幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
『海辺のカフカ(上)』を読み終え、自分で付箋を貼った箇所を読み返す。
物語の中盤、カフカ少年が私設図書館員である大島さんの兄の山小屋で想像に耽る場面に、グリーンの付箋が貼ってある。
少年は「アドルフ・アイヒマンの裁判について書かれた本」を読み終え、その後ろの見開きに、大島さんが鉛筆で残したメモを見つける。
大島さんもかつて、山小屋でこの本を読んだのだ。
メモにはこうある。
「僕らの責任は想像力の中から始まる」
そうだ、と僕も思う。
しかしこの認識は日常で人と共有されることが難しい。
それはまず想像力というものが「現実から離れたもの」とみなされて話題にされないからだが、そのような日常にいて、この言葉は僕の中で心強く響く。
その「心強く響く理由」について少し考えてみる。
この言葉は単に小説の中の表現であることを超えている。
恐らく実在の人物なのだろうけれど、イェーツという人がまず書いた言葉だ。
この言葉を大島さんが思い起こすことでメモとして記されたわけだが、それは大島さんがアイヒマンについての本を読んだからこそ記された。
大島さんがその本を読み、ナチのユダヤ人虐殺のある一つの視点による歴史を追体験し、内面化する中で、共鳴し呼び起こされたのがこのイェーツの言葉だ。
カフカ少年はその大島さんと深く通じるところがあり、そのメモを目にして、自分と同じ年くらいの時の大島さんが「尖った鉛筆を手に、本の見返しにメモを書き残す光景」をありありと思い浮かべ、そして"自分の責任"について「考えないわけにはいかない」。
「僕らの責任は想像力の中から始まる」
この言葉が僕の内面に届くまでに、イェーツという人、アイヒマンについての本を書いた人、大島さん、カフカ少年、そして村上春樹氏の5人を通過している。
後ろ3人について僕は、この言葉がいかに彼らの深いところで特別に響いているかを(『海辺のカフカ』、あるいは春樹氏の他の著作を通じて)知っている。
ここで「大島さんとカフカ少年は村上春樹が造形した登場人物であって、実在人物のようにカウントしてもよいのか」という問いが思い浮かぶ。
その問いには、僕はイエスと答える。
ある種の小説(僕は全ての小説がそうであることを願うのだが)の登場人物は、作者の把握から遠く離れている。
作者は彼らを知りたいから小説を書くのであり、小説は作者と登場人物との対話であり、「作者による登場人物の全的把握」は願いこそすれ叶うものでないことは日常生活での人間関係と何ら変わるところがない。
小説の作者とその小説の登場人物を「出所が同じ」として一つに括ることはたやすいが、その認識は恐らく小説の内容と深い関わりを持たないし、僕はそのような「お手軽な把握」を読み手の怠慢だと思う。
書き手の力量よりはむしろ読み手の想像力如何にかかっているのは、小説の作者とその登場人物の一人ひとりを「同じ重みをもった一人」として感じられるかだ。
そして僕が思うに、その感覚が強度を備えるカギは「人物造形(人となり)をその細微にわたって想像できること」よりも「(どれほどその人物についての多くの情報を得られたとしても)その人物には謎があり、その謎を魅力と感じられること」にある。
何が言いたかったのか。
言葉の重みは、その言葉を内面化した人の重みの集積による、ということだ。
ある言葉から何を感じるか、その内容は人によって様々だけれど、その様々を、その人たちの「人となり」込みでどれだけ想像できるか。
そしてそのような想像の中に、自然な形で、責任が宿る。
ここでいう責任とは、「その言葉の重みの一翼を担う者」の成員となったことによる責任のことだ。
これを「自意識過剰も甚だしい」と吐き捨ててしまえる人(世の中にはたくさんいると思う)は、永遠にこの認識にたどり着くことはできないだろう。
何せ、その通りなのだから。
「過剰なる自意識」が原動力となって、自らの想像に責任が(つまり「重み」が)生まれるのだから。
物語の中盤、カフカ少年が私設図書館員である大島さんの兄の山小屋で想像に耽る場面に、グリーンの付箋が貼ってある。
少年は「アドルフ・アイヒマンの裁判について書かれた本」を読み終え、その後ろの見開きに、大島さんが鉛筆で残したメモを見つける。
大島さんもかつて、山小屋でこの本を読んだのだ。
メモにはこうある。
「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。イェーツが書いている。In dreams begin the responsibilitiesーーまさにそのとおり。逆に言えば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。このアイヒマンの例に見られるように」p.227
「僕らの責任は想像力の中から始まる」
そうだ、と僕も思う。
しかしこの認識は日常で人と共有されることが難しい。
それはまず想像力というものが「現実から離れたもの」とみなされて話題にされないからだが、そのような日常にいて、この言葉は僕の中で心強く響く。
その「心強く響く理由」について少し考えてみる。
この言葉は単に小説の中の表現であることを超えている。
恐らく実在の人物なのだろうけれど、イェーツという人がまず書いた言葉だ。
この言葉を大島さんが思い起こすことでメモとして記されたわけだが、それは大島さんがアイヒマンについての本を読んだからこそ記された。
大島さんがその本を読み、ナチのユダヤ人虐殺のある一つの視点による歴史を追体験し、内面化する中で、共鳴し呼び起こされたのがこのイェーツの言葉だ。
カフカ少年はその大島さんと深く通じるところがあり、そのメモを目にして、自分と同じ年くらいの時の大島さんが「尖った鉛筆を手に、本の見返しにメモを書き残す光景」をありありと思い浮かべ、そして"自分の責任"について「考えないわけにはいかない」。
「僕らの責任は想像力の中から始まる」
この言葉が僕の内面に届くまでに、イェーツという人、アイヒマンについての本を書いた人、大島さん、カフカ少年、そして村上春樹氏の5人を通過している。
後ろ3人について僕は、この言葉がいかに彼らの深いところで特別に響いているかを(『海辺のカフカ』、あるいは春樹氏の他の著作を通じて)知っている。
ここで「大島さんとカフカ少年は村上春樹が造形した登場人物であって、実在人物のようにカウントしてもよいのか」という問いが思い浮かぶ。
その問いには、僕はイエスと答える。
ある種の小説(僕は全ての小説がそうであることを願うのだが)の登場人物は、作者の把握から遠く離れている。
作者は彼らを知りたいから小説を書くのであり、小説は作者と登場人物との対話であり、「作者による登場人物の全的把握」は願いこそすれ叶うものでないことは日常生活での人間関係と何ら変わるところがない。
小説の作者とその小説の登場人物を「出所が同じ」として一つに括ることはたやすいが、その認識は恐らく小説の内容と深い関わりを持たないし、僕はそのような「お手軽な把握」を読み手の怠慢だと思う。
書き手の力量よりはむしろ読み手の想像力如何にかかっているのは、小説の作者とその登場人物の一人ひとりを「同じ重みをもった一人」として感じられるかだ。
そして僕が思うに、その感覚が強度を備えるカギは「人物造形(人となり)をその細微にわたって想像できること」よりも「(どれほどその人物についての多くの情報を得られたとしても)その人物には謎があり、その謎を魅力と感じられること」にある。
何が言いたかったのか。
言葉の重みは、その言葉を内面化した人の重みの集積による、ということだ。
ある言葉から何を感じるか、その内容は人によって様々だけれど、その様々を、その人たちの「人となり」込みでどれだけ想像できるか。
そしてそのような想像の中に、自然な形で、責任が宿る。
ここでいう責任とは、「その言葉の重みの一翼を担う者」の成員となったことによる責任のことだ。
これを「自意識過剰も甚だしい」と吐き捨ててしまえる人(世の中にはたくさんいると思う)は、永遠にこの認識にたどり着くことはできないだろう。
何せ、その通りなのだから。
「過剰なる自意識」が原動力となって、自らの想像に責任が(つまり「重み」が)生まれるのだから。
PR
高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』(講談社文芸文庫)を読了。
先に書いておくと、脳内BGMはこれまた偶然、読み始める前に出会ってハマっていた、不始末氏の「ちいさい音ダイアル」。
曲の透き通るイメージがそのまま作品と重なり、生々しい場面もはちゃめちゃな描写も、リアリティがないというか「少し遠いところで起こっている」ような淡さが漂っていた。
(遠くで鳴っているラジオもとてもいい味を出している、とは本書を読み終えて聴きなおした時に気付いたのだが)
「リアリティがない」という言い方は小説について語る時にマイナスイメージとして用いられることが多いが、それはたぶん「リアリティが重要な作品」についてだけ当てはまるのであって、タカハシ氏の本作(に限らないけど)においてその点は重要ではない。
たとえば読み手が文章の一つひとつを遺漏なく出来る限り正確に頭の中でイメージ変換していって、そのイメージを時間軸にのせて展開させていったとして、「しっくりくる」とか「うん、僕も主人公のように振る舞うだろうな」とか、読み手にとってその展開が自然と思われる時に「その文章(小説)にはリアリティがある」とみなすとすれば、『ジョン・レノン対火星人』にその要素を期待するのは無謀というものだ。
ともすれば、小説のリアリティは「凡庸な読み手と同じだけの凡庸さ」を意味する。
では本作は描写の逐一がメタファーや本歌取りで構成されていて、執筆当時の日本社会の価値観やシンボリックな事件などの時代背景を網羅的に把握し、かつ今昔の文学作品に通暁していれば「解読」できるのかといえば、たぶん「知っていればそれだけ面白く読める」程度には重要であるのだろう。
…と書いたが、それは内田樹氏の解説があってこそ言えることで、この解説がなければ僕は本作について「ナンセンス」以外に継げる言葉が見つからなかった。
この解説を読んで初めて、タカハシ氏の小説の(もちろん「ひとつの」ということだが)読み方がわかったような気がした。
(ウチダ氏の解説によれば60年代(後半?)の学生運動の経験が重要であるらしい。ウチダ氏が執拗に「ためらい」にこだわる理由がこの経験にあることは氏のブログや著書で繰り返し読んできたが、氏によればタカハシ氏も、違うアプローチであれ、等しく「暴力的なもの」の犠牲になった「もの」(これは直接的には同士ともいえる人々(学生)だと思うのだけど、たぶんエートスとかもっと抽象的なもの)を弔っている、とのこと。正しく供養しなければ先祖に限らず思想だって化けて出る、と言ってウチダ氏がフェミニストを批判しているのを思い出した、唐突だけど)
これは書評家が発すれば「廃業宣言」のようなものだが、理解が進むように要約できたりエッセンスを取り出せる小説なんてものは、小説である必要がない。
それは「読み方がわかった」と書いた時にその読み方を簡単に言葉にできるわけではないのも同じことで、だから僕が文章にしたいと思うなら結局「何を感じたか」という私的な感想になってしまう。
ということで感想なのだけど、そして「本作の」ではなく「ウチダ氏やタカハシ氏の文章を読んできての」というひろーい話にいきなりなってしまうのだけど、僕にとっての「なりたい大人像」が彼らの文章を通じて形になってきたことが今さらながら嬉しい。
というのも、僕自身「憧れの人」とか「理想の人」が昔から全く想像できなくて、歴史的偉人や身の回りにいる「大人」(小さい頃はそうで、長じてから(ゆーてお前何歳やねん、というツッコミもありえましょうが)は「年配方」)など「年齢的に将来の自分に当てはまる人々」を数多く、「そういう目で」見てきても見出せないでいて、それがなんだか良くないことのように思っていたのだ。
