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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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3日前の話。

3日前に大山(おおやま)に登った。

その前日(木曜)の午後に唐突に「あ、だめだ」と思い、翌日を有休にする。
一週間分のエネルギーが切れたらしい。
が、どうも切れたのは「体力」ではないらしい。
と思い、夕食後しばし黙考の後、「そうだ、大山に行こう」と思い付く。
毎日部屋の窓から拝んでおきながら、まだ登ったことがなかった。

金曜の朝食後に行き方や所要時間を調べ、昼前に出発。
伊勢原駅から大山ケーブル駅行きバスに乗ったのが12:10(これだけ覚えてる)。
終点まで乗っていたのは地元のおじいさんと観光客ぽい夫婦のみ。
そうなのか、とよくわからんが納得して登り始める。

服装は速乾Tシャツに厚手のジーンズ(伸縮も最悪だけどこれしかなかった)、
肩掛けバッグには文庫本とサングラスと行動食のういろう一個、
右手に箱根の水(500mlPET)と左手にもしものGORE-TEX雨合羽(たぶん似非)、
あと靴は危うく全壊を免れているNewBalanceの運動シューズ。
見た目は山登りというより街歩きスタイルで、
阿夫利神社の売店のおばさんに「え?」という顔をされた。


しかし今思うにこのスタイルで登ることに一つ意味がある。
最近読んだ石川直樹の本に「全ての装備を知恵に変える」という言葉があって、
登山の装備を極限まで減らす「ウルトラライト」なるスタイルを最近知ったが、
今の自分に何か訴えるものがあった。
これは「なぜ山に登るか」に関わってくる。
僕の場合は、今回は「自分の生命力を確認するため」であった。
日常においては会社員生活を恙なくこなすために身体機能をコントロールしている。
それはある面を開放したり別のある面を抑制したりすることなのだけど、
身体全体のバランスを考えると時にそれが大きく偏ってしまう。
だから時々それをリセットする必要がある。
これは普通の考え方で、しかし僕は少し違うことを考えている気がする。
上で書いたのは、生命力を「取り戻す」ではなく「確認する」だ。
もちろん戻ってくるに越したことはない。
しかしそれは(今回に限っては?)主目的ではなかった。
「今の自分はどれだけ生命力を発揮できるか?」を知りたかった。
その前段には「今の自分はあまり元気ではない」という認識がある。
その「元気ではない」の"元気の種類"を特定したかったのだ。
もちろん事前の予想はあって、その蓋然性が高いからこその無茶であって、
幸か不幸か予想通りの結果ではあって、書きたかったのは、
3日も経つのにまだふくらはぎが痛くてまともに歩けないというただそれだけ。

ちょっと話を戻すと、
登山において「安全対策を万全にする」ことは第一に重要である。
命の危険を考えれば対策にやり過ぎはないのかもしれない。
が、
命が惜しいなら登らないのが賢明であろうと思う。
別に命を山に捨てに行くために登るわけではないが、
「絶対安全な登山」に僕は全く魅力を感じない。
(それはテレビでハイキング番組を見るようなものだ)
雪山の魅力などは、まさにそこにしかないとすら思う。
「わざわざ危険を冒すためなんて馬鹿なことを」と思われるかもしれない。
しかし、それをせずにはいられない人がいて、
その本人も自分は馬鹿なのだろうと思っていて、
それで納得?
「そこに山があるからだ」というわけの分からないフレーズは、
論理なんかないからわけが分からないのも当たり前で、
「山」とくれば「川」という、つまりは合言葉である。
(「おーにぎーり」とくれば…「○○○○○!」懐かしいね。)
通じる人にしか通じない。
これをコミュニケーションと言わずして何と言おう。


