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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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はい、というわけで予告通り頑張ります。

『ロバート本』(橋本治)で思考を漉すと如何なる出汁が得られるか。
きっと「漉す」という表現は間違っていなくて、つまり「純」とはとても恐ろしいということ(純水は身体に毒だしね)。
しかし「純」とは単純のことではなく、複雑と真正面から立ち向かうための無垢でもある。
よく分かんない前置きはさておき。
記憶が新しいので後ろからいきます。

「自分の書いた文章が異様に好き」で飽きずに読めるというのと、他人の数だけ自分がいて「書いた本の数だけ自分が一つになって行く」というのは繋がっていて、それはその文章(本)を書いたのは自分なのだけど「他人の数だけいる自分」でつまりは他人だということで、そういう他人を自分に憑衣させて書くみたいな芸当を正気でできることがまず狂気で、きっと正気と狂気は最表面なんてない入れ子構造になっているのだと想像させる。
私の中で”僕”と”ボク”と”ぼく”は自ずと違うし、”私(わたし)"と”わたし”と”私(わたくし)”と”わたくし”は、やっぱりこれまた違う。なんだってこんなに人物が違うのかというと、これは勿論、他人の影響下に分立して成立してしまった自分というのがゴマンといるからである。他人の数だけ自分はいるし、その他人とのシチュエーションの数だけやっぱり自分はいる。あんまり多くなりすぎて、ちょっと自分の中では収拾がつかなくなって来たかなァ、と思ったから、こういうものを片ッ端から解き放っているのである。(しかし世の中ってのはそんなもんだけどサ)
「ああ、やっぱり、こういうのは自分と関係ないと思ってた」というような”内容”を、キチンと梱包する梱包材料が私の”文体”なのである。

49=自我の統合 ─どうして私は自分の本が好きか─(p.321-326)以下同様
他人を自分に憑衣させると書いたが、「自分と関係ないもの」を憑衣させて"書き捨てる"なんてことをどうしてわざわざするのか。
という訳で、私のオリジナリティー確定作業というのは、常に、”他人の影響力拭き払い作業”でしかない。という訳で、私のゴミの捨て方である。
それは、ハシモト氏がそれを気持ち悪いと思ったからで、しかも「それを気持ち悪いと思った理由は全て(自分ではなく)それにある」という確信があって、しかしそれでいてイマイチ自信がないからである。
(なんだこりゃ…)
ハシモト氏はこの自分の感覚に対する確信のことを「自分には精神分析はきかない」と表現している。
どこのスーパヒーロだという話だが、この捉え方はスゴい。
大体いけないよと言うのは、精神分析の根本原理は”自分が悪い”なんだよね。(…)私の、この”私自身に関する前提”が間違っているとするのが、私を精神分析しようとする立場で、「なもん、やなこった」と言うのが私なのである。勿論その後に「バァカ」はつくのだが。
自分の確信を確かめる(って妙な表現だが)ために書くために、その結論は氏にとっていつも一つで(上記の「ああ、やっぱり、…」)、しかしその同じ結論を導くまでの論理(過程)が無尽蔵に(それこそ「他人の数だけ…」)あって、そのことが個の身体を通した思考というものの希望をもの凄く具体的にしてくれるし、つまりここで「個が普遍に至る」。

そして(という繋ぎに意味がないほど支離滅裂ではあるが)様々な文体で文章を書き散らし、他人の影響で派生した自分を外在化させたものを面白く読めるのが(自分が何やら偉そうなことを書けた)自己満足ではなく(ちょっと騙されそうになったけどやはり自分の感覚は正しかったと確認できた)自己満足ゆえであるところも、個の境界が既に個人を大幅に突き抜けていることを意味していて(純粋な個人の自己満足に他人が満足できるって場合の「自己」って何なんだ、という話)、それはもう密林を歩く自分が自分の腸をくぐり抜けているかのような小説世界(@『海辺のカフカ』)の感覚なのである。
つまり小説は超現実であると同時に現実は超小説であって、小説と現実もお互い包み包まれて最表面も中心核もない入れ子構造である、と。