(なりたくなくて大人になるよりはなりたくて大人になった方がいい、という程度のことかもしれない。事後認知的であれ…というか、はなから手遅れである以上そう思うしかないのも事実ではある)
この形になりつつある「なりたい大人像」は個人名で特定できるものでなく「ある気質を備えた人」といった抽象的な像である。そして普遍的であるがこその抽象的で、具体的にはその時代に合わせて別な形となって表れる(はず。先のことだからもちろん知らない)。
そしてウチダ氏の言論を信じれば、そのような性質に憧れる人は現代日本で極めて少なく、僕はまずそのことを以てその「像」に魅力を感じている。
ふふ、曖昧にするとわからなくなってくね…
最後に、ウチダ氏の解説からひとつ引いておく。講談社文芸文庫のこの解説は「いつものウチダ節(でもちょっとだけ真面目バージョン)」ではあるのだけど「文庫の作品解説」という括りで見れば異例であって、それは簡単に言えば「解説してんのに”分からない”って言い過ぎ」という点なのだが、「”分からない”と言うことで何を伝えたいかが分かるという意味でとても分かりやすい」ので特に問題はない。
>>
どうしてそういうことになるのか、私にも分からない。よく分からないけれど、「いかなる根拠もなしに、人を傷つけ損なうもの」の対極には、「いかなる根拠もなしに、人を癒し、慰めるもの」が屹立しなければ、私たちの世界は均衡を失するだろうということだけは分かる。
>>
言われれば当たり前だと思うが、言われなければ気付かない(普段全く意識していない)ことが世の中にはたくさんあって、加えてそれらは一度言われても(大変重要であるにも関わらず)すぐ忘れてしまうもので、「耳タコになるまで同じことを飽きずに言い続ける」ことの大切さはそこにある。
「センチネル」(@内田樹)や「キャッチャー」(@村上春樹)とは、その役目を担ったものの名だ。
先に書いておくと、脳内BGMはこれまた偶然、読み始める前に出会ってハマっていた、不始末氏の「ちいさい音ダイアル」。
曲の透き通るイメージがそのまま作品と重なり、生々しい場面もはちゃめちゃな描写も、リアリティがないというか「少し遠いところで起こっている」ような淡さが漂っていた。
(遠くで鳴っているラジオもとてもいい味を出している、とは本書を読み終えて聴きなおした時に気付いたのだが)
「リアリティがない」という言い方は小説について語る時にマイナスイメージとして用いられることが多いが、それはたぶん「リアリティが重要な作品」についてだけ当てはまるのであって、タカハシ氏の本作(に限らないけど)においてその点は重要ではない。
たとえば読み手が文章の一つひとつを遺漏なく出来る限り正確に頭の中でイメージ変換していって、そのイメージを時間軸にのせて展開させていったとして、「しっくりくる」とか「うん、僕も主人公のように振る舞うだろうな」とか、読み手にとってその展開が自然と思われる時に「その文章(小説)にはリアリティがある」とみなすとすれば、『ジョン・レノン対火星人』にその要素を期待するのは無謀というものだ。
ともすれば、小説のリアリティは「凡庸な読み手と同じだけの凡庸さ」を意味する。
では本作は描写の逐一がメタファーや本歌取りで構成されていて、執筆当時の日本社会の価値観やシンボリックな事件などの時代背景を網羅的に把握し、かつ今昔の文学作品に通暁していれば「解読」できるのかといえば、たぶん「知っていればそれだけ面白く読める」程度には重要であるのだろう。
…と書いたが、それは内田樹氏の解説があってこそ言えることで、この解説がなければ僕は本作について「ナンセンス」以外に継げる言葉が見つからなかった。
この解説を読んで初めて、タカハシ氏の小説の(もちろん「ひとつの」ということだが)読み方がわかったような気がした。
(ウチダ氏の解説によれば60年代(後半?)の学生運動の経験が重要であるらしい。ウチダ氏が執拗に「ためらい」にこだわる理由がこの経験にあることは氏のブログや著書で繰り返し読んできたが、氏によればタカハシ氏も、違うアプローチであれ、等しく「暴力的なもの」の犠牲になった「もの」(これは直接的には同士ともいえる人々(学生)だと思うのだけど、たぶんエートスとかもっと抽象的なもの)を弔っている、とのこと。正しく供養しなければ先祖に限らず思想だって化けて出る、と言ってウチダ氏がフェミニストを批判しているのを思い出した、唐突だけど)
これは書評家が発すれば「廃業宣言」のようなものだが、理解が進むように要約できたりエッセンスを取り出せる小説なんてものは、小説である必要がない。
それは「読み方がわかった」と書いた時にその読み方を簡単に言葉にできるわけではないのも同じことで、だから僕が文章にしたいと思うなら結局「何を感じたか」という私的な感想になってしまう。
ということで感想なのだけど、そして「本作の」ではなく「ウチダ氏やタカハシ氏の文章を読んできての」というひろーい話にいきなりなってしまうのだけど、僕にとっての「なりたい大人像」が彼らの文章を通じて形になってきたことが今さらながら嬉しい。
というのも、僕自身「憧れの人」とか「理想の人」が昔から全く想像できなくて、歴史的偉人や身の回りにいる「大人」(小さい頃はそうで、長じてから(ゆーてお前何歳やねん、というツッコミもありえましょうが)は「年配方」)など「年齢的に将来の自分に当てはまる人々」を数多く、「そういう目で」見てきても見出せないでいて、それがなんだか良くないことのように思っていたのだ。
(なりたくなくて大人になるよりはなりたくて大人になった方がいい、という程度のことかもしれない。事後認知的であれ…というか、はなから手遅れである以上そう思うしかないのも事実ではある)
この形になりつつある「なりたい大人像」は個人名で特定できるものでなく「ある気質を備えた人」といった抽象的な像である。そして普遍的であるがこその抽象的で、具体的にはその時代に合わせて別な形となって表れる(はず。先のことだからもちろん知らない)。
そしてウチダ氏の言論を信じれば、そのような性質に憧れる人は現代日本で極めて少なく、僕はまずそのことを以てその「像」に魅力を感じている。
ふふ、曖昧にするとわからなくなってくね…
最後に、ウチダ氏の解説からひとつ引いておく。講談社文芸文庫のこの解説は「いつものウチダ節(でもちょっとだけ真面目バージョン)」ではあるのだけど「文庫の作品解説」という括りで見れば異例であって、それは簡単に言えば「解説してんのに”分からない”って言い過ぎ」という点なのだが、「”分からない”と言うことで何を伝えたいかが分かるという意味でとても分かりやすい」ので特に問題はない。
>>
どうしてそういうことになるのか、私にも分からない。よく分からないけれど、「いかなる根拠もなしに、人を傷つけ損なうもの」の対極には、「いかなる根拠もなしに、人を癒し、慰めるもの」が屹立しなければ、私たちの世界は均衡を失するだろうということだけは分かる。
>>
言われれば当たり前だと思うが、言われなければ気付かない(普段全く意識していない)ことが世の中にはたくさんあって、加えてそれらは一度言われても(大変重要であるにも関わらず)すぐ忘れてしまうもので、「耳タコになるまで同じことを飽きずに言い続ける」ことの大切さはそこにある。
「センチネル」(@内田樹)や「キャッチャー」(@村上春樹)とは、その役目を担ったものの名だ。
前に「カンタンに反省してはいけない」というようなことを書いた。
「あの時ああいうことをしたのは間違いだったのではないか…」と、後になってくよくよ考えることがよくあるが、落ち着いて冷静に考えて「こうすればよかったのだ」と考え直すことは、その「あの時」の(現場にいた)自分の感覚を否定することにつながる、と。
つまり、後から落ち着いて考える状況では「あの時」の臨場感が抜け落ちているからカンタンに考えを翻すことができる、という捉え方をしている。
これを逆から考えると、後から落ち着いて振り返った時に「あの時の自分の行動は正しかった」と思えた時、その振り返り(=想像)において「あの時の臨場感」がしっかり再現できていた、と言うことができそうだ。
もちろんその結論ありきで反省するなんてのは反省にならないわけで、そうなると「想像(=反省)における臨場感の再構成」の理想としては、やはり腰を落ち着けて当時の場面(周囲の状況と自分の状態)を思い浮かべ、自分のとった行動とその結果を頭の中で再現したうえで、「まあ、そうなるよな…」という流れが自然であったことの肯定が沸き起こって、「あの時の自分の行動は正しかったんだ」という認識が(ここからが勘所なのだけど)「やっぱり」という自信の確認に因るのではなく「そうだったのか」という驚きとともにもたらされる形だろうかと思う(ここの驚きには「想像で臨場感(現場感覚)を再現することは基本的に難しい」という前提がある)。
こういう経験を何度かしていくうちに、現場感覚に磨きがかかる(「その時」に後で後悔しないような行動を自然に選択できる)とともに、後でくよくよ後悔することも減っていくのではないだろうか(この2つは同じことだが)。
ではその「理想の形」は具体的にどう実現されるのか、ということについては、実はこの記事を「実現できたから書いている」のではなくて「実現できたら充実した感覚が得られそうだなと思ったから書いている」のであって、つまり単に予感にシビれただけでその「できそう」の中身はまだ空っぽのままだったりする。ははは。
まあこの手の話は予感さえ訪れればあとはするっと進んでいく(予感がする)ので、それが経験できて、抽象できそうなら続きを書こうと思う。
キーワードは「するっと洒脱に」ですね。
リアル洒脱(また分からんネタを…)。
「あの時ああいうことをしたのは間違いだったのではないか…」と、後になってくよくよ考えることがよくあるが、落ち着いて冷静に考えて「こうすればよかったのだ」と考え直すことは、その「あの時」の(現場にいた)自分の感覚を否定することにつながる、と。
つまり、後から落ち着いて考える状況では「あの時」の臨場感が抜け落ちているからカンタンに考えを翻すことができる、という捉え方をしている。
これを逆から考えると、後から落ち着いて振り返った時に「あの時の自分の行動は正しかった」と思えた時、その振り返り(=想像)において「あの時の臨場感」がしっかり再現できていた、と言うことができそうだ。
もちろんその結論ありきで反省するなんてのは反省にならないわけで、そうなると「想像(=反省)における臨場感の再構成」の理想としては、やはり腰を落ち着けて当時の場面(周囲の状況と自分の状態)を思い浮かべ、自分のとった行動とその結果を頭の中で再現したうえで、「まあ、そうなるよな…」という流れが自然であったことの肯定が沸き起こって、「あの時の自分の行動は正しかったんだ」という認識が(ここからが勘所なのだけど)「やっぱり」という自信の確認に因るのではなく「そうだったのか」という驚きとともにもたらされる形だろうかと思う(ここの驚きには「想像で臨場感(現場感覚)を再現することは基本的に難しい」という前提がある)。
こういう経験を何度かしていくうちに、現場感覚に磨きがかかる(「その時」に後で後悔しないような行動を自然に選択できる)とともに、後でくよくよ後悔することも減っていくのではないだろうか(この2つは同じことだが)。
ではその「理想の形」は具体的にどう実現されるのか、ということについては、実はこの記事を「実現できたから書いている」のではなくて「実現できたら充実した感覚が得られそうだなと思ったから書いている」のであって、つまり単に予感にシビれただけでその「できそう」の中身はまだ空っぽのままだったりする。ははは。
まあこの手の話は予感さえ訪れればあとはするっと進んでいく(予感がする)ので、それが経験できて、抽象できそうなら続きを書こうと思う。
キーワードは「するっと洒脱に」ですね。
リアル洒脱(また分からんネタを…)。
自分が「そこに居たい場所」を具体的に想像すれば叶う、という話でした。
それは「思ったその通りになる」のではなくて「発展形アリの数打ちゃ当たる」といったもので、願いが叶った時に何がいちばん嬉しいかといえば「ああ、うれしいな」と思えることでそれは叶い方にこだわると見失われるものだ。
