幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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苦痛に対処する時にそれが抽象化される点について。
たとえば、目が痛いというときに、いつも通り夕食をとった後でお腹もいつも通り膨れているにも関わらず、何か食べたいと思ってしまうこと。
食べている間の喜びというのは身体とは別に脳も感じるもので、お腹が減っていなくとも食べ始めると食欲が湧いてくる…というのは抑圧していた身体の声が聴こえてくることで別の話で、お腹が膨れていてもまだ箸が進むのは「摂食行為に浸っていたい」という脳の欲求ゆえかと思う(しかしこれも「いったん手に取った箸は動かし続けるという惰性」のせいかもしれないが)。
苦痛の発生源とは別領域で快楽を発生させてなんとかしようとするのは、もしかすると当たり前なのかもしれないが、だから本質を捉え切れていないからいつも失敗するという認識はネガティブに過ぎるのかもしれないが、失敗した時は(前段のないところから、あるいは必要以上に快楽を生み出すから後でそれが苦痛となって戻ってくるために)泥沼に陥ることは少し冷静に考えれば気付ける。
上の例でいえば目の痛さに食べ過ぎが相まって「泣きっ面に腹痛」ということになる。
そこで冷静に考えるというときに、しかし求めたいのは快楽であることに変わりはないのだから、「長期的な快楽」(長い目で見た時の快い状態の積分値)についてなんとか想像を巡らせてみる。
今は大きなマイナスがひとつあって、別件でプラスをもってくることも可能だがそれが反転してマイナスになるリスクもあって、しかし「大きなマイナス」がどう推移するかは現状を加味する限り予断を許さない。
プラスもマイナスもそもそもはスカラーに方向を与えたものなのだけど、心身の状態はプラスやマイナスそのものではなくて、ある初期値にそれらプラスやマイナスを加えた時の位置であって、するとその位置の目盛りというのは「ある初期値」の取り方で決まることになる。
つまり時間(横)と心身状態(縦)の二元座標軸を考えた時、状態はとりあえず今なわけだから縦軸を左右にずらすことはできなくとも(と単純に考えておくけど、こだわり出すとなかなか面白そうではある)、横軸を上下に移動させることは実は簡単なのだ。
前に経済学の新書を読んで「サンクコスト」という用語が頭に残っているのだけど、これは確かsunk (沈むsinkの過去分詞形) costで「回収不能の元手」とかそんな意味だったはず(あ、思い出した「逸失利益」だ)で、これを僕に覚えさせた印象に残る例というのが「食べ放題のお店で支払う前金がサンクコストにあたる」という高校〜大学時代に数え切れぬ不毛な挑戦と後悔を残した自分の経験の身に染みる(切り傷にレモン汁を垂らすような)もので、つまり「原価の高いもん食って元取ったる!」という貧乏症の自分には避けられない勝負に勝とうが負けようが敗北していた若かりし頃が懐かしい。
あるいは「若さを満喫していた時期がちゃんとあった」という思い出だけが残る今となってはプラスが残っているという考え方もできるがそんなことはどうでもよくて(というか貧乏性エネルギィの有効な使い途が他にあったと考え始めるとそのプラスも吹っ飛ぶのだが)、話を戻せばサンクコストなる概念は(経済学で使われる時よりも)ここでは自由に使えることが言いたかった。
で、自分の状態の基準をずらすのは「言うは横山やすし」というけれど(あれ、言わない?)それは「昨日の自分と今日の自分は同じ自分」と思ってるような人にとっては難しいという意味であって、しかし社会人であってそうでない人なんていないはずはなくて(例が極端なんだな)、そこで「人間の細胞は3日間くらいで全部入れ替わる」みたいな生物学的事実をメタファーとして援用して感覚を少し「そっち」に傾ける、というようなことが実際効果的だったりする。
そして後で戻ってこないといけないので「身体を傾ける」だけで「軸足は動かさない」という。
話を一番始めに戻せば、苦痛がある時にその根源を除去しようとしないのは端的に「それができればやっとるわ」ですね。
だからまず本質から逸れるところからスタートするのは常道で、しかしそれが「複雑さをなんとかやりくりする」か「泥沼で喘ぐ」ことになるかの分かれ道が厳然とあって、進むべき方向を過たない秘訣は「比重からして泥沼でも人体は浮く」という認識でしょうね。
たとえば、目が痛いというときに、いつも通り夕食をとった後でお腹もいつも通り膨れているにも関わらず、何か食べたいと思ってしまうこと。
食べている間の喜びというのは身体とは別に脳も感じるもので、お腹が減っていなくとも食べ始めると食欲が湧いてくる…というのは抑圧していた身体の声が聴こえてくることで別の話で、お腹が膨れていてもまだ箸が進むのは「摂食行為に浸っていたい」という脳の欲求ゆえかと思う(しかしこれも「いったん手に取った箸は動かし続けるという惰性」のせいかもしれないが)。
苦痛の発生源とは別領域で快楽を発生させてなんとかしようとするのは、もしかすると当たり前なのかもしれないが、だから本質を捉え切れていないからいつも失敗するという認識はネガティブに過ぎるのかもしれないが、失敗した時は(前段のないところから、あるいは必要以上に快楽を生み出すから後でそれが苦痛となって戻ってくるために)泥沼に陥ることは少し冷静に考えれば気付ける。
上の例でいえば目の痛さに食べ過ぎが相まって「泣きっ面に腹痛」ということになる。
そこで冷静に考えるというときに、しかし求めたいのは快楽であることに変わりはないのだから、「長期的な快楽」(長い目で見た時の快い状態の積分値)についてなんとか想像を巡らせてみる。
今は大きなマイナスがひとつあって、別件でプラスをもってくることも可能だがそれが反転してマイナスになるリスクもあって、しかし「大きなマイナス」がどう推移するかは現状を加味する限り予断を許さない。
プラスもマイナスもそもそもはスカラーに方向を与えたものなのだけど、心身の状態はプラスやマイナスそのものではなくて、ある初期値にそれらプラスやマイナスを加えた時の位置であって、するとその位置の目盛りというのは「ある初期値」の取り方で決まることになる。
