+*

最初に抜粋したあとに書きたかったこと。
人間って草食なんじゃん、と。
食べ物は逃げないからね。
けれど「草食動物のしつこさ」も別にあるはずで、
それはたとえば牛の反芻のようなものなのではないかな。
くっちゃくっちゃ。
執念ではなくて、必然というか、自然の摂理に従った「しつこさ」について考えてみようと思った。
それは人工の世界では「意志のあるしつこさ」に見えるのかもしれない。
そうであって、しかしそうではない。
考える作業は思いのほか難しそうだ。
そう、「思いのほか」だから。

くっちゃくっちゃ。
もきゅもきゅ。
 私の文章は、すごく長いか、すごく短いかのどっちかである。「バカじゃねーの」でカタをつけたがる自分を前面に出すと、すごく短い。それをひっこめると、「相手の思考体系全体をカバーして、それを引っくり返す」ということになるから、とめどもなく長くなる。(…)「バカ野郎、手前ェで考えろ!」と、昔の職人風に怒鳴りつければ、説教はその一言ですむが、この一言をひっこめてしまうと、説教はやたらと長くくどくなる。だから、品位を問題にする紳士は、その一方で、悪口の表現を洗練させ、「もって回った攻撃」の訓練をしなければならなくなる。クドクドともって回った、悪口とも思えないような悪口を言っているのは、きっと、相手の存在を認めているからである。認めなかったら、さっさと手っ取り早い”排除”に移ってしまう。さっさと殴りつけるのも体力だろうけれど、しつこいほどに紳士をやっているのも、別の種類の体力だ。
「「バカげたこと」をもう一度」(橋本治『橋本治という行き方 - WHAT A WAY TO GO!』p.136-137)
ある出来事あるいはその対応の仕方に問題を感じた時、説教の必要性が生まれる。
実際は相手と自分の立場もあって「説教」などという表現すら思い浮かばないこともあるが、一般的に説教というのは(「自分ならもっと上手く解決できる」といった)他人の問題を自分に引き寄せてこそ発生するもので、立場云々はどうでもよくて、その「相手」が目の前にいる必要もない(本を読んでいて登場人物や著者に説教したくなることもあるのだから)。
その説教が「バカ野郎!」の一言ですむ場合はいくつか考えられて、「自分がバカげたことをしている認識すらない相手にまず一喝」とか、「それを気付かせれば自分で解決手法を思い付くだろう(というこれは相手の力を認めている言い方)」とか、「この問題は頭でウジウジ考えても仕様がないからまず考えるのをやめろ」とか。
で、僕がなるほどと思ったのはそのもう一方で、もう一方というのは抜粋前半の「相手の思考体系全体をカバーして、それを引っくり返す」のことである。
これは自分が「相手の思考体系」そのものに興味を持った場合や、情状酌量の余地がある(「気持ちは分かる」てやつ)場合の展開である。
相手の抱える問題の解決法がこちらにズバリと見えて、しかしそれと同時に相手がその問題を抱える必然が見えたり、一般的に思えた自分の解決法を相手が採用しなかった理由に思い当たりかつ納得できる場合、問題の解決法だけを相手に伝えておしまいというのは何だか不親切だし、だいいち自分が面白くない。
そして「クドクドともって回った、悪口とも思えないような悪口」が「相手の存在を認めていること」になるためには、”そこ”が相手に伝わらなければならない。
それは「君のそれはこういうことなんやないかな」という説教が、決めつけでなく仮説の提示に聞こえるということなのだけど、「相手の存在を認めている」というのは、「この説教が"仮説”であるというメタ・メッセージが相手に伝わる」と自分が信じているということで、しかしこのような状況が生活の一場面として全く想像できないし実現できるとも思えないから本ばかり読んでいるのだろう。
寂しいのかもしれない。