という説明は前回したような気もするので、早速列挙をはじめてみよう。
・海か川がそばにある
流れているものが近くにあってほしい。今の寮でも部屋から空をぼーっと眺めることはあってそれは空の色のグラデーション(ディスプレイの品質に関わる仕事をしているので目は肥えている気がする)とか雲の動き(自分から見える雲の流れる速さが風速だけでなく雲のいる高さによっても違うことに最近気付いたがそれは簡単な話で今まで考えなかっただけ)を見ていて以前のロールシャッハ的な見方をしなくなったのだけど、それは単純に「流れ」を見ている。
頭がからっぽになっているのが心地よいのかもしれないが、空や雲を見る合間に鳥が飛ぶのが視界に入れば見えなくなるまで追いかけたりもしていて、鳥に関して言えば「秩序から無秩序を見出そうとしている」と考えたことがある。
自然とは秩序立っているように見えてじっさいのところそれは人が自然から物質的に無秩序を排除してきたことと人の目には無秩序より秩序の方が認識しやすいことに因っていて、意識的にと書くと矛盾しているように思えるがやはり意識的にならないと無秩序を感じることはできない。
鳥の動きは鳥が自分の意思で飛びたいように飛んでいると思うのは安直な想像の結果であって、もう少し考えれば「風を読んでいる、あるいは気流に従っている」とか「羽への負担が最小限になるように飛んでいる」とか想定できて、すると最初に行こうと思っていたところと違う所にたどり着くこともあるのかなと思って、いやそもそも行き先を最初に決めるなんてことは(雛が待っているとかではなくて、特に渡り鳥なら)ないかもしれない。
少し話が逸れたけれど無秩序の話をしていたので戻すと、地上から見える鳥の飛び方(羽ばたくタイミングや飛行コースなど)は気流や羽の形状(航空力学の分野?)や鳥の種別ごとの消費エネルギィなどを考えれば説明できるのかもしれないが、僕はそれらを駆使して鳥の飛行の完全なる原理解明を目指すつもりはなくて、「飛行コースと気流は密接な関係がある」という前提のもとに飛行コースから目には見えない気流を感じ取ろうとしていて(これはベランダからの視界に広がる田んぼの稲穂が風に揺れる様をマクロにとらえようとする意識が目指すところと一致している)、恐らく小さな領域であっても(もちろん三次元的な)気流の継時変化を完全に把握することはまだコンピュータの計算能力でカバーできないはずで、それはつまり部屋から見える田んぼや山々を取り巻く気流は無秩序であってその気流と戯れるように飛び回る鳥の飛行コースは無秩序を体現していることになる。
だから鳥の飛行コースをじっと眺めているとある程度以上のところで言葉がついてこなくなる(最初から言語化しないでぼーっと見ることもあるが、そうではなく言葉で表現しようとして観測している場合)。
…話をぐーんと戻すと、川の流れも同じ様な無秩序を体現していて、それをぼーっと眺められる日常に憧れているのだ。
とだけ書けば今と変わらないと思われそうだが、ポイントは水だ…のはずだが、どうやらこの先は考えていなかったらしいので今回はパス。
これまで川の近くに住んだことがなく旅行先でしか触れ合ったことがないからちょっと頑張って想像しないといけない…と言ったそばから大学院の時に鴨川のそばに住んでいた(しかもよく散歩していた)ことを思い出した。あの時は精神状態が今ほど自由でなかった(時間は有り余るほどあったが基調がネガティブであった)ので当時に感じた印象を思い起こすのとは違う想像をした方がよいかもしれない。
話の筋を整える気が全くない文章で恐縮だけれど、川だけでなく海も入れたのは次に書こうと思っていた「港があってすぐそばから傾斜が始まって坂道に展開する街並が河口から見渡せるところ」が念頭にあったからで、そうすると「海か川」でなくて「海と川」になる。
…列挙しようとして一つ目で力尽きるのは予想外でした。。
というわけで次回以降まだまだ続きます。
それは「思ったその通りになる」のではなくて「発展形アリの数打ちゃ当たる」といったもので、願いが叶った時に何がいちばん嬉しいかといえば「ああ、うれしいな」と思えることでそれは叶い方にこだわると見失われるものだ。
という説明は前回したような気もするので、早速列挙をはじめてみよう。
・海か川がそばにある
流れているものが近くにあってほしい。今の寮でも部屋から空をぼーっと眺めることはあってそれは空の色のグラデーション(ディスプレイの品質に関わる仕事をしているので目は肥えている気がする)とか雲の動き(自分から見える雲の流れる速さが風速だけでなく雲のいる高さによっても違うことに最近気付いたがそれは簡単な話で今まで考えなかっただけ)を見ていて以前のロールシャッハ的な見方をしなくなったのだけど、それは単純に「流れ」を見ている。
頭がからっぽになっているのが心地よいのかもしれないが、空や雲を見る合間に鳥が飛ぶのが視界に入れば見えなくなるまで追いかけたりもしていて、鳥に関して言えば「秩序から無秩序を見出そうとしている」と考えたことがある。
自然とは秩序立っているように見えてじっさいのところそれは人が自然から物質的に無秩序を排除してきたことと人の目には無秩序より秩序の方が認識しやすいことに因っていて、意識的にと書くと矛盾しているように思えるがやはり意識的にならないと無秩序を感じることはできない。
鳥の動きは鳥が自分の意思で飛びたいように飛んでいると思うのは安直な想像の結果であって、もう少し考えれば「風を読んでいる、あるいは気流に従っている」とか「羽への負担が最小限になるように飛んでいる」とか想定できて、すると最初に行こうと思っていたところと違う所にたどり着くこともあるのかなと思って、いやそもそも行き先を最初に決めるなんてことは(雛が待っているとかではなくて、特に渡り鳥なら)ないかもしれない。
少し話が逸れたけれど無秩序の話をしていたので戻すと、地上から見える鳥の飛び方(羽ばたくタイミングや飛行コースなど)は気流や羽の形状(航空力学の分野?)や鳥の種別ごとの消費エネルギィなどを考えれば説明できるのかもしれないが、僕はそれらを駆使して鳥の飛行の完全なる原理解明を目指すつもりはなくて、「飛行コースと気流は密接な関係がある」という前提のもとに飛行コースから目には見えない気流を感じ取ろうとしていて(これはベランダからの視界に広がる田んぼの稲穂が風に揺れる様をマクロにとらえようとする意識が目指すところと一致している)、恐らく小さな領域であっても(もちろん三次元的な)気流の継時変化を完全に把握することはまだコンピュータの計算能力でカバーできないはずで、それはつまり部屋から見える田んぼや山々を取り巻く気流は無秩序であってその気流と戯れるように飛び回る鳥の飛行コースは無秩序を体現していることになる。
だから鳥の飛行コースをじっと眺めているとある程度以上のところで言葉がついてこなくなる(最初から言語化しないでぼーっと見ることもあるが、そうではなく言葉で表現しようとして観測している場合)。
…話をぐーんと戻すと、川の流れも同じ様な無秩序を体現していて、それをぼーっと眺められる日常に憧れているのだ。
とだけ書けば今と変わらないと思われそうだが、ポイントは水だ…のはずだが、どうやらこの先は考えていなかったらしいので今回はパス。
これまで川の近くに住んだことがなく旅行先でしか触れ合ったことがないからちょっと頑張って想像しないといけない…と言ったそばから大学院の時に鴨川のそばに住んでいた(しかもよく散歩していた)ことを思い出した。あの時は精神状態が今ほど自由でなかった(時間は有り余るほどあったが基調がネガティブであった)ので当時に感じた印象を思い起こすのとは違う想像をした方がよいかもしれない。
話の筋を整える気が全くない文章で恐縮だけれど、川だけでなく海も入れたのは次に書こうと思っていた「港があってすぐそばから傾斜が始まって坂道に展開する街並が河口から見渡せるところ」が念頭にあったからで、そうすると「海か川」でなくて「海と川」になる。
…列挙しようとして一つ目で力尽きるのは予想外でした。。
というわけで次回以降まだまだ続きます。
近頃ようやく夕方が涼しくなってきたので毎週末に散歩に出ている。
(気のせいか、日が暮れる前の方が夜より涼しい気がする。風のおかげ?)
からりと晴れることが、少し前の「随時にわか雨体勢」な不安定な数日からなくなっていて(今はそんな湿気ているわけではない)、それと関係があるのか夕方頃の雲が日替わりの壮観を呈していて、部屋から見える(色のみならず形も)彩り豊かな秋空を眺めているとじっとしていられない。
散歩コースは決まっていて、すぐ近くを流れる川の土手に出て川沿いを歩き(しばらくは歩道が続くのだ)、歩道の切れる所で川を離れて山(と言って戸建の連なる低い丘)へ向かい、大体の方向は決めて路地をジグザグ進みつつ、TESCO(3つある近所のスーパーのうちの1つ。ここにしか置いてない輸入ものがお目当て)に寄って買い物をし、下りも閑静な住宅街(車はたまにしか通らないし暗い。僕好みだけど女の人は一人では歩けなさそう)を練り歩いて帰途につく。
ちょっと散歩の仕方が変わったようで、まず周りをきょろきょろ見なくなった。
海外旅行の「おのぼりさん」的挙動不審を所構わずやるのが散歩スタイルなのだけど、もちろん日が暮れると何も見えないからしないわけではなくもともとあまり見えていない(いつも裸眼で歩く)ので輪郭だけとらえての想像力勝負なところはあって今もそれをしている時もある(という言い方をするのは意識していなければ勝手にそうなるからだ)のだけど、自分の足下を見たり、そのすぐ前の地面に目線を据えたまま歩いていることが少し増えたように思う。
それは何か考え事をしているからではなくむしろ何も考えていないがゆえの歩行スタイルであって、ちゃんと言えば「何も考えていない」ようになろうと意識して歩いている。
最近ふっと意識がそれた時に特定の言葉が浮かぶ癖がついてしまったようで、その理由やその瞬間の状況について実地的経験をもとに考察を深めているのだけど(実地もなにも、何をしていても起こるので数えきれないほどの経験を積んでいるのだ)、まだその理由を一つに断定する気もないけれど3つ目に思い付いたこれが一番ありそうかなと思うものがあって、それは自分が「言葉から離れたいと思っている」のではないか、と。
とだけ言えば誤解を招くので言い換えると、四六時中言葉について(あるいは言葉を使って)考えているとイヤになるので「たまにはぼーっとさせてくれ」と自分の中のどこかが訴えかけているのではと思ったのだ。
この「特定の言葉が浮かぶ瞬間」の状況をいえば、「集中が切れた時」と前に書いたけどこの表現だと少し的を外れていて、おそらく「思考の階層が繰り上がった時」すなわち思考内容そのものからその内容の枠組みに視点(←思考の話なのに視覚の表現なのだな)が移った時と言った方が近い。
これは構造主義的思考として珍重(というほど珍しくないので…有用視?)していてむしろどんどんやりたまえと思っていたのだけど、実はこの傾向は病的でもあるという認識をかつての自分がもったことがあって(この思考の流れが無意識にごく自然に為される機制は院生時代の絶望的なコミュニケーション不成立状況において形成されたのだった)、思考は充実していても徹底的に「閉じた状態」(しかも自然に←傍目には「ふつうに見えるけど何か違和感がある(何か通じない)」という僅かな違和感のみある、と僕は想像している)であるということを忘れていた。
別にそれはいいのかもしれないけど(ぶちっ←あ、ひどい)、きっと振る舞いの自然さを取り戻そうとしているのかもしれなくて、ここで自然というのは、閉じているのならそうと分かるように閉じるといった「見かけと中身の一致」のこと。
それは単純なことなのだけど、特に面白くないからやらないでもいい単純さではなくて、コミュニケーションのルールだから守らなくてはいけない単純さなのだ。
だからそれをなおざりにしていた自分は身を世間に晒し回る散歩という行為において反省的に再構築しようとしている…のか? ホンマかいな?
