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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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今まで何度か考えてきたことだけど、タイトルの言葉がパッと浮かんだので軽くメモしておく。

「ご縁」の存在感は現代でどんどん薄まっている。
それは日常においてあらゆる選択肢が増え、世間で「自己決定」が推奨されていることからも分かる。
縁は自分で勝ち取るものではない。
かといって、何も考えずの成り行き任せで出会った全てが縁の賜物かといえばそうでもない。
「ご縁だからね」といった言葉は後付けであることが多いがそれはそういうものだから仕方なくて、問題なのはこの言葉は事実認知ではないということがあまり知られていない(かどうかなんて実際知りませんが)こと。
つまりこれを略さずに言えば、「こういう成り行きになったのはご縁だから仕方ないしどうにもならない」(これは諦めの言葉だ)ではなくて、「(同上)ご縁だからこの流れを大切にしましょうね」(これは意志の言葉)なのだ。

自分が選んだ道ではないけれど、自分で引き受ける意志表示として「ご縁」という言葉がある。
だから仕事も遊びも食事も家具も何から何まで自分の好きなように選べる(こう表現すると「仕事」だけは違和感がありそうだが、選び取れるかどうかは別として選択肢だけなら無数にある)今にあって、選択の際に意思表示をしないことは「主体性がない」とか「優柔不断の付和雷同」などと言われてあまり好まれない。
そして主体性のもとに自分で仕事を勝ち取って(就職「戦線」という表現が勝負というか「戦争」のイメージになっている)、それが想像と違ってあまり面白くなかったりしてでも別の仕事を探す面倒を考えると億劫なのでついつい「ご縁だから」などと自分に言い聞かせることになるのだが、こういう使用法こそ諦めている。

何の話がしたいのか。
今の社会で「ご縁感覚」を賦活する方法について書こうとしていたのだった。
流れを肯定する、場の成り行きに吉兆を見出しそれを信じる。
要するにそういう意志をもつことなのだが、本来このような感覚は意志をもたないことで発揮されるはずだがそれと逆のことを書くのは、現代社会のデフォルトが上述のように実質的にご縁感覚を否定しているからだ。
それはまあ当然で、成り行き任せでは会社は潰れるから。
そして日本は「株式会社」なのであるからして。
(この辺詳しくは橋本治の『貧乏は正しい!』シリーズに書いてある…かもしれない。思い付いておきながら記憶はかなり曖昧)
で、「意志をもたない意志をもつ」という矛盾めいた作法が必要となってくるのだ。
(関係ないようであるけど、文脈無視で短い文章の中に矛盾を見つけると条件反射的に「論理的に間違っている」とか「禅問答だ」と鬼の首をとったように勝ち誇って指摘する人は「言葉とはなにか」について少しでも考えれば裸で風呂を飛び出すくらいのカルチャーショックを得られるだろうに、というこれは仲正昌樹風「おもしろ被害妄想」でした)

ええと…気軽にメモで済まそうと思ったのだけど面白くなってきたので、たぶん続きます。


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の続き。今回ばかりは(と言えるほど「成功率」が低い)しっかり続きます。

僕は常識が嫌いだ。
常識にはいろいろ種類があるが、もともとは「人と人との間のやりとりを円滑にするための共通認識」として生まれたのであって、それが生まれた当初は必要とされたから生まれたのであり、理由も実益もちゃんとあった。
僕が嫌いだと言ったのは、常識が形成された当初から時代が変わって実益が無くなったにも関わらず、当たり前のような顔をして意味もなく(あるいは害を振りまいて)幅を利かせている類の常識のことだ。
その「意味がない、実益がない」とする判断基準は何か? とまず思われるだろうが、これに答えるには具体例を以てせねば説得力がない。

というのも、まず僕自身の感覚として、「常識に従って(=特に考えもなしに)振る舞っているけれど何だか窮屈そうに見える」ことがあるのだ。
だから少し考えてその常識に意味がないことを把握したうえで思うように行動すれば清々しいのではないか、と。
…そう、こう書いて「言いたいことは分かる」のだけれど、こんな話題がもし日常会話で展開されたとして(実は僕は珍しく最近その機会があった)、まず続くのは「例えば?」という疑問。

