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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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反省が精神によくない理由の一つに思い至った。
「今回は失敗した。次はこうすればよい」という反省は次の成功につながる。
その成功がきちんと思い描けていれば心は晴れるはずだが、どうもそうでもない。
理由は、その反省が「その時にあるべく振る舞った自分を否定している」からだ。

簡単に反省するということは、その都度の自分の現場感覚を否定することになる
「なぜその時自分はそう振る舞ったか」を、その時から時間が経ってから振り返る。
振り返り「あの振る舞いは良くなかった」と判断する基準は「現場感覚」ではない。
現場感覚をトレースして、「なぜその時良かれと思ったか」を放念してはいけない。

きっと、「自分が好きだ」という時の「自分」は、
個別具体的な状況で成功を収める自分ではなく、もっと総体的なもののはずだ

失敗を成功に変えることは、失敗を否定することではないはずだ。
きっと「そうあるべくして失敗した」ことは、自分の望むべき有り様を示している

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前記事の抜粋を皮切りに、続きを考えてみようと思う。
鍵は、保坂和志のいう「解析的に言葉を使う」ことだと思う。
状景を、現象を、正確な言葉をもって記述する。
上っ面をなぞる表現使用に慣れると自分の言葉から強度が遊離する。
かちりと噛み合う歯車を一つひとつ拵え、絡繰りを組み上げていく。
「正しい思考」のあるべき姿についての記述を試みているのであった。
保坂和志氏の小説を読んでいて独特な充実感がある所から氏の名前を出した。
氏のエッセイからも全体が硬質ながら(それゆえ?)確実な強度をこちらは感じ取る。
まずは氏の小説作法について書いてみよう。

保坂氏の小説は「言葉を解析的に使う」にふさわしく、描写が細かい。
ただその描写の緻密さが、独特な興味に導かれて発揮されているように思う。
印象を言えば、緻密な描写そのものが一般性に回収されることはないが、
その描写の一つひとつから立ち上がる全体がある普遍的な風合いを帯びてくる。

「小津安二郎的」と小説の帯の紹介文に書かれているのを見たことがある。
小津映画は自分は映画評でしか話に聞いたことがなく、実際に観たことがない。
だから映画評からの想像でしかないが、思い付く形容は次のようなものだ。
ほっこり、人情味のある、暖かく穏やかな、太平楽な、何気なく過ぎる日常。

その同じような雰囲気を保坂小説に感じるとして、
そしてその雰囲気を作り出す鍵が「解析的な言葉の使い方」にあると思うのだ。
恐らく小津映画(の脚本?)は同じようには書かれていないはずで、
その差は「時代の差」にあるのだと思う。

ここから話がずれていく予感がするので、そのような予告だけしておく。


情報技術の発達した現代社会では伝達される情報量がとてつもなく大きい。
文章だけであった時代から、音声、動画、そしてあらゆる形式のデータ。
世界広しと言えど、現地に行かずとも画面を通じて世界を見渡せる。
この知覚(主に視覚、聴覚)範囲の拡大は、知覚の意味を変えたはずだ

例えば、ピラミッドを砂漠にいる中で見る場合とテレビで見る場合に、見る人の認識の違いはいくらかあるだろう。
やはり現地で見る臨場感がたまらないという感覚もあるだろうし、手軽に世界の他の遺跡と並べて見られることで夢が広がると思うかもしれない。
ここでは文章から風景を想像することと(画面上であれ)風景そのものを見ることの違いについて考えてみたい。

息を呑むほどの大自然であれ価値ある古代遺跡であれ、風景そのものの強度があるとすれば、その場にいる人間は誰もが同じように感じられるはずだ。
しかし風景から人間が受け取るのは強度だけでなく、意味もある。
例えば意味の中には希少性があるだろう。
希少性は「意味(物語)を自分に引きつける好材料」になるかもしれない。
写真を撮ることは征服感を満たすと聞いたことがあるが、自分だけが見ることが出来る(と思える)風景は自分に固有の結びつき方をするだろう。
しかしその風景を世界中の誰もが見られるとすれば、希少性という意味の価値は薄れる。

つまり、情報化手段とその転送能力の拡大、これに交通手段の発達を加えてもよいが、これらによる世界へのアクセス可能性の拡大が「一人の人間の固有性」感覚を希薄化させているのだ。
夢は広がるかもしれない、しかしその夢は自分だけのものだろうか?

この不安を手っ取り早く解消するのは、身体感覚の充実だろう。
頭でなく、この自分の身体が感じるものは自分独自としか言いようがない。
それは確かなのだが、それを長続きさせるのは難しい。
なぜならば、世界は「頭の中で考えているように」動いているからだ。
正確には、そのような世界の回り方を理想とするようになっている。
身体感覚の充実のみを永遠に追求するのは要するに動物だ。
それは文明の発達した人類社会で公然と振る舞える態度ではない。
文明ありき、意味ありきだからこそ、身体感覚の充実(のうち個的なもの)は私的な領域に秘められてきた。

恐らくこの「文明の前提」は揺るがないと思う。
だから上で述べた不安の解消、すなわち個別感覚を取り戻すためには、頭の使い方に目を向ける必要がある。



自分で書いていてよく分からなくなってきた。
大枠の流れが最初にあったはずだが、途中の細部の記述に引っぱられると見失う。
文章を書く練習も兼ねているのでここまで書いた分は残しておく。
次回は路線の修正から入ろうと思う。

