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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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海馬判断

2013/02/04 23:03
タツノオトシゴの尻尾みたいにクルクルと巻いたように見える部位。記憶を一時的に蓄えて、その中で必要なもの、いらないものをあとからじっくり選ぶのが海馬の役割です。その海馬で選ばれた記憶が、大脳皮質に蓄えられる仕組みになってます。
(…)
脳は、物事を組み合わせれば組み合わせるほど、覚えやすくなります。意味のある言葉でも、ただの文字の羅列としか脳に入ってこなかったら、記憶できない。その文字の背景にある意味、映像、イメージ、音、そういったものが連合されて、はじめて記憶できるようになっているんです。それ、当たり前なんですよね。意味のないものを覚えるのは、脳にとってエネルギーの無駄な消費ですから。そういう余分なことをしないよう、脳は非常に合理的にできているんです。

池谷裕二、樋口清美、糸井重里「記憶のお話」(糸井重里『経験を盗め』p.53,55-56)

これを読んで、物事が記憶に値するかどうかの判断を海馬に任せてはどうだろうと思い付いた。

「これは重要だから覚えておこう」と思って頑張っても記憶できなければ、それは重要ではなかった。
ちょっとしたことから連想がふわふわ働いて、それが日常のある場面で何度か思い出される時、その連想はじつは重要であった。

「記憶のお話」では記憶力を良くする技術のようなものが紹介されていたが、これに熟達するということは、「内容に関わらず記憶すること自体を重要視することになる」と言えると思う。
見方によっては、本来の自分の必要性に従った「海馬判断」を鈍らせることになるんではないだろうか。
もちろん記憶術を会得することは自分自身が変化することなので「本来の」と書いたのは「変化する前の」と言い直すべきだろう。
それでも、そういう変化を望まないこともできる。
この「海馬判断」を「無意識に聞き耳を立てる」こととみなしてみたのだが、どうだろうか…。
つまり、自分が頭で望んでいることよりも、思った通りに記憶力が働かなかった経験が示す(それは直接的ではないと思う)願望の方が「ほんとう」に近いのでは、という。
「脳の身体性に従う」という表現をすれば刺激的だけど、これは語弊があるかしら。。
脳も身体の一部であるから、意識的でない脳の作用を身体的と呼べないか…単に無意識でいいか。
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久しぶりに思考館を更新しました。
「脳内BGM」について、最近とみに(自分の生活に対する)重要度が上がっていることに気付き(というのも日常が日常であるほど意識化することがないので)、詳しく書かねばなるまいなと思い、そういえば小説と相性の良かったBGMのストックがあるなと思い出して一気に更新しました。
つまり表を増やしただけですが。
あとリンクも頑張って貼りました(頑張ったというほどでもないけど)。
しかしもうHPの作成にHTMLをいじくるのは時代遅れなのだな…と日経BPの「人生の諸問題」を読んで思った(確かこの辺だったはず)。
トップページのLast Updateの更新を忘れた…
けどアップロードがもう面倒なので次回に。
ということで更新したのはこの辺です。

で、脳内BGMだけど、仕事してる時も気分で流す曲を変えていて、それは「今の気分に合った曲を流す」場合と「今の自分が望む気分になれるような曲を流す」場合があってなかなか融通が利くなあと改めて思えば感心してしまえるもので、その仕事中に「これってウォークマン(死語)聞きながら仕事してるようなもんだよな」とふと思ったのだった。
そして曲に没入して周りの音が聞こえないわけではないし、一時期話題になった骨伝導スピーカーみたいなもんだろうか、と(使ったことないんで想像だけど)。
そういえば中学だか高校の頃、授業中になんとか音楽が聴けないものかと極小イヤホンラジオを探した記憶がある(ふつうのイヤホンのコードをなくしたような小さいのが当時にもあったのだ)。探してそれを見つけた所までは記憶があるけれど、それを実際に使ったのかどうだったか。。
まあそれはいいんだけど、昔から音楽を肌身離さず身に纏う努力をしていたのだなあ、そしてその努力の結果が脳内BGMというこれは洗練なのか? とか思うところはけっこうある。
いつか掘り下げよう。