その例示をする前に「考え方」の話を続ける。
これは土台をしっかりするための作業にも見えるし、「外堀を埋める」作業にも見える。
どっちにしても、具体的なところを知りたい人にとってはまどろっこしい以外の何者でもない。
しかし、先の記事で触れたが構造主義に興味を持つ人間としては大事なところなのだ。
そしてこれは先の記事で書くべき話なのだが、(僕の考える)構造主義の欠点の一つは「こだわると本題にたどり着けない」ところだ。
ものごとの仕組みを知るのは確かに面白い。
仕組みを考えるうちにもっと広い枠組みに想像が及べば話の間口がさらに広がる。
楽しい。
そう、これは間違いなく楽しいのだが、恐らく「マニアックな感覚」と考えておくべきなのだ。
構造主義の話が日常会話で展開されることが滅多にない(とこれは断言できる)のは、プラクティカルな人間、つまり大抵の日本人にとっては興味の範疇外だからだ。
それを知って何の得がある?
俺は今そんな話をしているのではない、話を逸らすな。
…ごもっとも。
その指摘は間違いなく正しくて、しかし「無粋だねぇ」と思ってしまうこちらはしかるべくしてそのような話題を人に振ることがない、これは機会がない以前に意欲の問題なのだ。
被害妄想だろうか。
(うん、なんだか文体がこころなしか小田嶋氏みたいだな)

閑話休題。
「閑話休題」という語の使用はふつう「さ、そろそろ本題に戻りましょ」という現実回帰の意思表明フレーズと思われがちなのだが、頻繁にこれを用いる人間の経験からすると「逸れた話が一段落した」という己が満足感が呼び寄せた言葉であって、つまり「しゃーない、話戻すか」という消極性が本音として潜んでいるのである。
まあ、正確にいえば「おおっぴらに潜んでいる」だろうか。東京都というジャングルを行進する迷彩服レンジャー部隊のような。分かりにくいか。

閑話休題。
とだけ書くと「戻り先」がたくさんある場合には不親切となる。
今回がそうだ。
というわけなのできちんと書くと、常識の話をしていた。
「形骸化した常識とは具体的にどのようなものか」について語ろうとしていた。
そして具体例に入る前に更なる前置きをしておこうと思ったのだった。
これは自分が矛盾を含んでいることを先に指摘しておこうという「私的詩的指摘」なのだが、詩的になるかどうかは出たとこ勝負である。
きっと負ける。

閑話休題。
常識は「人と人との間のやりとりを円滑にするツール」と言った。
人は日々目的をもって、あるいは心地よくコミュニケーションをしたいと思って生活している。
その目的の達成、意思疎通の成就に、なるべく手間をかけたくない。
やりたいことはたくさんあるのだ。
だから、なるべくなら効率よくこなしたい。
そういう要請が「常識」というものに対してあるはずである。
僕は常識のその機能を否定するわけではない。
常識とは手段であってそれが目的化するのは良くないとか、常識は人口に膾炙してこそ常識となるのだから形骸化(その表れの一つが「手段の目的化」だ)する運命にあるとか、そういったことを実は本記事の結論で言おうと思っていてでもその前に書きたい事があったのに図らずもこれを先に書いてしまうことが思考の本来的にパラレルな進行と地方ローカル線が如き単線進行である文章化行為の相性の悪さを露呈しているという考察はさておき、その前に書きたいことというのは、
僕は「あまり効率を追求しない方がいい」と思っているということ。
プラクティカルな話題にあまり興味を示さず構造とか前提とか抽象的なことばかり言っている自分は「効率の追求」という常識の(一つの)機能を否定しないと言っておきながら、それは「人がそう思うなら勝手にすれば」の意味で、つまり私的には否定してしまっているのだ。
しかも全然詩的でなく(それはどうでもいいか)。
いや、まわりまわって「短期的な効率の追求は長期的に見ればムダがあるよ」と言いたいのかもしれない。
そしてそのようなまわりくどさは排除されてこその常識なのである。