筆を置く前に今日たどり着きたかったことだけ書いておく。
保坂氏の小説の細部描写は、風景描写や会話する人々の何気ない仕草やら行き交う視線やら語り手の思考の展開やらが無秩序に混在しており、その一つひとつから意味を感じ取ることは難しい。
(語り手の思考の断片には興味深いものがいくつもあって、自分はそれもとても好きなのだがここではそれはおいておく)
だがそのような時々ムダにも思える細部を逐一読んで想像していく過程に、大きな効果があると思うのだ。

たとえば自分が朝起きてから会社に向かって家を出るまでの、目線や身体の動きや思考の移り変わりなどは、普段の生活リズムからすれば全く意識化されない。
それを書き出せと言われた時、できないことはないだろうが面倒だ、と思うだろう。
考えなくてもできていることをわざわざ言葉にすることはないし、まどろっこしいだけだと。
しかし実際にそれをやってみると分かるのだが(と言っているこれは想像だが)、本当にいつもやっていることだけを書き出しただけでも、その文章をあらためて眺めると違う印象を受けるのだ。
(自分の行動を書き出す間に連想がはたらくことももちろん面白いのだが、ここでは敢えてそれを省いている)
これは「自分の行動を意識に落とし込んだ」ことになるのだと思う。
身体の、脳への翻訳。

…違う話になっているかもしれない。
小説の内容は、もともと自分が経験したことではないのだ。
文章から情景が思い浮かぶというのは読み手が既に似た様な経験をどこかでしているからなのだが、それらの断片をつなぎ合わせてできる「流れ」=物語は読み手にとって初経験である。
その情景描写が細部にわたるところに意味がある、という話をしていた。
「細部だからよい」という言い方にすれば、もしかすると普段自分たちは日常で遭遇する情景を淡々と眺め過ぎているかもしれない、という認識が生まれる。
それは「自分の日常も細かく記述すれば劇的になる」といった意味ではなくて、自分をとりまく情報の量が多過ぎて自分の内に深く取り入れずにやり過ごしているけれど、一部分でも深く取り入れてみると(その内容に関わらず)何やら個的なもの、すなわち強度を感じる、といった意味だ。
「考えることが好きだ」と思っているからこんなことが言えるというだけだろうか。
いや、それは違う。
細部にわたる描写の一つひとつを頭に浮かべながら小説を読むというのは、自分の生活の細かいところを捉え直す、ひいては「感覚を拓く」ということではないのか。
おそらく「自分の中の深いところで出来事を感じる」経験自体に喜びをおぼえるのであって、保坂氏の小説はその感覚を呼び起こしてくれるのではないか。



なんだかとっても散漫な記事になった。
ブログを変えてからしばらくは「4行スタイル」を続けていたのだが、
それでなんとなく整って見えてはいたのだが、
リアルタイムで思考を進めながら書くのには向いていないのかもしれない。

と言いつつ今回のような書き方ではまるで整った文章にはならない。
この加減が難しいところだが、模索を続けていこうと思う。
思考で頭をぐるぐる回すことが目的か、思考をきちんと形に残すことが目的か。
そのどちらも達成できれば理想的なのだが。

「正しい思考」について考えてみる。
この正しさは、もちろん論理的な整合性を指すものではない。
言い換えれば、「あるべき仕方で為されている」だろうか。
では「あるべき」とはどういう状態か?

表現そのものを細かく割っていけば理解に落ち着くものではなさそうだ。
換言し続けても堂々巡りになるか、好きな表現で納得してしまうだけだ。
一言で表現して万人に伝わるものでないことは確かだ。
「愛」と聞いて思い浮かべる感覚が一人ひとり異なるように。

まだスタート地点の手前での準備体操の途中だ。
「愛」と聞いて思い浮かべる感覚が千差万別で、しかしみんな幸福な気持ちになる。
これをして「愛の感覚」の共通性が存在するとしてよいのだろうか?
それを「よい」とする多数派の陰に「否」と呟く人は間違いなくいる。


始まりはやはり「自分一人にとっての正しさの感覚」だと思う。
その感覚が他者と共有できれば喜びを感じるだろう。
他者と共有できることがその感覚の強度を増すことにも繋がるだろう。
とすれば、自分の中で曖昧なその感覚を明示化することに実践的意義がある。

しかし明示化と言っても、意味が通ればそれで済むわけではない。
それが最初に「論理的な整合性ではない」と言った意味だ。
言葉にならない、掴みどころのない、しかし確かな位置を占めるある感覚。
それを言葉をもって再現させるアクロバシィを演じなければならない。

 鍵は、保坂和志のいう「解析的に言葉を使う」ことだと思う。
 状景を、現象を、正確な言葉をもって記述する。
 上っ面をなぞる表現の使用に慣れると自分の言葉から強度が遊離する。
 かちりと噛み合う歯車を一つひとつ拵え、絡繰りを組み上げていく。

 だがこれは別方面からのアプローチになるので、当初の道筋に戻る。

まず、なぜこの記事を書こうと思ったかを振り返る。

実体を大切にし、「確かな感覚」を内に感じればそれを具体化する経験を積む。
「なんだか充実しているなあ」と曖昧な感覚に浸るのではなく、
その感覚を(身体ではなく)頭に刻むべく記述する。
そうしようと思っていた感覚にさきほど出会ったのだった。

 小説の登場人物が二人、由緒正しき古民家の離れで寛いでいる。
 初夏の日差しの強い午後、蝉時雨に包まれ、仄かに涼しい風が通り抜ける。
 座布団を枕に縁側で昼寝する友人を横目に、
 主人公は畳の上で仰向けになってしばし思考に耽る。

 この場面に自分は引き込まれた。
 主人公になり切った自分は、彼の思考内容をトレースしながら、
 恐らくその思考以外の雑念がぴたりと動きを止めたのだった。
 その場面のあいだ、主人公を通じて「理想の思考状態」を経験していた?