つまり時間(横)と心身状態(縦)の二元座標軸を考えた時、状態はとりあえず今なわけだから縦軸を左右にずらすことはできなくとも(と単純に考えておくけど、こだわり出すとなかなか面白そうではある)、横軸を上下に移動させることは実は簡単なのだ。
前に経済学の新書を読んで「サンクコスト」という用語が頭に残っているのだけど、これは確かsunk (沈むsinkの過去分詞形) costで「回収不能の元手」とかそんな意味だったはず(あ、思い出した「逸失利益」だ)で、これを僕に覚えさせた印象に残る例というのが「食べ放題のお店で支払う前金がサンクコストにあたる」という高校〜大学時代に数え切れぬ不毛な挑戦と後悔を残した自分の経験の身に染みる(切り傷にレモン汁を垂らすような)もので、つまり「原価の高いもん食って元取ったる!」という貧乏症の自分には避けられない勝負に勝とうが負けようが敗北していた若かりし頃が懐かしい。
あるいは「若さを満喫していた時期がちゃんとあった」という思い出だけが残る今となってはプラスが残っているという考え方もできるがそんなことはどうでもよくて(というか貧乏性エネルギィの有効な使い途が他にあったと考え始めるとそのプラスも吹っ飛ぶのだが)、話を戻せばサンクコストなる概念は(経済学で使われる時よりも)ここでは自由に使えることが言いたかった。
で、自分の状態の基準をずらすのは「言うは横山やすし」というけれど(あれ、言わない?)それは「昨日の自分と今日の自分は同じ自分」と思ってるような人にとっては難しいという意味であって、しかし社会人であってそうでない人なんていないはずはなくて(例が極端なんだな)、そこで「人間の細胞は3日間くらいで全部入れ替わる」みたいな生物学的事実をメタファーとして援用して感覚を少し「そっち」に傾ける、というようなことが実際効果的だったりする。
そして後で戻ってこないといけないので「身体を傾ける」だけで「軸足は動かさない」という。
話を一番始めに戻せば、苦痛がある時にその根源を除去しようとしないのは端的に「それができればやっとるわ」ですね。
だからまず本質から逸れるところからスタートするのは常道で、しかしそれが「複雑さをなんとかやりくりする」か「泥沼で喘ぐ」ことになるかの分かれ道が厳然とあって、進むべき方向を過たない秘訣は「比重からして泥沼でも人体は浮く」という認識でしょうね。
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すれ違いに納得することがある。
「みんなに好かれる人」は時によって、好かれるべきでない人にも好かれることがある。
「好かれる」とは「互いに影響を及ぼし合う距離にいられる関係」が相手主体で形成されることで、好かれる人からは道端ですれ違う人より大きな影響を受ける。
「好かれるべきでない人」とは、その人の影響を受けて自分が望まない方向に変わってしまう人のことで、しかしこれを事前の判断だけで済ませられるほど単純ではない。
「好かれるべきでない人」を選ぶ姿勢が、既に自分のあるべき状態を決めてかかっているとも言える。
それを「自分の状態の理想を思い描いている」と呼べそうだが少し違って、正確には「自分の状態の理想を思い描いた上で、それ以外の可能性を想定していない(信じていない)」ことになる。
理想を描きつつも、そこから逸れる可能性も排除しない。
それが融通無碍。
という理想論は筋が通ってはいて、あとはそれを実践に移せる日常における精神力・体力の問題なのだが、まあこれがいちばんハードルが高いわけで、「簡単に実現しないからこその理想」と表現することで「ハードルが高いほど理想が崇高になる」という概念操作はさっき思い出した「ロバスト設計」ですね。
制御工学懐かしいなあ…
実は今日は振休とって銀行に行ったんだけど、窓口のお姉さんの対応の話をしようとして全然違う話になった。
ちなみに待ってる間は『ビジネスに戦略なんていらない』(平川克美)を読んでました。
「一回転半ひねり」のマッチング。
たぶん。
「みんなに好かれる人」は時によって、好かれるべきでない人にも好かれることがある。
「好かれる」とは「互いに影響を及ぼし合う距離にいられる関係」が相手主体で形成されることで、好かれる人からは道端ですれ違う人より大きな影響を受ける。
「好かれるべきでない人」とは、その人の影響を受けて自分が望まない方向に変わってしまう人のことで、しかしこれを事前の判断だけで済ませられるほど単純ではない。
「好かれるべきでない人」を選ぶ姿勢が、既に自分のあるべき状態を決めてかかっているとも言える。
それを「自分の状態の理想を思い描いている」と呼べそうだが少し違って、正確には「自分の状態の理想を思い描いた上で、それ以外の可能性を想定していない(信じていない)」ことになる。
理想を描きつつも、そこから逸れる可能性も排除しない。
それが融通無碍。
という理想論は筋が通ってはいて、あとはそれを実践に移せる日常における精神力・体力の問題なのだが、まあこれがいちばんハードルが高いわけで、「簡単に実現しないからこその理想」と表現することで「ハードルが高いほど理想が崇高になる」という概念操作はさっき思い出した「ロバスト設計」ですね。
制御工学懐かしいなあ…
実は今日は振休とって銀行に行ったんだけど、窓口のお姉さんの対応の話をしようとして全然違う話になった。
ちなみに待ってる間は『ビジネスに戦略なんていらない』(平川克美)を読んでました。
「一回転半ひねり」のマッチング。
たぶん。
できかけた法則や習慣を、崩してみる。
「こだわらないことにこだわる」の実践とは絶え間のないもので、この言葉は禅問答というより矛盾なのだが、絶え間のなさは「変化が」ではなく「変化の仕方の変化が」であって、忙しいとか落ち着きがないという表現は適切でなく、落ち着いているが流れている、周囲と質が異なる「静謐な流れ」に常に身を浸すというイメージである。