もう少し話を戻して。
とりあえず今回の行程の記録という意味でメモ。

良性の曇りで登山コンディションは良かったがガスってて景色は見えず。
途中に「富士見うんたら」という富士山が見えるらしい地点でもまっしろけ。
山頂では売店は閉まっており四方はまっしろけ。
それでも山頂には5、6組の登山者がいた。
ご年配方が多いのも然り。
そういえば山頂に着くまでに何人かとすれ違ったが、
一人だけジーパンTシャツ手ぶらの若人がいた(あとはみんな標準装備だった)。
ついライバル意識を燃やしてしまう。
で、下りは日向薬師に抜けるコースで途中の「見晴台」でもまっしろけ…
ではなかったが、山の裾野以外に何も見えず。
でも心地よい開放感で、ここで初めて腰を下ろしてういろうを食す。
水を飲み干していたのでういろうの後味がしばらく離れない。
5分ほどで再出発、年配の団体グループ(重複?)を追い越し、ずんずん下る。
ふくらはぎは恐らくこの下りで痛めたらしい。
いつも階段を上り下りしてるみたいな負荷の掛け方は、たぶんまずいのだろう。
まあこれは切実に必要とされた時に改善するとして。
山道を抜けてアスファルトに出て、歩くとキャンプ場やら釣り場がある。
地図の看板もあり、このまま歩けばバス停に着くらしい。
と、前方で下りの山道がこの車道と合流しているのが見え、
その山道から見覚えのある人が下りてくる。
山頂で休憩していた二人組で、自分が先に下りて以降抜かれた覚えはない。
どうやら遠回りの道を選んだらしい。
これは次回以降の参考に。
で、バス停にたどり着く直前に七沢へ通じる道を発見する。
看板には「七沢まで50分」とある。
最初に考えていたのはバス停→伊勢原駅→愛甲石田→バスだったが、
七沢まで歩けばバス一本で帰れる。
時計を見ると17時前で、ほとんど座らず6時間以上歩いてきたらしいが、
50分なんてその1/4以下である(という計算をなぜかその時にした)。
足が限界だったような気もしたけど以上の計算により徒歩続行となり、
バス停そばの自販機でようやく水分補給のためにスポーツドリンクを買う。
と、「ピピピピ」とよくある数字が4つ表示されてるだけのスロットが鳴っており、
「4」が3つ並んで、「ん?」と思うと4つめも「4」になって、
「おめでとうございます。もう1本飲めます。30秒以内に選んで下さい」
とのアナウンスがある。
本当にこういうのは必要ない時に当たるんだなと思い、
しかし自販機で当てたのは人生初めてかもしれないと思い、
(でも前に当てたのを忘れるくらいどうでもいいことなんじゃないかと今は思う)
あまりの必要の無さに判断力が鈍り、30秒ぎりぎりで「桃の天然水」を押す。
すぐ近くに小さな公園(滑り台と鉄棒しかないような)くらいの広さの神社があり、
人気もなかったので縁台に座って2本目を飲み干しにかかる(荷物になるので)。
なんだかこの一時が「今年初めて夏を"風情として"感じた時」のようで、
「今日ここに来て良かったな」と初めて思った。
たぶんそういう風に頭が回ったのがその日は神社に来て初めてだったということで、
そこから山を登っていた時の頭の状態も「マル」だったのだと連想した。
つまり「空っぽだった」ということなのだけど。
そして桃天を飲み干し、道を少し戻って七沢方面へ向かう。
山を通る道だけどアスファルトがきちんと整備されていて面白くはない。
面白くはないが山道の上り下りに比べれば足は楽だったのでするする歩く。
するする歩き、温泉宿がぽつぽつ見えてきて、やがて温泉街にたどり着く。
その街並をさらに下り、「七沢荘」の看板が見えてやっと馴染みの道に出る。
(七沢荘は3回は温泉入りに行った。湯もシャワーもアルカリでヌルッとしてる)
ここで時計を見て、神社からちょうど50分経ったことを確認する。
なるほど、あの「50分」の看板は健脚者基準であったか。
久しぶりにオフェンシブな看板に出会えたことに少し充実感を覚える。
が、足は限界で、「七沢入口」のバス停で時刻表を見ているとちょうどバスが来て、
考える前に足が動いて(「もうやってられるかいな!」)、行程終了。
寮の近くに着いたのは18時過ぎ。
「七沢入口」から寮までは30分弱で歩けるので、今回の半行程と合わせれば、
たぶん全部徒歩だと5〜6時間で寮から大山の山頂まで行けることになる。
(たぶん、と書くのは山頂に着いた時間が定かでないから)
へー、というこれは純粋な驚き。
寮の部屋から見えるおっきい山のてっぺんに、そんだけ歩きゃ行けるとは。
うん、歩くってのは偉大であることよ。


メモというには長くなった。
次に行く時の参考にしよう。
しかしこんな強行軍だと人と一緒には行けんよなぁ…
昔は命知らずの友人がゴロゴロいたものだけど。
まぁ、歳ですね。
筋肉痛が3日も続いているようでは。
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寝太郎ソリューション。

 なにもしないでいること。
 なにも生産しないでいること。
 なにも消費しないでいること?
 なにも思考しないでいること?