というのも実はこの記事を書く前は、というか思考館を覗いてしまったのはふとした出来心で、別に書きたいことがあったはずで…
近況を書こうと思ったはずだが…


あ、「内部循環する"青い芝"」です。
無い物ねだりはたいてい他者の所有物に対する羨望から始まるものだけど(「他人の芝は青く見える」というやつ)、それだけではなくて、「自分の中にある自分の持ってないもの」を手に入れようとしたがることでもあるのかな、とさっき思い付いたのだった。
なんか変なこと言ってるけど、「あるはずなのにないもの」とか「本来そうであるはずなのになぜかそうでない状態」のことで、なんとなく自分の中にはあってでも意識化できないのが不安だからちゃんと明示化したいという意思も一形態としてあるのかな、と。
そして無意識とか感覚レベルのものを意識化すると元の姿を変えてしまうので、「いや、こうではなかったはず」という期待はずれが別の"それ"を欲望する、というような。
で、どうもそれは悪い事ではなく、むしろ言葉を扱う人間の宿命なのでは…

これ続くのかな…
というか近況ではないよな…この話じゃなかったっけ…
いいや、また元気な時に整理しよう。

工藤さんのいう、「善良な人」について。
これも『草の上の朝食』からの抜粋。
「だからねえ、そういう善良な人っていうのは、自分が機嫌悪いときは機嫌悪い顔してて、うれしいときははしゃいじゃうの。
 感情がすごく素直に出ちゃう人っているでしょ? それで自分ばっかりはしゃいじゃうんだけど、まわりはしらけるの」
「それは単純って言うんじゃないか?」
「単純、ーー? あたしは違うと思う」
「じゃあ、素朴って言うのは?」
「素朴、ーー? それならちょっといいけど、やっぱりあたしは善人がいい」
「ーー、で『善良な人は困る』」
「ええ、ーー。もっとはっきり言うと、嫌いなの」

p.129-130

これは「ぼく」が、会社から抜け出してよく行く喫茶店のウェイターをしていた工藤さんを夕食に誘って、初めて二人で会話する場面。
ここでの「善良」という表現にぼくは強く共感したのだけれど、同じような人のことをぼくは「やさしい人」と呼んでいるのだった。
工藤さんは最後で「嫌い」とまで言っているが、これは一般的な印象として解釈すべきでない表現で、つまり文字通り私的な感覚に基づいた発言で言い換えれば「自分とは合わない(相性が悪い)」と言っている。
ここには「自分は『善良な人』ではないし、なれない」という自覚(あるいは多少の負い目)がある。
(と書いて、この「負い目」の認識が工藤さんのような性質の人間の多くにあったとして、それがじっさいに頭の中で影響力を持つのは男だけだろうなと、男である最近のぼくは思う)

「善良な人」あるいは「やさしい人」というのは、それが自分にとっても相手にとってもいいことだと思ってそのように振る舞う。そう振る舞うのが自然で、自然なのがいいことだと思っている。だからこそ「ぼく」は単純とか素朴という言い換えをしたのだろうけど、この会話が示す通り「ぼく」も工藤さんも「善良な人」ではない。少し後で工藤さんが「ぼく」のアパートにやってきてアキラや島田など部屋の面々を見た時に、「ぼく」は(それにきっと工藤さんも)彼らを「善良な人」だと認識するような場面があるが、工藤さんはだんだん彼らに溶け込み、後には自分から「ぼく」の部屋にやってくるようになる。

「善良な人」が嫌いと言いながら彼らと親密にもなれる意味はいくつかあって、ひとつは上で言い換えた「相性の悪さ」というのが、個々に相対した時のことを言っているのではないか。「善良」という性質は、場の性質としては良きものだが個人の性質としては(「善良な人」でない人間にとっては)好ましからぬものだと工藤さんは思っているのではないか。そして「善良な場」に居心地の良さを認めた工藤さんは(主にはよう子の影響によって)変わり始め、「ぼく」はそれに少し寂しさを感じながら仕方ないと思う。(この「仕方ない」という感覚がぼくは好きで、村上春樹の小説の「やれやれ」と通じるものがある。「やれやれ」が説明的でない分「仕方ない」が分析的に見えてしまうが、その分析に登場人物がそれほどこだわっていないところ(というのはどんどん分析を深く掘り下げはするのだけど、決して人に無理やり納得させようとすることがなく、というかそんな動機がまず存在しないということ)こそが保坂小説のいいところで、村上氏と保坂氏のどちらも「頭でっかちな男が(頭を懐柔させながらも)感覚で行動する理想型」を示してくれていると僕は勝手に思っている)