前回と同じく今読んでいる『目から脳に抜ける話』から養老氏の言葉を引くが、「行く川の流れは絶えずして〜」という徒然草(でしたっけ?外すと相当恥ずかしいが…)の冒頭に触れて、淀みなく流れる川は不変に見えるが、本当の(流れ学で言う?)定常流とは流れが止まって見えるもので、川面の揺らぎが見えたり岩の手前で飛沫があがるのが見られる通常の川は至るところに乱流が混じっていて、だから川を見る人は見ただけで「川の水が流れている」ことがわかる、といった話をしている。この「川の絶えない流れ」は、(ある程度規模が大きくなれば実感もできようが)ある領域を固定して観察するにおいて別の時間で同じ状態(空間座標に占める水分子の量と位置が一致する)が実現することは川の発生から消滅に至るまで一度もないと推測できる。こんな話をすれば地上のある単位空間の空気の構成分子とか厳密に考えればいかなる空間でも同じことが言えるのだが、それらのほとんどは人間の実イメージに即した認識の限界を超えていて、水分子とつい言ってしまったけど川のイメージは実感できやすいと思われる。言いたいのは、例えば「常に変化し続ける流れ」として(少し厳密な)川の流れがイメージしやすいということ。するとこのイメージにおける「変化の仕方」はどう考えられるか。水底の土や小石の配置、空気と水そのものの温度、それに風などが川の流れの変化を決定すると思われるが、これらの要素の種類はそう多くはなさそうだ。しかしこれをして「変化の仕方は変わらない」と言うよりはそれら影響因の(量的な、質的な)組み合わせの際限のなさを捉えて「変化の仕方は無限大だ」と言いたい。同じ人がつくる社会において、その未来がまったくの未知であることも同じことだ。
最初に書いた「できかけた法則や習慣」が最初に書いた時に僕が意図して指していたのはこの「とりたま」シリーズの記事ごとのテーマの決め方のことで、まずこれは自己言及であるのだが、この自己言及という行為そのものが(今回の)自己言及の内容を満たすという、これは何と呼べるのだろうか?
まあそれはおいおい考えるとして、自己言及は一つの筋道に沿った思考よりエネルギィを要するものの使い勝手がよく、文章に行き詰まった時に流れを取り戻すためには重宝する。
文章を書くためにはネタが必要なのだが、そのネタが否が応にも決められてしまうからだ。
行き詰まった時には、「行き詰まった時の自分」をネタにする。
それがパターン化しそうになったら、その「パターン化のパターン解析とそこからの脱却の方途」をネタにする。
これがエネルギィが要ると言うのは、人によってはプライドが邪魔するということもあるだろうが(ある意味で「自分は徹底されてない半端者、軟弱者である」という自己アピールでもあるから、というのは僕の勝手なイメージかもしれないけれど、これはこの書き方がある程度堂に入ってくれば解消できるものだと思う)、重要なのは思考の流れとして不連続(飛躍)であるという点だ。
ある単純な文章の展開を考えたとき、例えばAという現象のイメージを膨らませるために色々な別の具体例で言い換えるような文章を綴るとして、それは「AとはBのことです」「Bとは例えばCがDである時の…」という文章が続くものだとして、この文章における思考の飛躍とは「Aは現象を指すがBは人の性質を指していて、両者が等値されているこの文章は隠喩であって…」のようなもので、「いや確かにAとBのことを話しているけどそういう話じゃなくって…」とこれがコミュニケーションの場であれば文脈の汲み取れないすっとぼけた人の発言にもなってしまうが、
たぶん今必要な「思考」とはこういう思考なのだと思う。
つまり、通常の脈絡を無視して異なる要素を結び付けるような思考。
その思考の初めではうまく言語化できなくとも、着実な感覚に基づいた脈絡がそこには潜んでいて、あるいはその「脈絡の言語化不能性」が底流することで他の多くの要素を引き寄せられるような思考。
「こだわらないことにこだわる」の実践とは絶え間のないもので、この言葉は禅問答というより矛盾なのだが、絶え間のなさは「変化が」ではなく「変化の仕方の変化が」であって、忙しいとか落ち着きがないという表現は適切でなく、落ち着いているが流れている、周囲と質が異なる「静謐な流れ」に常に身を浸すというイメージである。
前回と同じく今読んでいる『目から脳に抜ける話』から養老氏の言葉を引くが、「行く川の流れは絶えずして〜」という徒然草(でしたっけ?外すと相当恥ずかしいが…)の冒頭に触れて、淀みなく流れる川は不変に見えるが、本当の(流れ学で言う?)定常流とは流れが止まって見えるもので、川面の揺らぎが見えたり岩の手前で飛沫があがるのが見られる通常の川は至るところに乱流が混じっていて、だから川を見る人は見ただけで「川の水が流れている」ことがわかる、といった話をしている。この「川の絶えない流れ」は、(ある程度規模が大きくなれば実感もできようが)ある領域を固定して観察するにおいて別の時間で同じ状態(空間座標に占める水分子の量と位置が一致する)が実現することは川の発生から消滅に至るまで一度もないと推測できる。こんな話をすれば地上のある単位空間の空気の構成分子とか厳密に考えればいかなる空間でも同じことが言えるのだが、それらのほとんどは人間の実イメージに即した認識の限界を超えていて、水分子とつい言ってしまったけど川のイメージは実感できやすいと思われる。言いたいのは、例えば「常に変化し続ける流れ」として(少し厳密な)川の流れがイメージしやすいということ。するとこのイメージにおける「変化の仕方」はどう考えられるか。水底の土や小石の配置、空気と水そのものの温度、それに風などが川の流れの変化を決定すると思われるが、これらの要素の種類はそう多くはなさそうだ。しかしこれをして「変化の仕方は変わらない」と言うよりはそれら影響因の(量的な、質的な)組み合わせの際限のなさを捉えて「変化の仕方は無限大だ」と言いたい。同じ人がつくる社会において、その未来がまったくの未知であることも同じことだ。
最初に書いた「できかけた法則や習慣」が最初に書いた時に僕が意図して指していたのはこの「とりたま」シリーズの記事ごとのテーマの決め方のことで、まずこれは自己言及であるのだが、この自己言及という行為そのものが(今回の)自己言及の内容を満たすという、これは何と呼べるのだろうか?