 結果を求めないでいること。
 価値を求めないでいること。
 意味を求めないでいること?
 変化を求めないでいること?


「なにもしない」の現代的な意味を考える。

何をするにも、「するよりしない方がいい」との思いが先にある。
あることをすることで、得られるものがあり、失われるものがある。
それをしないことで、何も得られないが、失われることを防げる。
得られるものより失われるものの方が大きければ、その行動はためらわれる。

ただ、「なにもしないでいること」は状態の不変を意味するのだろうか?
死体ですら朽ちるのに、生体が、時間の経過において不変でいられるだろうか?
つまり、何もしないことで失われるものがある。
それでは、何もしないことで得られるものはあるだろうか?

恐らくまず「する」ことを具体的にする必要がある。
…。
ここで行き詰まるところに、ひとつの問題がある。
具体化することで縛られるという予感がある。


視点を変えてみる。

「観察」することは、れっきとした行動である。
観察している人は、なにもしないでいる人ではない。
当たり前のようだが、現代の空気はこの論理を認めていないように見える。
すなわち、「観察」は「なにもしないでいること」とみなされる。

これを空気と呼ぶのは、明示的な要請があるわけではないからだ。
なんとなく、なにもしないでいることに落ち着けない。
なんとなく、なにかをせずにはいられない。
ここに論理はない。

ことばでつくられた世界の、ある場所で、論理が破綻している。
その破綻は、世界中の論理性に傷をつける。
グローバル化とは、この「ある場所」と「世界」の近接化のことだ。
現実を支える論理の強度が損なわれていく。


本来の「進化」の意味を考えよう。
ある変化が「進化」かどうかは、その変化の内容で決まるのではない。
集団を離れた特異点が環境の激変に耐え得た時に決まる。
特異点の発生が抑制された集団に「進化」は起きない。

しかし、その抑制をかいくぐってこその特異点である。
均質化の圧力が極まった集団は滅びると、言うのは誰か?
今日まで太陽は昇ってきたから、明日も朝日を拝める?
笑止!(えー

つまり、そういうことだ(えー
あるいは考える前に書き始める。

状況論という言葉が頭から離れない。
保坂氏の本にあったのだが、「ちょっと考えれば誰でもたどり着きそうな構造論」のこと。
自分の身近な経験を普遍的な話に押し上げようとするとよく陥る。
それが悪いわけではなく、「ちょっと考えれば」がちょっと過ぎるといちゃもんを付けるわけでもない。
「ふつう」に考えればみんながたどり着く結論であれば、それは「ふつう」の、ありふれた思考なのだ。

「それが悪いわけではなく」などとすぐ保身にまわる癖は意識しないと抜けないので意識するとして、「それではいけない」と言いたいから、正確には自分の目指す「深い思考」をするにおいてはその「ふつう」はしがらみでしかない。
そうと分かっていればさっさと脱すればよい、と思ってもそう簡単にいかないのは、考えるのは自由であり時と場合に応じて考え方が変わるのも当たり前ではあれ、考える人間は一人なのであるからある場面で考えた事が他の場面での思考に影響を及ぼすのも当然のことで、その影響を全く無視できる状態は極めて現代的であり病的といえる。
どういう目線で病的かといえば動物から見ての話で(ちょっと極端かな)別にそれはよくて、自分が何かしらの病気を自覚していて、かつ(全般的にであれ)病気はよくないという認識に違和感がない以上、症状の進行は抑えようとするだろうし、可能であれば治癒の方向へもっていこうとするものだ。
病を自覚しつつその症状が生活を乱さないよう制御することを寛解という。
ある病気の完治が別の病気の発症をもたらす可能性があり、後者も前者なみにあるいはそれ以上に侮れないといった場合、現在進行中の日常生活を維持するうえでの次善の解決法は前者の病気の寛解ということになる。
「次善の解決法」といって、これは最善ではないし、そもそも寛解は解決ではないとも言えるが、ここでいう最善は願望の入った理想(つまり前者の病気が完治し後者の発症も抑制できるという結果)でしかなく、ここでいう解決の意味合いは「大学受験で合格することが人生のゴール」という時のゴールと同じものでしかない。