きっと「ぼく」も工藤さんも考え過ぎで、能動的にそうしたいとはあまり思わないが、時にはなにも考えずゆったりしたいと思ってしまうのだろう。この「考え過ぎ」という状態は女よりは男の方が安定していて、だから「ぼく」は安定しているし、常に流されながら自分が揺らぐことがない。女である工藤さんは「考え過ぎ」が自分のデフォルトであっても時にそれから解放される糸口を探してはいて、それを見つけたところで本作が終わっていると思うのだけれど、きっとそれは一時的なもので、工藤さんは満足したら一人(あるいは二人)に帰っていく。もちろん「ぼく」の部屋に二度と戻ってこないことはなく、「良い"腰掛け場所"を見つけた」ということなのだろう。

とここまで書いて別に思い出すことがある。
最近単純と複雑について考えたことがあって、男は身体が単純だから頭は複雑でなくてはならない一方で女は身体が複雑だから頭は単純な方が良い、という認識が妥当なものだと思い始めている。
それを「だから単純と複雑は惹かれ合う」と言うと飛躍というか別の話になってしまうけれど、この認識の妥当性は「頭と身体が相反するもの(論理的に矛盾するもの)である以上、それぞれの立場としても矛盾させておいて両者のバランスを考えるのがよい」という養老先生の考え(に刺激されてぼくが勝手に作った話かもしれないが)に担保されると考えられる。
複雑は単純に染まりたくはないが単純を必要とはしていて、自らの安定のために「解放弁」として近くに居てもらいたい、ということだと思う。
気楽に集っているようにしか見えない4人+1人(ゴンタ)+1人(工藤さん)が居る「ぼく」の部屋という場には「気楽に過ごす技術がある」という解説者の論とも繋がるような気がする。
この解説(石川忠司という人が書いている)がまた凄いことを書いていて、文庫本の解説で久しぶりに「おお!」という内容だったのだけど、抜粋に繋がる言葉が出てこなかったので今回はやめときます。
僕はまだ中年ではないしね(ふふふ)
『草の上の朝食』(保坂和志)を非常に楽しく読んだ。
読み終えて、付箋箇所を読み返して、書きたくなったことを以下に。

「四人が起きているあいだは部屋が四人で足りてるって思ってるんだけど、寝ちゃったらどうなのかってーー。
(…)ーー部屋とかいつも歩いてる風景とか、そういうのってどれくらいこっちが支配してるのかっていうか、こっちの感覚が届いているのかっていうか、(…)
 いつもいる場所に対して人がどういう関係のつけ方をしているのかっていうのを、映像と音で撮れるかどうかわからないけどーー、やっぱり撮りたいと思ってるから、とにかくまずすべてのシチュエーションを撮ることにしてみようーーって。
 ーー誰だったか忘れちゃったけど、写真の初期の頃に、街の様子を写真に撮ってみたら自分がそのとき写そうとしたものより、そのときには気がついてなかったものの方におもしろいと思うのが写っていたーーっていうのがあったけど、その感じって今でも変わってないと思うし、ーー」

p.139-140

自分が部屋を眺めるのではなく、「部屋が自分を見ている」という感覚。「見る」よりは「認識する」だろうか。
(アフォーダンスと通じるものがありそうだ)
部屋が人に与える影響というのが直接的なものではなく、部屋自体が部屋にいる人との関係性を成り立たせていて、その関係性が人に影響を与える…?
ある一つの部屋に1人でいる時と大勢でいる時に居心地が違うのは、部屋そのものは変わっていないが部屋と部屋にいる人との関係性が変わっているからだ、、
それを「自分以外の部屋にいる人」を部屋の構成としてカウントする認識とどう違うのか、と言われれば、人はやっぱり部屋ではなくて人なのだ、と?
なにが言いたいのか。

おそらくこの辺の話は『カンバセイション・ピース』で保坂氏が書こうとしていたことのはずで、それとの関連で思い出したのか一つだけ加えておくと、「大勢の人がやってきて、帰った後の部屋の雰囲気」というのがヒントになるのかな、と。
がらんとしたその時の部屋の空気は、大人数で騒いでる間に「大勢との関係のつけ方を成り立たせた」部屋がまだその関係性を残留させているからで、その関係性は自分一人とではつり合わない。
こういう認識で「部屋(ひいては家)の存在感」が増すことになるだろう、と言えば散文的になるが。
…小説の力を感じざるを得ないテーマだな。
昔のブログ読み始めたら止まらない…
SWING(大学時代のジャズ研)にいた頃のを読み返してる間にかるく1時間以上経ってしまった。
憑かれるように読んでしまった理由もないではないが…今はそっとしておく。