まあそれはおいおい考えるとして、自己言及は一つの筋道に沿った思考よりエネルギィを要するものの使い勝手がよく、文章に行き詰まった時に流れを取り戻すためには重宝する。
文章を書くためにはネタが必要なのだが、そのネタが否が応にも決められてしまうからだ。
行き詰まった時には、「行き詰まった時の自分」をネタにする。
それがパターン化しそうになったら、その「パターン化のパターン解析とそこからの脱却の方途」をネタにする。
これがエネルギィが要ると言うのは、人によってはプライドが邪魔するということもあるだろうが(ある意味で「自分は徹底されてない半端者、軟弱者である」という自己アピールでもあるから、というのは僕の勝手なイメージかもしれないけれど、これはこの書き方がある程度堂に入ってくれば解消できるものだと思う)、重要なのは思考の流れとして不連続(飛躍)であるという点だ。
ある単純な文章の展開を考えたとき、例えばAという現象のイメージを膨らませるために色々な別の具体例で言い換えるような文章を綴るとして、それは「AとはBのことです」「Bとは例えばCがDである時の…」という文章が続くものだとして、この文章における思考の飛躍とは「Aは現象を指すがBは人の性質を指していて、両者が等値されているこの文章は隠喩であって…」のようなもので、「いや確かにAとBのことを話しているけどそういう話じゃなくって…」とこれがコミュニケーションの場であれば文脈の汲み取れないすっとぼけた人の発言にもなってしまうが、
たぶん今必要な「思考」とはこういう思考なのだと思う。
つまり、通常の脈絡を無視して異なる要素を結び付けるような思考。
その思考の初めではうまく言語化できなくとも、着実な感覚に基づいた脈絡がそこには潜んでいて、あるいはその「脈絡の言語化不能性」が底流することで他の多くの要素を引き寄せられるような思考。
遅くなったけど、みそ汁の名前の由来のヒントは伊坂幸太郎と森博嗣です。
これで分かったら凄い。
+*+*+*
収拾がつかなくなること必定の前回提示テーマを受けてみる。
すなわち「自由のための不自由」について。
まず思い付く、というか読んだ時に印象に残ったのですぐに取り出せるのは、『恋恋蓮歩の演習』(森博嗣)冒頭の保呂草探偵の独白だ。
たしか「孤独を感じるには砂漠のまっただ中にいるより都会の群衆に紛れている方がいい」といった内容で、それは孤独は参照項を必要とする相対的なものである、という解釈ができるのだけど、自由もそれと同じなのだ。
つまり「絶対的な孤独」が孤独としての意味をなさないのと同様に「絶対的な自由」は自由の意味を超えている。
「自由」を「制限・制約がない状態」と言い換えた時、何を制限や制約と捉えるかで自由の意味はがらりと変わる。
そういえば今『目から脳に抜ける話』(吉田直哉・養老孟司)という少し古めの爺二人の対談本を読んでいるのだけど(勿論「古め」は「本」に係ります)、養老氏が年上と対談してるのが珍しいなと思いつつ話し方が別に変わるわけでもないが昔の対談本というのは今より「対談そのまま」なんやないかなと相槌の感じや話の切り替わり方(話の途中で発言が意味をなす前から「……」で途切れる、とか)を見て思ったのだけどそれはよくて、対談の中で進化論の話で「目的論的な考え方は人間が想定する枠組み如何で決まってしまうのであって、僕(養老氏)は進化論そのものより進化論を語る人間の方に興味がある」みたいな発言に激しく共感して(と言って単に今まで何冊も養老氏の本を読んで「なるほどねえ」と頷いてることの延長なのだが)、それは「唯脳論」が「結局脳が全てだって言いたいんでしょ」という短絡ではなく「思考を司る器官そのものを思考の対象にするアポリアをどう解剖していくか」という無限マトリョシカのような「終わらない問いの提示」の一つのバリエーションだと思うのだけど、要するに自由を考えるにもまずは目的論的な枠組みを押える(可能なら取り外す)必要がある。
「思考の自由」と言った時、脳が思考するのであるが、脳は身体の一器官であり、身体の他の器官と恊働することで人間が活動する以上、脳は単独で機能することができない。
空腹の時や病気の時にはいつものように頭が働かないことを想像すればそれは分かる。
これを「思考の自由が脳以外の他の器官によって制限されている」と言うことは、できる。
また、ある共同体で生まれ育ったがゆえに、ある特定の言語運用しかできぬがゆえに、想像の届かないもの、思考の枠組みから漏れる概念もあるだろう。
キリスト教を信仰することが生の深いところと繋がっているヨーロッパの人の感覚を日本人はうまく想像できないだろうし、イヌイットのように雪の特徴について二十種類以上も区別することはできない。
このことを「思考の不自由」と呼ぶこともできるだろう。
上で触れた二つは思考の前提(構造)と内容(機能)に関する不自由である。
と思い付くまま挙げてみたものの、一般的に「思考の自由」と言った時は「思考にバイアスがかかっていない状態」を指すものと思われるが、これはジャンルとしては後者(内容)だが内容をもっと絞っていて「ある特定の言語文化内にいること」を前提としていると思われる。
が、自分が最初にしたかった話は「身体の不自由(諸器官の脳への把握し切れぬ影響)を込みにしてこそ思考の自由(←これはきっと「広がり」とか「未知が魅力を発すること」を指している)が得られる」ということで、この本題に別のところから始めて上手く導けたらなあと思ったけどちょっと難しかったね、という降参宣言。
