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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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「彼女は二人の間では"過燐酸石灰嬢"と呼ばれている」

消費者でいることに居心地の悪さを感じ続けること。
それは疲れるし、社会活動に振り向けるべきエネルギーの浪費になる。
もちろんこれは裏返して見なければならない(表=多数派)。
居心地の悪さを抱え、分析対象にしてこそ、消費社会において「消費者的でない行き方」を模索することができる。

「消費活動で経済を回して社会に貢献する」という。
その貢献する対象というのは、消費社会という社会の一面である。
今の社会を維持するにはそのような貢献もある程度必要であろう。
しかし全ての人間がその種の貢献だけで満足すれば、どうなるか。

この「ある程度」は、アバウトに見積もっても大変大きいものだ。
言い換えると、こんなことを考えるのはごく一部の人間でよいということ。
そして彼らはアウトローにもなり得るし、縁の下の力持ちにもなり得る。
彼らと「ある程度」の人間の必要性の見積もりをどう行うか。

それをしようと思うのは、当然だが彼らの方だ。
彼らが自分の立ち位置に使命感を見出すためには、消費社会の論理に埋没していてはいけない。
しかしその使命には、社会の一面である消費社会の維持も含まれている。
呉越同舟、といったところか。

そう、アウトローが山で暮らしていても、彼らと同じ舟に乗っている。
ここは数で効果を見積もるような似非現実主義的思考をすべきところではない。
「自分一人がなにをやろうがたかが知れている」?
思考の出発点は、その個人主義的発想の集積が現在を作り上げた事実を認めること。

もっと哲学的(現象学的?)なアプローチもあるかもしれない。
個人主義といって、状況によって個人は縮小することも肥大することもある。
その(個人という境界のとりうる範囲の)広がりをイメージなりでとらえる。
あるいは個人主義の境界が厳密に一個人で閉じられた社会が成立するかどうかを考える。

もしかすると、個人主義と言われる消費社会の隆盛はこの境界の曖昧さのお陰かもしれない。
そして経済成長に限界が見える今と、境界の曖昧さの消失がリンクしているかもしれない。
こんな話は例示でイメージを補強できても、実証できるものではない。
人が「実証」を口にする時、その効果の確実性を期待している。

しかし別の話もあって、未来予測とか科学で実証とかいった「確実主義」という"常識"もある。
確実主義とは、「ああすればこうなる」(@養老孟司)のことである。
確実主義が上記の消費社会の隆盛→衰微の流れに勢いをつけているとすればどうなるか。
この実証が流れを止める(変える)ために効果的でないことは間違いないということだ。

話は込み入っていて、話が込み入る理由はいくつかある。
この場合は、長い間いくつも放置してきた野方図な単純さを回収しようとしているからだ。
単純さの「伏線」を、だ。
多角形の面積を求めるために補助線を引く。

しかし補助線を引くべき多角形が「閉じていなかった」場合に、受験生はどうするべきか。

1.テストの問題が間違っており、後で訂正され全員正解になるので今は放置する。
2.放置したまま他の問題を解く気になれないので挙手して試験監督に知らせる。
3.多角形もどきの「穴」を閉じて自分でちゃんとした多角形にしたうえで解く。
4.それ以外

そして僕らは、もはや受験生ではない。
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二つ前の記事の本題を、時間がないのでさわりだけ。

「これは誰に向けられた言葉か?」を考える。
自分が心地よく読めるとすれば、その言葉の宛て先に自分が含まれている。
「ヤなこと言ってるな」と思えば、その言葉の宛て先に自分は含まれていない。
これが基本的な考え方。

宛て先に自分が含まれていない時に、ではどんな人が想定されているかを考える。
その想定される他者を具体的に想像したときに、状況が変わる場合がある。
その人が意外にも自分と共感できる部分を持っていた時、宛て先に自分が加わる。
つまり「ヤなこと」が他者を媒介して僕自身と繋がりを持ったことになる。

その一方で、想定される他者が自分と感覚的に遠い人だったとすればどうなるか。
それは「なんかヤだ」という感覚に、具体的な根拠が追加されることになる。
「なんとなく」を細かく割ることができる。
もちろん論理的にではなく、具体的な、とい表現もちと怪しい。