という感じでやまだかつてなく激しく脈絡のない筆致でお送りしていきます。
(BGMはkoutaqのSensitive Heartでいきましょう)
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半眼の極意。

『半眼訥々』という高村薫の時評集があって、『レディ・ジョーカー』とか合田雄一郎シリーズとか「地に足の着いた硬派もの」作家そのままの内容でありながらタイトルが何しろよいなあと思っていて、ところで半眼というのは決して眠いわけではなく物事を冷静に見つめる時の自然形である。

髪が長い人の中には見るからに(人柄でなく髪が)鬱陶しそうな人がいて、「前髪が目に入るんだよね」とか言いながらなかなか切ろうとしなかったり(僕です)、上司に注意されたり総務に「社則の規律を逸している」と言われたりしながら「そうですよね、同感です」とかナメた態度をとったり(僕です)、果ては週末にサッパリ切ってきますと宣言しながらノーカット縮毛矯正で逆に伸ばして「あ〜さっぱりさっぱり☆」(@魔法陣グルグル)な人間がたまにいるが(全部僕ですね)、そういった輩の皆が無意味に体を張っているわけではないと前から思っていた。

話を結合すると「半眼状態」は冷静な思考を賦活するのだが、考える時だけでなく常日頃から半眼でいることで身の回りの物事の本質をズバッと見抜くことができるのだけど、「ちょっと鬱陶しいくらいの前髪」がその半眼状態を維持するブリンカー的役目を果たすのだと今日気付いた。
ちょっとした身体的不快というのは時間が経つと慣れるもので(靴下の中の足がかゆいとか、靴底のゴムが一部砕けて踵の踏み心地が怪しいとか)、それは身体的不快の原因要素が消失する場合もあれば原因要素はそのままに身体が不快を取り込んで新たな調和を見出す場合もあって、目に入りそうな前髪が体感として鬱陶しくなくなるのは後者の場合で、その具体的なところが半眼状態ということになる。
これは意外と効果的と思っていて、なぜなら脳の動きと身振りというのはいつも組み合わせて行っていると片方だけやろうとしても自然ともう片方がついてくるものだからだ。

きっと海月の前髪もだらんと垂れていると想像する。
もしかして海産物つながりでワカメみたいにくねくねしてたりして。
由良木先輩みたいな…それはちょっとやだなぁ。
そうそう、昔の話だけど大学のジャズ研と部室を共有していたDJサークルの本棚のマンガが自分のお気に入りのルーツで(その節はお世話になりました…そして勝手に読んですみませんでした)、幸村誠(『プラネテス』)と日本橋ヨヲコ(『プラスチック解体高校』)はそこで初めて知ってハマった漫画家なのだけど、その縁で院時代に読んだ『少女ファイト』を最近読み返すと無性にバレーボールがしたくなった。
会社のサークルでは2年くらい行ってない幽霊部員だけど、もうそろそろ練習行こうかしら。
味噌汁氏の近況。