閑話休題。
構造は、正確に語られた場合、論理的な確実性を備えている。
それが現実的かどうかは、何ら論理性を傷つけない。
現実は論理を基盤にしているが、論理を基礎付ける現実というものはない。
現実が参考にされて論理が組み立てられることはあっても、その論理が完成した時点で現実とは手が切れる。
別の言い方をすれば、「論理を目指すもの」が現実の試行錯誤を経て洗練され、抽象として独立して初めて論理となる。
「構造を語る魅力」はその確実性にあり、法の(建前の)全能性の魅力と似るところがある。
ただ、これは分かりやすい入れ子になっていて、「構造を語る確実性」という表現が既に確実性を備えている。
そして上で触れた「(自分の目指す)深い思考」というのは、この魅力を駆動源にしつつも時に抗いながら、「入れ子」を常に意識しておくことが一つの前提となっている。
確実性を語ることは、その確実性が明示的であればあるほど、既存の論理と似通ってくる。
自分の経験から語られることが「既にどこかで言われているかどうか」は、本来のそれを語ることの魅力とは関係がない。
歴史に名を残すために語るのではないし、それはまた別の魅力であるからだ。
しかし既存の論理は多かれ少なかれ個人の経験に蓄積されている。
問題になってくるのは、自分の経験を語る時に「既知に還元するために語っている」のか、「独自の論理を生み出すために語っている」のか、という自分の認識である。
だから「還元するための既知」を忘却していればどんなにありふれた論理も独自性を獲得する。
数学的才能はあったが公教育を満足に受けられなかった農民の子が、半生をかけて編み出しかつて教育を受けた恩師に意気揚々と披露した理論が「二元連立一次方程式」だった(そして恩師は涙した)、という話をどこかで読んだが、これを悲劇だと思うのは「既知の論理」側の人間で、その農民の子が家の農作業の合間を見つけては思考に没頭していた半生の充実は否定されない。
それを否定することは「システムによる個人の否定」である。

個人の生の充実はいつの時代でも追及されてきた。
(この言い方が正しく聞こえないのは「個人=近代的個人」という暗黙の了解(というか言葉の定義か)があるからで、ここでは「個人=一人の人間」で、近代以前は個人の境界が今よりずっと曖昧だったということだ)
生の充実を追及することは人間である以上どうしようもなくて、ただ時代によって追及の仕方が変わってくることも考えれば当たり前だ。
しかし、その方法が様々ということは分かりやすいが、「生の充実」がどのような状態を指すかも時代によって異なること、ある時代の価値観で別の時代のそれを理解する難しさなどは立ち止まって(つまり現代の日常から距離をおいて)考えなければ気付けない。
そして(「個人」が近代以降の産物であることと同様に)「生の充実」なるものを言葉からとらえようとする生活観が現代特有であることも。

自分がこの世界に(思考できる頭をもって)参入した時点で、既に言葉は溢れている。
言葉は溢れていて、色々な仕組みが言葉で出来上がっていながら、それに嫌気がさしたのか、世界は「言葉なんて軽いものだ」と主張しているように見える。
それは一つの大きな矛盾で、「矛盾はよくないからないことにする」でもなく、「矛盾は世界の至るところに満ちており、論理と現実は違うという以上を意味しない」と看過するでもなく、「それはどうしてだろう?」という(始まりとしてはとても素朴な)疑問を抱えて生きていくこと。
言葉を大切にすること、いや「自分の言葉を探すこと」の、これは過程である。
「既に始まっているゲーム」に途中参加した者は、試合開始のホイッスルも、試合終了のホイッスルも聞くことができない。
ゲームは続くのであり、既に始まっていて終わらないものこそゲームなのだ。
ロバートといえばガルシア。

ひょんなことからロバート・キヨサキのあの有名本を読むことになった。
実家にあったのは覚えていて、でも読んだかどうかは記憶にない。
初版が2000年だから読んだとすれば高校生の時。
けど当時は感想文のためにしか読書しなかったから当てにならない。

と思ったけど、読み始めるとなんとなく見覚えがある。
と思ったのも最初だけで、立ち読みでさわりを読んだだけかもしれない。

なんだか同じ言葉の繰り返しが多いけど、スピードを落とさず読める。
分かりやすい本とはこういう本のことを言うのだろう。
しかし90刷(2012年)というのはすごいな。
この本が売れ続けて、世間のお金に対する認識は変わったのだろうか。