ややこしくなってきた。
いちおう最初は「(具体的にいくつかの)常識の出所を探り、その意味のなさや新常識の模索などができればいいな」というウソかホントか分からないようなことを考えていたはずであったのだが、流れに身を任せて考えていくうちに「常識とはそんな風に頭をこねくり回して作るものではない」ような気がしてきて、やはり私的な構造解析に過ぎないのかなと思っていたりもする。
まあ、具体例を思い付けば(多分日常で経験してる筈だけど、会社で仕事してるとこういった思考に結びつかない、まあマジメに仕事しているので)続きを書いてみようと思います。



いつも一度PCを閉じてから続きを思い付く。
「原稿の塩漬け」は多くの文章家が実践しているけれど、やはり対象から一度距離をおくことは一定の効果がある。
出来をあまり気にしない身としては「一度に書き上げる」方が達成感があるのだが、やはり「達成感の有無」という考え方は僕が文章を書く目的から逸するもので、「学校のテスト感覚」が抜け切れていないとか、仕事感覚が混ざり込んでいるのは間違いない。
毒されている、と言ってもよいくらいだ。
プロでなければ、文章を書くことに期限なんてないのだ。
で、プロであっても、出来映えを気にする人は(みんながみんなそうではないのだとは思う)、きちんと「塩漬け期間」を設けておくものらしい。
文章化を通じて充実した思考を展開する、という目的においては僕も仲間に入れてもらえるはずで、よって「塩漬けの技術」も身に付けたいと思う。
まあ技術より先に習慣かな。

という前段は本題ではなくて、PCを閉じてから何を思い付いたかという話。
さっき上で「新常識の模索」などと書いたがやはりあれは筆滑りの言葉の綾で、そんなもの作る気はさらさらないのだった。
自分がやりたいと思っていたのは、現状を前提として新たな解釈をそれに与えること
常識は既にある。
既に分離できないかたちで僕らに浸透している。
常識(の一部)を悪とみなして改善にかかる努力はある正しさを備えてはいるが、「建前だけの正しさ」に陥ることが多いのは、常識がもはや僕らの一部となっているからだ。
あるものはある。
その既にある状態はそのままに、しかし「なぜそれがあるのか」を問うことは可能だ。
普段意識しないことだけにその類の思考自体が不自然だし、手間はかかる。
しかし、それはかなりの効果をあげることができると考えている。
今の時代には特に。
と言うのは専門分化し過ぎて総体を捉える視点が不足している現状があるからだ。
狭く深く掘る穴がどんどん増える。
一つひとつの穴はどんどん深く掘れるようになる。
そうなると、他の穴に目を向けるモグラはいなくなる。
だがモグラは目が見えないが僕ら人間には目が見えるのだ(?)
理念先行の時代には日本のプラクティカル性は珍重されたはずだ。
だが「モノありき」の豊かな現代では理念、価値観の構築が急務となる。
それは「カネではなくて…」という話かもしれない。

ちょっと話が散逸しそうな気配なのでここで打ち切り。
次回への導入になっただろうか…
構造主義の役得について。

構造主義という哲学の分野がある。
日常的な意味としては「物事の仕組みに目を向ける思考方法」くらいに考えている。
冷静にかつ客観的に考える方法としてかなり有用だと思い、「構造主義」という名前に飛びついて何冊も本を読んできた。
橋爪大三郎氏の『はじめての構造主義』がよい入門になって、思えば現代思想という大枠に興味を持ち始めたのも構造主義がきっかけかもしれない。
最近はやっと『悲しき熱帯』を読み終えたところ。
未開の地(ではなく実際は先進国の物資や疫病が浸透していた)での文化人類学者の奮闘はその逐一がスペクタクルではあるのだが、見所はやはりレヴィ=ストロースが帰って来てからの思考の部分だ。
そう、氏は帰ってきたいと思い、そして帰ってきたのだった。
欧米の自文化中心主義を戒める語勢が強いのは確かだが、それがそのまま後進文明の礼賛につながるものではない。
人の価値観は育った文化の影響を避けようなく多大に受け、しかし人類学者は自分の文化を捨てて別の文化に溶け込む。溶け込みつつその文化の仕組みを探り価値付けるが、現地の素晴らしさの対照として自文化を反省的に眺めるその眼は既に濁っている。自文化を批判的に考察できるそのことが自文化の(自浄作用としての)優越性を示してしまうジレンマ。このジレンマを抜け出す道が、まさに「道」にあった…下巻の最終章で仏教に関する体験を交えた記述があって、「世界は人類なしに始まったし、人類なしに終わるだろう」か確かそんな風だったかの有名な一句に向かうまでの記述こそが僕の心に強く響いた、と思ったのは確かだがそれはその一句を書評やらで何度も見た経験があるからに他ならない。