で、ちょっと書いておこうと思ったことを、もう眠いので、項目だけ並べておく。

・「自分の感覚に基づく人」どうしのすれ違い
 …相手の事を考えてこそのすれ違い。
  相手の感覚を汲んで行動することは自分の感覚に沿わないことがある。
  それを自信を持ってできるようになるのは、相手のことを深く知れた時。

・言葉か物か
 …同じものを見ていて、興味を示す部分の違いが明らかで面白かった。
  これも上の話と通じるけれど、相手の興味対象に興味を持つ秘訣はあると思う。
  それは相手の感覚を媒介すること。

・振る舞いの場所依存
 …当たり前だけど、いつでもある人を「同じ人」と見ると心が乱される。
  会社は人間性を(メインに)発揮する場所ではない。
  人はそれを混同するものだとしても。
  付き合いが深くなる人ほど、その区切りをしっかりせねば。

・「現場感覚への信頼」の一つ先へ
 …変化を望むなら、これを考えなくてはいけない。
  まあ、望んでないけど。
前のブログを読んでいて面白そうな話題を見つけたのでお題の(再)提示をしておく。
一つ前のお題が放ったらかしやけど…ま、そういうもんです。

「体の疲労や気分の変化と,意識される徒歩時の身体部位との対応」

2年前に書いたこの話がずっと(週末限定ではあれ)念頭にあり続けたという実感からすると相変わらずな生活をしてるな、とつい思う。
「経験に基づく洗練」がなされていると信じたいけれど。
…それはこのお題の展開如何に関わりますな。

ということで少しハードルを上げておいた。
よろしく!
僕は普段から人と仕事上などの必要以上に喋らないのだけど、人間は人と喋らないと寂しくて生きていけない生き物なのだとしたら、それでも僕が平気なのは頭の中で会話してるからかもしれない。
想像というのは具体的のようで抽象的でもあり、曖昧な夢のようでありながら圧倒的な現実感をもって迫ってくるものでもあり、確かに言えそうなのは実体を備えた実生活と比べてなにかしら偏っているということ。
がしかしバランス感覚の大元を想像力が担っているという話もあり、するとその偏りは内的な問題に過ぎなくて、つまり偏った想像を修正できるのは想像(の仕方)にある。

という話がしたかったのではなく、その想像の中での会話をしながら気付いたことがあった。
自分の興味対象は大体このブログで書いてるようなことで、そんなテーマで日常的に接する方々(つまり会社の人です)と飲み屋談義を繰り広げたりしていて、その想像が偏っているというのは中身の大体が自分の語りで相手の相槌やツッコミなどの反応が見えてこないことを指しているのだけど、それでも気付くことがあるのは自分の語りと思ってる言葉のなかに相手のそれがいくらか含まれているからかもしれない。
と具体的にしようとすると怪しいけれど、きっと想像内での対話相手の想定というのは「相手のその人となり」を念頭におくことで自分の語りが(例えば一人で考えている時と比べて)いくらか変化する効果があるのではないか、とある程度抽象的に表現すればそれっぽい。

