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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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「弱さ」を守る。

どのような社会に住むかによって、人の理想の生き方は変わる。
その社会で育ってきたこともあるし、「社会込みでの自分」というのもある。
しかし、理想の生き方が、住んでいる社会に沿ったものであるかは別の話だ。
「社会込みでの自分」と言った時、まず広義で、社会と自分とは関係している。

その社会(町、国)で暮らすという意味で、自分は社会に含まれている。
だがもちろん、自分の価値観は、社会に影響されこそすれ、含まれるものではない。
それは当たり前に思われて、実際数としては少ない。
「思想の自由」とは、自由の推奨ではなく、自由の保証であるからだ。

「『誰もやったことがない』は後押しにしかならない」という言葉をさっき目にした。
「そのことに自分で価値を見出せるかどうかがカギだ」と。
その通りだと思い、しかし前者はマジョリティの意見ではない。
それは論理的にそうだ、というだけの話だろうか?

誰もが「誰もやったことがないこと」の実現に励む。
「それは結局みんな同じことをやろうとしているのではないのか?」
この構造主義的観点が、耳に心地よいかどうか。
それは、この観点を取れるか取れないかとは、別の話だ。


自分の弱いところを失いたくないと思う。
強くならなければ乗り越えられない場面がある。
しかし強さは鈍感さと背中合わせであることがある。
その時に、「守るべき弱さ」を選ぶ判断ができるかどうか。

何かを守りたいと思う、とはどういうことか。
それは変化の否定ではない。
自分と他者(環境)の移ろいを肯定しながら、自分のある一部分の不変を固守する。
それに他者の一部分も、あるいは他者との関係が含まれるのかもしれない。

いずれにせよ、
「守る意志」に先だって、
憧れが、理想が、
あるはずなのだ。

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残り物?

「残り物には福がある」という諺からの連想。
残り物というからには、選択肢の多さが問題になっている。
 最初はたくさんあった選択肢が、少なくなってしまった。
そして、「選択肢は多いほどよい」という通念が前提となっている。
 この通念の起源は「選択肢が少なくて当たり前だった時代」にある。
 戦後すぐはろくに食糧の配給がなかった、とか。
その通念を引っくり返すような現実も往々にしてあるよ、というのが諺の意味。

そして「選択肢が多くて当たり前」の現代がある。
選択対象は消費者としての消費対象全てであり、情報だってそう。
(実際に選び取れるかという選択能力はまた別の話)
この現代における残り物とは何か?
かつては「もうこれしか選べない」という選択肢の無さを示していた。
対して今は「選択肢の無いことを選び取った状態」を意味している。
自ら視野を狭め、思考を停止させないと選択肢を消去できない。
残り物は自然発生しなくなったのである。

この諺は現代も生きているのか?
と考えてみると、起源とは別のかたちで生きていると答える。
残り物には、確かに「福」がある。
選択権の放棄が福をもたらすことがあるのだ。
しかしそれは意志的な行為というよりは防御反応である。
「なんかヤダ」と思い、該の欲望から遠ざかる。
つまり脳の暴走(の徴候)に対する身体の防御反応だ。

それでは「意志的な選択肢の放棄」は何をもたらすか?
それは脳と身体のバランスを考慮しての合理的行動ではある。
しかしその行動を脳だけで推し進めると、おそらく逆戻りとなる。
その始まりやよし、だがどこかで主導器官(?)のスイッチが必要となる。
あるいは両者のバランスを保つための身体的な安定を支える何か。
その気はなくとも。

毎日同じようにつくっていても、ふとした拍子に少し変わっている。
いきあたりばったりの変化が新たな定常流を生むこともある。
まあ今回はそうはならないだろうけど、という話。
味噌汁の話です。