といった感想はもののついでであって、書こうと思ったのは自分なりの「構造主義」というものの位置づけについて。

…きっと続きます。
身辺雑記というか、思い付いたことを書く。

最近書いていない理由はいくつかある。
仕事が少し忙しい、読む方で満足している、書いて「何かが生まれる」予感がない。
どれも書く意欲の低下に結びついていて、
そんな状況で敢えて書こうと思うと一つ前のような記事になる。

先月末から昼食を軽いものに切り替えている。
なんたらブランとかいう健康食品をふた切れ。
発端は暑過ぎる食堂で汗だくになりながら食べることに嫌気が差したからだが、
「一日ほぼ二食」にしてからトータルではプラスが上回っており調子はよい。

朝食は毎朝大量なので、今の習慣でやっと夕方に空腹を感じるようになった。
習慣を変えた最初はいつもの夕食がめっぽう旨く感じたが、今はふつう。
空腹を(そういえば久しぶりに)感じるようになって、身体の存在感が少し増した。
あとよいことは、昼食休憩時間を自由に使えるようになったこと。

で、小田嶋隆氏の「ピースオブ警句」を毎日二週分読んでいる。
これは日経ビジネスオンラインでの連載コラムで、無料で会員登録して読める。
バックナンバーが08年まであるのでこのペースで遡って読んでも長持ちする。
氏に興味を持ったのは内田樹がブログで「オダジマ先生」と呼んでいたから。

コラムのソースは日々のニュースなので新聞を読んでいれば内容はまず分かる。
が、いちばんの読みどころは文体というか「書きっぷり」だと思う。
2chに詳しくtwitterで世間相手の乱闘の日々を送る氏の語りは皮肉に満ちている。
がそれは見せかけで、緻密に考え言い淀みを含めてぐるぐる書き起こす氏は誠実。

「引きこもり系コラムニスト」の氏が書く文章はサラリーマンの心を打つ。
人が日々の生活で抱く些細な違和感をこれでもかと掘り下げるスイーパーの勇姿に、
自分の価値観に抵触さえしなければ大体の読み手は喝采を送る。
その内実の多くは「溜飲を下げる」だろうが、中には「激しく共感する」人もいる。

僕がその一人なのだが、その意味するところは簡単に思い付く。
思い付くがしかし面白くないので書かない。
コラムを読んでの感想を言えば、日々考えて生活していると時に倦んでくるのだが、
氏の文章を読むと正気に戻れるのだ(あるいは「これが正気かと思い出す」)。

+*+*+*

唐突に話題を変える(というか戻す)が、こういう書き方をせねばと思う。
何の話かというと、「自分の内側から出てきたものを書くべきだ」と。
この「べき」は自分に剥けての当為なのだが、ある意味で普遍性を持つ。
氏の去年末の総括コラムを読んで強く感じたのだった。
 原稿を書く仕事を20年以上続けていて、いまさらながらに思うのは、テーマは外部には無いということだ。
 アイデアは、あらかじめ自分の中に眠っている。
 もう少し丁寧な言い方をするなら、「自分の中で内部化できていないテーマは、書き起こしてみてもロクなものにならない」ということだ。
 青い鳥と同じだ。幸せは自分の中にある。

2011年12月26日 パソコンの電源を落として今年を振り返ってみる
そう、ロクなものにならない。
文章を書いておこうと思ってテキトーに題材を探して書いた文章は書いて後悔する。
「文章を書く」という本来手段であるものが目的に堕した瞬間だ。
これを後悔しておかないと、ある種の文章は永遠に書けなくなる。

ある種のとは「生成的な文章」ということなのだが、
話として分かるだけなので偉そうなことは何も言えない。
その「生成的」なる感覚はまずもって書き手が感じるものであるのは事実だが、
その(その時々の)感覚が普遍性をもつと主張するために経るべきプロセスがある。