まず分かるのは、思考内容は付随的なものに過ぎないこと。
いかに心地よく頭の中の展開に意識を委ねられるか。
それは「いかに身体に対して無意識でいられるか」でもある。
この必要条件は、健康な身体ではなく「思考と同調できる身体状態」だ。

そう、恐らく思考に対しては、健康であればあるほど良いわけではない。
「電脳世界という理想」も頭の実感としては間違いではないのだ。
しかし実際のところ身体器官である脳は即物的な面を必ずもつ。
「幸せを過去に流す作法」はここにもあるのではないか?


戻る見込みが薄いが、話を戻す。
理想の思考状態も、その本質は「一瞬の輝き」だ。
「その一瞬のための一生」と言って、大袈裟でないかもしれない。
その夢を実現する原動力は意志と集中力で、それは徹底的に脳的な力だ。

過去に逆戻りしてしまう可能性もあるが、少し現実に冷淡になってみようと思う。
これは思考と実体の齟齬をなくす方向性とは全く別で、
「思考を研ぎ澄ます」ことを最優先に日常のサイクルを回す。
恐らくうまくいかないので、「時に」でいいし「時がくれば」でいい。

本を読んでいる間だけでもいいかもしれない。
むしろ日常生活のバランスをとるならそれが妥当か。
そして一日の中で何度か「フェイズの切り替え」がスッパリできることは、
気持ちの滞留を防ぎ、リズムをつけることに繋がるだろう。


次は上で触れた「別方面からのアプローチ」を展開してみようか。



次の取っ掛かりになるか分からないが、書き終えてから思い付いたことを書く。
「言葉にならない感覚を言葉にするアクロバシィ」を実現させる方法。
前に「比喩がそれだ」と書いたことがあるが、別の言い方もある。
「○○ではない」をどんどん繋げていく方法もあるのでは、と思ったのだ。

比喩とは「言いたいことをそのまま言わないで伝える表現手法」の一つだ。
一つの比喩を挙げて、その解釈は読み手に委ねられる。
もちろん書き手の意図に照らしての誤読も大いに起こりうるが、
解釈が読み手の文脈ベースであるために、誠実な読み手の解釈には強度が備わる。

「○○ではない」も比喩と同じ効果があると考える。
○○が解釈の余地のほとんどないものであるとして、
しかしその否定からの連想には制限がないのだ。
そして散漫になる連想を収束させるのが「○○ではない」のだ。

ベン図を描いて空間的に捉えれば分かりやすいが、
この方法の理解を空間的把握で留めるには少し惜しい。
つまり、ある枠組みの中での否定はその枠組みを飛び越える可能性を秘めている。
このことは論理的整合性に近視眼的になると見えなくなる。

「否定」というと聞こえが少し悪いが、ここではわりと適切な表現かと思う。
論理性の構築は基本的に「○○は△△である」の命題を精巧に繋ぎ合わせる作業だ。
万人が、異なる背景を持ちながらも、論理的な思考によって同じ認識にたどり着く。
しかし構築の段階であった意志が、万人の利用の段階では失われてしまう。

「否定」には意志が伴う。
ある命題が提示され、読み手がその内容を自分のものとして理解し、
しかしそれを否定だけされて先が示されなければ?
思考を進める限り、何かが生まれるだろう。


恐らくこの話は上の「別方面からのアプローチ」とはまた別の話だ。
だが面白そうなので別の機会に次につなげたい。
最近の自分の重要思考テーマである「意志と集中力」と深く関係している。
よし、「正しい思考」を本ブログ内でシリーズ化しよう☆

今日のBGM:【ボサノバ】Phantom Ensemble【東方自作アレンジ】

 直接的には表舞台に加わらない、「観客」が存在し、様々な視点から問題を注視していることによって、「政治」に「複数性」がもたらされるのである。私個人にとっての必然性もないのに、特定の立場にコミットして、無理に積極的なアクターになろうとする必要はないし、アクターになろうとしない人を、安易に卑怯者呼ばわりすべきでもない。(…)
『カント政治哲学講義』のある箇所でアーレントは、(「活動的生活」の裏面としての)「観想的生活」を「注視者的な生き方(spectator's way of life)」と読み替えている。「注視者=観客」として、「歴史」を公平=非党派的に注視し、判定しようとするまなざしが、孤独に陥っていく傾向のある「私の思考」を、政治的共同体を構成する他者たちのそれと結び付け、かつ、その共同体を存続させているのである

仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』p.211,215(4章 「傍観者」ではダメなのか?)
「傍観者」は、それというだけでダメなのではない。
問題の、あるいは対立の外からでしか全体像は見渡せない。
利害の絡む当事者だからこそ、その立場に適う選択ができる場合はある。
だがどのような問題にも客観的な視点=「傍観者」があって悪いことはない。