おそらく、その感覚を具体的にするには、照合する作業が必要なのだと思う。
自分の想定した他者が、実際にいるのかどうか。
「たぶんあの人みたいな人だ」と思った人と話してみて、想像とのズレを確認する。
そしてこれは手順であり、手順でしかない。


ルーティン再考。

繰り返しに意味はない。
生きることそのものに意味がないことと同じ。
生きることは、意味が生まれる前提である。
同じくして、意味が生まれる前提としてのルーティンがある。

毎日ちゃんと食べる、ちゃんと寝る。
今の僕なら、毎週末にちゃんと歩く。
生活を整えるため、微細な変化を感知するため。
ルーティンは大切だと知りながら、別の思考が「それ」を妨げていた。


頭の中を流れる音楽の話。
毎週末(土か日)に駅まで歩く40分間、一つの曲が繰り返し再生されている。
何の曲にするかはその時の気分で、しかし気分以外にも選択基準が存在していた。
「先週はあの曲だったから今日はこれにしよう」。

この思考に全く違和感がなかったのだが、今日歩いていて「あれ?」と思った。
きっかけはその曲と歩きとが、いつものようにフィットしなかったことにある。
そして曲の選択基準のことを思い、なにかが「よこしま」だと思った。
後で少し考えて、これは"ルーティン固守思想"と背馳していると思い至った。


それは端的に言えば「毎日同じだと飽きるよな」という感覚のことだ。
これは「意味」であって、しかしルーティンは上記の通り「意味以前」だ。
意味というのは、身体が自然に振る舞おうとする所に"自然に"入り込む。
それは「意味でできた社会」で暮らしている以上避けることはできない。

「意味以前」に至るために、「意味」に対して注意深くなる必要がある。
これは生活の知恵だが、「一度知ったら大丈夫」的な知識ではない。
簡単に抽象化できるが、抽象(意味だけ)に留まる限り、実際的な効果はない。
日々の生活に無数の実際があり、その一つひとつが独自の実際なのだ。

抽象の役得は、一つの実際がそれ(抽象)を介して別の多くの実際と繋がることだ。
それは歴史の役得でもあり、学問の役得でもある。
ただそれが「手間を省く」ことだけに利用される(=手段の目的化)と怠惰に陥る。
手間を省くのはあくまで、同じ過ちを無駄に繰り返さないためにある。


歩いていると、机の前に座っている時より頭がよく回る。
しかしそれを「机の前に座っている時よりも思考が捗る」と考えてはならない。
回転数が上がっているのではなく、「別の回転の仕方」をしているのだ。
だから、歩いている時には、「歩いている時に考えること」があるのだ。

それは全くとりとめのないことかもしれない。
風景を見ながら連想を自由にさせれば、日本の街並が如く思考も整然としない。
しかしそれはそれで、「その時にしか考えることのできないこと」なのだ。
それが今を生きるということ。


ルーティンに自分を馴染ませることは、それを意識しなくなることとは限らない。
自分の生活の別の一部とルーティンが対立している場合がそれだ。
中には、対立させたまま意識せずにいられるようになる種類のルーティンもある。
しかし、これはそれではない。

あるいは、対立しないように生活の一部またはルーティンを変える方法もある。
それは広い意味での今の生活を維持するうえで身体にとって楽な選択肢である。
しかし僕がそれを選ばないのはその結果の身体に付随する思考が腑抜けるから。
そう、よく考えてみると自分は何もしないわりにとてもワガママなのだ。

まあ、それはそういうものだから。
「誰が言ったか」を、まず考えてみる。

前に書いたことと最近書いたことで矛盾していることがある。
「言葉は誰が言おうとその意味が変わるものではない」と前に言い、
「同じことでも言う人によってその影響力ががらりと変わる」と最近言った。
しかしこれは少し考えれば矛盾していないと分かる。

デノテーションとコノテーションと言えばすっきりするが、あまり面白くない。

前者は、意味が変わってしまうことに理不尽さを感じたという話に出てきた。
「あの人が言ったと思ったから信じたのに」という発言。
しかしこれは発言主体が訂正されて、意味が変わったわけではない。
それを信じた人にとって「意味」に意味はなく、ただ効果だけがあった。

後者は、最近読む本でよく出てくる話だ。
保坂和志はカルチャースクールか何かで喋った経験からこんなことを言っている。
話は用意していくよりも、その時に必然を感じた話をした方がよい。
これは少し話が違うが、「同じ話でもそれが場に合うかどうかで影響が変わる」と。