どこかでそれを追求してみたいとは思うんやけどね。
人が泣いたり苦しんだりしているのを見ても、私はほとんど情緒的な反応をしない。
泣いている人には「ティッシュ」を差し出し、苦しんでいる人に対してはできる範囲で苦しみの原因を除去すべく努力するが、それはどちらかといえば計量的な知性の活動であって、私の魂がその痛みや苦しみに共振しているわけではない。
私が苦しむ人に相対したときに集中する主題は、とりあえず苦しみを軽減する「対症療法」的な処置は何かという短期的な問いと、このように苦しむに至った歴史的・構造的な原因は何かというもう少し長期的な、いずれにせよ非情緒的な問いである

内田樹ブログ「夜霧よ今夜もクロコダイル」-2001年1月26日

全くその通りだな、とこれを読んで思った。
最初の一文から薄情だと感じられるかもしれないが、
「苦しみの原因の除去」と情の有無に直接の関係はない。
苦しみに共感するかどうかは、ウチダ氏の言う「非情緒的な問い」の後の話だ。

同じ苦しみをこちらも分かち合ってこそ当人は癒される。
確かに「一緒に泣く」ことに実際の効果はあるかもしれない。
ただそれは途方に暮れるというかよほど不運な状況に限ってのことか、
あるいは「苦しみの原因」が解明し尽くされた後の「締め」として起こりうる。

いや、原因なんて分かっていて、ただ一緒に泣いて欲しいのだ。
そう言われれば恐らく自分も、泣くまでせずとも困った顔くらいはするだろう。
ただやはりそれも非情緒的な振る舞いにならざるをえない。
原因を特定できる知性は働いていながら、情緒に訴えられても本気とは思えない。

まあそこは難しくもなくて、おおかた本気ではないのだろう。
自分自身も大学を出てから「情緒まっしぐら」の人間は見たことがないし、
よほど深い付き合いでもしなければそのような(どのような?)面倒事に遭遇しない。
さて、自分は何が書きたかったのか?


ウチダ氏のこの日の記事で興味深いのは2つの構造の対置である。
「慰藉[いしゃ]の構造」と「説教の構造」。
説教と言われると酔っ払いの繰り言のようなマイナスイメージをすぐ抱くが、
これは「事情を見渡せている者からのまっとうな進言」のことだ。

苦しむ人に向けるもっとも効果的な慰藉の言葉は「この苦しみはあなたの責任ではない」というものである。(…)ある邪悪にして強力な存在が、あなたの幸福の実現を阻み、あなたを苦しめているのだ、というかたちで本人をその不幸から免責するのが「慰藉の構造」である。(…)
その対極に「説教の構造」がある。

説教は、「あなたの不幸の原因のかなりの部分はあなた自身が育み、肥大化させたものである」という前提から出発する
したがって、「説教者」は、あなたの苦境のどこからどこまでが「あなた自身の選択の結果」であり、どこからどこまでが「外的要因によるもの」であるかを腑分けし、「自己責任」部分について、「なんとかしろ」と指示し、「外的要因」部分については「そこから逃げろ」と指示するのである。(…)

不幸を構成するファクターには「何とかなるもの」と「どうにもならないもの」がある。
何とかなるものは何とかし、どうにもならないものはほおっておく。
すごく単純である。

同上

説教が耳に痛いのは、まず自分の責任を明言されるからだ。
言われる方は既に分かっていても、改めて外から言われると苦痛である。
そして説教の内容に目新しいものがなければ聴き手に得は何もない。
だから説く側が予め判断すべきは「この人は事情が分かっているのか?」だ。



われわれの脳には、なにかに実在感を与える機能が存在する。一般にそれは、かなり強力であって、本人はそれにほとんど疑いを感じる余地がない。そのような実在感は、脳の置かれた状況によって、さまざまな対象に付着する。数学者なら数学的世界に、哲学者なら言語による抽象世界に、ふつうの人なら身のまわりのモノに、株屋なら株、金貸しならお金、魚屋なら魚、というわけである。だから私は、死体に実在感を感じるのである。
養老孟司『続・涼しい脳味噌』p.21