…多分違います。何せ話がズレまくってるから。すみません。
話を幾分か戻すと、上で触れた「意識がそれた時に浮かぶ言葉」はすぐイメージに結びつく特定の言葉であって、つまり肝心なところ、その言葉が間髪入れずにイメージに変換されるせいでその後に別の言葉が続かない。
だからこの癖が「言葉による思考の打ち切り宣言」のようにも受け取れるのだ。
散歩の時にきょろきょろしなくなったこととはこの話と少しつながっていて、きょろきょろしなくなったという変化においては「何を集中的に見ているか」よりは「何を見なくなったか」の方が大事で、それは文字なのだ。
風景と文字をごっちゃに見ていると風景からも文字が勝手に連想されてくる、ということもあるかもしれないが(という話もしたいのだが今回は泣く泣く諦める)、何かを集中してみるのではなく「見るともなく見る」ことで言葉による連想を遮ってみようという実験を最近始めた、ということが本記事を書く前に言おうと決めていたこと(たぶん)。
で、歩きながらなにかを見るともなく見るのだけど、それは視覚に関係なく物思いにふけるのではなくて、「意識は視覚にとらわれているのだけどそれを言葉に変換しない」ことができるのかな、というのがその実験内容で、昨日やってみた感想としては、実に難しい。
意識がある以上なにかを見ていればなにかを連想するのだと思うのだが、言葉を介さないで連想するなんてことは不可能じゃないかと思ってしまった。
という一文が、実感の吐露ではあるのだけど「なにやら色々怪しい」ので、怪しいなとだけ言っておきます。
うーん、どう転がってくのかなこの話。。
(気のせいか、日が暮れる前の方が夜より涼しい気がする。風のおかげ?)
からりと晴れることが、少し前の「随時にわか雨体勢」な不安定な数日からなくなっていて(今はそんな湿気ているわけではない)、それと関係があるのか夕方頃の雲が日替わりの壮観を呈していて、部屋から見える(色のみならず形も)彩り豊かな秋空を眺めているとじっとしていられない。
散歩コースは決まっていて、すぐ近くを流れる川の土手に出て川沿いを歩き(しばらくは歩道が続くのだ)、歩道の切れる所で川を離れて山(と言って戸建の連なる低い丘)へ向かい、大体の方向は決めて路地をジグザグ進みつつ、TESCO(3つある近所のスーパーのうちの1つ。ここにしか置いてない輸入ものがお目当て)に寄って買い物をし、下りも閑静な住宅街(車はたまにしか通らないし暗い。僕好みだけど女の人は一人では歩けなさそう)を練り歩いて帰途につく。
ちょっと散歩の仕方が変わったようで、まず周りをきょろきょろ見なくなった。
海外旅行の「おのぼりさん」的挙動不審を所構わずやるのが散歩スタイルなのだけど、もちろん日が暮れると何も見えないからしないわけではなくもともとあまり見えていない(いつも裸眼で歩く)ので輪郭だけとらえての想像力勝負なところはあって今もそれをしている時もある(という言い方をするのは意識していなければ勝手にそうなるからだ)のだけど、自分の足下を見たり、そのすぐ前の地面に目線を据えたまま歩いていることが少し増えたように思う。
それは何か考え事をしているからではなくむしろ何も考えていないがゆえの歩行スタイルであって、ちゃんと言えば「何も考えていない」ようになろうと意識して歩いている。
最近ふっと意識がそれた時に特定の言葉が浮かぶ癖がついてしまったようで、その理由やその瞬間の状況について実地的経験をもとに考察を深めているのだけど(実地もなにも、何をしていても起こるので数えきれないほどの経験を積んでいるのだ)、まだその理由を一つに断定する気もないけれど3つ目に思い付いたこれが一番ありそうかなと思うものがあって、それは自分が「言葉から離れたいと思っている」のではないか、と。
とだけ言えば誤解を招くので言い換えると、四六時中言葉について(あるいは言葉を使って)考えているとイヤになるので「たまにはぼーっとさせてくれ」と自分の中のどこかが訴えかけているのではと思ったのだ。
この「特定の言葉が浮かぶ瞬間」の状況をいえば、「集中が切れた時」と前に書いたけどこの表現だと少し的を外れていて、おそらく「思考の階層が繰り上がった時」すなわち思考内容そのものからその内容の枠組みに視点(←思考の話なのに視覚の表現なのだな)が移った時と言った方が近い。
これは構造主義的思考として珍重(というほど珍しくないので…有用視?)していてむしろどんどんやりたまえと思っていたのだけど、実はこの傾向は病的でもあるという認識をかつての自分がもったことがあって(この思考の流れが無意識にごく自然に為される機制は院生時代の絶望的なコミュニケーション不成立状況において形成されたのだった)、思考は充実していても徹底的に「閉じた状態」(しかも自然に←傍目には「ふつうに見えるけど何か違和感がある(何か通じない)」という僅かな違和感のみある、と僕は想像している)であるということを忘れていた。
別にそれはいいのかもしれないけど(ぶちっ←あ、ひどい)、きっと振る舞いの自然さを取り戻そうとしているのかもしれなくて、ここで自然というのは、閉じているのならそうと分かるように閉じるといった「見かけと中身の一致」のこと。
それは単純なことなのだけど、特に面白くないからやらないでもいい単純さではなくて、コミュニケーションのルールだから守らなくてはいけない単純さなのだ。
だからそれをなおざりにしていた自分は身を世間に晒し回る散歩という行為において反省的に再構築しようとしている…のか? ホンマかいな?
…多分違います。何せ話がズレまくってるから。すみません。
話を幾分か戻すと、上で触れた「意識がそれた時に浮かぶ言葉」はすぐイメージに結びつく特定の言葉であって、つまり肝心なところ、その言葉が間髪入れずにイメージに変換されるせいでその後に別の言葉が続かない。
だからこの癖が「言葉による思考の打ち切り宣言」のようにも受け取れるのだ。
散歩の時にきょろきょろしなくなったこととはこの話と少しつながっていて、きょろきょろしなくなったという変化においては「何を集中的に見ているか」よりは「何を見なくなったか」の方が大事で、それは文字なのだ。
風景と文字をごっちゃに見ていると風景からも文字が勝手に連想されてくる、ということもあるかもしれないが(という話もしたいのだが今回は泣く泣く諦める)、何かを集中してみるのではなく「見るともなく見る」ことで言葉による連想を遮ってみようという実験を最近始めた、ということが本記事を書く前に言おうと決めていたこと(たぶん)。
で、歩きながらなにかを見るともなく見るのだけど、それは視覚に関係なく物思いにふけるのではなくて、「意識は視覚にとらわれているのだけどそれを言葉に変換しない」ことができるのかな、というのがその実験内容で、昨日やってみた感想としては、実に難しい。
意識がある以上なにかを見ていればなにかを連想するのだと思うのだが、言葉を介さないで連想するなんてことは不可能じゃないかと思ってしまった。
という一文が、実感の吐露ではあるのだけど「なにやら色々怪しい」ので、怪しいなとだけ言っておきます。
うーん、どう転がってくのかなこの話。。
保坂和志の文章を読むと、つい悠々自適の生活を想像してしまう。
それは最初は保坂氏がそういう生活をしている様であったハズなのだけど、いつの間にか自分がそんなゆるやかな時間のながれる日々を過ごす絵になっている。
きっとそれは「いつかそうありたい」という夢のようなものだと思う。
このことについては「(現実での生活を成り立たせつつ)そのように想像している限りで効果のある想像だ」と前に書いたことがあった。
今続いている社会人生活を離れるときっと落ち着かなくなる、と。
そうかもしれない。
が、どうもその「悠々自適の生活」を具体的に想像しておきたいなと最近思うようになった。
村上春樹や森博嗣のある種の本(主にエッセイか)も上と似たような感覚を自分に惹き起こしてくれるようで、要は彼らの「フリー」のそれぞれ具体的な描写を読むにつれて自分なりの絵が浮かび上がってきた、のかもしれない。
もちろんすぐに実現しようとは思わなくて、むしろ流されるままにそのような生活に落ち着けば素晴らしいことだなあという(それが実現した時の感覚の)予想があって、その予想の的中率を上げる方法の一つが想像の具体化なのだ。
なんでもかでも予測できてあたりまえ(←業績とか地震とか、実際にできるかどうかではなくて「そうあるべき」という価値観として)の世の中で「思った通り」の感覚の驚きというか清々しさはあまりないように思えるけれど、上で書いた「予想の的中」はこれとはある意味逆で、何か展開した(=事が起こった)時に「ああ、そういえばこんなことを望んでいたかもしれない」という事後認証的運命感とでも呼べるようなもののことである。
予測というのは思った通りのことが起こって安心するわけで、予測の価値観は予想外の出来事を嫌う。
それは完全に頭の中で完結した話であって、それは面白くないと思うのはまあ勝手だけど自分はそう思っていて、「頭の中だけの話ならわざわざ頭の外で確かめる必要はないんじゃないの」と思っている(そして現実の面白さは予測が外れた時にこそある)。
予測主義とはきっと身体感覚を頭の感覚(=養老氏のいう「ああすればこうなる」)に馴致させることを当為としていて、それは都市の論理でありコンピュータがその理想となる。
脳は限界を知らないから(際限の無さを志向するものだから)身体まで侵蝕しようとするのだけど、それはソフトウェアがハードウェアを食い破るようなもので、どこかで共倒れというか動作がストップすることになる。
そうして永遠に動かなくなることで無限を体現したことになる、と言えたとしてもそれはもう外からの視点で本人には知る由もなくて、だからやっぱり脳の志向(のいちばん底にあるもの)は原理的に実現不可能である。
「そゆことは君も分かってんだから少しは自重しなさい」てな説教を頭に時々してあげる(この主語はもちろん「身体」)ことで人はだましだまし生きていける、というような「身体と脳の調和」の話を義務教育でするにはいつがいいんだろう?