これも(「も」は一つ前の記事との対応)言葉はそれだけでは存在しないという話。
話す人の雰囲気も影響するしその人に関する情報を聴き手が知っている場合もある。
発言内容とそれらがミックスされその内容が聴き手にとって独自の広がりを見せる。
これをひっくり返して考えてみてはどうかと、さっきふと思ったのだった。


深く問われぬまま人口に膾炙している話というのはたくさんある。
常識はその最たるもので、僕はそれが好きではない。
もちろん好悪はその常識の通用する場面と何ら関係はない。
などと言えば歯が歯茎と一緒に浮いてカシャカシャ鳴りそうだ(意味不

もとい、色々考えようと思うと「常識のなりたち」は格好の素材となる。
その矛盾や不合理を並べ立てて抗議しようというのではない。
意味など関係なく、常識へ差し挟む明示的な疑義はすべて非常識となる。
だから同じフィールドに立たなければよいというだけの話。

と言いながら別に常識だけを取り上げようとは思っていない。
要するに意味の通る一連の言葉であればなんでもよい。
ただ、その始まりとして自分に「ん?」と思わせるものが適している。
違和感は全ての始まりなのだ。


本を読んでいて、「これは誰に向けられた言葉か?」と思うことがある…
と言えば話の流れとして良いのだが、実はその経験はあまりない。
自分の読みたい本をハズレを引かずに選べるほどその経験は減って行くのだ。
そして最近は自分に合わない本はさっさと中断する潔さも身に付けた。

と言って対象を本にするから話が進まないわけで、つまり新聞が好対象である。
どうも新聞を読んでいて、自分に向けられた言葉が少ないと感じる。
そんな時、この言葉を喜んで読み進める人のことをたまに想像する。
あまりいい気分はしない。(そりゃそうだ)

それはよくて、「なんでこんなこと言うんだろ」という疑問の方が本題である。
正確には「なんでこんなことを当たり前のように言えるんだろ」で、
それが常識に近いところでもあり紙面上に書かれる違和感が別にあったりして、
そこで自分は「この人は勝手に何かを前提にしている」と思う。

(なかなか辿り着かない。たぶん続く…)
矛盾を「誇ったって!」

人はそう変わらないものだと思う。
言葉を手に入れて、凄いと思って読んだ言葉を自分が書くようになって、
それが受け売りではなく自分を一度通して出た言葉だと思って、
そしてその言葉は「昔の自分」を言い表したもののようである。

実際は、フィルターを通して集まったものに意味付けをしているだけで、
色々考えている中の一部分であるだけなのかもしれない。
しかし、例えばその逆のことも考えていたとして、それは印象には残らない。
すると、変わっていないだけでなく、「変わることを望んでいない」とも言える。

それはきっと当たっている。
「子供心を失いたくない」と、そもそもまともな大人かどうか心許ない僕は思う。
これは公的な場面では内々に、駄々をこねる言い訳としてよく使われる。
しかし駄々をこねることになるのは、それが責任を負わない言い訳だからだ。

僕は自分によく言い訳をするが、そこに自分のとるべき責任を含めているつもりだ。
つまりそこに「それでいいわけ?」はなく「それでいいわけ。」しかない。
僕は「何を実際とするかは人それぞれ」という留保付きのプラグマティストである。
言い方を変えると「"理"が不可解に膨張している合理主義者」になるかもしれない。

いちおう話はぜんぶ繋がっていて、小さい頃僕はろくに論理的思考をしなかった。
だから自分の行動を筋道立てて説明するような経験がなく、
今の自分の想像の範疇を超えた自由奔放さを(主に頭の中で)発揮していたようだ。
そして言葉を知る過程で「自由奔放さ」に論理を発見していくことになるという話。

論理を屁理屈と決めつけるのは論理に勝てない側の人間で、「屁」は単に装飾語だ。
しかし理屈に情緒がくっつくのは本当で、それは「ものは言い様」ということ。
主張したいことが何であれ、それに説得力を持たせる論理を構築することができる。
だからといって「論理なんて机上のレトリックでしかない」ことにはならない。

なぜかというと、言葉はそれ単独で存在しないからだ。
言葉はそれだけでポッと生まれでてくるものではない(文字の方が分かりやすい)。
言葉(文字)に最初に意味を込める時、その"人"はどんな気持ちであったか。
言葉の力の原型は、きっとそこにある。