傍観者の居心地が悪いのは「見て見ぬ振り」をしていると思われるからだ。
当事者から見れば利害の絡まない第三者は気楽にさえ見える。
だからといって、一つの問題に対して全員が当事者になる必要があるだろうか?
「当事者が多ければ安心だ」という数頼みの短絡がそこにないとは言い切れない。

この抜粋とリンクする、なかなか辛辣な文章を最近読んだので抜粋しておく。
 戦争に対するかかわりがその人の知性と倫理性の「査定」のための踏み絵となる、という考え方は一つのドクサにすぎない。このドクサのイデオロギー性についての無自覚。それが戦争を語るすべての知識人に深く蔓延しているように私には思われる。(…)
彼らは戦争「そのもの」には関心がなく、ただ戦争という「事件」のどうかかわるかをショウ・オフすることによってローカルな同職者集団のなかでのヒエラルヒーを高め、発言権を増し、自分に反対するものを黙らせることに主たる関心がある。(そしてそれこそが「主な関心」であることを、夫子ご自身は都合よく忘れているのである。)

内田樹『ためらいの倫理学』p.14,18

ここで最初に取り上げたかったのは上とは別のことで、自分のことなのだが、
それは「(具体的な)他者を志向した思考をすべきではないか」ということ。
「しかるべき時にしかるべき判断をするための日々の思考」では漠然としている。
"孤独に陥る"のはそのような思考が完全に宛先を見失った時だろう。

別に日常生活で同僚を口説けばいいというわけではない。
例えばその同僚が話題にするようなニュースについても考えてみる。
つまりリアルタイムな出来事も取り上げてみてはと思うのだ。
思考内容と他者をつなぐ線がよりはっきり見えてくるだろう。

もちろん大切なのは、「観想(思考)」と「活動(意志)」のバランスだ。
「活動」と「観想」は、ヒトが「人間」らしく生きるための両輪であって、一方が欠如すれば、他方も不十分になる。「活動」を通して他者のまなざしを知ることで、「観想」の視野が広がるし、「観想」を重ねることで、「活動」における言論の中身も洗練されていく
同上(仲正) p.167

このような氏の指摘は励みになるが、これだけでは「思考」でしかない。
「思考」を「活動」に活かすために意志は必須で(その意味で上で括弧をつけた)、
その意志をしっかり発揮するために必要なのは集中力だ。
繰り返すがこれが今の自分に足りないものであり、常に意識すべきことだ。

気を張り詰めて集中した末の、心地よい疲れというものがある。
安穏とするはずいつの間にかが居心地の悪い怠惰に変わることがある。
どちらも、想像と実体の差が生み出す、幸福であり不幸だ
実体を大切に、こつこつと経験を積んでいきたい。

今日のBGM:【東方自作アレンジ】ネクロファンタジア【ピアノ】
橋本治からは最近読了した『風雅の虎の巻』の抜粋&コメントに挑戦。
本書では手加減なしの「本質尽くし」がこれでもかと展開されていて、
現代人の良心を持つ読者には眉を顰めずして読み進めることができない。
あるいは本書を軽快に読むことが“それ“を捨てる修行になるかもしれない。
"思想的に分かりやすく、しかし技巧的には高度である"ことがイデオロギッシュになる時というのは、それが"真面目なイナカの人”を対象とした時に初めて成立するんです。思想がイデオロギッシュなんじゃない、その思想を入れる”型”が──そういう“型”を選択してしまう思想が、イデオロギッシュなんですね。(…)
 藤原定家には歌論書というのが結構いっぱいあって、そこで色んなことを言ってるんですけれども、その内容と彼自身の歌とはとんでもなく違っているっていうのは昔っから言われてることです。「和歌は分かりやすいのが第一だ」なんて人には言っといて、自分の作る歌は全然そんなもんじゃない、とか。
 お分かりでしょう? 彼が歌論書を与えた”人”っていうのは、新大衆の田舎者ンだったんですよ。そんな相手にホントのことを言ったってしょうがないって分かってて、彼は”大衆相手の分かりやすいハウツー書”を作ってたんですね
 カルチャー・スクールの元祖で家元の最初というのはこういうこと。

橋本治『風雅の虎の巻』p.128-129
これはカルチャースクール一般に対するイヤミではあって、言い方を変えれば
「名前に惹かれてやってくる人に実質なんて分からない」と。
ただそれは文化の需給関係とは別次元の話であって、要するに
講師も受講者も(お金やイデオロギーによって)満足していれば市場は成立する。

「お金が全て」の資本主義社会では実質が軽視されるとはいうけれど、
(日本の大衆文化については)昔からそんなものはなかったらしい。
文化は生活の実質を充実させるためにあり、文化人が備える「文化の実質」は
生活に応用される際にその本質を骨抜きにされる。

だから(本質的に孤独ゆえ)文化を担う人々には様々な覚悟を必要としたのだろう。
それが境遇によって否応なく決定されていればいずれ達観が訪れるのだろうし、
あるいは外の世界を知らずに純粋培養されていれば(余裕の)風雅が醸されるのか。
そして、文化人が生活の実質をも獲得することは叶わないのか?
「既成から出ろ!」「既成を脱ぎ捨てろ!」が既に”既成”になってしまったら、それは二重の”既成”によって窒息させられるようなもんです。別の言い方をすれば、分かりやすい既成の本歌によって出口を塞がれてしまったに等しい。「人工の中から自然な叫びは生まれない」という単純な考え方は、「人工という既成現実はまた人間の自然の叫びをねじ曲げる」という、もっと大きな”本当”を理解しないんです。単純な正義感は屈折した心理を理解しない、とかね。“わざわざ人から”屈折”と言われかねないような心理状態を取らざるをえない必然性”なんていうものだってあるんですけどね
 新古今というものは、一言で言ってしまえば、「俺は簡単に理解されたくなんかないよ!」っていう叫びを、いとも素直に述べた和歌世界ということにもなりましょう
 素直であらんが為に「バカに分かられたくないね!」っている装飾をふんだんに凝らした世界──つまり現代の新人類なんです。