ここで養老氏のいう「実在」は、形のあるモノを指すのではない。
それも含まれるが、総じて人が自分にとってリアリティを感じるもののことだ。
「実際に存在」しているのは、各人の脳の中でのことである。
しかし脳内のある一部分を占めるそれは「かなり強力」な存在感を放つ。

旅の総括で書いた「実体」とこの「実在」は異なる。
今読み直すと所々で異なる使い方がなされてはいるが、
主には「形のある、日常生活を構成するモノ」の意味で用いた。
旅の総括のその文脈を一言で再現すると、「実体に実在が伴っていなかった」と。

 養老氏の考えに即せば、小説世界や思考内容は自分にとって「実在」である。
 ただその実在感をそのまま他者と共有することはできない。
 その実在感を前提とした話をしても通じないということだ。
 共有を目指すなら下準備がいる

前に「実体を大切にする」と書いたのは他者を意識してのことでもある。
実体は、その同じモノを目の前にする他者と存在感を共有することができる。
実体に対するイメージが異なろうとも、その違いを議論する前提は共有できる。
この前提の共有をすっ飛ばしてコミュニケーションを図ると碌な事が起きない。

…と言いつつ、同時に集団が嫌いで独りを充実させたいとも言う。
どっちなんだ、と思われそうだが、集団は嫌いだが他者が嫌いなのではない。
一対一で根を詰めて話す機会は基本的に歓迎する準備はあるのだが、
気をつけろと自分に言っているのは「その会話は"独り"の延長ではない」こと。

人それぞれの実在感と、人と人の間の実体の存在感、この意味を心に留めておこう。

自分は一人でいることが好きだ。
逆に言えば、集団でいることが嫌いだ。
「好きで集まっている集団」に、自分から加わろうとは思わない。
特に「集まることを目的としている集団」には。

一人でいる孤独感も、大勢でいる安心感ももちろんある。
逆に、一人でいる充実感や、大勢でいる居心地の悪さもある。
マスメディアとは名の通り「マス」だから、前者を強調しがちだ。
だから社会の動きを知るためであれマスメディアによる情報収集はある苦痛を伴う。

 最近そのことに気付いた。
 無理してまで新聞を読む必要もないのではないか?
 社会とつながっている人の動きを日常的にたどっていればそれで十分ではないか?
 ブログやツイッターはこの意味でとても有用なツールだと思う。

 という思考の流れで、次の新聞の更新をしないでおこうかと突然思い付いた。
 少し前にビールとカップ麺をもらった所なので来年になるかもしれないが。
 それで「自分の興味に合わせた情報収集」を充実させようかと思い、
 今まで全く縁の無かった「雑誌の定期購読」もいいかなと考え始めている。

 では何の雑誌か…と言われれば今の読書の興味の延長線上になるのは仕方なくて、
 とりあえず一号分注文してみたのは『SIGHT』と『子供の科学』。
 並べると脈絡不明だけれど、前者は『沈む日本を愛せますか?』の影響で、
 後者は森博嗣のエッセイ多数の影響。

 新聞を読まなくなれば情報が偏って「世間知らず」になりそうだが、
 今新聞購読している自分が現代日本にキャッチアップできているとは思わないし、
 サラリーマンなので本当に急を要するニュースがあれば会社で聞けるだろうし、
 内実を想像もせず恐れていた「世間知らず」に一度なってみる価値もあるだろう。

最初に書きたかったことから話がだいぶずれた。
一人でいることが好き」を、もっと自分の中で確立させたいという思いがある。
独り好きの感覚に嘘はないのだが、「極端になるとまずい」という不安は少しある。
全く他者を求めなくなれば、他者の要請に心から応えられなくなるのでは、と。

しかしこれもきっと、観念先行の不安なのだと思う。
一人でいることが一番幸せだとしても、状況は変わりうる。
「独り好き」同士が一緒にいる実例を自分は具[つぶさ]に知っている。
自分の望みがしっかりしていれば、望んだ通りに事が運ぶのだろう。



「嫌い」を語ろうという前回記事を受けてシリーズ化しようと思う。
あれがキライこれがキライ、とのべつまくなしに罵るつもりは毛頭なくて、
今まで「嫌い」という言葉の使用を避けてきた自分を奮い立たせるための方便。
「好き」を語るためにどうしても避けて通れないもの、という位置づけです。