という話がしたかったわけではもちろんなくて。
自分なりの悠々自適の生活の想像が具体的になりつつある今、その構成要素をメモしておこうと思ったのだった。
自分なりと言いながらおそらく上述の本の要素の寄せ集めになりそうな気もするが、それは最初だけで、具体的な想像を積み立てていくうちに自分の経験のいろいろな断片が混ざり込んでいくだろうと予想している。
もちろんそれらをラベル付けして分ける意味はない。
もひとつ言ってしまえば、自分の想像に自分がどれだけ引っぱられるかな、という怖いもの見たさもある。
つまり今まで漠然としか想像しなかった理由がその想像力の影響の強さを恐れていたことにあるのかもしれない、ということだ。
それは知ってしまうと日常の懸命さとか誠実さとかがバカらしくなってしまう世の中の暗部、と機能としては同じもの(もちろんそんな大層なものではないだろう)。
ただこう考えた時、自分としてはこれは乗り越えておきたい壁に思えるのだ。
いつか「考えることから逃げない」と呟いた自分にとって。
身体の調子(正確には「健全な思考を遂行するに適した身体と脳の調和が取れている状態」)が許す時間内では何でも考えてやるという酔狂な実験は未だ続いている(もう6年目くらいかしら)。
…そだったね、書いてて思い出したわ。
ということで本題に入る前に一区切りついてしまったので、シリーズ化して次から具体化していきます。
それは最初は保坂氏がそういう生活をしている様であったハズなのだけど、いつの間にか自分がそんなゆるやかな時間のながれる日々を過ごす絵になっている。
きっとそれは「いつかそうありたい」という夢のようなものだと思う。
このことについては「(現実での生活を成り立たせつつ)そのように想像している限りで効果のある想像だ」と前に書いたことがあった。
今続いている社会人生活を離れるときっと落ち着かなくなる、と。
そうかもしれない。
が、どうもその「悠々自適の生活」を具体的に想像しておきたいなと最近思うようになった。
村上春樹や森博嗣のある種の本(主にエッセイか)も上と似たような感覚を自分に惹き起こしてくれるようで、要は彼らの「フリー」のそれぞれ具体的な描写を読むにつれて自分なりの絵が浮かび上がってきた、のかもしれない。
もちろんすぐに実現しようとは思わなくて、むしろ流されるままにそのような生活に落ち着けば素晴らしいことだなあという(それが実現した時の感覚の)予想があって、その予想の的中率を上げる方法の一つが想像の具体化なのだ。
なんでもかでも予測できてあたりまえ(←業績とか地震とか、実際にできるかどうかではなくて「そうあるべき」という価値観として)の世の中で「思った通り」の感覚の驚きというか清々しさはあまりないように思えるけれど、上で書いた「予想の的中」はこれとはある意味逆で、何か展開した(=事が起こった)時に「ああ、そういえばこんなことを望んでいたかもしれない」という事後認証的運命感とでも呼べるようなもののことである。
予測というのは思った通りのことが起こって安心するわけで、予測の価値観は予想外の出来事を嫌う。
それは完全に頭の中で完結した話であって、それは面白くないと思うのはまあ勝手だけど自分はそう思っていて、「頭の中だけの話ならわざわざ頭の外で確かめる必要はないんじゃないの」と思っている(そして現実の面白さは予測が外れた時にこそある)。
予測主義とはきっと身体感覚を頭の感覚(=養老氏のいう「ああすればこうなる」)に馴致させることを当為としていて、それは都市の論理でありコンピュータがその理想となる。
脳は限界を知らないから(際限の無さを志向するものだから)身体まで侵蝕しようとするのだけど、それはソフトウェアがハードウェアを食い破るようなもので、どこかで共倒れというか動作がストップすることになる。
そうして永遠に動かなくなることで無限を体現したことになる、と言えたとしてもそれはもう外からの視点で本人には知る由もなくて、だからやっぱり脳の志向(のいちばん底にあるもの)は原理的に実現不可能である。
「そゆことは君も分かってんだから少しは自重しなさい」てな説教を頭に時々してあげる(この主語はもちろん「身体」)ことで人はだましだまし生きていける、というような「身体と脳の調和」の話を義務教育でするにはいつがいいんだろう?
という話がしたかったわけではもちろんなくて。
自分なりの悠々自適の生活の想像が具体的になりつつある今、その構成要素をメモしておこうと思ったのだった。
自分なりと言いながらおそらく上述の本の要素の寄せ集めになりそうな気もするが、それは最初だけで、具体的な想像を積み立てていくうちに自分の経験のいろいろな断片が混ざり込んでいくだろうと予想している。
もちろんそれらをラベル付けして分ける意味はない。
もひとつ言ってしまえば、自分の想像に自分がどれだけ引っぱられるかな、という怖いもの見たさもある。
つまり今まで漠然としか想像しなかった理由がその想像力の影響の強さを恐れていたことにあるのかもしれない、ということだ。
それは知ってしまうと日常の懸命さとか誠実さとかがバカらしくなってしまう世の中の暗部、と機能としては同じもの(もちろんそんな大層なものではないだろう)。
ただこう考えた時、自分としてはこれは乗り越えておきたい壁に思えるのだ。
いつか「考えることから逃げない」と呟いた自分にとって。
身体の調子(正確には「健全な思考を遂行するに適した身体と脳の調和が取れている状態」)が許す時間内では何でも考えてやるという酔狂な実験は未だ続いている(もう6年目くらいかしら)。
…そだったね、書いてて思い出したわ。
ということで本題に入る前に一区切りついてしまったので、シリーズ化して次から具体化していきます。
ことばを用いて考えるパターンについて。
思考そのものは単線的ではなくて「一つのことを考えよう」と思って、その道に従っているという意識の中において思考は単線的となる。
で、その線上をそのまま進むとはふつう、言葉をツールとして使う。
言葉にしてから自分の考えに気付くのであれ、先行するもやっとしたイメージを言葉になおしてそういうことなのだと確認するのであれ、そこで使う言葉そのものについて考えることはない。
が、往々にして独りでぽーっと考えていて、すなわち目的もなく予想到達点も見あたらないままとりとめなく考えていると、文章(上でいう「単線」)にするつもりの言葉をいつの間にか分解し始めていることがある。
それも定まった道がないというだけで同じ思考ではあって、獣道(いつか通った道かもしれないがぼうぼうの草に覆われてその判別はかなわない)であれうねうねしていようとも単線に変わりはないとも言える。
そしてそれらの意味で同じ(違う)とは言えて、でも今挙げた以外の「質の違い」があるとなんとなく思う。
質ではなく構造かしら。
…単に「我を忘れて(ひとつの)思考に耽るのがイヤで客観的な(?)視座を確保していたい」という願望の、わりとレベルの低い顕れかなと思ってみる。
当事者意識と呼ばれるものが最近「責任を感じろ」という物事の円滑な進行と(本質的には)関係のない意味を主に帯びているように思われていて(と言って会社でそんな会話は露とも出てこないのできっと新聞を読んでいてそう思っているのだろう)、その反発からか(とある問題に対し言ってみれば当事者である)自分の立ち位置に対する意識を希薄にする傾向が自分にはあって、それはどちらかといえば当事者意識が薄れる側に傾くことになっている。
しかし完全に無責任というわけではないが、負うべき責任の多寡(問題を起こした時に自分がとるべき対応など)を想像の及ぶ限り(という表現は物凄く弾力的なのだが)は想定するがその想像は「ではその責任を取らないでもよいように頑張ろう」ではなく「取らざるを得なくなる状況が生じれば仕方ないよね」という認識の定着に活用されていて、その結果何が起こっているかといえば「当事者意識が表に出てこない」ために外からは無責任に見えて、とはいえ以上の想像に執着はないのでその外見を咎められれば(しばしば必要以上に)当事者意識を湧出させるという、いちおう言葉にすれば長いが「組織内での仕事意識の持ちよう」としての一つのスタンスを形成してはいて、ではなぜこんなややこしいことをしているのかと言えばこれが「非{非(非原理主義的原理主義)的原理主義}的…」の実践と思い込んでいる。
この{ ( ) }は高校の英文法で関係代名詞を習った時の使い方をしていて、同じ括弧で閉じられればその中身はひとまとまりとして考えることができる(英文法の話では主語や補語の抜けた一文がwhichと等価になるというワザでこのwhichが関係代名詞と呼ばれる…って自分は誰に向けてこんなことを書いているのか?)という実は抽象すれば(もうしたんだけど)画期的な思考方法であって、構造主義の基本的な思考概念を「括弧に入れる」と訳してあるのは本当にイメージにぴったりだなと思うがそれは今は関係なくて、上に書いた「スタンス」はこの括弧を2つは使えているはずなのである。
この括弧は原理的に無限大まで増やすことができて、けれどその括弧に伴う実質というのは括弧が増えるほど薄くなっていくのだが(というかふつう誰も増やそうと思わない)、原理主義の打破を「可変的に」追求する人間の中ではその試みが上手く行っていれば時の流れに従い括弧が増えていくはずである、原理的には。
閑話休題。
思考が単語の分解に流れてしまう意識を解析しようとしていたのだった。
簡単にまとめれば、本来の単線思考を紡ぐ集中力がないだけかもしれないし、その単線思考が今やってもろくな方向にいかないという感覚があってやらないでいるだけかもしれない。
…これは解析ではなく「意味付け」ですね。
ここでの意味付けは、思考を続けるためではなく思考を終わらせるために用いられたことがよく分かる。
そう、「予定」がある限り思考はどこかで打ち止めにしなければならないのだ。
一つのことを何日にもわたって考え続けることを「集中力がある」と誉め讃えることは可能だが、公私の切り替えをスムーズにこなさねばならぬ社会人の「バランスの維持というノルマ」とそれは両立し難い。
それが両立されているように見える場合、恐らく後者が犠牲にされている。
こんなことを断言できるのは自分の精神体力が未熟だからにほかならない。
高校時代の話だが、僕は短距離走は大の苦手で、長距離走にも全く自信がなく(体力以前に腹痛ですぐ走れなくなる)、その頃からこの傾向が改善されたとは思っていなくて、今は徒歩(あるいは競歩に近いかもしれない)の継続に要する精神力(実は体力ではない!)を自負している。
「脚による歩み」を思考のメタファーとしようとしているのだが、上で精神体力と書いたのは持続力に見えて実は瞬発力であって(1週間も1年に比べれば一瞬…とまで言わずとも短いだろう)、自分はとても長い基準における持続的な思考に自信を持ってよいのだと思う。
というか身体がそれを要請していて、頭は「そうなってもいいな」と思っているのだと思いたい。
つまりバランスを維持しながらの持続的な思考とは、ひとスパンの思考ごとにふんぎり(落としどころ)をつけつつも同時に「もやもや」も残して次につなげるという技術の洗練がカギだということだ。
だからこんなにズルズルやっててはいかんのだよ。
というオチでした。ガオー。
+*+*+*
2012/08/27(Mon)22:15:58
そうか、単語を分解して遊ぶのは「お手軽トリップ」効果をアテにしてのことなのだ。何か今と違うことを考えたいな、気分を変えたいな、と思っている時、その考えを構成する単語を分解する(そうして全く別の意味が生まれる)だけでそれが達成されてしまう。レベルが低い、と言ったのはこれがたんなる連想ゲームに終わることが多いから。「深めうる予感」もすっ飛ばして言葉の表面で転がり回ってるだけ。そしてもちろんこれは集中している状態とは程遠い。もはや縁遠いけど、テレビを流し見しているようなものかもしれない。