同 p.133-134
簡単に言えば「素直にひねくれる人間も存在し得る」と。
素直にひねくれる人間は、素直な自分を人に理解されたいと思っても、
”素直”な人からは屈折しているようにしか見えないから諦めるしかない。
共生的な身体が生育過程で損なわれた人間には、共生に実感が伴うことがない。

…どうにも救われない話だと思ってしまうが、人間以外ではありえない現象ながら、
人間だからこそ別途救われる方法もあって、きっとそれは、
「徹底的に頭で生きる」ことだろうかと想像する。
昔(千年近く前)の日本の身分の違いは、お互い想像を絶するものであったのか。
世界広しといえども、折にふれて和歌を詠んで、その後はなにかっていうと俳句を詠んで、自分の周りにある“風景”というものを人間感情でどこもかしこもビショビショにしちゃった文化は他にあるまいっていうようなもんですが、日本文化っていうのは、自分の中には自分がなくて、自分を探したかったら自分の周りの風景にさわれっていう、初めっからアイデンティティーなんてものを無視してる文化なんですね。言ってみれば、自分という”肉体”はなくて、”自分”を知りたかったら、感じたかったら、自分にふさわしい“衣装”をまとえという、そういう文化ですね。
 自分というものは平気で”空洞”になってるから楽だけど、でも探そうとするとどこにもないから苦しい──日本が”伝統的日本”を捨てて”西洋近代”っていうのを求めたのは、この後者”自分が見つからなくて苦しい”からの脱却をはかりたかったからですね。

同 p.152-153
現代日本において「西洋近代化はどこまで進んだか?」を考えるにおいて、
本書はよいテキストになると思う。
和魂と洋才の比率がどの程度であるのか。
きっと本書を読めば「和魂の残存比率」の想定値がガクンと下がるだろう。

ちと散漫に過ぎたか…

僕たちは潜在的に、素直になって渾身の力で挑むことをすごく恐れるんですよ。恐れるだけじゃなくて、もっと言うと、「頑張る」ことを嫌がる。それはなぜかと言うと、まさにブレーキを踏みながらアクセルを入れることを、僕たちは「頑張る」ことだと思い込んでいるからかもしれないんです。(…)
 僕は、自分がモヤモヤした気分に覆われていると思った時、「とりあえず目の前のことにちゃんと取り組もう」と思い直します。そうやって、自分がブレーキを踏んでいることに気づいただけでその瞬間に、かなりブレーキが緩まります。(…)
自分の心はどういう状態にあるのか」ということを、「今、ここ」の現場で気づくという経験が一番大事なんですよ。まずは意識化、自覚の大切さを頭で理解してもらって、あとは現場でひとつひとつ実践してもらう
 こうやって、ちょこちょここまめに経験値を上げていけばいくほど、自分の心のメンテナンスを自分でやれるようになってくると思います。

名越康文『心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」』p.67-70

「ブレーキを踏みながらアクセルを入れる」という比喩が絶妙で、
体に負担が強くかかっているにもかかわらず前に進まない(出力がごく小さい)。
これは真逆の二方向の入力エネルギが相殺している状態なわけだが、
「なんだか頑張っている自分」に陶酔しているとエネルギの浪費が見えてこない。

時に、得るもののないムダな努力に励んでしまうのは、
その自分への陶酔に「現状維持志向」が加担しているからかもしれない。
今の状態が幸せだし、頑張っている自分もステキ。
「自分も救われない人間だな」という客観視がここから脱する第一歩だろうか。

…という解決法は少し活力不足に思われるので、ここは名越先生の言う通り、
努力と不釣り合いな出力に違和感を持って「今、ここ」に集中し直すのがよい。
変に頭を働かせて脳内で完結させないことが大事で、
現場にいる限りは思考を常に外部に開放しておく意識が必要だろう。

自分が心掛けたいのは、この「思考の外部への開放」を常に意識すること。
読書を通じて思考の経験を積む、あるいは思考方法を学んでいるわけだが、
学ぶ理由は「低コスト(入力エネルギ)で思考できるようになる」ことではない。
あくまで「その都度、現場に見合った思考を展開できるようになるため」である。

繰り返すが、楽をするために思考を洗練させるわけではない
時にそのような認識を良しとしてしまうのは、気を抜けば自分は怠惰だからだろう。
思考に疲れた時は、楽な思考をするのでなく思考そのものを止めればよい。
一度「考えよう」と決めたならば、思考そのものに集中する意志を持つ。


2つめの下線の解釈は、「入力エネルギが相殺している」状態に気づくために
思考があり、「では自分の心をどうするか」の実践を担うのは思考ではない。
言い方が難しいところだが、気づくための枠組みをこしらえておけば万事OK、
と考えてしまうと、思考から意志が抜け落ち「今、ここ」に集中できなくなる、と。

