幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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道中思ったことの二つ目は「目的はあった方がいい」。
無計画で(最初は)目的もなかった今回の旅がつまらなかったわけではない。
目的以前の「無計画な旅がしたい」という興味は望み通り形となった。
言いたいのは、目的の有無は生活の質に関わるということ。
日頃から考え過ぎる自分はニヒリズムに陥りがちである。
物事を客観的に眺めるという意味においてはニヒリズムは悪くない。
虚無的思考の短所は「活力が欲しい時に発揮できない」点にある。
無常観とニヒリズムは似て非なるものだと旅の終盤に気付いた。
読書に没頭し始めてこのかた「身体性」に強くこだわっている。
それは現代社会で希薄となっているが、人が生きる上で重要な要素だ。
身体性の賦活を読書を通じて行うのは背理的にも思えるが、
脳偏重の社会が取りうるスタート地点はそこにしかない。
話を戻すが、客観視を意識し過ぎると身体性がなおざりになる。
今回の旅は半分以上が「車上の人」で、一部「大自然との戯れ」があった。
車上では止めどなく思考を弄ぶ一方、自然の中では頭空っぽの探検モードだった。
その両極端に、この5日間で何度も針が振れることとなった。
極端は程度の基準という判断材料にはなれど、そのものを選択すべきではない。
もちろん程度の基準に用いるために一度選択してみる経験はアリだ。
これも後付けだが、旅の中でこの両極の実践をしていたらしい。
振れ幅の大きさに振れる時間の短さも手伝い、変化量は相当であったと想像する。
この経験がもたらしたのは「バランスが大切だ」という認識。
自然と戯れている時も、躍動していながら「日常ではない」という思いがあった。
旅の道中だから当然なのだが、そこにはどこか日常を模索する自分もいて、
その模索の着地点が「今の生活を大事にしよう」。
一般的に旅行は息抜きとしての非日常の経験に意義がある。
自分も最初からそう割り切って旅に出ていればもっと楽しめたかもしれない。
友人と一緒に、きちんと計画を立てての、楽しみが確約された旅行。
それをしなかったのは、「普通」を嫌うひねくれた自分の頭が望まなかったから。
端的に言えば、今回の旅は興味深かったがあまり楽しまなかった。
その感覚は旅に出る前の日常と地続きで、それは良くないと思った。
知的に興味深いことも大事だが、やはり日常を楽しみたいと思った。
身体性を賦活するとは、そういうことだったのだ。
これが目的の有意義性とどうつながるかと言えば、日常生活において、
「考えることの目的」をきちんと考えなければいけないということだ。
上で突然出てきたニヒリズムは「目的のない客観的思考」であって、
対して「(身体で)楽しむという目的のある客観的思考」が無常観である。
後者の言い回しに少し違和感があるかもしれない。
自分が想像しているのは農耕時代の人々だ。
天候ひとつで生活が大きく左右され、思い通りにいかないのが当たり前。
そんな時代の人々は「生きるのがむなしい」と思っていただろうか?
ここには生活の質が格段に良くなった時代特有の病がある。
生きるために必要な活動はよほど逼迫していない限り躍動に満ちたものになる。
その「必要」が取り除かれたらもっと楽な生活ができるのは確かであったが、
その余裕は「生きる意味」と四六時中向き合う面倒も生んだ。
上で大切だと言ったバランスとは、「脳(意味)と身体の調和」のこと。
脳を酷使し意味に埋もれていては、身体は躍動しない。
身体性の追求だけでは他者との共生の回路が開かれない。
後者は現代社会だからこそ、ではあるのだが。
本ばかり読み、身体性に過剰に拘る自分は、
意味と身体のバランスには目もくれず、その両極を同時に追求していたのだ。
そんなこと可能なのか? と書きながら自分で思ってしまうが、
もちろんそれは不可能で、実体を軽視した想像偏重の絵空事であった。
このバランスを探る基準となるのはやはり実生活だろうと思う。
読書はあくまで実生活のひとつの構成要素に過ぎない。
日常を楽しむという目的のための手段として読書があるのであって、
「手段が目的化してしまった読書」には目的がない。
本記事の話はこのブログのタイトルと深い関係がある。
旅の途中で「寮(神奈川)に戻らず実家(大阪)に帰ろう」と思い、
実家に着く前に「帰りの新幹線用」に買った本にあった言葉をタイトルに拝借した。