+*+*+*
2012/08/27(Mon)22:22:40
「お手軽トリップ」とは例えば…家にいるのに仕事の文脈で「長所と短所」という考えが浮かんだ時、「ちょうしょとたんしょ、ちょうたん、たんちょう…タンチョウ」とくればもう(もちろん頭の中で)体は湖に浮かんでいることになる。
思考そのものは単線的ではなくて「一つのことを考えよう」と思って、その道に従っているという意識の中において思考は単線的となる。
で、その線上をそのまま進むとはふつう、言葉をツールとして使う。
言葉にしてから自分の考えに気付くのであれ、先行するもやっとしたイメージを言葉になおしてそういうことなのだと確認するのであれ、そこで使う言葉そのものについて考えることはない。
が、往々にして独りでぽーっと考えていて、すなわち目的もなく予想到達点も見あたらないままとりとめなく考えていると、文章(上でいう「単線」)にするつもりの言葉をいつの間にか分解し始めていることがある。
それも定まった道がないというだけで同じ思考ではあって、獣道(いつか通った道かもしれないがぼうぼうの草に覆われてその判別はかなわない)であれうねうねしていようとも単線に変わりはないとも言える。
そしてそれらの意味で同じ(違う)とは言えて、でも今挙げた以外の「質の違い」があるとなんとなく思う。
質ではなく構造かしら。
…単に「我を忘れて(ひとつの)思考に耽るのがイヤで客観的な(?)視座を確保していたい」という願望の、わりとレベルの低い顕れかなと思ってみる。
当事者意識と呼ばれるものが最近「責任を感じろ」という物事の円滑な進行と(本質的には)関係のない意味を主に帯びているように思われていて(と言って会社でそんな会話は露とも出てこないのできっと新聞を読んでいてそう思っているのだろう)、その反発からか(とある問題に対し言ってみれば当事者である)自分の立ち位置に対する意識を希薄にする傾向が自分にはあって、それはどちらかといえば当事者意識が薄れる側に傾くことになっている。
しかし完全に無責任というわけではないが、負うべき責任の多寡(問題を起こした時に自分がとるべき対応など)を想像の及ぶ限り(という表現は物凄く弾力的なのだが)は想定するがその想像は「ではその責任を取らないでもよいように頑張ろう」ではなく「取らざるを得なくなる状況が生じれば仕方ないよね」という認識の定着に活用されていて、その結果何が起こっているかといえば「当事者意識が表に出てこない」ために外からは無責任に見えて、とはいえ以上の想像に執着はないのでその外見を咎められれば(しばしば必要以上に)当事者意識を湧出させるという、いちおう言葉にすれば長いが「組織内での仕事意識の持ちよう」としての一つのスタンスを形成してはいて、ではなぜこんなややこしいことをしているのかと言えばこれが「非{非(非原理主義的原理主義)的原理主義}的…」の実践と思い込んでいる。
この{ ( ) }は高校の英文法で関係代名詞を習った時の使い方をしていて、同じ括弧で閉じられればその中身はひとまとまりとして考えることができる(英文法の話では主語や補語の抜けた一文がwhichと等価になるというワザでこのwhichが関係代名詞と呼ばれる…って自分は誰に向けてこんなことを書いているのか?)という実は抽象すれば(もうしたんだけど)画期的な思考方法であって、構造主義の基本的な思考概念を「括弧に入れる」と訳してあるのは本当にイメージにぴったりだなと思うがそれは今は関係なくて、上に書いた「スタンス」はこの括弧を2つは使えているはずなのである。
この括弧は原理的に無限大まで増やすことができて、けれどその括弧に伴う実質というのは括弧が増えるほど薄くなっていくのだが(というかふつう誰も増やそうと思わない)、原理主義の打破を「可変的に」追求する人間の中ではその試みが上手く行っていれば時の流れに従い括弧が増えていくはずである、原理的には。
閑話休題。
思考が単語の分解に流れてしまう意識を解析しようとしていたのだった。
簡単にまとめれば、本来の単線思考を紡ぐ集中力がないだけかもしれないし、その単線思考が今やってもろくな方向にいかないという感覚があってやらないでいるだけかもしれない。
…これは解析ではなく「意味付け」ですね。
ここでの意味付けは、思考を続けるためではなく思考を終わらせるために用いられたことがよく分かる。
そう、「予定」がある限り思考はどこかで打ち止めにしなければならないのだ。
一つのことを何日にもわたって考え続けることを「集中力がある」と誉め讃えることは可能だが、公私の切り替えをスムーズにこなさねばならぬ社会人の「バランスの維持というノルマ」とそれは両立し難い。
それが両立されているように見える場合、恐らく後者が犠牲にされている。
こんなことを断言できるのは自分の精神体力が未熟だからにほかならない。
高校時代の話だが、僕は短距離走は大の苦手で、長距離走にも全く自信がなく(体力以前に腹痛ですぐ走れなくなる)、その頃からこの傾向が改善されたとは思っていなくて、今は徒歩(あるいは競歩に近いかもしれない)の継続に要する精神力(実は体力ではない!)を自負している。
「脚による歩み」を思考のメタファーとしようとしているのだが、上で精神体力と書いたのは持続力に見えて実は瞬発力であって(1週間も1年に比べれば一瞬…とまで言わずとも短いだろう)、自分はとても長い基準における持続的な思考に自信を持ってよいのだと思う。
というか身体がそれを要請していて、頭は「そうなってもいいな」と思っているのだと思いたい。
つまりバランスを維持しながらの持続的な思考とは、ひとスパンの思考ごとにふんぎり(落としどころ)をつけつつも同時に「もやもや」も残して次につなげるという技術の洗練がカギだということだ。
だからこんなにズルズルやっててはいかんのだよ。
というオチでした。ガオー。
+*+*+*
2012/08/27(Mon)22:15:58
そうか、単語を分解して遊ぶのは「お手軽トリップ」効果をアテにしてのことなのだ。何か今と違うことを考えたいな、気分を変えたいな、と思っている時、その考えを構成する単語を分解する(そうして全く別の意味が生まれる)だけでそれが達成されてしまう。レベルが低い、と言ったのはこれがたんなる連想ゲームに終わることが多いから。「深めうる予感」もすっ飛ばして言葉の表面で転がり回ってるだけ。そしてもちろんこれは集中している状態とは程遠い。もはや縁遠いけど、テレビを流し見しているようなものかもしれない。
+*+*+*
2012/08/27(Mon)22:22:40
「お手軽トリップ」とは例えば…家にいるのに仕事の文脈で「長所と短所」という考えが浮かんだ時、「ちょうしょとたんしょ、ちょうたん、たんちょう…タンチョウ」とくればもう(もちろん頭の中で)体は湖に浮かんでいることになる。
手紙でもメールでも、特定の誰かを想定して書かれた文章は、一度書くとその相手に届けたくなるものである。
もちろん最初からその目的で書かれることが多いのだが、そうでない場合もある。
例えばある種の気分屋の人間は、自分の生活の構成要素と誰かの何かが結びつくと思いつきでその相手にメールをしたためる。
そして書き上げてから「せっかく書いたし送らないと勿体ない」などと思い、僅かな逡巡を免罪符に送信ボタンに親指が伸びる。
そんな人間がいるのかと問われれば僕自身少なくとも一人なら思い付ける、とだけ言っておく。
それはさておき、その彼のメールは成分内訳が全て彼自身の都合(要するに「欲望」)で構成されている。
日常でそのメールの送信相手とのやりとりがあれば(そしてその延長としてのメールなら何ら違和感はない…というかそれがふつうだ)まだマシだが、そんなありきたりな脈絡と関係のないところの発想に価値を置く人間もまた僅かだが存在する。
そして彼は自分の作った流れに流されるままメールを送り、後悔することになる。
ではどうすればよかったか?
メールを書くだけ書いて、送らなければよい。
自分の発想を面白いと思って、本当にそれだけなら、それを外に出す必要はない。
外に出したい意思があれば、それには「聞いてもらう相手への気遣い」が必然的に含まれるはずである(常識的な人間ならば)。
その気遣いが面倒だという思いが頭をかすめでもすれば、その事実を以て彼に自分の作文を特定の人間にアウトプットする資格はない。
「出されなかった手紙」とはふつう、相手への募る思いを文章にはしたが勇気がなくて手元を離れなかった、という経緯で生じるものだ。
本記事はそれとは趣旨が違って、つまり「出されることなく落ち着いてしまった手紙はそもそも手紙ではなかった」という話。
抽象すると…
「形式から始まったものに内実が伴うか」という問題提起であって、その否の、形骸化の一例を示したことになる。
どうしてこのような事態が生じるのだろうか?
という問いが、彼の脳内世界と日常生活を架橋してくれる。
彼にダメージを与えるような回答を一つ示すとすれば(何せ彼は社会人なのだ)、想像力の多寡ばかりに囚われるとその使いどころを間違えることになるよ、と。
想像力の軽視を嘆く人間は、その「想像力の軽視が成り立たせている日常」をも軽視しがちになる。
結局それは自分の想像力を(その過信を通じて)軽視することになる。
自分発の問いに自分を繰り込む姿勢について、「それをできていると思っているが実はできてない可能性」を時々想定することは大事だと思う。
そしてそれはルーティンワークではない。
話を戻しまして。
「まがいものの手紙」の判別方法として「塩漬け」を提案します。
「もったいないおばけ」に化かされないようにね。
もちろん最初からその目的で書かれることが多いのだが、そうでない場合もある。
例えばある種の気分屋の人間は、自分の生活の構成要素と誰かの何かが結びつくと思いつきでその相手にメールをしたためる。
そして書き上げてから「せっかく書いたし送らないと勿体ない」などと思い、僅かな逡巡を免罪符に送信ボタンに親指が伸びる。
そんな人間がいるのかと問われれば僕自身少なくとも一人なら思い付ける、とだけ言っておく。
それはさておき、その彼のメールは成分内訳が全て彼自身の都合(要するに「欲望」)で構成されている。
日常でそのメールの送信相手とのやりとりがあれば(そしてその延長としてのメールなら何ら違和感はない…というかそれがふつうだ)まだマシだが、そんなありきたりな脈絡と関係のないところの発想に価値を置く人間もまた僅かだが存在する。
そして彼は自分の作った流れに流されるままメールを送り、後悔することになる。
ではどうすればよかったか?
メールを書くだけ書いて、送らなければよい。
自分の発想を面白いと思って、本当にそれだけなら、それを外に出す必要はない。
外に出したい意思があれば、それには「聞いてもらう相手への気遣い」が必然的に含まれるはずである(常識的な人間ならば)。
その気遣いが面倒だという思いが頭をかすめでもすれば、その事実を以て彼に自分の作文を特定の人間にアウトプットする資格はない。
「出されなかった手紙」とはふつう、相手への募る思いを文章にはしたが勇気がなくて手元を離れなかった、という経緯で生じるものだ。
本記事はそれとは趣旨が違って、つまり「出されることなく落ち着いてしまった手紙はそもそも手紙ではなかった」という話。
抽象すると…
「形式から始まったものに内実が伴うか」という問題提起であって、その否の、形骸化の一例を示したことになる。
どうしてこのような事態が生じるのだろうか?