まあそれはよくて。
まだ途中だけど、読んでいて少し思うところがある。

高校生か大学生くらいで読んでればもう少しテンション上がっただろうなと。
「本当はもっとわくわくしながら読まれる本だろうな」と思いながら読んでいる。
つまり冷めているのだけど、この本が嘘っぱちだと思うわけでもなく、
むしろこの本で提示されているものの見方に共感できる。

あとは、"金持ち父さん"になろうと思ったら、この本を「おおおすげー!」ってな読み方をしていてはいけないのではないか、とか。
「お金のことをしっかり学ばなければ"金持ち父さん"にはなれないってこの本に書いてあるけど、この本をしっかり読めばお金のことなんて学ばなくても(手っ取り早く)金持ちになれるんだ」といった読まれ方をするのがハウツー本の宿命ではないか、とか。

結局ものの見方の一面だけが(さもそれだけで良いかのように自信たっぷりに)提示されてしまうと、その内容に関わらず眉に唾をつけてしまう似非インテリ人間は「マユツバ症候群」と診断されて差し支えなかろう。

いや、文学的でないってだけで、この本面白いですよ?
ゆめをみる。
ゆめのなか。
ゆめがいる。
ゆめでいる。

ねむるゆめ。
ゆめをみる。
ゆめのそば。
おきるゆめ。

ゆめにささぐ。
ゆめとともに。
ゆめのように。
ゆめをふさぐ。

あふれるゆめ。
ゆめにきく。
ゆめのき。
いくつ。
その。
な。
雑記 - 雑記等 - 雑記魔。

といった散漫。

+*+*+*

「細ネギ刻んでてゲーセンのコインゲームを思い出した」
糧生く過程。

最近疲労が溜まっていてカタめの本を読む体力が足りなくて困っているのだけど(でもこれは「ヤラワかい本=今しか読めない本」という価値付けで納得できるので良し)、もちろん疲れて困ることは他にいくらでもあって、その一つが昨日サラダを仕込んでいる時に元気にならなくて(いつもはしんどい時も野菜切ってると元気になるのです)ちょっと愕然とした。
昨日はサラダと味噌汁の具の仕込みが重なる日で全部やれば2時間かかるのだけど、野菜切りながら疲れが意識から離れなくて右肩が震えてきたりして(これは最近肩こりがひどいせい。原因不明だが液だだ漏れのアンメルツヨコヨコにて対処中)「こらあかんわ」とサラダだけ作って止めて、次の日の夕食前に仕込もうと決めた。
それが今日で、じつは今週から土曜出勤のサイクルがしばらく続くのだけど、仕事終わってから夕食をつくる前に具を仕込む元気が果してあるものかと昨日は心配したが人がほとんどいない土曜出勤の楽さもあってそこは杞憂に終わって(あと昼がパン1個の粗食なのに夕食の時間を遅らせて大丈夫だろうかとも思ったしじっさい仕込み中は空腹で不安になって水でごまかしていたけど、よく考えれば不安に思ってるのは頭だけで身体のほうは「飢餓場の底力」を注ぎ込んで躍動してるんじゃないかしらと思い、それが寿命を縮めるのでなく潜在力を引き出す経験になっていると信じてみる)いつも通りプラケース8個に野菜を詰め終えて、そこからいつもと違ってそのうち1つは冷凍せずにそのまま使うのだけど凍ってない野菜を鍋の前に持って来ると煮る前に炒めたくなるのが男の性というもので(たぶん)、豚肉に焼き色をつけてから味噌汁の具(最近はずっと固定のゴボウ、タマネギ、オクラ、舞茸、茄子)も一緒に炒めて、ついでのついでにいつもは同じく煮るから始めるカボチャも一緒に炒めて焦げ目をつける。適度に焦がせばなんでも旨くなるという安直な認識がそうさせたのだけど、今回それでじっさいに旨くなったかといえば違いを認識できるほどではなく、煮ている間の汁がいつもより粘度高いかなあと思ったくらい。
というわけで味が改善されたわけではないのだけど、仕込みを(前日の夕食後から当日の夕食前に)遅らせて憂鬱しか発生しなかったはずが思わぬ発見があったことが書きたかったことで、何を発見したかといえば「冷凍した具を使う日の朝に冷蔵庫に移しておけば(冬なら外に置いてもいいかもしれない)夜は解凍された状態で使える」ことで、そんなことちょっと考えれば当たり前過ぎる話なのだけど驚かねばならないのは「とはいえそんなことちっとも考えない」ことだ。