上で「旅の終盤に気付いた」と書いたのは、この部分を読んでのこと。
客観的な思考を磨かんとする自分はどこか、苦しみを恐れている。
マイナスをマイナスと感じないでもよくなるような思考を求めている。
だがそれはニヒリズムへの道なのだ。
血の通った文章を書けるようにこれから心がけていきたい。
無計画で(最初は)目的もなかった今回の旅がつまらなかったわけではない。
目的以前の「無計画な旅がしたい」という興味は望み通り形となった。
言いたいのは、目的の有無は生活の質に関わるということ。
日頃から考え過ぎる自分はニヒリズムに陥りがちである。
物事を客観的に眺めるという意味においてはニヒリズムは悪くない。
虚無的思考の短所は「活力が欲しい時に発揮できない」点にある。
無常観とニヒリズムは似て非なるものだと旅の終盤に気付いた。
読書に没頭し始めてこのかた「身体性」に強くこだわっている。
それは現代社会で希薄となっているが、人が生きる上で重要な要素だ。
身体性の賦活を読書を通じて行うのは背理的にも思えるが、
脳偏重の社会が取りうるスタート地点はそこにしかない。
話を戻すが、客観視を意識し過ぎると身体性がなおざりになる。
今回の旅は半分以上が「車上の人」で、一部「大自然との戯れ」があった。
車上では止めどなく思考を弄ぶ一方、自然の中では頭空っぽの探検モードだった。
その両極端に、この5日間で何度も針が振れることとなった。
極端は程度の基準という判断材料にはなれど、そのものを選択すべきではない。
もちろん程度の基準に用いるために一度選択してみる経験はアリだ。
これも後付けだが、旅の中でこの両極の実践をしていたらしい。
振れ幅の大きさに振れる時間の短さも手伝い、変化量は相当であったと想像する。
この経験がもたらしたのは「バランスが大切だ」という認識。
自然と戯れている時も、躍動していながら「日常ではない」という思いがあった。
旅の道中だから当然なのだが、そこにはどこか日常を模索する自分もいて、
その模索の着地点が「今の生活を大事にしよう」。
一般的に旅行は息抜きとしての非日常の経験に意義がある。
自分も最初からそう割り切って旅に出ていればもっと楽しめたかもしれない。
友人と一緒に、きちんと計画を立てての、楽しみが確約された旅行。
それをしなかったのは、「普通」を嫌うひねくれた自分の頭が望まなかったから。
端的に言えば、今回の旅は興味深かったがあまり楽しまなかった。
その感覚は旅に出る前の日常と地続きで、それは良くないと思った。
知的に興味深いことも大事だが、やはり日常を楽しみたいと思った。
身体性を賦活するとは、そういうことだったのだ。
これが目的の有意義性とどうつながるかと言えば、日常生活において、
「考えることの目的」をきちんと考えなければいけないということだ。
上で突然出てきたニヒリズムは「目的のない客観的思考」であって、
対して「(身体で)楽しむという目的のある客観的思考」が無常観である。
後者の言い回しに少し違和感があるかもしれない。
自分が想像しているのは農耕時代の人々だ。
天候ひとつで生活が大きく左右され、思い通りにいかないのが当たり前。
そんな時代の人々は「生きるのがむなしい」と思っていただろうか?
ここには生活の質が格段に良くなった時代特有の病がある。
生きるために必要な活動はよほど逼迫していない限り躍動に満ちたものになる。
その「必要」が取り除かれたらもっと楽な生活ができるのは確かであったが、
その余裕は「生きる意味」と四六時中向き合う面倒も生んだ。
上で大切だと言ったバランスとは、「脳(意味)と身体の調和」のこと。
脳を酷使し意味に埋もれていては、身体は躍動しない。
身体性の追求だけでは他者との共生の回路が開かれない。
後者は現代社会だからこそ、ではあるのだが。
本ばかり読み、身体性に過剰に拘る自分は、
意味と身体のバランスには目もくれず、その両極を同時に追求していたのだ。
そんなこと可能なのか? と書きながら自分で思ってしまうが、
もちろんそれは不可能で、実体を軽視した想像偏重の絵空事であった。
このバランスを探る基準となるのはやはり実生活だろうと思う。
読書はあくまで実生活のひとつの構成要素に過ぎない。
日常を楽しむという目的のための手段として読書があるのであって、
「手段が目的化してしまった読書」には目的がない。
本記事の話はこのブログのタイトルと深い関係がある。
旅の途中で「寮(神奈川)に戻らず実家(大阪)に帰ろう」と思い、