まあそれはよくて、前にも「前提の話」をしたけれど、今書いていて気付いたのは、「構造を語る(考える)魅力は"ある確実性"にある」ことだ。
学部生の時に法律に憧れた時期があって、工学部だったからナカとって(?)弁理士の資格をとろうと勉強もしたのだけれど、あの憧れは「法律は揺るぎなく確実なもの」という認識に因っていた。
弾力的な解釈とか「法は破るためにある」とか、実際の運用として揺るぎないわけはないので、もちろん建前の話である。
精神的に不安定な時期は確実なものに憧れるというやつで(法のほかには「権力」とかね)、当時の不安を蒸し返す気はないけれど、自分が(どっぷり読書を始めてこのかた)「構造」に興味を持ち続けているのも同じことのような気がしたのだ。
4回生時の研究室のテーマも「最適設計」で、これも要は構造の話なのだ(経済でも建築でも意味論でも、共通の計算ツール(線形計画法、モンテカルロ法、…中身は記憶にない)を使って目的関数と変数を設定して最小(大)化を目指すのだけど、共通のツールが使えるということは「異なる分野の物事にある共通の構造を見ている」ということ)。
そして復習(もちろん自分にとって。これまで何度か書いてきたことなのだ)はここまでで、また気付いたのだけど、僕は昔から「確実なもの」を求め続けていて(そして大体みんな同じようなものだとも思う)、しかしそれは「(思考する頭にとっての)確実なもの」なのだった。
こっからすぱーんと言ってしまえば、それは男だからで、女にとっての確実なものとは身体で、しかし男にとって身体は(女に比べて安定しているというのに)「不安定なもの」でしかないから確実なものではなく、一方で女にとっての身体は「(安定か不安定かとは関係なく)確実なもの」で、この捉え方の差は「頭で生きる」か「身体で生きるか」という生物学的性差に起因する、と。
だから例えば「他人の芝は青く見える」と言って、身体という確実なものを基盤に生きる女を羨ましいと思う男がいて、その彼の「じゃあその逆で女が"思考の自由に従って生きる男"に憧れることもあるはずだ」という認識が誤っているのは、この話の最初から最後までが「頭の中の話」だからである(何の例えなんだろう…)。
まあもちろん例外はいくらでもあって、しかし原則は揺るぎない、というこれが上で触れた「構造を語る魅力」の一例です。
そしてこれが現代であまり魅力とならないことと「男性の女性化」が繋がっていたりして、しかし言葉を軽く見る者には呪いがかかると言いつつ「呪いを信じない人には呪いの効果がない」こともあって、まこと世の中も頭の中も錯綜しているのであります(そして前者は後者に含まれるってのが「脳化社会」)。
「入れ子っ子」ですね。
(以下、引用で話を戻して〆)
 私は、その初めには、自分の親から「なにバカげたこと言ってんだ」の類をさんざっぱら言われて、そのことに慣れて、「自分の言うことは、親の所属する世界の世界観からすればバカげているのだな」ということを学習してしまった。そんな学習が起こるのは、「それとは別の世界では、別にバカげてはいない」ということを知ったからである
同上 p.139 
暑さに溶け込む。

暑い。
外は暑いのだが、室内はところどころで寒い。
冷房をかけたまま寝た翌朝の自室とか、測定室とか。
外が暑いのに中で寒がっている状態に不安を覚える。
エコでないとかそういうことではない。
自然でない違和感はあるがそれは今に限ったことではない。
夏風邪は治すのが厄介だという恐れはある。
単純にそれが不安の第一要素かもしれない。

外を歩くと問答無用で暑い。
だから言葉通り問答は無用。
しかし何も考えないわけではない。
暑さの原因を問う意味がないだけで。
高気圧がどうとかは天気屋に任せてこちらは聞き流せば良い。
理解して涼しくなるわけでもない。
だから考えるべきは「暑さをやり過ごす実際的な方法」について。

とりあえず空気の層を注視してみた。
前に「空気が水分で満たされている」と感じた時と同じ見方。
視線の先には風景があるが、見ているのは「その途中」。
目は「風景が(ある時と違って)どう見えているか」しか示さないが、
その情報を頭が解釈する仕方によって「途中」をとらえる。
空気の構成分子がいつもより激しく振動している(暑いから)。
その振動を想像し、自分がその振動に囲まれていることを意識し、
そして自分の身体を構成する分子がその振動に共振する。
暑いことに変わりはないのだが、暑さが外的なものでなくなる。