味噌全国ツアーはもう記録してないけどまだ続いていて(=一種に定着はしていない)、今は仙台味噌で次は今日購入した新潟の白味噌。
確かに味噌で味は変わるんだけどそれは当然で、当然なだけにあまり面白くなくなってきていて(まだ極端なのを選んでないせいもあるかもしれない。京の白味噌とか極端なイメージ…年末年始しか食べんのでないの、というような)、実は油がけっこう味に効いてくるというのを実感している。
油は最初に豚肉とカボチャ(と二日にいっぺんはウィンナーもだが、これは焼けた時点で取り出して食べる。調理中の腹ごしらえ用ですね。ついでに二日にいっぺんのもう片方は出来合のハンバーグです)を炒める時に敷くのだけど、豚肉がけっこう色つくまで炒めるのと量も多めに入れるのとで味噌汁の味の基礎の部分をつくるのもむべなるかなというところ。
で、季節柄か半月前からスーパでオクラが見当たらなくなって、これまで山芋とオクラのネバネバコンビを楽しんでいたのだけどそれがなくなるのは寂しいなと思い、何か代わりはないものかと普段と違う目で生鮮コーナを物色するに、エンドウ豆(よりは豆が小さい豆類なのだけど…あれ、ど忘れした。さやえんどう?)の値札に「煮物にぴったり」と書いてあって反射的にこれだと思い(僕の中では煮物=味噌汁、です)、すぐ横にもやしがあって「ああ懐かしいなあ」と思って量の多さをちと気にしながらわずかながらの贅沢力発揮で黒豆もやし(¥48)なるものを選んだ。
もやしはどうも学生の頃にさんざん自炊で使ってきただけに「貧乏学生の食生活の象徴」というイメージがあって(別に貧乏してた訳じゃないけどなぜか食に関しては無駄に倹約志向だった)、そういえば社会人になってからほとんど買った記憶もなかったのだけど、これが味噌汁に入れてみるとなかなかよくて、まずもやしというのは歯応えが他の野菜にない特徴をもっているので味噌汁の具の食感にバリエーションが出てよい。
あとは味噌汁の煮方もひとつ技法(?)として定着しつつあって、最初に入れた水がほとんどなくなるまで一度強火で煮込むと汁はドロドロして具も大体がドロドロしてくるのだけど、この状態がカボチャと山芋を液状化させるチャンスで菜箸で「くぬっくぬっ」とばかり八つ突きにして奉ることで汁との一体化を果たすのである(汁が多くて粘り気が少ない時は潰しても破片が小さくなるだけなのだ)。この手順を踏むか踏まないかで味噌汁の旨さが大きく違ってくる。
あ、それと味付けも最初のやっつけプラスその場の思い付きが正規採用されていて、砂糖と塩に加えて合わせダシ(確か椎茸とか牡蠣とかだったような…そして品目が豪勢なわりになんでか安い)を手のひらに三つ振り分投入し、隠し味として「にんにくを浸けていた醤油」を小さじ2杯入れている。この醤油がまた滅法おいしくて、単体で飲むと醤油の濃厚さにニンニク(青森産)の青々しさがつーんとくるのだけどある日突然これを味噌汁に投入することを思い付いたのだった。けど入れてみて味噌汁がニンニクの味がするかといえばそんなことは全然なくて入れたことにも気付かないくらいで、自分にしては珍しく(というか初めてかもしれない)「隠し味が文字通り隠れてくれた」。その昔チャーハン狂の自炊学生だった頃は隠し味にワサビ(!)とかターメリック(!!)とか訳分からんもんばっか入れて散々な目に遭った。成長したね。
あ、あと煮始めに投入していた乾物が乾燥大根だったのがいつからか乾燥ひじき(@業務スーパ)になっていた。その時に思ったのだけど、その昔ジャズ研に所属していた頃自分がコンマスを務めるバンド名が「先輩にちなんで『かたやきそばジャズオーケストラ』ってどうですかね」という虎の尾アフォーダンス的提案をした某後輩(記憶が曖昧。T安?)の一存で決まったことがあったのだけど、リアリティを追求するなら「乾燥ひじきジャズオーケストラ」で良かったんじゃないかというこれは過ぎた日を懐かしむ自虐的発想なのだけど、今思えば「スチールウール・ジャズオーケストラ」がベストだと思う。
これだからMって言われるんだろうな。(どうでもいい)

という味噌汁のお話でした。
うん、これが俗にいう「全ての道は味噌汁に通ずる」というやつだな。

+*+*+*

あ、今日は風と葉と火でした。
木とコーヒーは昼の音だなあ。
戻ってきた。

部署の後輩がひよこのように歩くので横目で見ていて面白いのだけど、
会話もテキトーでいて間がしっかりとれているので心地よい。
テキトーなのは自分がテキトーなのでどうでもよいのだけど、
いいと思うのは会話の内容ではなく始まり方。
以心伝心というか、言わないでも(見ないでも)伝わるのがいい。
怠惰の裏に隠れた気遣いに反応する、というような。
もちろん思い込みの域を出ないけど。