同じ野菜が年中スーパーに並ぶ現代でも、季節ものはその本来の季節においては他の時期より活きが良い(はず)。
個々の野菜の値段はその時の収穫量と質で決まるのだろうけど、(肥料とかビニールハウスでの空調とかの?)余計な手間をかけずとも自然な気候で育つ季節ものは、量も質も底上げされると思っている。
何が言いたいかといえば、日常的に同じ野菜を買っていてもその個々のボリュームが違って来ると味噌汁の具を同じように仕込むのに支障が出てくる。
支障と言って、少し考えないといけない場面が訪れるという程度なのだが、前回は洗いゴボウ2本(¥128)がいつもより太くて長くて(余談だけど冬の間ゴボウは冷蔵庫の外に出していたのを夏の初めまで同じようにしていたら4日放置で見事に真っ黒に腐ったことがあって、買った野菜を全く手をつけず捨てた初めての経験だったから覚えているのだけど、あれがあってから土ゴボウ(だっけ?呼び方忘れたけど、土がついたまま袋に入ってる)を洗いゴボウに変えた。最初にゴボウを選んだ時に土臭さを嫌わず土ゴボウを選んだ自分を偉いと思ったが、腐ってしまってはしょうがない。涼しくなるまでは土ゴボウはおあずけ)、プラ容器8個に切り分けて仕込むといつもの2倍は場所をとってしまい、茄子の一部が溢れてしまったのだった。
サラダをつくる時にも同様のこと(皿に盛り切らずに別の料理に使うこと)はたまにあって、で今回は茄子1個だけがまるまる余ってしまって、茄子だけを食べる方法を日常の調理手順の延長で考えて、炒めるならオリーブオイルしかない(学生の頃に本格的なムサカ(戦艦ではない方)を一度だけ作ったことがある)という点は最初に即決して、炒める場面は夕食で味噌汁を作る最初の豚肉を炒めるところ(そう、今まで言ってなかったけど、味噌汁というか豚汁なのだけど、豚汁の豚って多分最初から煮込むんだろうなあという(本当のところは知らないけど)通念があって、しかし肉は炒めて焦がしてこそジューシーであってしゃぶしゃぶはさっぱりしてるからさっぱりしない(分かるよね)という細かいところで男気を発揮する自分は最初に豚肉を焦げるまで炒めてから水をぶっかけるので飛散が激しくガスコンロまわりの汚れがひどかったり換気扇回すの忘れると下手したら火災報知器に検知されかねないような(行き当たりばったりを修正しないという)豪快さをも発揮していて、ま、男の料理ってこんなもんしょや)が丁度良いのでじゃあ肉の前に茄子を炒めて食べちゃえと思い、ついでに味付けはマーガリン(もう自分の中ではバター=マーガリンの等式が成立して久しい)とハーブミックスかなと無思考のありものトッピングでやっつけて、で茄子って本当に油をよく吸うから炒め始めは多めに入れてしまうのだけど炒まって(とは言わんか。火が通って)くると溜めてた油を放出しにかかるので茄子を引き揚げた時にナベには結構な量のオリーブオイルが残るのだけど、もちろんそれを捨てるなんて発想はないのでこれを初期状態としていつもの味噌汁作りが始まることになる。
要約すれば、下地の油が米油からオリーブオイル+マーガリンに変わったというだけの話。
要約だけに漸くか、というね(死

で、お味の方は初日は味噌汁本体のいつもの味付け(砂糖+あごだし)のせいでいつもと違いがよく分からなかったが、二日目の今日はあごだしを抜いてみると意外に効果アリで(正確には「あった効果がなくなった」なのだが)バターらしき香りが漂いどこかしら洋風化したように思われたので、ああこれは味噌汁じゃなくて味噌スープだなと。
インザ・ミソスープ。
これが言いたかっただけ(かわ嘘)
懐かしいな(どっちが?)
忘れてた。

このところ調子が悪かったのだけど、クーラーのせいだったようだ。
この暑さで「汗はかかない方がいい」なんてのがそもそもの間違い。
誰が言ったかって、言ってないけど、つまり「社会の無言の圧力」。
社会とは具体的には会社だけど、そう、デオドラントとかいうやつ。

(ロッカー部屋でこれみよがしに制汗剤ふりまくのやめてんかー)

先週末に部屋のクーラー切ったら元気になってきた。
確かに暑いのも汗をかくのも疲れるし不快ではある。
が、そもそも不快にさせてる理由は自分の中にない。
そして疲れるといってもこれは受け入れるべき疲れ。

(「疲れるのヤダ」って身体が言ってるの、一度でも聴いたことあって?)