考えれば当たり前で大発見でもなんでもないことにずっと気付かなかったことに後悔する(「今までさんざん手間かけてきたあの時間はなんだったんだ!」とか。今回の話は違うけど)必要は全くなくて、というのも情報化社会では検索ツールを日常の(効率面の)最適化に使いそれにハマってしまうと際限がなくなると早々に見切りを付けた自分は建前上他者の要請のないところでは効率を無視して我流(というか成り行き)に方法を見出すことに価値を置くことにしたのだった。
つまり保坂和志が(確か『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』の最初の方に)書いている「主観を取り戻す」ということで、そのことが他者に理解されるかどうかはおいといて、まず自分が「これでいいのだ」と思えることが大事なのだ。
自分の思考においてついつい客観性を考慮してしまうのは「他者に理解されるかどうか」を一番に考えてしまっているのであって、それが個別具体の「あの人」と共感できるかどうかは、実は直接は結びつかない。
そこで共感が成り立つのだとすれば、それは自分とあの人とを「客観性」が媒介された上でのことだからだ。
その共感がウソなんてことはもちろんなくて、常識はこの原理で機能しているのだから集団生活において不可欠なのは間違いない。
が、言いたいのは、「それだけではない」ということ。
こう言えば当たり前だが、「常識だけ」で人と深く付き合うことはできない。
だからといって常識がなければ「深くなる前の付き合い」すらできないのだが(>自分)。
その加減が難しいなんてこともなくて(人を観察してればわかる)、問題は「(社会における)加減の行き先」で、それを自分の問題にするならその「行き先」に納得いかないということ。
まあ、「納得する必要なんてない」という意見ももっともだけども。

味噌汁の話をしていたはずだが…?
まあいいや、せっかくなので引用で〆。
 体験というものは”主観”であり数値化できない。しかし、”主観”であり数値化できないがゆえに、個人の生き方を左右する力を持っている。堂々巡りみたいだが、その力もまた数値化できない。(…)しかし数値化があまりに広く深く浸透してしまっているために、私たちは自分一人の”客観化”されざる体験を自分自身に向かって思い返すときにまで、ついうっかり数字を一緒に出してきてしまい、そこで”主観”と”客観”を混同して、考えを違う方向に持っていかれてしまう。(…)
 これは数値化だけではない。”主観”はいろいろなものによって切り崩されている。”主観”と思われがちの「私らしさ」とか「私にしかできないこと」というような、自我に縛られたちっぽけな考えは、そのような時代に生まれた先のない感傷的な思考でしかない。これは”主観”とは別のことだ。
 数値化を含む共通了解の誘惑に抗して”主観”を”主観”として保持しつづけ、それを一人でも多くの人が共有することのできる言葉や思考として練り上げること。小説・音楽・絵画・映画……etc.の芸術はそのためにある

「歳月は数値化されない」(保坂和志『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』p.53-54)
言葉の力。

思っていることを言葉にすること。
断片を繋ぎ合わせてストーリーを整理すること。
その内容如何で自分に与える影響が決まる。

しっかり把握しておかねばならないこと。
それが信念であれば、忘れぬために必要かもしれない。
それが隠しておきたいことならば、把握には痛みが伴う。

隠しておきたいことが信念を曇らせるならば。
自分の生きたい行き方をそれと知らず逸らせるものならば。
痛みをその身に受けても、隠しておくわけにはいかない。

そして痛みの質について考える。

抑圧を解く痛みが別の抑圧を発生させてはならない。
それは痛み損でもあり、何より上っ面だけ張り替えた現状維持でしかない。
痛みに、言葉の力を信頼した結果以上の意味はない。

そして痛みを正しく受け止める身体を維持すること。
正しく痛み、正しく苦しみ、正しく病む。
正しく病めば、正しく癒えることができる。

その正しさを担保するものは、自分の中にだけある。

サイレント・マジョリティ。

新聞やネットなど言論の場にはごく一部のひとしか関わっておらず、生活者の大部分はそれを享受するだけの傍観者だということ。
テレビの街頭インタビューに応じる人には偏りがあり、新聞に投書する人にも偏りがある。
だからマスコミの取り上げる「国民の意見」はその実際と隔たりがある。
それはまあそうで、「その実際」を知りたければ、偏っていることを前提とした「国民の意見」をもとに想像力をはたらかせなければならない。
基本的にマスコミは想像力とは無縁なので、マスコミの素材は想像の素材にしかならない(ものごとに対する「直接の判断材料」にはならない)。