タグ名は恐らく思いつきの暫定ですが、まあ京都出身アピールということで。



常識を知りつつそれに与しない「反常識」を自分は一つの姿勢としてきた。
(この言葉との付き合いは長く、高1で読んだ『反常識の対人心理学』以来だ)
だが「自分が疑ってかかる常識に片手間で従っておく」のは何とも中途半端だ。
そもそも常識のベースを分かっておけば、常識そのものに付き合う必要は何もない。

次はこの「常識」について書こうと思います。

自分が何かを「やりたくない」「できない」という場合、自分にそれを納得させるためには、そのような倦厭のあり方、不能の構造をきちんと言語化することが必要だ。
「やりたくないこと」の言語化はむずかしい。(「できないこと」の言語化はもっとむずかしい。)
「だって、たるいじゃんか」とか「きれーなんだよ、きれーなの。そゆの」
とか言っていると一生バカのままで終わってしまう。
自分がなぜ、ある種の社会的活動について、嫌悪や脱力感を感じるか、ということを丁寧に言葉にしてゆく作業は自分の「個性」の輪郭を知るためのほとんど唯一の、きわめて有効な方法である。(…)
ひとは「好きなもの」について語るときよりも、「嫌いなもの」について語るときのほうが雄弁になる。
そのときこそ、自分について語る精密な語彙を獲得するチャンスである

内田樹ブログ「夜霧よ今夜もクロコダイル」-2001年2月23日

自分は「嫌いなもの」について語る習慣を敢えて持たなかった。
特に人に関わる内容には嫌悪感をなるべく含まない努力をしていた。
そうしてきた理由は「自分がされると嫌だから」に他ならない。
だがその当初の理由はもはや実質が抜け落ちていると気付いた。


人に嫌われて良い気分がしないのは当たり前で、
自分の言動に問題があることが理由である場合はふつう改善に努める。
しかし、理不尽な理由で、あるいは自分の人間性と関係のないところで嫌われたら?
あるいは、振る舞いを改善した後の自分が全く好きになれないと分かっていたら?

嫌われても仕方のない場合がある。
「嫌われる」だと強いので、印象が良くない、あまり関わりたくない等も含めよう。
周囲に合わせる気遣いが無ければ、そう思われる機会も増える。
それで良いと自信を持つためには、「仕方のない」を詳述する必要がある。

 嫌われても仕方がないこともあるが、自分から積極的になるのは抵抗がある。
 もちろん日常で周囲の人間に嫌悪感を振りまくような無意味な行為は論外である。
 場の空気を読みつつ、自分にとって違和感のない振る舞いをした結果、
 相手の気を悪くさせるという展開は許容するのが「消極的にはOK」の意味だ。

 だが、そのような自分の「積極性の位置づけ」に実際何の意味があるだろう?
 それこそ自己満足にはなるが、相手にそのような違いが分かる筈がない。
 自分の消極的な協調性の無さがコミュニケーションの開始時点で相手に
 「この人とは合わない」と感じられてしまえば、「始まりにして終わり」である。

現状、嫌われて仕方のない場合はあるが実際嫌われると傷つく自分がいる。
それは「改善の余地の検討を真摯に行うための痛み」として重要ではある。
しかし明らかに、その痛みが必要な場合と全く不要な場合がある。
不要な痛みを感じる所以は自分(の考え方)に対する自信の無さにある。

正確に言えば、「自分の考え方を他人に示して納得させられるか」に自信がない。
もとより「他人は他人だからわざわざ納得してもらう必要はない」と思っている。
共感できる人間がもしいるならば、彼への説明も楽にできるだろう。
認識すべきは、このような態度は「社会性が全く欠けている」ということ。


自分の嫌悪感の内実を語るとは、自分の興味を語ることの裏返しである
前者を為さず、後者には消極的であるとは、「コミュニケーションの否定」だろう。
自分の興味を語るその口(腰?)が重いのは、興味と嫌悪感が表裏一体だからだ
そろそろ、レトリックで誤魔化さない「個性」を書いてもよいのではないか。

というまずは意思表明。

お、これは「あのこと」ではないのか?
といった「気付き」を普段からとても大事にしている。
普通には結びつかない事象同士のリンクを見つける。
全く別ものと思われた物達から同じ構造を見出す喜びは大きい。