で、仕事のやり方から話が合いそうな気がしているうちの上司と教育について話していて、「"自分探し"なんてのは国が始めに言い出したんですよ」と言って教育審議会の答申かなんかだったかな、と言ううち想像が内なる思考に切り替わって、
 そういう刷り込まれた固定観念って今では血肉化して違和感がないというか無意識の行動指針になっているけど、刷り込まれた当時と今とで違うのは当時の自分の状況(つまり刷り込まれ方)を環境込みで突き放して分析できることとその分析ツール(つまり物事の捉え方、考え方)をたくさん手にしていることで、その固定観念と自分との結合を解くのも(その結合力の主成分は固定観念に対する愛着、崇拝、無根拠(非合理)な肯定など。「習慣」はその性質と機能の関係では合理的だけど習慣の具体的な内容と機能の関係を見た時には非合理の最たるものとなる)面白いのではないか、
と思った。
忘れっぽいとか自分の過去に愛着のない人ほどやりやすいだろうなと思い、僕は充実した一時期の過去の経験を文章化できないことに嘆いたことのある人間であって(そのせいで読書にのめり込んだ、と言って大袈裟ではない)、昔と比べて表現手段としての言葉をたくさん手に入れはしたけれど個人史編纂みたいなことに対する興味はむしろなくなってしまった人間なのできっと楽しくやれるのだと思う。
人はほっといても変わるものであって、けれど「ずっと今のままでいたい」が主流の価値観でそれは「今を肯定することで変化を否定する」ことなのだけど「人工を肯定して自然を否定する」ことでもあって、しかし過去を否定することで変化を肯定できるというのは「人工の人工は自然」みたいなひとひねりがあってとても面白い。
このことを「否定の肯定」と言った時に前者はどう言えるだろうと考えてみると、まあ当然だけど「肯定の否定」になる。
後者は「肯定してるつもりが否定になっている」で、これは「身体に任せて生きているはずが脳に振り回されている」というようなもので、身体性が鈍っていると言うことはできるがその前件に「抽象思考を軽く見る態度」がある。
つまりタイトルのようなことが言いたかったのでした。


一言でいえば、
「過去の自分を分析対象にする」のも面白そうだ、と。
で、きっとそう思えることは今の頭がわりと健全な状態であることを示していて、
こう書くことは祝いにも呪いにもなるという。
と書いた最後の一行はきっと「呪鎮」です。
ふう。
「自分のありたい場所」を具体的に想像して書き溜めておくシリーズ。
久しぶりに読み返して「いーなー」と思ったので(これぞまさにマッチポンプ)、次の記事を書くべくテーマだけ投げておこうと思います。

 「文字のない街並」

さて、気が変わらなければ近いうちに掘り下げるとしましょう。
しばしお待ちを。
視界の開けたところに住みたい。

アパートであれ戸建て(古民家とかいいなあ)であれ、窓から外を眺めれば周囲の風景が見渡せる。
まばらに立つ木々と膝丈ほどに伸びた草に沿って小川が流れていたり、丘の斜面に並んだ街並の先に海が見えたりすると素敵。
ただ見渡せるものが何であれ、空は何に遮られることもなくすっきり見えるといい。
(視界に電柱が入らないというのも魅力的かもしれない。実は想像できないから曖昧に言うのだけれど)
空が見えれば雲が見え、夕焼けが見える。
天候の変化もわかるし、空気の澄み具合もわかる。
この点は今住んでいるところでも満たされていて、堪能してはいるが、もう日常の一部だから改めて意味付けしようとしなければ特に言うことはない。
でも少しだけ言えば、ただでさえ読書ばっかしてて(頭の中は広々としているのだが、それとは別に)視界の狭い生活をしているので、なにかしら健全であろうと思えば必要な要素なのだと思える。
そう、最近また実感したことがあって、同じようなことをいつも考えてるはずなのに体調によってその思考内容(というかその内容に対する価値付け)ががらりと変わってしまうもので、これと同じ意味で、閉鎖的な立地の部屋に住むよりは開放的な場所を選んだ方が思考も(複雑であっても)澄んでくるはずなのだ。

と考えると、坂の多いところがいいのかもしれない。
そして傾斜が安定してなくて(=起伏にも波があって)、道路もまっすぐでなく家々も雑多に建てるしかなくて(そうなると稠密でいて圧迫感がないこともありうる)、道を歩いていると複雑だなあと思える街並が家の窓から一望俯瞰できたりするととても楽しそう。
ただこれに関しては今の自分の流行りからして、一望俯瞰によって細微にわたる把握をしたいというわけではない。
その流行りというのは、僕は散歩の時にメガネをかけてなくて、それゆえ近所の山に登った時に開けた視界を楽しみはするのだけど細かいところは全然見えていない。
街並の雰囲気がだいたい掴めればいいと思っていて、ぼけーっとした眺望は脳内補完によって理想的な絵に変換される(と、意識してやってるわけではないが多分そういうことなのだろうと思う)。
おそらく細かい絵を実際の視界で確定させない志向はある種の小説読みに特有のもので、曖昧だからこそ思い描いたイメージ(これはもちろん「画像」ではなく「印象」の方)がそのまま保たれる。
その分かりやすい例としては…小説の主人公の顔がうまく想像できなくて、誰か描いてないかなとgoogleでイメージ検索して、イメージと違う顔に遭遇してしまって幻滅する(あるいは頭にこびりつく)経験は現代の小説読みならたいてい一度は経験しているはずだ。
まあ今の文脈では「曖昧をそのままに」ではなく「曖昧を自分のいいように作り替える」なのだけど。
この風景に対するスタンスは街中を歩いていても同じで、すれ違う人も視野の隅でおぼろげに把握するに留めればみんなステキな人に見えるという…とまで言うとアブナイ香りがしてくるので言わない。