体がもう、そうなっている。
刻印された、四季のリズム。
自分は日本人、なのだった。
思い出すまでは、誰だった?

なにはともあれ暑いね。
閉じて、開く。

流れを止めようとするのは自然に逆らうこと。
人を構成する流れは多層的で、層を成すのは具体と抽象のグラデーションである。
ある単層の流れを止めようとすると、他の層の流れにも澱みが生じる。
その澱みの重なりが生の全体に悪く影響せぬよう、配慮しなければならない。

流れのうちより抽象的な流れは、それを止めようとする時に、
(再)認識によって流れたままにすることができる。
ある弁を閉じようとする時に、同時に別の弁を開いておく。
つまり同じ一つの考え方で、弁を開くことも閉じることもできる。

閉じた分は、開く。
どこで開くかを、じっくり考える。
あるいはもう、知らない間に開かれているかもしれない。
どうすればそれに気付けるか、落ち着いて考える。

静かに、静かに。
難しい話。

寮のすぐ横に背の高い一本の木がある。
毎日それを仰ぎ見ながら通勤を始める。
幹の上の方に視線を固定して横を通る。
木を中心に全てが回転するかに見える。

目の前にいる人形の目を凝視してみる。
人形の目の視線が微妙にかち合わない。
だが見つめるうち人形の目線が変わる。
お互いが見ているものを見ている錯覚。

易しい話。

静止したものを動きながら見ると動いて見える。
動いているものを静止して見ると動いて見える。
動いているものを動きながら見るとどう見える?
大体は動いて見えてごくまれに止まって見える。

ものを見る目はわずかに動いている。
身体や目線の動きとは別に振動する。
その目がものの静止を認識している。
静止したものは本当に止まっている?

4/4の話。

野菜のCは黄色の栄養。
人間のCは灰色の形容。
視覚のCは経路の開放。
回路のCは正誤の内包。
調子は上向き。

「知性が全く無力でしかない場面」において、知性は無力ではない。
まず、それと気付くための知性というものがある。
その知性を発揮できた場合と、できない場合とで状況は大きく変わる。
後者の単なる諦めに比して、前者は「人事を尽くして天命を待つ」。

諦めて流れに身を任せる時と、「待つ強さ」が断然違う。
それはまず知性的なものだが、同時に身体とリンクする。
待つことを受け入れる姿勢を、知性が底面から支持する。
その支えがしかとあってこそ、「待つ身体」が安定する。

無力であることを知る。
それは力にもなる。
逆の言い方をすれば、それは「力を抜ける」ことにもつながる。
必要な力を蓄え、余計な力を抜く。

無力であることを、自力で知る。
それは、自分はある面で無力であるが、別の面で力があることを示している。
両者の「力」は、全く関係のないものかもしれない。
けれど、「有る力」が「無い力」を包み込んでくれるかもしれない。

それを知る力は、「有る力」に含まれていることは分かるのだ。
「行くところまで行く」というのは、体力がいることだから、「行くところまで行く」ぐらいのことをしてしまうと、思考のピントが合わなくなる。合わないところを合わそうとして、「あ、そうなんだ」の一言に凝縮出来てしまえば、それがきっと「行くところまで行った」になるんだろうと、そんな風に考える。
(…)
 行くところまで行って、「あ、そうなんだ」に出合って、それでよしとしてしまうのは、「あ、そうなんだ」という単純な実感が、どこかで湧かないでいたからだ。それで、「行くところまで行ってやろう」などと考える。行った先が「あ、そうなんだ」で、「これが実感出来た以上もういいや」と思ってしまえるのは、つまるところ、「単純な実感が自分の現実ではつかめなかった」ということでしかない。だから、行くところまで行ったら、「あ、そうなんだ」という実感を抱えて、また現実に帰って来る。難しいのは、「あ、そうなんだ」という実感を発見させてくれなかった現実というところが、それゆえに「あ、そうなんだ」という実感を適用させてくれないということだが、それはそういうもんだから仕方がない。「あ、そうなんだ」という単純な実感が適用できるように、現実を見つめ返すしかない。なんだかわけの分かんないことを言ってるようだが、現実的なディテールを欠いた話は、みんな「なんだかわけの分かんない話」にしかならない。