日常的にその「”込み”の例」(不自由から自由が生まれる、とか)がたくさんあって、森博嗣がシリーズもののエッセイ(確かI Say Essay Everydayのどれか)で言ってた「一日一発見」とも言えるくらいあるという自負もあるがしかし同じく「思い付いたことをメモに取ることはなくて、後で忘れてしまったらそれはそれだけのことだったということ」と書いてあるのにも納得して面倒臭がりの口実としていたりもして、書こうと意気込んだ時には音沙汰無し、てのが簡単に想像できるので、相応の話題を雑然と書いてる時に雑然と思い出てくることがあれば雑然と記すこともできるだろうなあと風任せ。
花粉も飛ばなくなったからそろそろ網戸にして、部屋にも風が吹くことでしょう。
ちょっと納得いかないなあ…
これで分かったら凄い。
+*+*+*
収拾がつかなくなること必定の前回提示テーマを受けてみる。
すなわち「自由のための不自由」について。
まず思い付く、というか読んだ時に印象に残ったのですぐに取り出せるのは、『恋恋蓮歩の演習』(森博嗣)冒頭の保呂草探偵の独白だ。
たしか「孤独を感じるには砂漠のまっただ中にいるより都会の群衆に紛れている方がいい」といった内容で、それは孤独は参照項を必要とする相対的なものである、という解釈ができるのだけど、自由もそれと同じなのだ。
つまり「絶対的な孤独」が孤独としての意味をなさないのと同様に「絶対的な自由」は自由の意味を超えている。
「自由」を「制限・制約がない状態」と言い換えた時、何を制限や制約と捉えるかで自由の意味はがらりと変わる。
そういえば今『目から脳に抜ける話』(吉田直哉・養老孟司)という少し古めの爺二人の対談本を読んでいるのだけど(勿論「古め」は「本」に係ります)、養老氏が年上と対談してるのが珍しいなと思いつつ話し方が別に変わるわけでもないが昔の対談本というのは今より「対談そのまま」なんやないかなと相槌の感じや話の切り替わり方(話の途中で発言が意味をなす前から「……」で途切れる、とか)を見て思ったのだけどそれはよくて、対談の中で進化論の話で「目的論的な考え方は人間が想定する枠組み如何で決まってしまうのであって、僕(養老氏)は進化論そのものより進化論を語る人間の方に興味がある」みたいな発言に激しく共感して(と言って単に今まで何冊も養老氏の本を読んで「なるほどねえ」と頷いてることの延長なのだが)、それは「唯脳論」が「結局脳が全てだって言いたいんでしょ」という短絡ではなく「思考を司る器官そのものを思考の対象にするアポリアをどう解剖していくか」という無限マトリョシカのような「終わらない問いの提示」の一つのバリエーションだと思うのだけど、要するに自由を考えるにもまずは目的論的な枠組みを押える(可能なら取り外す)必要がある。
「思考の自由」と言った時、脳が思考するのであるが、脳は身体の一器官であり、身体の他の器官と恊働することで人間が活動する以上、脳は単独で機能することができない。
空腹の時や病気の時にはいつものように頭が働かないことを想像すればそれは分かる。
これを「思考の自由が脳以外の他の器官によって制限されている」と言うことは、できる。
また、ある共同体で生まれ育ったがゆえに、ある特定の言語運用しかできぬがゆえに、想像の届かないもの、思考の枠組みから漏れる概念もあるだろう。
キリスト教を信仰することが生の深いところと繋がっているヨーロッパの人の感覚を日本人はうまく想像できないだろうし、イヌイットのように雪の特徴について二十種類以上も区別することはできない。
このことを「思考の不自由」と呼ぶこともできるだろう。
上で触れた二つは思考の前提(構造)と内容(機能)に関する不自由である。
と思い付くまま挙げてみたものの、一般的に「思考の自由」と言った時は「思考にバイアスがかかっていない状態」を指すものと思われるが、これはジャンルとしては後者(内容)だが内容をもっと絞っていて「ある特定の言語文化内にいること」を前提としていると思われる。
が、自分が最初にしたかった話は「身体の不自由(諸器官の脳への把握し切れぬ影響)を込みにしてこそ思考の自由(←これはきっと「広がり」とか「未知が魅力を発すること」を指している)が得られる」ということで、この本題に別のところから始めて上手く導けたらなあと思ったけどちょっと難しかったね、という降参宣言。
日常的にその「”込み”の例」(不自由から自由が生まれる、とか)がたくさんあって、森博嗣がシリーズもののエッセイ(確かI Say Essay Everydayのどれか)で言ってた「一日一発見」とも言えるくらいあるという自負もあるがしかし同じく「思い付いたことをメモに取ることはなくて、後で忘れてしまったらそれはそれだけのことだったということ」と書いてあるのにも納得して面倒臭がりの口実としていたりもして、書こうと意気込んだ時には音沙汰無し、てのが簡単に想像できるので、相応の話題を雑然と書いてる時に雑然と思い出てくることがあれば雑然と記すこともできるだろうなあと風任せ。
花粉も飛ばなくなったからそろそろ網戸にして、部屋にも風が吹くことでしょう。
ちょっと納得いかないなあ…