窓からの眺望の話をしていた。
養老先生の本を読み過ぎたせいか「都会的なもの」に対して距離を置きたい今日この頃であるので、きっちり区画されて整った街に住みたいとは思えない。
それは京都市街地のような典型的な「碁盤状の街並」に限らず、ベッドタウンとか新興住宅街とか呼ばれる、短期集中で開発が進められた街も含んでいる。
ただ「ではどこがいいのか」と言われてすぐに答えられないのだが、それは今まで色んな街を見てきたけれど「そういう目」で街並を記憶に留めたことがないからだ。
だから機会があれば「そういう目」で街並探訪をしてみたい。
熊野とか。たとえば。
…相変わらず具体性に乏しいのだが。
『ポロポロ』(田中小実昌)を読了。

「物語にしない語り方」になるほどと思う。
物語にした途端に当のものは別の姿を備えてしまう。
「ずっと忘れずにいたい」から書く、「自分の言葉として落とし込む」ために書く、ものを書く時に人はそれぞれ切実な思いを抱え、発散あるいは昇華させようとして書く。
けれど、「いま内にあるかたちをそのままずっと保存していたい」から書くというのは、はなから無理なことのようだ。
そう思って書いて、達成されるのは「形にして残せた」という点で、そのままの形はそこには既にない。
ものを書く人のなかで、この点に納得がいかずに(そんな人は滅多にいない)「語り」を追求する氏の姿勢は学問的でなく宗教的だ。
「思いを伝える言葉」ではなくて、「思いがそのままこぼれ落ちている言葉」。
そう、ポロポロと。

本書(図書館で借りた中公文庫版)の巻末の解説もそうなのだが、『ポロポロ』についてなにか説明を加えようとすると、全て野暮になる。
氏の人物像や社会背景を知り、納得するための解説として申し分はないのだが、それはほんとうに「納得するための解説」だ。
これを読んでスッキリする人もいれば、(いらないとまでは言わずとも)野暮だと一言切って捨てる人もいれば、「自分も『ポロポロ』できないだろうか」と考え始める人もいるだろう。
保坂氏は間違いなく最後の一人だ(と思えるようなことが『アウトブリード』に書いてある)。
そして保坂氏の文章も、本書を読んで言えるようになったことだが、「ポロポロ」しているのだ。

ちょっと脇道に逸れて。
保坂氏の小説は、エピソードが際立って記憶に残るというタイプの小説ではない。
「読み始めたら止まらなくなって、いつの間にか読み終えていた」という表現もできるけれど、それは波瀾万丈の手に汗握る展開を意味しない。
自分がそこに入り込めるかどうかは別として(もいいのか、僕は入り込めてしまう方なので、実はよくわからないが)淡々と、つつがなく自分の日常が過ぎてゆくように読める小説である。
自分の日常が淡々と過ぎてゆくというのは、例えば今の会社員生活に疑問を感じて「このままでいいのだろうか…」と毎日思い悩み日々募っていく冒険心がある日臨界点に達して一念発起でベンチャー会社を立ち上げる…という躍動がもしあったとしてもそれは頭の中だけであって「それも面倒臭そうだな…」という悩みが慢性的に続いているのが現実ではあってしかしその状態が日常に対する不満の顕れではなく「その躍動した想像"込み"での落ち着いた日常」の構成であるようなものである。
ということは、現実逃避のために、とか非日常的体験を求めて、とかいった目的で読む小説ではない。
いや、ひとひねりすれば、非日常的体験を求めて保坂氏の小説を読みたいと思うような状況というのは、その人の日常が平穏ではないことを意味するのかもしれない。
それはいいのだが、保坂氏の小説の展開が淡々としていて、出来事の一つひとつは主張するなんてことはなくうっすら余韻として感じられる程度にしか存在感がなくて、そしてそれを物足りないと思うわけでもない。
「ディテールには興味が無い」と言いつつ細かい描写がとても上手い保坂氏の小説には、その作品全体に込めた主題があるわけでもない。
だから自然風景の(話者の視点からの)描写や人と人のやりとりの一つひとつが、個別に意味を持っているわけでもないし、それらの集積が抽象的な意味を持つわけでもない(保坂氏が抽象性をとても重要視しているにも関わらず、だ)。
つまりそれら一つひとつは、「(他愛もない)日常の構成要素」に過ぎなくて、この表現でも既に意味付けになってしまっているけれど更に意味を付け加えれば、「日常ってのはこんなに他愛のないものなんだよ」というとうてい主張とは呼べないようなありふれた感覚の表現(→主張)と言うこともできる。
と書いてすぐ継ぐべき言葉があるのだが、これは保坂氏の小説を読みながら電球が閃くように浮かぶ考えなどでは決してなく、ふわふわとしたその小説の描写を思い返して敢えて意味付けしようとした時に出てくる考え方であって、要は考え過ぎている。
ふわふわとした、時間がゆっくり流れるような、強いてすることもない牧歌的な日常なんてものが、それこそ長い蓄積と周到な準備を以てしなければ実現できない(しかしそうやって実現したそれを「実現した」と呼んでよいのか甚だ疑問ではあるが)忙しない世の中にあっては、上記の考え過ぎの産物である主張をそれ(=主張)と捉えるのに不自然がないことは納得できそうだが、保坂氏の小説が「ポロポロ」している(できている)ことはすなわち、ちょっと無理しないとそう思えないということを意味する。