質が変わったと思い、それに実感が伴っているかどうかは…?
ま、あるならあるんでしょう。
(…)生化学と解剖学とでは、本来異なる点が一つある。解剖学では対象は可視であるが、化学では通常不可視だということである。(…)不可視の世界では誰かが拾い出す物質なり事実なりは常に何らかの意味ないし脈絡がある。だからこそ拾われたのである。つまり、本質的には予測されたものである。もともと見えないものだから、それでなければ拾いようがないではないか。一方、可視の世界では必ずしも事実の間に脈絡はない。存在がまずあって、眼に見えてしまう。事実の「意味」のほうが後追いをすることも多いのである。
「脈絡のある事実」(養老孟司『ヒトの見方』p.78-79)
解剖学は「(永遠の)夜明けの学問」なのだと思った。
こんなに退屈なことはない、と同時に生きることそのものでもある。
養老先生の書く本が「社会時評に限らず学問書でも」身近な感覚で読める(というか身近な感覚から切り離すことができない)のは、解剖学の性質がそうであるから。
なるほど、そりゃ「やるべきことは尽きない」わけだ。
「疲労」に名前をつけたい。

自分の抱えている仕事の先が全て見通せる(と思い込む)と、少し不安になる。
何か見落としがあるのではないかと思う。
逆に、どう転ぶか分からない(そして自分の力ではどうにもならない)仕事をやっている時は、やるべきことはやれていると思い、現状に違和感がない。

これは「わからないことがあると安心する」ということだと思う。

「全てが分かっている」と思う時、どれだけその実感があっても、知性が不調であるとみなしてよい。
全てが分かるはずなんてないからだ。
今の自分が見える視野に固着している、見えそうで見えないものを見ないようにしている状態は「守りの姿勢」であって、(身体の)調子が良い時でもその調子が落ちることを恐れていることのあらわれで、それに気付いてしまうとそこから抜け出すのが大変でもある。
しかしその時に大事なのは、「その時の自分の状態」を常に思考対象に繰り込むことだ。
それは自分を見つめなおすという面倒な作業である。

「自分はこういう人間だ」という考え方は、上記の作業に対して疲労を形成する。
つまり自分を見つめなおすとは、自分の構成を眺めるのだが、それは「自分以外の何によって構成されているか」を想像するということだ。
想像でなく実感できる人は幸いだが、そうでなければ想像するしかない。
想像するということは、実感に至らない経験を実感が及ぶように読み替えるということ。
それは恣意的にやるしかない。

 自分の疲労は何によってできているか、何がもたらしたか。
 あるいは何を賦活し、何を生み出すか。
 自分の苦笑は何が引き起こしたか、何に向けられているか。
 そこに意思は介在するか、読み取るべき意味はあるか。

そういうことではなくて(これは別の話だ)、何かを「わからない」と考える自分の中には分からない部分があるということ。
自分の見ているものが実は自分である。
自分が見えていないものは、自分の中の見えていない部分である。
見ている目は自分のものだし、見えなくて想像しようとする頭も自分のもの。
ただ自分の目(=見ている状態)を見ることはできず、想像そのものは想像できない(?)。
「分からない:の根本にはこれがある。
分からないものが正常に機能して生み出すものが分からないものであっても、別に驚かない。
驚かないということが、正常であるということ。
そして今、正常であることがとても難しいこと。
難しいことを実現させるためにかかる労力は甚だしく、現実的ではない。
しかし「正常ではない」という意識を維持することはできる。