どうやらひとつ前の記事からネタを拾って広げてく、というスタイルになっているようだ。
(これは書き手のメタ・メッセージです)
「個から立ち上げる普遍」について。
全く個人的なことを、理に頼りながら時に無視しながら、けれどまったき己が感覚に従うことだけには忠実に思考を重ねて記述された文章が、書き手本人以外の心を打ち、共鳴を呼び起こし、人生の指針にしようとさえ思わせてしまうことがある。
「一般」とか「常識」とはかけ離れた感覚のもとに形成されたその思考が多くの個人の感覚を動かす時、その思考は普遍性を獲得したといっていい。
それは「一般」も「常識」も多くの人々の間で共有されている、コミュニケーションの土台として効果的な位置を占めるという意味で普遍性という性質を持つ一亜種であって、「常識」が地域でも国でも各々異なるように、普遍性を備えた「○○」(まんま「多くの人々の間で共有されるもの」?)もいろいろある。
たとえば全く他者との交流を持たず万年床で妄想を弄ぶ人間の思考が他者の共感を呼ぶことがなぜ起こるのかといえば、ざっくりとは「彼も他者とおなじく人間だから」であり、要点は「他者とおなじく持つ"身体"(ここの場合は脳の方がしっくりくるか)が己が妄想によって賦活される限りにおいてその共感が成り立つ」ということ。
つまり自分の感覚に従って為されたものには、同じ感覚を持つ他者の感覚を刺激する要素が含まれる。
別に難しいことは言ってなくて(というか同じ事を繰り返して言ってるだけか)、けれど実際これをやるのが非常に難度が高いと思われていて、すなわち「一般」や「常識」の参照のないところで自分の感覚を「当たり前やがな」と疑念なく掘り下げることが難しいと思われている。
しかしこれは正しくは「難しい」ではなく「めんどくさい」で、「めんどくさいし得にならないし面白くもない」と思われている。
そんなことはない!…ではなく、「それは君の言う通りで、これはめんどくさいし何の得にもならないことは確かだ。そして面白くもないのかもしれないが、そうだとすれば面白くない理由は君自身が面白くないからだ」なんてことは言ってないけど、「わかんないならわかんなくていいよ」とあくまで自省を始めない限り(「個から普遍を立ち上げる」ことの)スタートを切ることはできないと橋本治は言っているように僕には聞こえる。
世の中を問う本を沢山書いてるし、あーしろこーしろと本の中で説教を垂れることも非常に多いのだけど、そこに手加減はない。手加減というのは例えば「読者のために難しい表現や使用頻度の低い漢字は使わないようにしましょう」という新聞のユーザーフレンドリネスのことで、これは一面で読者のリテラシーをなめてかかってることにもなる。だから橋本治の本には役立つ情報とか話題になるネタのような「つるりとしたもの」なんてなくて、読者の進む道は「つまり何が言いたいの?」という疑問が最初から最後までついてまわって読み終わって何も残らないか、のっけから衝撃を受けて返す言葉も見つからず今の自分に全幅の理解は不可能と悟りながらも必死に追いすがるかの二極しかないのである。ここでいう新聞は巷あふれるハウツー本としてもよいだろう。
言いたい事に戻ると、「個から普遍を立ち上げる」難しさは現代特有のものがあるとして、ここには何が得か、何が面白いかとは別の、生きるうえでの大事な作用がある。
自分の正直な感覚が人に共有される喜びはもちろんあるだろう。それは言葉で伝え合うコミュニケーションの目的でもある。
もう一つ、これが大事だと思うのは、「一般」や「常識」を相対化できることだ。
上で書いたが、性質として、自分発のその「普遍」は「一般」や「常識」と同じなのだ。
だからそれによって「一般」や「常識」の成り立ちがわかるというか、「昔からみんなそうしてきたから(しょうがなく)やっている」ことにも起源や(当初の、あるいは現在の)効果があることに意識が届くようになる。
それがすっかり見通せるようになるのは至難の業だが、詳しくは分からず言語化も難しくとも「意識が届く」ことがまず重要で、それを「化けの皮が剥がれる」といってもいい。
「一般」や「常識」が不条理なもの、曖昧なもの(もきっとあるのだろう)であることの善し悪しとは別に、またそのことによって伝統や集団が機能していることの善し悪しとも別に、「一般」や「常識」の中で生きる一個人として、思考の自由を獲得することができる。
(もちろん「思考の自由」の善し悪しも別の話で、誰もが求めるものではない)
その「思考の自由」を発揮するためには、一定の不自由を敢えて抱え込む必要がある。
という「次のお題提示」をやってしまうと続かない、というジンクスがあるのだが、流れで提示してしまったので仕方がない。
何より「自由を自由にする不自由」(続けて書くと妙だな)については昨日か今日か頭の隅にあったことを覚えていて、それが今ここで出てきたことが一ついいことなのだ。
(これは書き手のメタ・メッセージです)
「個から立ち上げる普遍」について。
全く個人的なことを、理に頼りながら時に無視しながら、けれどまったき己が感覚に従うことだけには忠実に思考を重ねて記述された文章が、書き手本人以外の心を打ち、共鳴を呼び起こし、人生の指針にしようとさえ思わせてしまうことがある。
「一般」とか「常識」とはかけ離れた感覚のもとに形成されたその思考が多くの個人の感覚を動かす時、その思考は普遍性を獲得したといっていい。