だからたぶん、保坂氏の小説も、田中小実昌氏の文章も、手に取って読み始めてから深く考えることもなくふわふわ読んでいつのまにか読み終えて、「これを読んで得たものは何だろうか?」なんてことを思わずに日常に戻っていけるのがよいのだろう。
だからたぶん、ここまで書いてきた文章は、氏らの小説を読むにあたって、何の意味もない。
ぜんぜん「ポロポロ」してないし。

あ、『ポロポロ』を読んでる間に流れていたのは不始末氏のさみしさそうでした。
毎度お世話になっております。

+*+*+*

最初は抜粋だけやって終わろうとしていたのだった。
借りものなのかひかえめに3箇所に付箋を貼っていた。
上で言った(言い過ぎた)通り、付け加えることはありません。
 ひとには、ごくふつうにあって、ぼくには欠けてるものは、このフレーズが成立しないことかもしれない。
 兵隊にいく前に東京を見て……という気が、まったく、ぼくにはなかったのは、旅行中の食糧のことがめんどうなのはべつにして、兵隊にいく前に東京を見て……というフレーズが、ぼくにはなかったのだろう。
 そして、前にも言ったが、兵隊にいく前に、というフレーズも、ぼくにはなかった。
 兵隊にいくときは、だれでも死ぬことを考えるというけど、ぼくは、ぜんぜん、そんなことは考えなかったのも、おなじようなことかもしれない。
 兵隊にいくときには、だれでも死ぬことを考える……というフレーズが、ぼくにはなかったのだ。そもそも、兵隊にいくときには、というフレーズが、ぼくにはなかった。
p.146

 なにかを、やれないのと、やらないのとでは、どちらがより以上にやれないか? こんなふうに言うと、やれないほうのようだけど、逆に、やらないほうかもしれない。石は息ができないのではない。それならば、まだ、息をすることに関係があるみたいだが、関係もなく、ただ、石は息をしない。p.189-190

 しかし、ぼくは、大尾が病気でなかったら、などとはおもわなかっただろう。友人のアパートをたずねたら、友人が風邪をひいて寝ており、病気でなければ、いっしょにどこかに遊びにいったのに、とおもったりすることはある。
 だが、げんに大尾は病人で、しかも、ひどい病気のようなのだ。そんな大尾を、もし元気だったら、などとおもうわけがない。そんなふうにおもう、おもえるのは、そこに大尾がいない、つまり物語のなかだけだ。あのとき、ぼくは、大尾が元気だったら、なんておもいもしないし、おもえもしなかっただろう。げんに、そこに大尾がいて、ぼくといっしょにいても、ぼくは、大尾とぼくの物語をつくるかもしれない。だが、大尾とこうしているんだから、物語なんかつくらない、つくれないといったこともあるにちがいない。
 しかし、物語は、なまやさしい相手ではない。なにかをおもいかえし、記録しようとすると、もう物語がはじまってしまう。
p.214-215
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