という問いが、彼の脳内世界と日常生活を架橋してくれる。
彼にダメージを与えるような回答を一つ示すとすれば(何せ彼は社会人なのだ)、想像力の多寡ばかりに囚われるとその使いどころを間違えることになるよ、と。
想像力の軽視を嘆く人間は、その「想像力の軽視が成り立たせている日常」をも軽視しがちになる。
結局それは自分の想像力を(その過信を通じて)軽視することになる。
自分発の問いに自分を繰り込む姿勢について、「それをできていると思っているが実はできてない可能性」を時々想定することは大事だと思う。
そしてそれはルーティンワークではない。
話を戻しまして。
「まがいものの手紙」の判別方法として「塩漬け」を提案します。
「もったいないおばけ」に化かされないようにね。
もっとも、そういう臨床的に単純化された状態をして人間を物質的存在であると捉え、物質だから単純な存在だと考えたいわけではなくて、”精神”とか”心”とか呼ばれているものを電気的反応と化学的反応の集積ないし総体として捉えようが霊的な何ものかと捉えようが、そこで起きていることの複雑さに変わりはなくて、むしろ、”霊的”と呼ぶときに一括りにされてしまいがちないろいろなことが、物質的に記述しようとしていけば緻密になるというのが俊夫の考えで、その考え方でいうなら俊夫にとって、”霊的”と名づけることが世界を単純化することで(”霊的”でなく他の呼び名でもいいが)、物質性にこだわることがこの世界の複雑さに釣り合うことだった。
保坂和志『残響』p.112-113
この部分はまさに保坂氏が文章を書く上で一貫している態度で、「もっと解析的に現象を記述していくことが文学の生きる道ではないか」と『アウトブリード』にも書いていた。
じっさいその通りだと思うし、単純化がいろいろな悪影響を及ぼしているとも思うのだけど、この言い方は容易に反転するものだとも思った。
すなわち、現象を要素還元し物質的に記述していくことが「記述できることが全て」という態度に硬化してしまうこともあり、科学の言葉で語れない現象を霊的なものと捉えることで「言葉にできないもの」の存在を認める態度もあるということ。
こう考えると本質は、科学か宗教かではなくて、とりあえず世間一般で枠組みとして固まっている「科学」および「宗教」というツールを実際にどう使いこなしていくかということになる。
これがタイトルの含意で、タイトルの前段はつまり科学原理主義は宗教の一派と呼べるということ。
では後段はなにかといえば、未知を許容する、あるいは知の外の(身体的な?)存在にも目を向ける宗教は、未知を探求するという科学の一面と性質を同じくするが、一般に還元する(科学の根本的手法である「仮説の構築とその検証」とはそういうこと)態度を内包していないから科学にはならない、ということ。
教義として多人数の他者に広めることを一般への還元と呼んでよいのかもしれないけれど、宗教的体験の本質はやはり一個人の内的体験なのかなと思うので。
何が言いたかったかといえば、科学と宗教のどちらがいいかという話ではなくて、どちらの側に立っても(上では両者をツールと呼んだ)自分の目指す態度を追求することはできるということで、ついでに僕の目指す態度とは未知の探求と恒常的な変化を両立させること。
「常に変わらず変化する」という言い方が不変なのか変化なのか、とは単なる言葉遊びのようにも聞こえて、昔「計画的無計画」という言葉が好きでこの一言をこねくり回した記憶が甦ってきたのだけど、これは禅問答ではなく(いや、「本来の意味での禅問答」と言うべきか)、実践的な意味がある。
内田樹氏がいつかブログで「非原理主義を貫くには永遠の入れ子構造をまず理解する必要がある」といったことを書いていた。つまり、一つの原理にこだわらず臨機応変にという意味で非原理主義を掲げるとほどなくして「非原理主義的原理主義」として原理主義に回収されてしまう構造になっていて(頻度としては「毎週月曜の燃えるゴミ回収」くらいか)、その構造を脱するために時に原理に従い時に原理を無視する(しかも「無秩序に」←これが重要)という態度をとらねばならぬという話だったかと思う。
話がずれたけれど、要するに「自分が何を求めているか」が抽象レベルで念頭にあれば、それを追求するためのツールに惑わされることはないということ。よくいう「手段の目的化」がここでの「惑わされた結果」なのだけれど、こう書いてみてなんとなく「目的の手段化」が理想なのかな、と思い付いた。
それは具体的になんなのだ、と言われるとよく分からないが。
そう、そういえば昨日『残響』を読み終えて、今日ふせんを貼った箇所をいくつか読み返していてふと書きたくなって今これを書いている。
で、この小説は群像劇なのだけど登場人物はみんなどこか保坂氏的性質を備えていて(もちろんその表れ方は各人で異なるわけだ)、一人で喫茶店で座ってゴルフの打ちっ放し場でクラブを振る老人を見ながら延々と思考を重ねる野瀬俊夫という人物がいちばん保坂氏に近いのかなと思ったのだけど、野瀬氏の断章の最後はいつも「分からない」という言葉で締めくくられることになっていて、しかしこの「分からない」が思考の放棄ではなく「(新たな)思考の入り口に立った」ことがありありと感じられてとても楽しい。
今の自分の生活態度とフィットしているのか、「こんな生活もいいなぁ」と思わせてくれる(これは『カンバセイション・ピース』を読んでいて感じたことでもある)。
人物にしろ状況にしろ、憧れを抱くことが昔からあまりなかったのだけど、保坂氏の書き物に憧れを抱く頻度が群を抜いて高いのは、今の自分の生活が物足りないからではなくむしろ満ち足りているからかもしれないと少し思う。
そして上で言っているように、この状態は維持するものではないのだろうと思う。
大事なのは変化なのだけど、どのレベル(階層)での変化を求める(許容する)か。
そのレベルを時間に対して固定しないことも、より本質的な変化と言える。
…これが上の話の繰り返しに聞こえれば、抽象的思考と相性が良いことになる。
あと一つだけ書きたかったことがあって、それは上で科学か宗教かという話をしたけれど、文章を(それなりにまともに)書くにはどちらかの態度をとらないといけないのかもしれない。
それは読み手への伝わりやすさとか、書き手の一貫性(これがなぜか真摯さにつながってしまう)に大きく関わるから。
これを乗り越える術はないのかしらん。
+*+*+*
最初の抜粋部分を読み返して、本記事のタイトルを思い付いて、そこから保坂氏の別の本のタイトルを連想した(いや、多分この書名を先に知っていたから思い付いたのだ)。
その本の名は『魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない』。
この本は今手元にあって、帯に「こいつ 何言ってんだ?!」と書いてある。
僕もそう思う。
そしてそう言いたい。
「突き放す」のではなく「引き寄せる」ために。
「ゴール」ではなく「スタート」として。
「不変」を守るのではなく「変化」へと開かれるために。
いつ読み始めようかな。楽しみ。。
『遠い太鼓』(村上春樹)を読んでいる。
本書はイタリア・ギリシャ滞在中の氏の日記である。
ただ日記と言って、部屋を長期で借りて小説の執筆や翻訳をしており、旅行記と趣は少し異なる。
今日読んでいたクレタ島のくだりは1987年5月のことで、氏はこの年のはじめに『ノルウェイの森』をイタリアで書き終えている。
ノートや広告の裏に書きつけていた原稿を400字詰めの原稿用紙に清書する、という描写が時代の古さを表していて(考えてみればこの頃まだ僕は生まれて1年と経っていない)、クレタ島の「観光地的価値観の浸透していない長閑さ」や各国バックパッカーの特徴(ドイツ人は世界一旅好きだとかカナダ人は世界一暇だとか)といった話が現在でどこまで通用するのかわからないけれど、本書では「当時の地中海事情」をふんだんに味わうことができる。
だから小説ではないのだけれど、氏の小説と雰囲気が似たようなところがあって(同じ人が書いているのだから当然だが)、しかし現実の重みかしら(と言ってこれをノンフィクションの価値と思いたくはないのだが)文章の一つひとつに立ち止まって想像させる説得力があって、最初に手にとった時はすらりと読み通せると思ったのだが今や長編小説の趣が深い。
と書いていくと書評というか感想になっていくのだけど、最初に書きたかったのは脳内BGMのこと。
本書を読む少し前から「ゲーム音楽は脳内BGMに適しているのでは」と思い付いて、小中でよくやったゲームのサントラを聴き返していて、その流れで本書と偶然フィットしたのがバハムートラグーン(以下bl)の「砂漠の地ダフィラ」。
だいたい砂漠のBGMというとたいていのゲームでは「それっぽい曲調」になるのだけどblのは違って、乾いた風と打楽器(ボンゴだっけ?)がわずかに雰囲気を醸す程度で、きっと砂漠の曲だと言われないと分からない。
うっすら残る記憶を辿ると、blの世界では人々は宙に浮いた島に住み竜に乗っていくつもの島を行き来していて(しかし島には緑も川もあって、いちばん川下では水は重力に従い空に流れ落ちていく)、やはり砂漠のある島もあるのだけど世界の基調は「空の青」なのだ。
blで悲哀を帯びた曲に存在感があるのはストーリィのメインと言っていい人間ドラマがそうであるというだけでなく(うん、確か本当にドロドロしていた気がする。あのゲームやった人で「ヨヨ」と聞いただけで眉を顰める人は少なからずいることだろう)、茫洋と浮かぶ島々という世界観そのものを表しているからかもしれない。
という思い出話はさておき、このダフィラの曲でしばらく『遠い太鼓』を読んできて(まだ半分もいってないけど)、イメージが定着してきたな、と思っている。
耳で聞くのでなく頭で勝手に流れる音楽を僕が「脳内BGM」と呼んでいるのは、一つに読む本とBGMをくっつけて「脳内に(その本の内容の)確固とした居場所をつくろう」という意図がある。
もともと音楽というのは「ほんとうにただ聴くだけ」がとても難しいもので、それは初めてその曲を聴いた時の状況(空間的な環境や心理状態)がくっつくこともあれば曲のなりたち(生演奏やレコーディングであれば演奏される楽器が鳴るさま、歌ものであれば歌手の歌うさまあるいはその歌手からの連想あれこれ)が自然と思い浮かぶものである。
ゲーム音楽といえばさらに分かりやすく、その曲が流れていた時の場面がまっすぐ連想のベルトコンベアに乗っかってくる(そして「予め決められているように」という比喩の当コンベアの回転速度は実物と違いすこぶる速い)。
だからゲーム音楽を読書の脳内BGMに使うにはまず既定のイメージを引き剥がすのに苦労するはずで、実際やり込んだゲームなら言わずもがなのことなのだが、要はその難関をここにきて突破したように思われる、と言いたかった。
今ではこのダフィラの曲を聴けば地中海沿岸のうらさびれた街並が浮かぶ案配になっているのだ、僕の脳内は。
ということで、脳内BGMの活路が広がった記念に「今後の可能性」をメモしておく。
上記のバハムートラグーンのほかに、クロノトリガー、ロマンシングサガ3あたりが有望だと見込んでいる(以上メモ終わり)。
これがクロノクロスが△でクロノトリガーが◎だというのは、自分がやり込んだ度合いによるというだけでなく(実はクロノクロスは高校の友達にサントラを借りたというだけで本編をやったことはない。それに上では「やり込んだゲームほど元のイメージから引き離すのが大変」と書いたけどでは全くやっていないゲームの方がいいのかといえばそんなことはなくて、曲とゲームの具体的な一場面とのリンクは邪魔になるかもしれないが曲自体の雰囲気(これもやはり絵(視覚入力)なしで聴いただけよりゲームのストーリィ進行の中で絵付きで聴く方が情報量が多い)という曖昧なレベルのものは使えるし、もっと漠然と「曲に対する親密さ」の要素が実際とても大事)、実はスーファミとプレステの差と言ってよいものがある。
要するに「曲の抽象性」がクロノトリガーの方が高いのだが、つまりクロノクロスになるとBGMが楽器の生演奏に近くなる。