それはよくて、その後輩と服装の話をしたのだけど、
「出掛けた時に上下の相性バッチリな服だとそれだけでその日一日ハッピーです」
と聞いて、ジェンダー的典型的反応として「単純なやっちゃなあ」と返事しかけて
「へー、そりゃいいね」と言ったのだけど、その反射が通り過ぎた後にあらためて、
「そりゃいいなあ」と思った。
自分は服ではなく髪がそれにあたるはずで、
はずというのはまだ実現していないからで、
何かというともうすぐ「髪を伸ばす」時期だなあというので、
それがむりくりなのはもちろん毎年好例の縮毛矯正だのです。
今月は半ばに社長講話があるので(これまで何度も「髪切れ」と言われた)、
それまではモジャった天パを丸めてごまかしておいて、
いざ縮毛矯正の時は「カットなし」の暴挙に出ようとこれは毎回考えている。
が後頭部の髪が多いからあててもちょっと伸びたらすぐもっさりしそうだな。
やっぱ「スいた方がいいですよ」って言われるのかなあ。

で話がずれたのだけど、
僕の場合はきっといい感じに伸びてきて後ろで束ねたりなんかして、
風がちょっとある日で歩いてるとさらさらふわふわ髪が漂ったりなんかしたら、
「ああ今日は一日ステキだなあ」なんて思えるのではなかろうかと。

「男らしさ」「女らしさ」という性役割は性別と一対なのではなく、
「らしさ要素」は各々沢山あり男も女も「らしさ的」には男女関係なく持っていて、
その「らしさ要素」の集積が男か女かのどちらに大きく傾いた時に、
総合判断として一個人が「男らしい」「女らしい」と言われるのが筋で(たぶん)、
「らしさ要素」の集積バランスは人それぞれに違っているはずで、
たぶん僕には心地よいバランスに至るために女らしさが足りてないのだと思う。
と、頭では(言葉にする以前の段階だけど)ずっと前から思っていて、
「けれどやってみると全然そんなことないんだろな」と前までは思っていたけれど、
実験的生活とは「やってなんぼ」であるのでとりあえずやってみて、
(関係ない話だけど「とりあえず」をよく使うようになってから思ったのは、
 「とりあえず」を使うと反射的に嫌がる人は好きになれないのだなと…
 それが「溜め」でなく「回避」に使われてイヤな気になるのは同感だけれど、
 その反射をしてしまうと彼らと同類になってしまうことに気付いて欲しい)
しかしこの「とりあえずやってみる」ことのリスクとベネフィットというのが、
常識的には全く釣り合わないことは僕も分かっているのだけれど、
要はそのリスクをリスクで無くせれば万事解決と相成り申す。 
「フリスク食べて、リスクもスッキリ解消!」


で話が胡蝶になりつつあるので戻して、
「それだけで一日が幸せ」という境地に、
考えることの放棄によってでなく、
考えることを突き抜けることで行ければいいなあと思う。
そうなるとモデルは橋本治になるのだけど…
あ、そいえば最近『ロバート本』読了したのでまたなにか書こうかな。
ホント凄いよなこの人。
そして『デビット100コラム』がすごく読みたい。
きっと何冊か後のハシモト本になるだろうと思う(まだ未入手)。

+*+*+*

今日ついったで見つけたNoisliというサイトがとてもよいです。
お初の今日は「風」と「木の葉」と「月」にして小一時間聴いてます。
「月」ってなんだろう? と思ったけど聴いてみてなるほど。
心地よいです。
冬眠したひ。