という話は一冊の本に書かれてあることの「行間を読む」ことと関連がある。
想像力の使い方が似ているのだ。
本当に大事なことは行間に書かれている。
この意味は、本当に大事なことは(諸々の規制がかかって、あるいは「言葉にならない」ために)活字にされないから、あるいは読み込む読者の事情次第だから、といったところにある。
「諸々の規制が…」の方は、建前として理由に挙げられるだけで、実際は活字媒体を選ばなければ(昔は機関誌、今はネット掲示板かしら)規制などあってないようなものである。
「言葉にならない」の方は、文学を思い浮かべればよい。

思ったのは、「世の中に出回る言葉が伝えないこと」を知るにはどうすればよいか、ということ。
例えば、「世の中に出回る言葉」に全く触れずに生活している人(地方の田舎に住み、新聞をとらず、ネットもしない→Aさんとしよう)は、それを直接知っているのだろうか?
論理的にはイエスだ。
けれど、それを知ろうとしているのは誰であったか?
例えば(郊外に住み、新聞をとり、ネットでも情報を得ている)僕がそれを知ろうとしているのであれば、このイエスには意味がない。
すると、それを直接知ろうとするなら、僕はAさんのような生活をしなければならないのだろうか?
この疑問は、「世の中に出回る言葉」に触れている限り、それが伝えないことを直接知ることができないことを前提している。
(疑問形が続いてややこしいが)それは本当だろうか?
それを知ろうとする目的が、「世の中に出回る言葉」に振り回される人々にもっと落ち着いて欲しいという願いを叶えるためにあるのならば、それを「直接」知ることに意味はない。
しかし、この断定の裏には「当事者の気持ちは当事者にしか分からない」というイデオロギーがある。
その通りであることも多いからイデオロギーなのだけど、それで全てではない。
つまり、無理やりまとめるならば、直接か間接かを問わなければ、どのような生活をしていようと、「世の中に出回る言葉が伝えないこと」を知ることだけはできる。
ただ、それに「それを他人に伝えること」も含めれば、想像力は必ずいる。
事実をそのまま言えば相手に伝わるほど、言葉の仕組みは単純ではない。
だから当たり前だが、これはマスコミの仕事ではない。

そういえばまた「そろそろ新聞止めようかな」と今日思ったのだった。
配達の人がいい人だからいつも意思を貫けないのだけど、今度こそは。
ということでおぼえがき。
「二カ国語」でお送りします。


帰阪中に元高の友人と飲んだ。
帰るたびに同じ人と飲んでいる気がする。
もちろん帰る回数が少ないのだけど(たぶん次は年末)。
楽しかった。

何を話したかを覚えていない。
酒はいつもより飲んだかもしれない。
(1軒目に生中1杯、日本酒1合、2軒目に焼酎ロック2杯。「山ねこ」が美味)
というかその「いつも」が存在しないような。
(前にいつ飲んだかが記憶にない)
とはいえ惚けるほど飲んだわけではない。

思い付くまま喋っていた。
それがお互い言いっ放しではなくて、キャッチボールはしている。
しているが、キャッチボール「だけ」をしていた感じ。
あれくらいがちょうど良い。

「カフェでの女性同士のお喋り」のイメージがある意味近い。
あれは個人の「喋りたい」が前面に出ていて、会話ではない(場合が多い)。
自分の内に溜まったものを発散できればストレス解消になるのだろう。
(きっと「相手に構わず喋り続けるストレス」なんてのは存在しないに違いない)
…。
「男性同士の飲み」と比較しようとしたのだが、イメージが湧かない。
(これを「男性同士のお喋り」と言わないところに違いがあるのだが)
忘れたのだろうか。
忘れたかもしれない。
付き合いの悪い人間だこと。

気持ちよく喋れれば、それで良いのだ。
多少の気遣いがあって、話に多少の一貫性があれば。
この「多少」の加減が難しいのだが、旧知の仲だとほとんどエネルギィを要しない。
これを単に「楽だ」と言っておしまいにもできるのだけど。

あれ、おしまいにしかならない。
二日酔いで頭が動かないせいかしら。
まあいいか。
なるようになります(何が?)