それは「一般」も「常識」も多くの人々の間で共有されている、コミュニケーションの土台として効果的な位置を占めるという意味で普遍性という性質を持つ一亜種であって、「常識」が地域でも国でも各々異なるように、普遍性を備えた「○○」(まんま「多くの人々の間で共有されるもの」?)もいろいろある。
たとえば全く他者との交流を持たず万年床で妄想を弄ぶ人間の思考が他者の共感を呼ぶことがなぜ起こるのかといえば、ざっくりとは「彼も他者とおなじく人間だから」であり、要点は「他者とおなじく持つ"身体"(ここの場合は脳の方がしっくりくるか)が己が妄想によって賦活される限りにおいてその共感が成り立つ」ということ。
つまり自分の感覚に従って為されたものには、同じ感覚を持つ他者の感覚を刺激する要素が含まれる。
別に難しいことは言ってなくて(というか同じ事を繰り返して言ってるだけか)、けれど実際これをやるのが非常に難度が高いと思われていて、すなわち「一般」や「常識」の参照のないところで自分の感覚を「当たり前やがな」と疑念なく掘り下げることが難しいと思われている。
しかしこれは正しくは「難しい」ではなく「めんどくさい」で、「めんどくさいし得にならないし面白くもない」と思われている。
そんなことはない!…ではなく、「それは君の言う通りで、これはめんどくさいし何の得にもならないことは確かだ。そして面白くもないのかもしれないが、そうだとすれば面白くない理由は君自身が面白くないからだ」なんてことは言ってないけど、「わかんないならわかんなくていいよ」とあくまで自省を始めない限り(「個から普遍を立ち上げる」ことの)スタートを切ることはできないと橋本治は言っているように僕には聞こえる。
世の中を問う本を沢山書いてるし、あーしろこーしろと本の中で説教を垂れることも非常に多いのだけど、そこに手加減はない。手加減というのは例えば「読者のために難しい表現や使用頻度の低い漢字は使わないようにしましょう」という新聞のユーザーフレンドリネスのことで、これは一面で読者のリテラシーをなめてかかってることにもなる。だから橋本治の本には役立つ情報とか話題になるネタのような「つるりとしたもの」なんてなくて、読者の進む道は「つまり何が言いたいの?」という疑問が最初から最後までついてまわって読み終わって何も残らないか、のっけから衝撃を受けて返す言葉も見つからず今の自分に全幅の理解は不可能と悟りながらも必死に追いすがるかの二極しかないのである。ここでいう新聞は巷あふれるハウツー本としてもよいだろう。
言いたい事に戻ると、「個から普遍を立ち上げる」難しさは現代特有のものがあるとして、ここには何が得か、何が面白いかとは別の、生きるうえでの大事な作用がある。
自分の正直な感覚が人に共有される喜びはもちろんあるだろう。それは言葉で伝え合うコミュニケーションの目的でもある。
もう一つ、これが大事だと思うのは、「一般」や「常識」を相対化できることだ。
上で書いたが、性質として、自分発のその「普遍」は「一般」や「常識」と同じなのだ。
だからそれによって「一般」や「常識」の成り立ちがわかるというか、「昔からみんなそうしてきたから(しょうがなく)やっている」ことにも起源や(当初の、あるいは現在の)効果があることに意識が届くようになる。
それがすっかり見通せるようになるのは至難の業だが、詳しくは分からず言語化も難しくとも「意識が届く」ことがまず重要で、それを「化けの皮が剥がれる」といってもいい。
「一般」や「常識」が不条理なもの、曖昧なもの(もきっとあるのだろう)であることの善し悪しとは別に、またそのことによって伝統や集団が機能していることの善し悪しとも別に、「一般」や「常識」の中で生きる一個人として、思考の自由を獲得することができる。
(もちろん「思考の自由」の善し悪しも別の話で、誰もが求めるものではない)
その「思考の自由」を発揮するためには、一定の不自由を敢えて抱え込む必要がある。
という「次のお題提示」をやってしまうと続かない、というジンクスがあるのだが、流れで提示してしまったので仕方がない。
何より「自由を自由にする不自由」(続けて書くと妙だな)については昨日か今日か頭の隅にあったことを覚えていて、それが今ここで出てきたことが一ついいことなのだ。
とりあえず前回書いた「色々な可能性」の例から。
まず、「知識を溜め込む必要はないんだ」ということ。
サーバだのクラウドだのネット上に情報が無尽蔵に蓄積される今の時代は人間の頭の中に情報を詰め込む必要はなくて、情報の手に入れ方(ネット用語でいえば「検索の仕方」)と情報の使い方を知っていればよい、というのは感覚的に理解できる。できるがしかしそれを追求すると人の名前が覚えられない、世間話についていけない等の日常に障りが生じるのも事実で、トレードオフというか要はバランスが大事なのだけど、バランスが大事と言わせるのは極端に走った時の(だいたい高めに見積もってしまう)苦労に対する恐れであって、「極端に走った実例」を知っているとその見積もりが適切にできるようになる即ち「躊躇なく極端に走れる」ようになるということ。