思考そのものは方法であって意志ではない」と、とりあえず表現しておこう。
この意志に「無根拠な」と付け加えると通じやすくなるかもしれない。
思考は合理性を導き出すわけだが、合理性がそのまま意志に化けることはない。
合理性は意志の活動を助ける触媒といったところか。

つまり思考せずに(合理性を無視して)意志するエネルギはもちろん必要だが、
思考を通じて(合理性を選択する)意志を持つエネルギも必要だということ。
加えて思考を止める(合理性の追求に見切りをつける)意志を持つエネルギも要る。
こう続けて書くとエネルギ消費が激しいようだが、要は「考え過ぎるな」と。

もちろん本ブログの説明分にある「考え過ぎ」とは水準が違うわけだが。

幸福の純粋性を本当に味わうためには、「今、ここ」で起きた幸福感を、そのまま時と共に流していかなきゃいけないんでしょうね。そういう意味では「幸福は絶対に過ぎ去るもの」なんですよ。
 それを覚悟しておかないと、一度つかんだ幸福に固執するあまり、「あぁ、あの時は楽しかったのに……」というマイナスの感情に変化してしまうわけです。そして、自分の規定した楽しさの形に囚われて、そこから少しでも外れると嫌な気分になってくるんです。(…)
 頭の暴走というのは、意志の力が弱くなった状態であればあるほど起こりやすくなる気がします。でも、その暴走はやはり、自分の意志で止めるしかないんですよ。(…)その困難を可能にするのは、おそらく集中力というものなんですね。「今、ここ」の状態を冷静に見つめられる集中力が身につけば、自分の頭、そして自分の心をかなりのところセルフコントロールすることができるはずなんです。

名越康文『心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」』p.61-62

自分に引き寄せて考えるにつけ、ここからは2つの教訓が得られる。
ひとつは「現状維持志向はかんたんに過去に引きずられてしまう」こと、
もうひとつは「身体性への意識が"頭の意志"を弱めることがある」こと。
言葉だけで捉えた気になりその内実から目を背けると必然的に偏向するという二例。


「現状維持」ならニュアンスは伝わるが「今を楽しむ」になると分からなくなる。
ともすると抜粋にもある「今、ここ」と完全一致すると考えてしまう。
要は「今を楽しむ」がある時点で冷静でなくなると暴走すると言いたいのだが、
そのプロセスを素描してみようと思う。

 今自分は楽しいと思っており、今感じている快楽をずっと味わっていたいと思う。
 こうなると「今を楽しむ」が「楽しい状態(現状)の維持」に早変わりする。
 この現状維持が意識の大半を占めると楽しさが減衰するのは容易に想像できる。
 曲者は、この段落の一文目だけを眺めると特に違和感がないところに潜んでいる。

 名越先生の言葉によれば、「幸福感を時と共に流す」作法を身につけていれば
 現状維持に囚われずに「今、ここ」にある幸福感を味わえるということになる。
 この作法の身に付け方は経験していくしかないのだろうが、
 作法の内訳は想像するに「気付き」と「対処」の2つに分けられる。

 このうちの「対処」は既に名越先生が言われているように「集中力」がキィだ。
 「楽しんでいるはずが何か現状維持に傾いているな…」と自分の状態に気付けば、
 「純粋に楽しんでいたついさっき」という過去に引きずられそうな意識を
 集中力をもってして「今、ここ」に引っぱり上げる。

 一方の「気付き」だが、このためには常に冷静な自分がどこかにいればよい。
 「どこかに」というのは、分裂症みたいだが「自分の一部」という意味だ。
 人はふつう多面的であって、それを一貫性が無いと否定する向きもあるが、
 もともとがそうであるならば多面性を好意的に捉え、利用しない手はない。

 「多面的である」例は、出力としては時と場合に応じて振る舞いが変わること。
 家と会社と休日の街中で違うだろうし、話し相手が誰かでも違ってくる。
 そして実際には「同じ時と場合」であっても自分の(精神・健康)状態が違えば
 また振る舞いは変わるだろうし、その順列組み合わせの定量は困難を極める。

 何が言いたいかといえば、「ふと表れる別の自分」を大切にしてみては、と思う。
 友人と楽しく笑っていて、ふとそんな自分を外から眺める視線を感じる。
 その「別の自分の視線」を楽しみの邪魔だと斥けるのではなく、
 (それに過剰な意味を求めるのもまた良くないが)まずは「へぇ」と思ってみる。

話を戻すと…自分には「もったいない精神」が強く備わっていると自覚している。
この自分の性向を「ついで症」(「何かのついでに」を非常に好む)とも呼んでいて、
つまりムダにしない対象が物に限らず、時間や意志や発想などとかなり幅広い。
これをポジティブにばかり捉えていたが、病的であるという認識も必要と気付いた。

「何か楽しいと感じていて『これがすぐ消えてしまうのがもったいない』と思う」
油断すれば自然とこのような発想をする自分が今ここにいて、
これは上記の話の流れからすると「今を楽しむ」が一瞬にして「現状維持」に
切り替わるという自虐的でたいへん不幸な悪習と言えることになる。

自分で書きながら思うに、こう書いてしまうと恐ろしい…直そうと思います。


一つ目が長くなったが、もうひとつにも軽く触れておきたい。
それは「身体性への意識が"頭の意志"を弱める」可能性について。
何やら考え過ぎて気分が塞ぎ込んでいる時に、
「身体がなおざりにされているからだろうか」と思うことがよくある。