実家に着く前に「帰りの新幹線用」に買った本にあった言葉をタイトルに拝借した。
上で「旅の終盤に気付いた」と書いたのは、この部分を読んでのこと。
「これもまた過ぎ去る」。これは、僕の座右の銘のひとつで、スーフィズム(イスラム教の神秘主義哲学)の説話に出てくる言葉です。
「これもまた過ぎ去る」は、言わば「諸行無常」を肯定的なニュアンスで捉えたような言葉です。つまり、「幸福なこともまた過ぎ去るもの」である。だけど一方、「苦しみもまた同じように過ぎ去るもの」である。
辛いことや悲しいことにも、必ず終わりがある。このことを肝に銘じておくと、それだけで僕たちはずいぶん救われるはずです。
名越康文『心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」』p.97-98
客観的な思考を磨かんとする自分はどこか、苦しみを恐れている。
マイナスをマイナスと感じないでもよくなるような思考を求めている。
だがそれはニヒリズムへの道なのだ。
血の通った文章を書けるようにこれから心がけていきたい。
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新しくブログを作ってみた。
理由は、単なる気分転換。
書き方は前のブログと変わらないと思う。
心持ちが何かしら変わっているかもしれないが。
唐突だけれど旅に出てきた。
会社の長期休暇を期に電車で無計画ふらり旅。
旅の内容を書くつもりはない。
道中思ったことを整理しておきたいと思った。
旅に出た直接のきっかけは、衝動だった。
旅の目的は道中で2つ(本当はもっとある?)考えた。
自分の居場所探し、感覚で動くことに対する興味。
今思えばどちらも頭の中で過剰に膨らんだ想像に過ぎなかったのだが。
2つのうち後者だけ触れておく。
普段の趣味が読書だけの自分には現場感覚が薄いと感じていた。
想像に重きを置き過ぎた日常を軌道修正したいという思いもあった。
電車から降り立ったその場の感覚を研ぎ澄ましたいという意味の「無計画」。
やってきた感想としては、「そんな大層なものではなかった」。
もちろん想像と実際(現場)は違うのだが、「その両者はいかに異なるか」と
想像で期待を膨らませるほどのものではなかった。
つまり想像が「現場感覚」という価値観を侵蝕(過大評価)していた、と。
今回の旅でその点を修正する余地が生まれたと思う。
さて、本題(=道中思ったこと)に戻ろう。
まずは「人の人に対する振る舞い方の多様性(違い)」について。
この点に衝撃を受けた都会育ちの自分はある意味「田舎者」だった。
多様性を体得していなければ都会人も田舎者も一緒なのだ。
自動改札機のない改札口での、駅員と乗客のスムーズな動き。
駅員の手元にも、乗客の足取りにも躊躇がない。
あるいは下校時間帯に高校生で埋まる電車内の雰囲気。
休み時間の教室と見紛うほどの騒々しさ。
他者への気遣いが希薄なのでは?
もう少し他人の視線を気にした方がよいのでは?
その場にいた自分は正直にこう思った。
しかし自分を除けば、その場は然るべき調和を保っている。
ここには育ってきた習慣の違いがある。
個人同士のやりとりが濃密な田舎では意思疎通が熟[こな]れている。
人の絶対数が少なく、また「もの」も少なければ、自然と人に意識がいく。
一方で人が多く騒音猛々しい都会では、人は感覚を遮断して平静を保つ。
それゆえ他者とのやりとりを始める段階でエネルギィが必要となる。
他者の視線を過剰に気にする自分は生粋の都会人なのだ。
そしてそれが過剰であるとは、頭でしか分かっていなかった。
今回の旅で得たのはこの点の実感の部分で、あらわれたのは
「(自分の中で)違和感なくいるはずの自分の、場に対する違和感」という形で。
「他者の視線を気にすることは他者への気遣いの一つの発揮形態である」
それは「全く周囲を気にかけない横暴さ」を想像すれば真に思えるが、
実際のところは程度問題であって「極端の逆も極端」なのだ。
大事なのは「場への気遣い」ではなく「場との調和」である。
これを抽象すれば「想像ではなく実質を見ろ」という自分にぴったりの戒めとなる。
確かに想像が実質を帯びる場面はある(本を読む時など)。
しかし他者とのやりとりにおいて自分の想像を尊重しても仕方がない。
むしろそこは「自分の想像を訂正する場」と考えた方がよい。
これは「本も他者だ」と豪語してきた自分には身に染みる認識である。
確かに本も他者ではあるが人と比べれば「想像と実質」と呼べるような違いがある。