僕は脳内BGMは抽象的である方がよいと思っていて、その抽象的というのはファミコン時代のピコピコ系(チップチューンというのか)と生演奏系の間にある性質のことだ。
重要なのは雰囲気で、具体的なものは先にあって、その具体的なものを引き立てる機能を果たすためのスパイスは抽象的でなければならない。
「のりたまご」のふりかけだけを食べてもおいしくないのだ(おいしいけど)。
…と、既に分かりにくい話になっていると思われれば非難されそうなことを次に書くが、いちおうこれは単純化して書いたつもりで、何が込み入っていると言って実際に上でいう「具体的なもの」が何を指すかといえば例えば小説の内容の「読み手の脳内の展開」であってそれはそれで十分抽象的なのだ。
こんな話に一般性をもたせようなんて無理があるよな、と思いつつ、じっさいにその曲を頭の中で流しながらその小説を読めば感得はできるだろうと思って、去年つくったHPに自分がこれまで「聴き読み」してきて相性がよいと思ったものを列挙したりもしてきたのだが、まあ脳内BGMの件についても仕組みと呼べるものはあるはずで、小説を楽しんで読むこととは別に興味のあることではある。
+*+*+*
あ、途中書こうと思って忘れていたことなのだけど、ゲーム音楽のことを考えると思い浮かぶ友人がいて、上でも少し触れた(クロノクロスのサントラ貸してくれたのね)けど高校で2年間一緒だった彼の名はM安氏。
やたらと記憶力が良くて世界史とか暗記ものの点数が良く、数学の記述問題も暗記するというカメラ小僧的な人だったのだけど(そういえば暗記の原理は聞かなかったな…そしてカメラ小僧(小娘?)はたぶん彼ではなくM山嬢だ)、彼はセンター本番の国語で国語Ⅰをやってしまい悲惨な目に遭ったというへんなことは覚えている(というのも僕はプレセンターでそれをやって国語Ⅰ・Ⅱ42点という学年最下位をたたき出したからなのだが)。
しかし大学受験を思い出すとなんだかとても懐かしい…まだ10年も経っていないはずだけど隔世の感がある。
当時に活気づいていた種の精神的なエネルギィが今は悉く錆び付いている気がする(そしてそれをとても良いことだと根っから思える心証が「錆び付き」を裏付けている)。
当時はまだ今より人当たりが良かったはずで、それでも受験期に「逃避行動によって協調性を激しく乱す」という意味でいろんな人に迷惑をかけた記憶がうっすら残っており(そのきっかけだけは明確に覚えている。もう時効だろうし結果的によい方に転んだので言っちゃうけど、高3の冬に直ぐ後ろに座ってインフルエンザを2回も(!)うつしてくれたK東さんが僕が(受験期限定の)登校拒否になった元凶です(笑)で当時の教室の状況みたいなものを大学入ってから耳にしたのだけど、僕の授業放棄にUっとんがとても気分を害していたらしい。今更さらやけどごめんね)、そこは変わってないなと思う。
そこ、とは上に書いた根っこのさらに根っこのことで、俗っぽく言えば「追い詰められたら闘わずに逃げる」かしら。
成長して身に付けたのは「逃げ道の確保」と逃避の際の「体裁の良さ」。
いざとなれば現状からどう逃げるか、を細微にわたって想像できていれば、そもそも日常で(主に精神面での浸蝕による)逃げざるを得ない境地に陥ることがないと経験的に分かったのだった(そして「破綻の一歩手前」も十分経験たりうる)。
苦労してるのかしてへんのか…多分あんましてへんな。。
閑話休題。
M安元気かなあ、と言いたかっただけ。
今のところ栃木に飛ばされる予定はないけど、まあ関東組として何か機会があれば一杯やりたいね。
思い出となった出来事は、ぜんぶ「いい思い出」。
やれやれ。
本書はイタリア・ギリシャ滞在中の氏の日記である。
ただ日記と言って、部屋を長期で借りて小説の執筆や翻訳をしており、旅行記と趣は少し異なる。
今日読んでいたクレタ島のくだりは1987年5月のことで、氏はこの年のはじめに『ノルウェイの森』をイタリアで書き終えている。
ノートや広告の裏に書きつけていた原稿を400字詰めの原稿用紙に清書する、という描写が時代の古さを表していて(考えてみればこの頃まだ僕は生まれて1年と経っていない)、クレタ島の「観光地的価値観の浸透していない長閑さ」や各国バックパッカーの特徴(ドイツ人は世界一旅好きだとかカナダ人は世界一暇だとか)といった話が現在でどこまで通用するのかわからないけれど、本書では「当時の地中海事情」をふんだんに味わうことができる。
だから小説ではないのだけれど、氏の小説と雰囲気が似たようなところがあって(同じ人が書いているのだから当然だが)、しかし現実の重みかしら(と言ってこれをノンフィクションの価値と思いたくはないのだが)文章の一つひとつに立ち止まって想像させる説得力があって、最初に手にとった時はすらりと読み通せると思ったのだが今や長編小説の趣が深い。
と書いていくと書評というか感想になっていくのだけど、最初に書きたかったのは脳内BGMのこと。
本書を読む少し前から「ゲーム音楽は脳内BGMに適しているのでは」と思い付いて、小中でよくやったゲームのサントラを聴き返していて、その流れで本書と偶然フィットしたのがバハムートラグーン(以下bl)の「砂漠の地ダフィラ」。
だいたい砂漠のBGMというとたいていのゲームでは「それっぽい曲調」になるのだけどblのは違って、乾いた風と打楽器(ボンゴだっけ?)がわずかに雰囲気を醸す程度で、きっと砂漠の曲だと言われないと分からない。
うっすら残る記憶を辿ると、blの世界では人々は宙に浮いた島に住み竜に乗っていくつもの島を行き来していて(しかし島には緑も川もあって、いちばん川下では水は重力に従い空に流れ落ちていく)、やはり砂漠のある島もあるのだけど世界の基調は「空の青」なのだ。
blで悲哀を帯びた曲に存在感があるのはストーリィのメインと言っていい人間ドラマがそうであるというだけでなく(うん、確か本当にドロドロしていた気がする。あのゲームやった人で「ヨヨ」と聞いただけで眉を顰める人は少なからずいることだろう)、茫洋と浮かぶ島々という世界観そのものを表しているからかもしれない。
という思い出話はさておき、このダフィラの曲でしばらく『遠い太鼓』を読んできて(まだ半分もいってないけど)、イメージが定着してきたな、と思っている。
耳で聞くのでなく頭で勝手に流れる音楽を僕が「脳内BGM」と呼んでいるのは、一つに読む本とBGMをくっつけて「脳内に(その本の内容の)確固とした居場所をつくろう」という意図がある。
もともと音楽というのは「ほんとうにただ聴くだけ」がとても難しいもので、それは初めてその曲を聴いた時の状況(空間的な環境や心理状態)がくっつくこともあれば曲のなりたち(生演奏やレコーディングであれば演奏される楽器が鳴るさま、歌ものであれば歌手の歌うさまあるいはその歌手からの連想あれこれ)が自然と思い浮かぶものである。
ゲーム音楽といえばさらに分かりやすく、その曲が流れていた時の場面がまっすぐ連想のベルトコンベアに乗っかってくる(そして「予め決められているように」という比喩の当コンベアの回転速度は実物と違いすこぶる速い)。
だからゲーム音楽を読書の脳内BGMに使うにはまず既定のイメージを引き剥がすのに苦労するはずで、実際やり込んだゲームなら言わずもがなのことなのだが、要はその難関をここにきて突破したように思われる、と言いたかった。
今ではこのダフィラの曲を聴けば地中海沿岸のうらさびれた街並が浮かぶ案配になっているのだ、僕の脳内は。
ということで、脳内BGMの活路が広がった記念に「今後の可能性」をメモしておく。
上記のバハムートラグーンのほかに、クロノトリガー、ロマンシングサガ3あたりが有望だと見込んでいる(以上メモ終わり)。
これがクロノクロスが△でクロノトリガーが◎だというのは、自分がやり込んだ度合いによるというだけでなく(実はクロノクロスは高校の友達にサントラを借りたというだけで本編をやったことはない。それに上では「やり込んだゲームほど元のイメージから引き離すのが大変」と書いたけどでは全くやっていないゲームの方がいいのかといえばそんなことはなくて、曲とゲームの具体的な一場面とのリンクは邪魔になるかもしれないが曲自体の雰囲気(これもやはり絵(視覚入力)なしで聴いただけよりゲームのストーリィ進行の中で絵付きで聴く方が情報量が多い)という曖昧なレベルのものは使えるし、もっと漠然と「曲に対する親密さ」の要素が実際とても大事)、実はスーファミとプレステの差と言ってよいものがある。
要するに「曲の抽象性」がクロノトリガーの方が高いのだが、つまりクロノクロスになるとBGMが楽器の生演奏に近くなる。
僕は脳内BGMは抽象的である方がよいと思っていて、その抽象的というのはファミコン時代のピコピコ系(チップチューンというのか)と生演奏系の間にある性質のことだ。
重要なのは雰囲気で、具体的なものは先にあって、その具体的なものを引き立てる機能を果たすためのスパイスは抽象的でなければならない。
「のりたまご」のふりかけだけを食べてもおいしくないのだ(おいしいけど)。
…と、既に分かりにくい話になっていると思われれば非難されそうなことを次に書くが、いちおうこれは単純化して書いたつもりで、何が込み入っていると言って実際に上でいう「具体的なもの」が何を指すかといえば例えば小説の内容の「読み手の脳内の展開」であってそれはそれで十分抽象的なのだ。
こんな話に一般性をもたせようなんて無理があるよな、と思いつつ、じっさいにその曲を頭の中で流しながらその小説を読めば感得はできるだろうと思って、去年つくったHPに自分がこれまで「聴き読み」してきて相性がよいと思ったものを列挙したりもしてきたのだが、まあ脳内BGMの件についても仕組みと呼べるものはあるはずで、小説を楽しんで読むこととは別に興味のあることではある。
+*+*+*
あ、途中書こうと思って忘れていたことなのだけど、ゲーム音楽のことを考えると思い浮かぶ友人がいて、上でも少し触れた(クロノクロスのサントラ貸してくれたのね)けど高校で2年間一緒だった彼の名はM安氏。
やたらと記憶力が良くて世界史とか暗記ものの点数が良く、数学の記述問題も暗記するというカメラ小僧的な人だったのだけど(そういえば暗記の原理は聞かなかったな…そしてカメラ小僧(小娘?)はたぶん彼ではなくM山嬢だ)、彼はセンター本番の国語で国語Ⅰをやってしまい悲惨な目に遭ったというへんなことは覚えている(というのも僕はプレセンターでそれをやって国語Ⅰ・Ⅱ42点という学年最下位をたたき出したからなのだが)。
しかし大学受験を思い出すとなんだかとても懐かしい…まだ10年も経っていないはずだけど隔世の感がある。
当時に活気づいていた種の精神的なエネルギィが今は悉く錆び付いている気がする(そしてそれをとても良いことだと根っから思える心証が「錆び付き」を裏付けている)。
当時はまだ今より人当たりが良かったはずで、それでも受験期に「逃避行動によって協調性を激しく乱す」という意味でいろんな人に迷惑をかけた記憶がうっすら残っており(そのきっかけだけは明確に覚えている。もう時効だろうし結果的によい方に転んだので言っちゃうけど、高3の冬に直ぐ後ろに座ってインフルエンザを2回も(!)うつしてくれたK東さんが僕が(受験期限定の)登校拒否になった元凶です(笑)で当時の教室の状況みたいなものを大学入ってから耳にしたのだけど、僕の授業放棄にUっとんがとても気分を害していたらしい。今更さらやけどごめんね)、そこは変わってないなと思う。
そこ、とは上に書いた根っこのさらに根っこのことで、俗っぽく言えば「追い詰められたら闘わずに逃げる」かしら。
成長して身に付けたのは「逃げ道の確保」と逃避の際の「体裁の良さ」。
いざとなれば現状からどう逃げるか、を細微にわたって想像できていれば、そもそも日常で(主に精神面での浸蝕による)逃げざるを得ない境地に陥ることがないと経験的に分かったのだった(そして「破綻の一歩手前」も十分経験たりうる)。
苦労してるのかしてへんのか…多分あんましてへんな。。
閑話休題。
M安元気かなあ、と言いたかっただけ。
今のところ栃木に飛ばされる予定はないけど、まあ関東組として何か機会があれば一杯やりたいね。
思い出となった出来事は、ぜんぶ「いい思い出」。
やれやれ。