そのための努力を、またはその結果を「疲労」と呼んだ。

もう少しましな言葉はないものか。
やれやれ。 ←やっぱこれかな、多用は鬱陶しいけど

アイロニーとは演劇性のことでもある。
 僕自身というものがはじめからない僕は、透明人間が体中に繃帯をまきつけ、黒メガネをかけ、マスクをしたように、たえずなにかの役でからっぽの僕を塗りつぶしてきた。中学生、白黒帽をかぶった高校生、それから星一つの肩章がついた軍服をきた兵隊さんという役。これらは主役のほうだが、その他なんでもござれだ。こんどはコレラ患者という役か、よろしい引受けた。役者である僕は観客から受ける演技をしさえすればいいのである。
 コレラ菌が僕の身体を侵し、僕を殺すと感ずれば、怖ろしさに気が狂うかもしれない。が、僕には僕自身が見えないのだ。僕自身が見えないのに、僕の死が見えるわけがない。だから、僕は平気でいるよりしかたがないではないか!

「赤鬼がでてくる芝居」(田中小実昌『上陸』p.54-55)
アイロニーは日常に対して負担になると前回書いたけれど、それは(一般的であるにしろ)ありうる形態の一つであって、抜粋のような「演劇的な生き方」は意識せずともアイロニーが思考のベースになっている。
それは一つの「突き抜け方」であって、だから負担でもなんでもない。

「究極のアイロニーとはこれか」と思って(「人は死ぬために生きてるんだから人生に意味なんてない」というのもその一つだけど、話を単純にし過ぎるこの手の思考とはベクトルが真逆であって、ふつーの人から見る「底知れぬ未知の闇」がそこにあり、田中氏がしごく平易にこのようなことを語れることもその闇をより深くしている)、そういえば最近似たような話を読んだと思って探したら、こんなものが出てきた。
かつて「私と仕事と、どっちを愛しているの?」と訊くのは専一的に女性であった。
ただし、女性にとってこれはあくまで修辞的な問いであり、この問いの含意はストレートに「そんな『くだらないこと』してないで、私と遊びましょ」というラブリーなお誘いであった。
かかるオッファーに対して回答を逡巡するような男は再生産機会からただちに排除されてしまうわけであるから、答えは「もちろん君さ」以外にはありえない。
それに、男が夢中になってやっていることの過半は、分子生物学的スケールで見るならば「くだらないこと」以外の何ものでもないのである。
そのことを定期的に男たちに確認させるのはまことに時宜にかなったことと言わねばならない。

「幼児化する男たち」(内田樹の研究室 2010年6月23日)
この「分子生物学的スケール」というのは『生命の意味論』からの抜粋にある「男は余剰」を指していると思う(そうなるとウチダ氏のいう「過半」の指すものが分からなくなるけれど)。

要するにアイロニーは「取り扱いに注意」と。
「諸刃の剣」がやたら攻撃力が高いのも頷ける(ドラクエⅢの話です)。
 ぼくは原則、市場原理主義でいいと思っているのですが、同時にそれをアイロニーとして感じる感性がないとダメだと思っているのです。いつも言っていることですが、自己否定の胚珠を持つということです。これがないと、ただのバカになってしまうんですよ。
平川克美『ビジネスに「戦略」なんていらない』p.236

言われてなるほどなと思い、自分発ではこういう考え方ができなかったと気付いた。
ここでの市場原理主義は「ビジネスの場を律する主義」として言われていて、個人の価値観はまた別なのだ。
ビジネスがそういう原理で動いていて、「そういうもんだ」と思い、その場のタネも仕掛けも知りつつ演じられる、ことを「アイロニーとして感じる感性」と呼んでいるのだと思う。
僕はこれまで何度も消費至上主義とか市場原理主義とかを「やだなー」と、少し丁寧に言ってそういう価値観には染まれないと書いてきたのだけど、それは実際のところ言うまでもないことで、社会がそう動いているだけで個人の価値観をそれと同じくして生活している人間を僕自身はそういえば目にしたことはなくて、つまり流されやすい自分に対する注意喚起としてボヤいていただけだということだ。