「身体と脳のバランス」とは言葉ではいつも意識していて、
それが脳に偏っている時に身体が不調を来し、
器官として身体である脳に悪影響を及ぼしているという予想がそう思わせるのだが、
そうであるばかりではないということに今回の抜粋部分を読んで気付いた。

「脳の暴走を止めるのは自分の意志である」という指摘がほんとうで、
その意志が(身体の関与が全くないとは言わないまでも)脳に担われるのであれば、
「脳の暴走は自分の意識が脳に偏り過ぎているからだ」という認識は、
暴走を止める意志の放棄につながりかねないのだ。

血管が額に浮き出るまで根を詰めて考えろと言いたいわけではない。
思考がうまく回らなかったりどこかで行き詰まった時に、
安易に身体性にすがりついて思考を放棄するなと(もちろん自分に)言っている。
だいたい「身体性を取り戻す」と言って、言葉以上のことが全然分かっていない。

いろいろ考えるのは好きだが無理をしない生活を常としていて、
無理をしないこと自体は身体に良いはずだが中途半端は結果的に毒である。
本が相手でも「完全燃焼」は可能だと思う(おそらくまだ経験はない)。
活力が減退し倦んでいた時期は「思考の不完全燃焼」が元凶であった可能性もある。

一人でいる時はひとまず身体性はおいといて、じっくり考えてみることを勧める。


旅の総括はこの3回目で最後にしようと思う。
書いておきたいことがあと2つ残っている。
ひとつは道中思った「人工を肯定すべきだ」という認識、
いまひとつは昨日今日振り返って思った「リセットの方法」について。


まずは、ひとつめ。
自分の頭の中で考える限り、科学技術の発達に対して懐疑的な印象を持っている。
確かに生活は豊かになったが、失われたものも大きいのではないか?
自分がこだわる身体性もその最たる一つだろう。

 しかし産業革命以前の生活を礼賛するつもりはないし、
 「昔に戻ろう」と現代技術をことごとく否定するのは非現実的である。
 そうは言いながらも、自分の中で自然への憧れはいまだ強く、
 気分転換と言っては街から離れる方向に散歩に出かける日常を過ごしていた。

 半導体がらみの研究開発を職業としているが、その仕事内容に興味を持ちながらも
 自分の生活とは結びつかないものとして捉えていた。
 これも理念先行の偏った思考の短絡でしかないのだが、
 普段の生活の細微に目を向けず「頭の中が充実していればよい」と思っていた。

今回の旅で「出たとこ勝負」ながら自然へと足が向いたのもその日常の延長だが、
自然が売りの観光の街を有り余る時間に任せて長く散策していると、
自然の隙間の至る所に人工物が、技術の粋が散在していることに気付いた。
そして「自分はこれら技術が全く存在しない世界を想像できるか?」と思った。

その疑問は発した最初から反語だと気付いており、つまり答えはNoである。
生まれた時から極度に発達した技術に囲まれて育った人間にとって、
ノスタルジィを感じるのは人工物であり、大自然は忌むべき排除の対象である。
「古き良き時代」のイメージは、数世代前からその実感が失われて久しい。

そしてその「実感の失われたイメージ」にとらわれ魅力を感じてしまうのは、
実体を見ず、理念に拘り思考に埋没する「現状に倦んだ現代人」であり、
自分は紛れもなくその一員に成り果てていたと気付いたのだった。
脳を通してしかものを見ていない自分には身体性のかけらもない。

つまり、「人工否定自然礼賛」思考は自分にとって極めて不自然であったのだ。
生活を振り返れば、自分がいかに自然から離れ人工物に囲まれて暮らしているか。
「実体を大切にする」とはまず、この現状をあやまたず認識することだ。
その後に思考を研ぎ澄ませ、あるべき自分の生き方を想像する。

…と書くと先走りになるので、まずは自分の生活の細微を捉え直す。
「現状肯定」は前から座右の銘としていたが、その「現状」には実体が無かった。
今文章を打ち込んでいるPCや美味しく戴いているコーヒー、あるいは沢山の本。
これら生活を豊かにしているものを成り立たせている「技術」をまず肯定する。

この認識がひいては仕事のモチベーション向上にも繋がる。間違いなく。


さて、最後の2つめ。
趣味が読書のみとなると、普段の生活からどうしても実体が抜け落ちる。
読書は好きだし思考を続けることは生き甲斐でもあるが、
これまでの生活を改めるためには「実体感覚の維持」の方法を考える必要がある。

本記事の最初に「リセット」と書いたのは思考基盤のリセットのことで、つまり
頭を回し過ぎて脳というか思考内容が身体を侵蝕し始めた時にどうするか、と。
これまでは散歩して体を動かしながら風景を眺めていればリセットできている、
と思っていたが歩きながらも思考をぐるぐる回していてはリセットにはならない。

 散歩している時は机上で唸っているより「思考のキレがよい」とよく思うのだが、
 これは単に身体(器官)としての脳が脚と連動して回りやすくなったからだろう。
 だから散歩時の思考を「実体の伴った思考」と安易にとらえるのは間違いで、
 頭が想像側に偏っていればどこでどう思考しようが身体と乖離することになる。

今回の旅のおかげで生活に対してポジティブになれたのでリセットできたはずだが、
それでは旅のどの部分がリセットの効果をもたらしたのだろうか?
もちろんふつうの旅行と同じく「非日常を味わえた」こともあるだろうし、
大自然(これも非日常の一部だが)の中でリフレッシュできたこともある。