ある状況から別の状況へ移る時に、移動後の状況が垣間見えて(想像ができて)「まあなんとかなる」と思うこともあれば、「ほんとうに大丈夫だろうか」と思うこともある。
同じちょっとした想像からこのどちらにも転がることがあるというのは、この想像が実際その通りになることはまず少ないとしても、想像の中身よりも状況(周囲の環境)と(自分の心身の)状態の関係性がここに効いてくるからである。
状況の変化を前後含めて想像できるとしても(前は現状ですね)、この想像は「変化前の」状態においてなされている。
状態の変化後、というものが高い信頼性で想像できればよいのだが、それが確保されない時に、状態の変化後というものは(未知であることは当然として、)「親密さ」が損なわれるのであって、そうすると状態よりは客観的に想像できるはずの(変化後の)状況というものも中身が印象と切り離されて宙に浮いてしまう。

ある時にしっかり考えたことを、あらためてふと考えてみた時に「なんであんなこと自信もって思えたんだろう」と思うことはざらにあって、その疑念が膨らむと「ふと考えている今の自分の状態を疑う」か「ある時にしっかり考えた思考内容を疑う」かのどちらに転がることになるけれど、これはまず感覚に従うなら後者が親和性が高い(今の自分の状態が行動の大前提におかれるから)。
しかし全てを感覚に任せると思考の内容や志向が全て心身状態に左右されることになって、「論理って何? おいしいの?」ということになってしまい、意識を統べる人間が大きく動物に近づくことになる(別にそれ自体に良し悪しはないが)。
リアルタイムの感覚に反するという非自然を冒してこそ前者を志向できるのだけど、それはそのまま不安である。
身体全体の不安と、脳の(身体性に左右される)部分の不安を抱えながら、どうするか。

どうするか、とは、何か?

ああ、一つシンプルにして効果絶大なのは、「目標」を持つことか。
目標への果断な歩みは上記の不安を吹き飛ばすような安心感、充実感を脳・身体両者に引き起こす。

うーん、シンプル・イズ・べ…
ベンダブル。
曲がるんです。
つまり単純なものほど応用がきくという…
という…
Trust happiness!

浮かびて沈む 光路網
内に漂う 真白の音
一つひとつは 儚くも
集い奏でり カオスの唄

黒を目指さば 灰に落つ
長閑けし白は 灰を待つ
灰は廻りて 色を成す
黒白の空 デジタルの海
「はっぱ?」「ポチッとな」

個の境界を広げる(曖昧にする)傍証を集める。
人当たりが良い時と悪い時があって、自分が平常であるのは同じとする。
内の人格が常に外に発揮されるものだとすれば、原因は外にある。
(「自分が平常であるのは同じ」という認識をまず疑うのが常識らしいが)
上記の違いが相手に因らない場合、考えられるのは「場」だ。
所属を負わない相手と、やりとりする場が変われば自分の応対が変わる。
理想的には恐らくそうで、しかしそこですぐに場の変化を求めるのは早計だ。
問題は人当たりの良し悪しではないからだ。
自分の他人への応対は、そのまま自分の状況を表している。
その静的な(=固定して見た)状況を議論するに要する筋道がある。
その道を通るとはすなわち、通る間に道が崩れて真っ逆さま、である。
どこに?

ブラジルに。(どーん)

閑話休題。
身体と脳は繋がっているが、身体が許す限り、脳は自分と身体を別個に扱ってよい。
よいというか、これは当然の事実を述べたに過ぎない。
しかしこの自覚が、許容できる身体の限界を(少し)広げる。
それは身体そのものの力(忍耐力?寛容力?)の向上によるのではなく、
身体の力の変化(衰微)をぎりぎりまで「連続的に」モニタできることによる。
材料力学でいう「降伏応力」に達するまでの時間(←単位圧力)が延びるイメージで、
この場合グラフの傾きはそのままである。