そういえば年末の楽しみが2つ増えました(どっちも元高関連)。
忘れた頃にやってくるのでしょう。
…。
「長期記憶」をぜんぜん使わなくてなまってきてる気がする。
ま、いいか(いいのか?)


+*+*+*(以下、関西弁バージョン)+*+*+*


地元おる間に元高の子と飲んだ。
あいつテンション高いから毎回ついつい誘てまう。
ゆうてそんな帰っとらんけど。
えかったー。

なん喋ったっけか、よう覚えとらん。
いつもよかぎょーさん飲んだせいやろか。
ま、いつもゆうほど飲んでへんけど。
ほんでじっさい飲んでる間は全然平気やったし。

おもたそばからどんどん喋っとった。
けどお互い言いっぱやなくて、キャッチボールはできてる。
けど、ほんまそんだけ。
それでええ。

「カフェで女同士がだべっとる」ゆーのにどっか似とる。
あれはたいがいみんな自分が喋りたいだけで会話になってへん。
溜まったもん吐き出してストレス解消ゆー寸法や思う。
…。
「男同士の飲み」のノリて、どんなやっけか。
忘れてもーたんやろか。
忘れてもーたんやろな。
ほんまノリ悪いやっちゃな。

要はオモロかったらそれでええ。
ちょいと相手のこと見とくんと、話がぶっ飛んどらんかったら。
この辺の加減は基本メンドくさいけど、よう知っとる人なら手間はかからへん。
ま、「楽やねん」ゆーたらしまいやけど。

あ、ホンマにしまいなってもた。
二日酔いで頭動けへん。
ま、それでええんちゃうかな。
ほんまに。


+*+*+*

「なぜ訳したし」(訳:どうして訳したのか?)
思い付いた理由を探せば、2つある。

1つは、今回は飲んでる間完全に関西弁で喋っていたから。
大阪に生まれ育ちながら標準語に親和性が高かった自分が、
関東で暮らしながらたまに帰ってきてのこの結果は「偉業」なのである。
関西にいる頃は大阪弁と標準語が混ざっていたが、こちらに来てから後者への純化が進行している。
(今年なんか会社内で「〜じゃん」を使って自分でびっくりしたくらい)
原因ははっきりしないが。

もう1つは、帰省の行き帰りの車中で読んでいた本に翻訳の話があったから。
その本は『現象学の視線』(鷲田清一)で、たしか「原文とは翻訳という行為が行われてはじめて存在する」といった決め言葉が書いてあった。それは翻訳という行為は他言語の文章(つまり異文化)を自国語で完全に再現するのではなく「完全に再現することはもともと不可能で、自国文化の下地では理解不能な部分と相対した時にそれを理解するためにいかにその下地を組み直すかに注目すること」にその要諦がある、というかすごく単純化すれば「翻訳に正解なんてない」ということ。
で、標準語を関西弁になおすのを「翻訳」とは言わないけれど、言い換えることでニュアンスとして抜け落ちる部分と付け加わる部分があって、そうだ翻訳作業ってこのズレが楽しいんだよなとこの記事の訳部分を書いてる最初に思って、でもすぐ飽きた(笑)

関西弁ってほんとに文字にしにくくて、読書で標準語に完全に慣れているので関西弁を文章にするとものすごくわざとらしく見える。
もちろん喋る時はそんなことはないのだけど、関東にいて関西で友人と喋るように関西弁を喋るとやはり同じようなわざとらしさを感じてしまう。
それはおそらく「ニュアンスとして抜け落ちる部分と付け加わる部分」が余計だと僕が思っているからだと思う。
だから関東で喋っていても、そのニュアンスのズレ部分を必要とする場合にはするりと関西弁が出てくるのではないかとも思うけど、そういう考え方ができるというだけで実際そうはならない。
「相手の喋りに合わせてしまう」というのが身体に染み付いているから。
ただそれを「面倒臭い」と思って解除できる術を身に付けつつもあるけれど。
便利だなー
しかしこれが怠慢に堕ちないようには注意せねば。

そう、「まっとうな面倒臭さ」というものがあるんです。
あとは「まっとうなどっちでもよさ」とか。
ほんとに。
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