言いたかったのは、言葉の強度は内容によって決まるものとは限らないということ。
(「とは限らない」を「ではない」と言いたいところではある)
同じ内容の言葉が、語る人によって訴求力が変わるのはなぜか。
言葉に想いを込めることは可能だが、本と、会話とに込められる量も、質も異なる。

それを「形式が違う」とすっきり言ってしまうのには抵抗がある。
言葉の力がはたらくのは個人の内ではなく「場」なのだ。
何かを伝えたい自分と、それを伝えたい相手と、僕らを囲む「場」がある。
思えばその「場」は、今の今だけでなく、とても長い過去(歴史)を含んでいる。

お互いがそれを意識しながら交わされる会話とは、どんなものだろうか。
お互いがしっかり相手の目を見ながら、しかし遠くを見つめているようでもある。
近所に住む(ある時を一緒に過ごした)仲でありながら、
初めて会うわけではないものの、お互い遠くからやってきたような。

それも「村上春樹の小説に出てくる女性」のようなものだろうか。
つまり…
今ある頭の回り方があって、
それが以前のある時期と同じ調子に思えて、
しかし体調など「思考を取り巻く状況」が違うと思える時、
何が変わったのだろうか?

だいたいその「同じ」が、ほんとうに同じかどうかが分からない。
「同じ」と思わせる別の何かがあるかもしれない。
するとそれは回転の滑りを良くするものか。
あるいは(防衛反応として)鈍らせるものか。

後者である場合、「同じ」は実は違うということになる。
逆に前者であれば、「同じ」は同じでも違うでも構わない。
回転するならばそれでよいのだ。
その何かは以前から内にあったか、降って湧いたか?

ちょっと生活が落ち着いてきた感じがある。
つまり「思考の回転」関数がとる変数は変化量なのか。
「今の今」の展開を追って走る脳内回路は、ハードの動作環境に依存する。
その環境は過去を引きずっており、未知なる未来というノイズ入力もある。

脳は身体の一部とはいえ、身体の状態とはある程度分離して駆動できる。
それ自体はあらためて言うまでもないが、その分離の仕方に興味がある。
ふと、典型的ではない形の分離の仕方があるのではないかと思ったのだ。
例えば、即時的には相反しつつも未来の合流を予期しているような分離。

そのような芸当ができるとして、その実現にはまず「できる」という信頼がいる。
そしてその信頼の根拠に「確実なものがない」ことは確実だと言える。
そう、確実なものを担保するのは、ほんとうは不確実なものなのだ。
予定調和でないそれは、結果と名付けたものから事後的に確認できるのみだ。


指針はたくさんある。
たくさんあることに、素直に喜べるようになりたい。
それを喜べない理由は、実は複雑だ。
選べることの意味が、変わってしまった。

選択肢が多い喜びは、「この中に最適なものがある」ことにはない。
選択肢が増えることは、最適値が上がることと結びつかない。
そもそもこの言い方は「選べることの意味が変わった後」のものだ。
最適値などありはしない。

もとい、主観的な最適値などありはしない。
「主観を取り戻す」(@保坂和志)の一つの実践は、ことばを選びなおすことだ。
主観的な言葉を「思い出す」。
さあ、この主体は誰だろう?
次はジム・ビームにしよう。
名前からして弱そうだけれども。

+*+*+*

もし、しがらみがなく自分の住む場所を選べるならば、
「魅力的な建築」の近くに住みたいと思った。
自分の住む家はむしろ平凡で質素でよい。
そこに行けば、心が洗われるような、ある感性のスイッチが入るような建物。
自分の住処から歩けるところに、そういうものがあってほしい。