「物語の土壌」(橋本治『橋本治の行き方 WHAT A WAY TO GO!』)
この「物語の土壌」は本書の最後の項。
ここだけ抜き出して「なんだかわけの分かんない話」に見えるのも仕方がない。
がしかし「現実的なディテールを欠いた話」には、ディテールを欠いてこそ、そしてディテールを欠いた分に応じた広がりがある。
本書を読んできてこの文章に出合って「そうだよな」と思い、この文章を含んだ項で本書が「終わる」ことに納得し、そしてもちろんこれは終わりではない。

既に、世界は始まっている。

自分が誕生したと同時に世界が始まるという認識は、彼が物心付く頃に改められる。
しかし、その認識があまりに圧倒的であったために、頭では分かっていても無意識のところで、あるいは体の感覚がその認識を手放さない。
…などという認識論は、たかが近現代に言われ始めたことではないのか?
個という概念が唱えられたのはいつ?

歴史に学ぶと言って現代のモノサシで過去を測っても、得られる値は「現代基準」で解釈されたものでしかない。
「行くところまで行ったら」、「現実に帰って来る」。
ここに、「現実に帰って来るまでの膨大な手間と時間」が隠されている。


自分が何をすべきか、本書に書いてあった。
それは「自分がしたいこと」ではなく「自分がすべきこと」である。
それは誰の要請か、と?
すぐこう問うのは受動性にこだわる僕自身かもしれない。
しかし、受け身であることの認識は本書を再読し終えて、変わった。
能動性より受動性が本質だとか、後者が前者を包含するという話は違う。
(違うというか、それは机上の空論であって現実ではない)
つまり、

受け身であること」=「世界は既に始まっているという認識

なのだ。
このスタート地点に立つと、目眩に襲われそうな感覚がある。
人ひとりの人生では到底足りないのである。
しかし、これは「帰って来る先の現実」の認識なのだ。
…目眩が。
人類創造のない日本神話には、その代わりに、「これから生活を始める夫婦のための居住地の原型」がある。人が生まれて孤独にさまようのではなく、「新生活を始める夫婦のための確固たる生活前提」が、日本神話では用意されているのである
(…) 

 日本神話を生み出した古代の日本人は、もう家に住んでいた──住んでいて、「自分達に必要な家というものを構成する重要な要素はなにか?」という、意味を発見して行った。「意味の発見」というとむずかしいが、これはつまり、「生活の点検」であるような発見なのである。
(…) 
 八百万と言われるほどの多数の神々を登場させていて、日本の神話は、いとも明確に「現実的」なのである。明確に現実的であるそのことが、神々しくて感動的なのである。「日本人は物を考えるその初めにおいて、かくも具体的に明確だったのか」と思って、私は安心してしまったのである。
「既に始まっていた文化」(同上)
『橋本治という行き方』、再読完了!

足を止めずに。

道を歩く。
道の端にちょこんと猫がいる。
こちらに気付き、目が合う。
人懐っこそうな視線に誘われているように思える。
目を合わせながら先を進む。
直線距離が最短になっても猫は逃げない。
そのまま通り過ぎる。

田んぼのそばを歩く。
稲がまだ若く青々しい。
張られた水に遠くの山と空が映り込む。
若い稲と空が混ざり、緑と青が混ざる。
自然の鏡が自然を映しとる様に見とれる。
緑と青に吸い込まれるようでもある。
その引力を感じながら、通り過ぎる。

車の通れない細い路地を歩く。
いくつかの墓石がひっそりと並ぶ傍に大きな木がある。
家の敷地内から伸びる幹が枝を張り出し、路地に日陰をつくっている。
その存在感を頼りに雀たちも寄り集まってくる。
一帯に家屋の立ち並ぶ中、この大木の周りだけ異なる生態系を感じる。
日陰にいる間だけ吸い込む空気の質が変わる。
上目で木漏れ日を味わいつつ枝の下をくぐり、通り過ぎる。


一度歩き出せば、時が来るまで止まらない。
この「歩く」はメタファーだが、それに留めず実感したいと思う。
歩くことに意味はなく、歩くことから意味が生まれる。
だから、考え続けるために、歩き続ける。