しかし自分はそれを過大適用しているようだ。
なんでもかでも結びつけるといって、結びつく先が固定化してくるといけない。
自分の場合どこに固定されるかといえば「自分」である。
通常、対人的(に限ることもないのだが)なそれは自意識過剰と呼ばれる。

自分の座席に誰かが近づいてくるだけで、自分に用事があるのではと思う。
歩道を歩く自分の少し先で車が停まれば何事かと思う。
もちろんそれらから自分へのアプローチが始まる可能性はゼロではないのだが、
ほぼゼロに近い可能性を(よほど疲れていないと)かなり高確率で拾ってしまう。

他人の目を異常に気にする性質は中学入学の頃からでもう始まって長く、
それはもう半分無意識の反射ということで諦めてよいのだが、
自然な振る舞いだからといってそれが思考の傾向にまで及ぶのは良くない。
思考は基本的に内で閉じて集中して行うものだ。

連想自体はよいのだが、あまりに突飛な、牽強付会なものはスマートではない。
時に「考える次元が異なる」と突き放すことは思考の怠慢ではなく、「常識」だ
自分を元気づけるための思考もあるにはあるがそれは別の話。
客観的な思考に個人としての自分が出てくることはないと前提しておくのもアリか。

「日常をもう少し冷めて過ごそう」と前に書いた意味もここにある。
思考内容に「自分にとっての価値」を過剰に見出す姿勢はNGだ。
そういう種類の思考もあるというだけで思考の全てではない。
恐らく今の自分は「内では責任感に圧され、外からは無責任に見える」状態だ。


「内から湧き出る無責任」を活性化させる方策を考えよう。
その一つは「想像を敢えて現実から突き放す」だろうか。
これはなんでも「実際」に役立てるプラグマティストの苦手とするところではある。
まあ、「実際」の意味を変えればいいのだが。

ここで初めて(!)高校以来の我が師M氏への歩み寄りの方向性が生まれる。
妄想癖の強い点では共通の自分とM氏の大きな違いは「妄想の位置づけ」にある。
自分はあまりに現実(これもひとつの妄想には違いないが)を意識し過ぎた。
もっと気前良く、「あさっての方向」を眺めながらニヤニヤしてもよいのだ。

時に、「あさって」とは「未来」の別名でもある

「マジメな不真面目」だけではちょっと救われないので、
根っこから不真面目になる可能性も検討してみよう。
投げやりではなく没頭。
そして意志と集中力。

有名な一節を引用して締めよう。
「先生……、現実って何でしょう?」萌絵は小さな顔を少し傾けて言った。
「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」犀川はすぐ答えた。「普段はそんなものは存在しない」

森博嗣『全てがFになる』

飛ぶ鳥を眺めて、空を飛ぶ様を想像する。
道端の草むらに目を留め、大自然のただ中を想像する。
実際に自分が経験するよりも、想像のそれは充実している。
あるべきものは全てそこにあり、邪魔なものは何一つない。

経験に価値がないわけではない。
無から何も作り出せないように、想像の素材は経験によって集めるしかない。
ただ、「経験の価値は何か?」と問われれば、それは想像の為ではないか。
少なくとも、頭の認識においては。

養老氏が「ああすればこうなる」で頭の独断を戒めるのは、
身体を蔑ろにしている現代を憂いていることがその主旨だと思うが、
「考えると言うのなら徹底的に考えろ」と言いたいのだ。
細微にわたる、精緻な想像ができるようになりたいと思う。



メカニズムを感じるのはいいとして、それを洗練させるにはどうするか。
やはり想像した内容を実体と照らし合わせる作業がどうしても必要だ。
「ものづくり」をしたくなった。
そういう趣味もいいだろうし、仕事の根っこで意識しておくのもよいだろう。

というこれは半分『カクレカラクリ』(森博嗣)を読んでの感想。
森ミステリィはやっぱり素敵だなぁ。
最初は「自然への頓着の無さ」が極端だなと思い、その点距離をおいてきたけど、
最近は(本当につい最近のことなのだが)かなり共感できるようになった。

この気分でSMシリーズとか読み直すと新しい発見がありそうだ。

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