『建築探偵 神出鬼没』(藤森照信、増田彰久)を読み始めて早速影響を受けた。
もともと自分は建築に興味がないわけではなかった。
近代建築や、あるいは茅葺き民家でも眺めていて飽きないし、実際に見たいと思う。
というのもそれは本で読んでいるからで、しかし実際に見に行ったことはない。
僕にとって建築は「想像をはたらかせると面白い」対象でしかなかった。
その意識が揺らぎ始めたのは内田樹のブログでヴォーリズ建築の話を読んでからだ。
一読してではなく、何度も読んでいるうちボディブロウ的に効いてきたのだと思う。
(ウチダ氏は本当に同じ話ばかり書くが、不思議と飽きない。これは凄いことで、
「同じような話」だけでなく「同じ話」を読んでも飽きないのである)
何の偶然か『建築探偵〜』に神戸女学院大の項があり、最初にそこを読んだ。
図書館の天井の高さとその装飾にうっとりし、そこの大学生を羨ましいと思った。
思えば阪大吹田の工学部図書館も京大吉田の中央図書館も、機能的でしかなかった。
阪大の医学部図書館が構えだけ何やら荘厳だったが、
(マニアックだけどシムシティ2000の「市長官邸のアイコン」みたいな。
 そういえばシムシティのMac版が出る(出た?)ようで。ちょっとそそられる)
内装に惹かれるものはなく古めかしいという以外に記憶がない。

でまあ安直だけど「魅力的な図書館」の近くに済めればよいなあと。
カフカ少年みたいに(私設の)図書館そのものに住めればさぞステキなことであろう。
家出しようかな。(そこか)

決して機能的ではないが、落ち着いた雰囲気で、歴史があって。
人は少ないが、それは雰囲気が来館者をスクリーニングしているからであるような。
今大人気のツタヤ図書館とかその対極にありそうだけれど(でも一度行ってみたい)

そして海月及介のように日がな一日画集や図集を読み耽り、
部屋ではさながら置き物のように微動だにせず岩波文庫を精読する。
いいなあ。
絶句してない絶句。

 ズバズバ書けると 思ったら
 そうは問屋が 卸さない
 下ろす鋏は 空を切り
 返す刀で 人を斬る
 おろす大根 鼻に突き
 返すアスパラ 茎腐り
 筆を下ろすと 紙がある
 指を下ろすと メカがある

+*+*+*

田口ランディの日記が面白い。
今は『くねくね日記』を読んでいる。
「ふつうの主婦」に偉人変人が吸い寄せられている。
なんというバイタリティ、と驚いている。
そして紡がれる言葉に「すごく共感できる」ことが凄い。
性質として具体的な人が、抽象的な話も厭わず語る。
具体的な話と抽象的な話が、「一人のひとが語っている」ことが分かる。
それにはランディ氏が会った色々な人の話が多く混じっている。
けれどその人の話が、ランディ氏を媒介して、氏の語りになる。
「もう何言ってっかわかんねーよ」という諦めも、媒介の一つの形。
「全然共感できないけどそういう人もいる」という断絶も一つの形。
媒介というのは、物語がその人の「身体」を通り抜けることだ。
だから理解を超越する話にも共振できる部分がある。
読んでいて、気持ちが動く。
分析的な読解が全く要求されていない。
「身体寄りの言葉」の使い方がよく分かる。
そこには同時に知性も存在している。
つまりそれは「分析的でない知性」ということになる。
これと本の中で出会えるというのは、稀有なことだと思う。
本文はずっと前の話だけど(まだ二十世紀末)、思わず「頑張れ」と言いたくなる。
きっと日常の中で言葉にならない想いを、言葉にしてくれている。
それが自分の想いに沿うかどうかは、実は副次的な問題に過ぎない。
時に突拍子もないこと、不謹慎なことが書かれ、オカルトだって辞さない。
けれど「言ったことは全部私が引き受ける」という意志が行間に溢れている。
ウチダ氏のよく言う、身銭を切る、というやつだ。
そして体を張って発言して世間(マスコミ)の波に揉まれる所まで生々しく書かれる。
なんということか、と思う。

もっと読もう、と思う。
昨日の続きかもしれない。

変化に対応すると言った。
油断すると不変に固着するから意識して変化に気を配る。
(気を配る、というほど丁寧にやるイメージは僕に今のところない)
これはぜんぶ頭の方の話。

対して身体はというと、常なる変化が標準である。
きっと全身の細胞の変化は目まぐるしく、全的掌握を目指せば脳は狂う。
それは「バランスのとれた狂い方」(あるんです)ではなく「ぷっつん」の方。
何事も経験なので一度試してみてもよいかもしれない。

さておき、不変にこだわる脳は、ある程度以上の変化に見舞われると不安になる。
脳が「掌握(制御)しておきたい」部分がいうことを聞かなければ、不安になる。
それは逆に言えば、脳の可視範囲だけ整えておけば自己満足により不安は消える。
低能な王に無難な範囲で好き勝手をやらせる執事になったと思えばいい。