歩き続けて、生まれたものが、意味。
仕事における「受動性」について。

しんどい時にはあまり頭は働かなくて(まさに今だが)、馴染みの文章を読むのはするするできるけど文章を書くのが億劫になるというのは、受け身の状態である。
仕事でひたすら受け身であるというのは、幾らかは仕事の性質から当然そうなってしまうものなのだけど(一単位の仕事が同僚や上司の依頼から始まる)、時々自分の判断で仕事内容の解釈や優先順位を変えることがあって、しかし今あらためて思うにその「自分の判断」は「自分の想像による依頼者の(解釈における)判断」なのではないか。
重要度の高い仕事についてはその解釈について依頼者に確認するが、実はその重要度の高いという判断も自分がしている。
グループ内での情報共有ができていればそのような自分の(実際のところ)勝手な解釈が支障をきたすことはない。
仕事というのは進める中で状況がころころ変わり、当初の予定を変えるような判断が必要となることはふつうにあるのだが、状況が変わるたびに依頼者や上司に確認をとったり指示を乞うというのは端的に「仕事ができない人間」である。
それで伝達ミスは防げるかもしれないが、確認のやりとりに割ける時間がなければ依頼者や上司の負担になるし、その分だけ別の仕事が進まなくなる。
とはいえ確認のやりとりが全く無ければそれはそれで不安になるし、「ホウレンソウをしっかり」(社内研修で誰もが一度は耳にする「報告・連絡・相談」ですね)という話もあって要は程度問題である。

で、そのバランスが崩れる時というのを考えると、上にも書いたが「過剰に確認を求める」側と「なんでも自分の判断でやってしまう」側の二極に分かれる。
前者は判断力が弱っている時や自己保身が念頭から離れない時に見受けられる(と想像する)。
後者はそれとは逆に自信過剰な人間や出世欲に燃える人間が陥りがち、なのだろうか(自信はない)。
自信はない、と書いたのは、他でもない自分が今後者の状態にあって、自分自身を考えると全然そんなことを思っていないからだ。
これは最初に提示した「受け身」の話と繋がるのであって(希望)、というのも僕はいったん一単位の仕事を始めると自分の判断で進路を決めたり重要度を考えて途中で終わらせたりすることがあって、そしてその判断が上記の「自分の想像による依頼者の判断」なので判断を間違えた時に申し訳ないとは思っても自分の身に染みることはない。
仕事の解釈を自分の判断で行うことには依頼者への確認を少なくする(結果的にそれが「足りなかった」こともある)という自分の判断も含まれるのだが、そのような判断に至るにはもちろん理由はある(依頼者が忙しそうとか、自分が乗り気でないとか。後者のような真面目でない理由もザラにあるが実際上しょうがない)。
で、そのような自分の判断が(仕事の遅滞や実験の不成立による損失の発生などの)失敗を招いた時に自分の身に染みないとはどういうことかと言えば、まず言葉からすれば「自分の判断」と言っているものが実は自分の判断ではなかったということで、その内実はもう書いた。
ではそのような「"偽りの"自分の判断」をあちこちで為しながら仕事を進めるなんて無責任ではないかと思えそうだが、しかしこれは「そういうもの」ではないか。
逆に「自分の判断」の責任の全てを自分が負うというのは、仕事の上ではしてはいけないのではないか。
以前に平川氏の著書から抜粋した中に「仕事はロールプレイング」といった話があったが、これはつまりそういうことではないかと思う。
もちろん考えるのは自分の頭なのだが、自分が考えて行動した結果の全てを自分が招いたわけではない。
自分の仕事の結果の責任が自分にだけあるのではないのと同じく、同僚の仕事の結果の責任の一部は自分にもある。
そもそも仕事をしている会社という場が、自分のものではない。
平川氏は「同じ会社の社員はみんな一つの物語を共有している」と書いていた。
誰も口に出しては言わないが、確かに共有している物語がある。
その物語を信じる自分は確かに一人の社員であり、しかし自分が信じる物語はその一つだけではない。
物語はいくつもあり、それらは同じ階層に並列しているのではなく、互いに含んだり含まれたりしていて、その関係も経時変化している。
自由は一つその認識にあり、そしてそれはちょっとしんどい。

そう、しんどい話なのだ。
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