読書を軽んじる気はないが、自分は確かに他者を軽んじていたと今は思う。
両者の区別をきっちりつけてこそ、読書生活も充実するはずだ。
途中から反省文になっているが、こんな調子で本ブログは書かれていくことになる。
すなわち主に自分のために、自分の思考や経験を文章化して整理する目的で書く。
これが自己満足に留まらず読み手の思考の琴線に触れられれば幸いである。
その意味で、至極個人的な話題ではあるが上手く抽象化していければと思う。
以後よろしくお願いします。
理由は、単なる気分転換。
書き方は前のブログと変わらないと思う。
心持ちが何かしら変わっているかもしれないが。
唐突だけれど旅に出てきた。
会社の長期休暇を期に電車で無計画ふらり旅。
旅の内容を書くつもりはない。
道中思ったことを整理しておきたいと思った。
旅に出た直接のきっかけは、衝動だった。
旅の目的は道中で2つ(本当はもっとある?)考えた。
自分の居場所探し、感覚で動くことに対する興味。
今思えばどちらも頭の中で過剰に膨らんだ想像に過ぎなかったのだが。
2つのうち後者だけ触れておく。
普段の趣味が読書だけの自分には現場感覚が薄いと感じていた。
想像に重きを置き過ぎた日常を軌道修正したいという思いもあった。
電車から降り立ったその場の感覚を研ぎ澄ましたいという意味の「無計画」。
やってきた感想としては、「そんな大層なものではなかった」。
もちろん想像と実際(現場)は違うのだが、「その両者はいかに異なるか」と
想像で期待を膨らませるほどのものではなかった。
つまり想像が「現場感覚」という価値観を侵蝕(過大評価)していた、と。
今回の旅でその点を修正する余地が生まれたと思う。
さて、本題(=道中思ったこと)に戻ろう。
まずは「人の人に対する振る舞い方の多様性(違い)」について。
この点に衝撃を受けた都会育ちの自分はある意味「田舎者」だった。
多様性を体得していなければ都会人も田舎者も一緒なのだ。
自動改札機のない改札口での、駅員と乗客のスムーズな動き。
駅員の手元にも、乗客の足取りにも躊躇がない。
あるいは下校時間帯に高校生で埋まる電車内の雰囲気。
休み時間の教室と見紛うほどの騒々しさ。
他者への気遣いが希薄なのでは?
もう少し他人の視線を気にした方がよいのでは?
その場にいた自分は正直にこう思った。
しかし自分を除けば、その場は然るべき調和を保っている。
ここには育ってきた習慣の違いがある。
個人同士のやりとりが濃密な田舎では意思疎通が熟[こな]れている。
人の絶対数が少なく、また「もの」も少なければ、自然と人に意識がいく。
一方で人が多く騒音猛々しい都会では、人は感覚を遮断して平静を保つ。
それゆえ他者とのやりとりを始める段階でエネルギィが必要となる。
他者の視線を過剰に気にする自分は生粋の都会人なのだ。
そしてそれが過剰であるとは、頭でしか分かっていなかった。
今回の旅で得たのはこの点の実感の部分で、あらわれたのは
「(自分の中で)違和感なくいるはずの自分の、場に対する違和感」という形で。
「他者の視線を気にすることは他者への気遣いの一つの発揮形態である」
それは「全く周囲を気にかけない横暴さ」を想像すれば真に思えるが、
実際のところは程度問題であって「極端の逆も極端」なのだ。
大事なのは「場への気遣い」ではなく「場との調和」である。
これを抽象すれば「想像ではなく実質を見ろ」という自分にぴったりの戒めとなる。
確かに想像が実質を帯びる場面はある(本を読む時など)。
しかし他者とのやりとりにおいて自分の想像を尊重しても仕方がない。
むしろそこは「自分の想像を訂正する場」と考えた方がよい。
これは「本も他者だ」と豪語してきた自分には身に染みる認識である。
確かに本も他者ではあるが人と比べれば「想像と実質」と呼べるような違いがある。
読書を軽んじる気はないが、自分は確かに他者を軽んじていたと今は思う。
両者の区別をきっちりつけてこそ、読書生活も充実するはずだ。
途中から反省文になっているが、こんな調子で本ブログは書かれていくことになる。
すなわち主に自分のために、自分の思考や経験を文章化して整理する目的で書く。
これが自己満足に留まらず読み手の思考の琴線に触れられれば幸いである。
その意味で、至極個人的な話題ではあるが上手く抽象化していければと思う。
以後よろしくお願いします。
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