しかしそれらより自分に取って本質的だと思った要素がある。
(むしろ「それらを包含しており、抽象した要素」と言った方がよいか)
それは「偏った想像を実体ベースで修正すること」。
旅の中で自分が感じた様々な違和感がこれに該当する。

 例えば駅改札での駅員との切符のやりとりの瞬間。
 つまり、気遣いが野暮ったさに受け取られた瞬間。
 例えば(自分が座っている)電車内での高校生たちのふるまい。
 つまり、私的空間の大きさ、あるいは公共の場との折り合いの付け方。

簡単に言えば「人は自分が思うほど自分を気にしていない」ことの再認識。
言われれば誰もがそうだと思うが、頭でっかちになっていると実感が伴わない。
何しろ自分の頭の中のことこそが重要だと言い張って聞かない状態だから、
「人のことを考えている」も「自分のことを考えている」にしかならない。

その再認識は主に人とのやりとりを通じて成されるが、
自分に対する相手のふるまいが自分の思った通りだと逆効果となる。
偏った想像の修正のはずが、想像を補強することになってしまう。
だから大事なのは「違和感」なのだ。

都会人が田舎に行けば、ささいなことでも違和感が得られる。
だから今回の旅では(この件について)能動的でなくとも得るものが大きかった。
そしてしかしここでは普段の生活における想像偏重のリセット、
実体感覚を取り戻す方法を考えているのだった。

と言って別に難しく考える必要はなくて、プライベートでも人と会えばよいのだ。
そしてその場では現状維持でなく、変化をもたらすように動く。
「相手を傷つけないように」は自分の頭の中を肯定したいだけでしかない。
相手をそして自分を傷つけることを恐れないことが、実体と向き合う一つの方法。

 変化の例が「相手を傷つけるか否か」というのも唐突な話だが、
 これを書く自分がまず思い付いたことからも分かるが重要なのだ。
 「自分発」でなければ相手が傷ついても構わない(「相手の勝手だ」)と
 頭では思っていて、しかし相手が傷ついたことに自分も傷つく。

 自分が傷ついたことは紛れもなく自分の身体反応のはずなのだが、
 それを無視して「自分の中の理念の達成」に頭だけが満足している。
 身体性を重視する自分のこの矛盾に、頭でっかちの自分は気付けなかった。
 身に染みるべきは、読書では決して培われずして「自分は"生身"の素人だ」と。



これで書きたいことは全部書き終えた。
また思い付けば書き足すが、ひとまずこれで一区切りとする。
会社の長期休暇(GWがなかったのでその振替でした)は今日でおしまい。
心機一転、明日からお仕事頑張りましょう。

「人とつながる」ことが大切だと説いた時に、今のわれわれの感覚だと、それがある種強迫的になってしまうことが多い。(…)もともとは心を潤すための行動だったはずなのに、そこにまた強迫的な観念が生まれて、不安に駆られる。何がつながりなのか、何が人と人の絆なのか分からなくなってくる。(…)だから「人とつながる」ということは、決して直接的なコミュニケーションだけではないってことを認識しなくちゃいけない。例えば、何年も会っていなくても、その人のことを想うだけで日頃の様々な瑣末さからくる心のトゲが溶けていく。そういう関係性の経験こそが「人とつながる」ことだと思うんです
名越康文『心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」』p.41-42

直接的なコミュニケーションは確かに大切だ。
しかし「それこそ至上」としてしまうと、常にそれをせずにはいられなくなる。
そう思う人が何人もいて、お互いで満足し合えているのなら口を挟む余地はない。
板挟みに遭うのは、彼等の中で「それは違うのではないか」と密かに思う人だ。

「その人のことを想うだけで…」と彼等に言おうものなら、
「それは君の自己満足に過ぎない」と糾弾されるのがオチだ。
その指摘は間違っておらず、しかもこのようなやりとりそのものを
直接的なコミュニケーションが快く成立しているとは言い難い。

直接的なコミュニケーションの大切さは分かっているだけに、これは辛い経験だ。
この人は自分の価値観を押し隠して彼等に波長を合わせるしかないのだろうか?
仕事の延長の付き合いならば仕方の無いことに思えるが、
私的な付き合いであれば、敢えてしなくともよいのではないか。

この判断は直接的なコミュニケーションの否定ではない。
直接的なコミュニケーションはお互いが快くできる相手とすればよい、
という当たり前の認識に則ってのことだ。
名越先生の言葉はこの判断を採用する勇気をくれる。

…この場面で勇気が必要であることがまた強迫的ではないかとも思えるのだが。

今日から読み終えた本について、読み終えた時にコメントを添えようと思う。
文字数は気にせず、コメントの内容も「書けることを書く」くらいの自由さで。
感想でも、本の中で印象に残った内容でも、連想したことでもいい。
気分転換の一環としてまずは習慣付けてみよう。

コメントはソーシャルライブラリに書きます。

ついでに覚書をもう一つ。
読中の本で、インスピレーションが湧いた箇所があればその時にコメントを付そう。
記事の頭に抜粋して、その下に同じく文字数を気にせずつらつらと書く。
同じようなことを前に書いたと思えば、「書かない」でなく「その続きを書く」で。

後者の記事には抜粋した本の著者名をタグに付けようかな。

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