ということで、モニタはしばし継続。
歩くことについて。

目を瞑りながら歩くというのを続けている。
続けるといって最初から最後まで目を開けないわけではなく、一度に瞑る時間は長くて10秒くらいだけど、勤務時間外で歩く時はちょこちょここれをやっている。
動機は最初は「目を瞑っても真っすぐ歩きたい」というのがあって、身体のバランス感覚向上みたいな感じだったのだが、あとで加わったのが「視覚を閉じることで別の感覚・神経を研ぎ澄ます」というもの。
触覚が敏感になれば足裏感覚が増すとか風により親密になれる(半袖ならなおよし)し、聴覚が敏感になれば自分の周りで動くものの場所と動きを察知できるし、嗅覚が敏感になれば…通りの家の晩ご飯の献立をばっちり把握できるようになる。
このうち触覚と聴覚にこだわっている所である。

先に聴覚を言うと、例えば信号のない車道を横断する時に目を瞑って渡る。
と書くとあからさまな危険行為に思われそうだが、もちろん無謀なことはしない。
気配を感じた時点で立ち止まって目を開ける。
車は分かりやすいが、ある種の自転車は危ないかもしれない。
これは聴覚だけの話ではないのだろう。
音がしなくても、自分に近づくものがあれば気配を感じる。
この精度を上げるのに、ちょっとした危険はよい刺激になる。
もちろんやる場所を選んでやっている(もともと車通りが少ない所とかね)。

触覚についてが最初に書きたかったことで、特に足裏感覚のことである。
最近は踏ん張って地面を蹴る際に指を意識するようにしている。
ただ全ての指を使うかといえば、使っているだろうけど意識はそれと異なる。
意識する場所はいくつかあって、親指・人差し指とか、中指・薬指・小指とか。
前者だと足は(進行方向に対して)まっすぐになり、後者だと少し外股になる。
どちらが速いか、というと差はありそうだけどそこはあまり意識してなくて、
歩きのスタイル(足以外の身体各部の動かし方)が各々で変わってくる。

それはよくて、最初の話と実は繋がる話で、どうも、
「足裏感覚を研ぎ澄ませて歩くと目を瞑って正確に歩ける」ようなのだ。
正確に、の意味は、真っすぐだけでなく道に沿って歩けるということ。
この足裏感覚というのが、指で踏ん張る以外にも着地時の体重のかけ方とか、
接地してる間の地面に吸い付かせる感じとか、色々ある。
もちろん足裏感覚「だけ」ではないのだけど、これを意識してから変わった。
目を瞑って歩く間の体のふらつきが減り、安定感がぐんと増した。
たぶん、歩く動作を「割れる」ようになったのではないかと思う。
歩き動作における頭(いや、身体?)が把握できる単位時間コマ数が増えたのだ。
これは「マイクロスリップ」の話と一緒だろう。
たしか、何か明確な意図をもった動作の間にも動かす身体部位は微小にブレていて、そのおかげで唐突な状況変化に対応できる(打者がピッチャーの球種を読み間違えてもバットを振りながら球に合わせていける、といった)という話だったと思う。
歩きの姿勢がブレないことともう一つ、路面状況によるブレも減った。
砂利道とか悪路で敢えて目を瞑って歩く、というのもやっているが、
凹凸のせいでうまく踏み込めずにバランスを崩すことが減ったのだ。
これは意識以前の対応で、やはり踏み込み動作が「割れた」からに思える。
目を開けていれば、自分が踏み込む先の地面を見て足の下ろし方を調節できる。
地面が見えていなければ、足裏で地面の状態を探るしかない。
きっと、足裏が地面に触れるか触れないかの一瞬のところで判断をしている。
何げなく歩いていると気付かないが、案外凄いことをやっているのだ。