で、この喩えを使うと「王」は脳でよいのだけど一方の「執事」も実は脳である。
身体はどこかといえば、この一文には出ていない、言わば「治世」である。
農民とか領主とか奴隷とか、具体的にし過ぎるとアレなので「治世」である。
一国の成り立ちは(専ら脳で制御しようとするものだけど)身体なのである。

つまり、脳にほどよく運動させて満足してもらう場を整えるのは脳の仕事なのだ。
だからこそ自己満足と呼ぶのだが、これをそのまま意識することを脳は好まない。
その理由は外を見れば「社会」なのだろうけど、それに対応する内の理由は何か?
あんまり二分法にこだわるのも単純だけど、脳か身体かでいえば…どっちだろう。

別の個体との共振を身体が求める、と言えば説得力を感じないこともない。
しかし、その「別の個体」が人間である必要はない。
まず「社会」を理由に挙げたのはこれがあるからか。
一方で脳に原因を求めれば、「不徹底」の一言で済むのではないか。

世界は素直に生きるには単純で、頭で理解しようとするには複雑に過ぎる。
複雑なことを単純に理解したがるのは脳の怠慢かといえば、そうでもない。
もし脳に身体性が無ければ考えたいことを無限に考え続けるのではないか。
つまり脳が疲れを知らなければ、オーバヒートしない計算機であったらば。

さて、脳は脳でありながら身体でもある。
では逆に、身体に脳的な性質はあるのか?
論理的な思考を得意とする身体、とか。
…ないか。

「脳と身体の対比」の対比の仕方は色々考えられる。
上の例がまず一つ(不発だけど)で、あとは「把握の相互性」とか。
「身体の脳的な把握」というのは上で何度かやった(たぶん)。
では「脳の身体的な把握」とは何か?

…書いたそばから気付くほど言葉の使い方が怪しい。
前者の「脳的」は「論理的」と言い直せる。
後者の「身体的」は「身体として(の)」と言い直せるはずだ。
これのどこが対比なのか。

というか、対比とは何か?
…きっと、あやふやに使っても論理的思考の深化の糧になる論理装置だ。
あと、ちょっと臭ったりするんだよ。
うん、「堆肥」だけにね。

よし、オチた。
いたいのいたいの…痛いの?

今日は大山登山後4日目で、ふくらはぎはまだ痛い。
和らいではきていて、あと2日もすれば気にならなくなる。
平地を歩くより階段の上り下りで痛いのはまあ当然として、
これくらいの痛みがちょうど創造的になる分岐点となる。

というのも、ふつう、痛いのはイヤである。
普通に歩いて痛いのなら、歩き方を変えて痛くならないようにしたい。
これは頭も思うし、それと独立に身体も思っている。
普段よりも身体の声がよく聴こえる状態なのである。

で、身体にお伺いを立てながら、頭は歩行動作の微調整を模索することになる。
ちょっと変えて、「これどうすか? あ、いまいち?」みたいな。
そしてどこかで投げやりになって、「もう、好きにしちゃって!」みたいな。
「分岐点の中の分岐点」が、ここである。

疲れというのは、変な言い方だけど、ある程度は絶対量ではない。
身体のある部分が疲れるのは、そこを集中的に使っているからでもある。
ある身体部位の使用度が同じでも、その周りの身体部位もバランスよく使えば、
局所的な疲労は感じにくくなる。

だから一つの動作で身体全体の「バランスの良い使い方」ができれば、
疲労を感じずに長時間その動作を続けることができるようになる。
しかしそれは一つの理想であって、なかなかそう上手くはいかない。
そんな時に、どんな次善策が思い浮かぶだろうか?

というところで先の話と繋がるのだが、「歩行動作の微調整」によって、
ある身体部位が疲れている時のベターな歩行動作を発見できる可能性がある。
つまり、全身が元気な時の歩き方と、脚のそこここが疲れている時の歩き方を、
その都度の身体に蓄積される疲労を少なくするように変えることができる(かも)。

この考え方を応用すれば、履いている靴や靴下の種類によっても、
最適な歩き方を選んでいつでも気分良く歩けるようになる。
(僕は靴下を厚手と薄手とをランダムに履くので、これも歩行動作に大きく絡む)
これは「常にベストな状態で歩く(のがよい)」というのと逆の考え方である。

一言でいえば「不変を維持するのでなく、変化に対応する」ということ。
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