と書いて、いやそれだけじゃない、「アイロニーとして感じる感性」と維持するためでもあったはずだと思い直す。
アイロニーとは状況を冷静に眺めたり客観的な視点を獲得するために有用な要素ではあるけれど、活用されてこその効果であって、それ自体は有用ではなく逆に状況と同次元での思考に対しては負担となる(アイロニーとは「一つ次元を繰り上げる思考」だから)。
だからアイロニーの本来もつ性質は、慣性に馴染まない。
「自己否定」もそうで、自分を否定ばっかしてると誰でも落ち込んでしまう。
しかしではやらなけりゃいいのかといえばそんなわけはなく、要は方法があるのだ。

読書あるいは単独思考というのは、その点で相性が良い。
なにも「独りで考える」ことは孤独の営みではない。
「他者と共にある」という時の他者の形態の多様性について、そしてその影響力について、もっと信頼してもよいと思う。
明日から広島。

焼きレバーにあたった。
昨日の夕食後あたりから調子が悪くて、体がどんどん発熱していて「あ、風邪か」と思い、その前日に唐突なぶっ飛び残業で25時近くまで頑張ったせいかと思い(何せ昼食パン1つに夜はつなぎの羊羹1個という「飢餓ベース」を地で行ってたので)、しかし1日経ってから症状が出るのも筋肉痛じゃあるまいし妙だなと思いつつ夜は寝る体力が足りずひたすら水分補給しながら『ロバート本』(橋本治)を脳内朗読して読んでいた(背表紙に「落語調」って書いてあって読み始めて「ほんまや!」と思ったがハシモト氏の声を聞いたことがないのでテキトーにあてて再生していた。まあ顔で大体想像はつく。そして内容は過激。過激で非常に面白い。水谷八重子とか乙羽信子とか言われても全然わからんけど面白い。だから内容じゃないのね。グルーヴ感かしら。落語やし。あとロバートって聞いてまずサカザキと続く僕はKOF世代、と書いてから検索してみたらサカザキはリョウの方で、「金持ち父さん」のキヨサキと混ざっていたのだった。細かい)。
で、今朝は休みたいくらいふらふらだったけど「重症でない時は働いた方が治りが早い」という経験則に従って(相変わらずストイックなことで)いつもと同じように出社して、やっぱり水分補給しながら色んな人に巻き込まれながら仕事をしていると少しずつ元気になっていった。
計画性のない巻き込まれ型なもんだから仕事は溜まる一方なのだけど「明日やれることは今日しない」のがマジメ人間が仕事で潰れないコツなので(誰もマジメだと思ってくれてないけど)、というか定時を過ぎると急速に仕事効率が落ちるので無駄な残業を回避すべく帰らざるを得ない。
ということでいつものペースを取り戻し、今日は18時過ぎに帰ってさあ晩飯をこしらえようと冷蔵庫を開けると臭くて、それが問答無用の焼きレバ臭で、考えるより先に「あ、こいつだ」と右手が伸びて生ゴミ入れにポイっと。ポーイっと。
そういえば昨日買ったこの焼きレバーはいつもよりカラカラに乾燥していて、売り場に置いてある時点でいつもより匂いがきついことにも気づいていたのだけど、「味付け変えたのかな」と軽快にスルーしていた。
売り場にたくさん残っていたけど(いつもレバーは他の串より減りが早い。思えば怪しい点はいくつもあった)、あれを食べた他の人は大丈夫だったのだろうか…
というか店の責任はさておきあれに手を出した自分の油断が過ぎたことは否めない。
鼻は「おかしい…」と気付いていたのに「味付けが違うのね」と勘違いした頭に押し切られたことがけっこう悔しい。
そしてレバーごときに負けた自分の体もやっぱり強くはないのだった。
しばらく食えんな…

という愚痴はおいといて、本題は味噌汁の話。
750gの「酵母が生きている」赤味噌を使い切り明日から広島の甘口合わせ味噌。
 愛知→秋田→大分→長野→広島
という全国味噌制覇の旅は続きます。
嘘だけど。(全国というほど選択肢がない)

…体力が切れたので本題に入れず。
きっと今日寝れば明日は元気。

あーした元気にな〜れっ♪
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