最初の…

伝えたいもの。
言葉になる前のもの。
それをあの人に伝えたい。
他でもない、言葉で。

最初に「あの人」がいる?
言葉が「あの人」を導く?
そのどちらでもあり、
そのどちらでもない。

「あの人」はどこにいるのだろうか?
それは共時的な。
「あの人」は"いつ"いるのだろうか?
それは通時的な。


時を超える言葉に触れたい。
本を読めば過去から現在へ言葉が伝わる。
本を書けば現在から未来へ言葉が伝わる。
文字は物質に転写できるから簡単に時を超える。

声は時を超えるだろうか?
録音すれば可能だろう。
それ以外には?
なにか別の形はないだろうか。

つまり、記号化を介さない声の可能性。
情報化される前の、声の全体は時を超えるだろうか?
記憶?
それも変換されたものだろう、ごく恣意的に。


ところで、文字という形態の言葉に全体性はあるだろうか?
文字は声の記号化の一形態ではないのか?
すると、言葉が時を超えるには記号化は避けられないのだろうか?
そもそも「言葉の全体性」が空想の産物なのだろうか?

「もともとあったものが形を変えずに残る」
もともとあったもの、とは何か?
それと確かめることができないものを、あると言ってよいのか?
「言ってよい」としたことで、言葉が生まれた。

しかし「そのこと」を忘れてはならない。
「もともとあったもの」なんて、なかったことを。
ないものをあると信じ込み、そして忘れてしまうこと。
それは意識が、「自分が意識であること」を忘れてしまうこと。
(学生時代のブログを読み返してテンションが少し変わった…?)

身体と精神と、各自の健康について。
身体が不健康でない時、その理由が精神の不健康である場合を考える。
一つは、実は身体は不健康なのだが精神が(それに増して)不健康であるために身体の不健康を認識できない状態であるという可能性。
この場合、精神の不健康は身体維持のために敢えて不調を来しているのであって、精神の不健康が進行すると「ともだおれ」になる。
(「トモダチ作戦」とは実は「トモダオレ作戦」のことではないかとふと思ったがこれは全く関係ない。そしてトモダチ作戦が米主体であるならば米国は「三方一両損」のジャパネスク・シンドローム疾患中であり病状が深刻に至った暁には治療を必要とする主体が存在しなくなるという時点で作戦成就となる。なんだこれ)
「ともだおれ」を防ぐための方向性は二つある。
一つは身体の健康を取り戻すこと…ではない、というのは、「部分の苦痛の効果は全体からの逸脱度と相関が高い」ことから容易に類推できるように、精神の不健康が喫水線を超えて「みてみぬふり」ができなくなり発狂に至るからである。
この場合の発狂は塑性変化であることが多く、推奨されない。
そうではなく、一つは、精神の健康を取り戻すことである。
身体の不健康というのは、精神の健康とセットになっていれば「谷のあとには山がくる」という自然の摂理に従い、風邪や発熱といった生理的な症状として一定期間表れ、症状の回復がそのまま身体的健康の獲得過程となる。
体力がないから病むこともあれど、病む体力も(恐らく)別枠で必要で、後者の体力は「火事場の馬鹿力」のようなもので、生命力があれば尻に火が付いて狂っている場合ではない。
しかし、その生命力に自信がない時に精神の健康を取り戻そうとすればどうなるかといえば、尻の火が全身にまわって焼け死ぬというだけのことである。
想像するだに恐ろしいはずだが、この恐ろしさを想像できる間はまだ大丈夫である(しかしここで「はず」を付けてしまう所が少し心配である)。
そのような時にとるべき二つ目の針路は、身体の健康と精神の健康を同時進行で取り戻すことである。
言うは易しの案ずるは易しで確かにあんず酒は安いのだが、その「同時進行」とは実際どうすればよいのか。

ま、感覚に従い、思うところに従いながら生活を維持しつつ変えるということですね。
劇的な変化は望まない。
劇的というのは劇の中でこそ劇的なのであって、劇の外での劇的は「リアルフィクション」になってしまう(?)
心と体のバランスを崩さないよう心掛ける。
きっとそれは衰弱死という「善き最期」を迎えるコツでもあるのだろう。
オチがこれでいいのだろうか…
まあ良く(欲)はないわな。
よし、オチた(笑)
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