橋本治は自分で言っているのだが常識に偏りがあって、自分の感覚に全幅の信頼をおいているからこそ知識の蓄積なんかなくとも「今の自分に必要なもの」の見当をつけて勉強してどんどん思考を組み立てていくことができて、その「個の追求から普遍が立ち上がる様」を氏の著作を読んで何度も見せつけられている身としては憧れずにはいられない。
ただ僕の場合人に憧れることはなくてその対象は「性質」であって、それは「自分の感覚に信頼がおけること」だ。それは自分の思考に価値があるとか自分の発言に間違いはないという意識ではなく、考えても分からない時は分からないし間違うこともあって、しかし分からないことに納得できるし間違うことの必然性を悟ることができる、という意識のことだ。僕がその本のジャンル・内容に関わらず「著者買い」する書き手はだいたいこの意識をもっていて、それはそのような意識に憧れているからでもあるし、既に自分も仲間に入りつつあってそのような文章を読むと(「こんな風に考えてていいんだ」と)安心するからでもあるし、その安心は何よりその人が現に楽しげにこのような文章を書いて生きているという「先例」を示してくれることによるものだ。
少し話がとぶけれど、「(特定の)個人の時間」にも「世間の時間」にも、人ひとりに親しみを感じさせる性質がある。ここでいう時間とは時間の流れ方のことで、後者「世間の時間」は新聞やテレビであるような「人気のハイソな週末の過ごし方」とか「高視聴率のドラマ」といったものに個人がのっかる時に流れる時間のことで、「多くの人がこれをやっている」という安心感があり、実際に知り合いも同じ事をやっていてその話題を共有できたりする。一方の前者「個人の時間」とは、たとえば橋本治がうんうん唸って原稿を書いている時に流れている時間のことで、氏の本を読むことはそのような氏の時間を共有することでもある。どちらも幻想であることに変わりはない。また、どちらの時間に共調することが重要かという問いもあまり意味はなく、その人が過ごしたい時間がどういう性質かによるだろう。…僕は「個人の時間」への共調に大きな意味を見出しているし、安心すると同時に充実感を味わっている、としか言えないか。そしてそのことを普遍化(抽象化)したければ具体例から出発せねばならないだろう。
その具体例を書こうとして、途中から分類志向に吸い寄せられて話がつまらない方に流れてしまったようだ。分類への魅力は恐らく深く根を張っていて、それができればすっきりするし何かまともなことを言えた気になるし実際仕事上大事な作業であるために蔑ろには当然できないのだが、時間の限られたあるいは趣味的な思考における分類志向は「新たな思考を立ち上げる」よりも「思考に一区切りをつけて終わらせる」ベクトルを持っていて、端的に言って日常で思考を深めたい自分にとってそれはあまり好きではない。だから「時間の限られた思考」という捉え方をまず修正する必要があって、毎日コンスタントに(ある設定した枠内での)思考を積み重ねるという習慣をもつことがおそらく一つの方法で、それは習慣であると同時に技術でもあるのだが、技術は後回しにして習慣を先に身に付けてしまえば、必要が「本当の必要」になった時に自ずと技術が形成されていくものと思われる。
課題はたくさんあって、書いてるそばから同じ単語の指す意味(範囲)が変わっているようだし、最初に書こうと思っていたことからどんどん話が逸れていって戻って来れなくなるのもまあいいとしても勢いに任せて面白くなさそうな話に踏み込んでいってドツボに嵌ることもよく見受けられる。こうやって書きながら反省もして、それが身に染みていけば勝手に修正されていくだろう、というような意識を僕は「他律的」と呼びたいが、自分一人で文章を書いていて他律もないだろうという常識側の指摘もそれに対する回答もすぐに連想できて、それを書く前に(というかそれを書くことをすっ飛ばして)書くべき別のことに瞬時に思い至れば「流れるように書きかつ他人にももう少し読み易い文章」が書けるのかもしれない。
さて、「筆の勢い」と「読み返し易さ」との相関は正か負か、明日の自分が判断してくれるでしょう。
まず、「知識を溜め込む必要はないんだ」ということ。
サーバだのクラウドだのネット上に情報が無尽蔵に蓄積される今の時代は人間の頭の中に情報を詰め込む必要はなくて、情報の手に入れ方(ネット用語でいえば「検索の仕方」)と情報の使い方を知っていればよい、というのは感覚的に理解できる。できるがしかしそれを追求すると人の名前が覚えられない、世間話についていけない等の日常に障りが生じるのも事実で、トレードオフというか要はバランスが大事なのだけど、バランスが大事と言わせるのは極端に走った時の(だいたい高めに見積もってしまう)苦労に対する恐れであって、「極端に走った実例」を知っているとその見積もりが適切にできるようになる即ち「躊躇なく極端に走れる」ようになるということ。
橋本治は自分で言っているのだが常識に偏りがあって、自分の感覚に全幅の信頼をおいているからこそ知識の蓄積なんかなくとも「今の自分に必要なもの」の見当をつけて勉強してどんどん思考を組み立てていくことができて、その「個の追求から普遍が立ち上がる様」を氏の著作を読んで何度も見せつけられている身としては憧れずにはいられない。
ただ僕の場合人に憧れることはなくてその対象は「性質」であって、それは「自分の感覚に信頼がおけること」だ。それは自分の思考に価値があるとか自分の発言に間違いはないという意識ではなく、考えても分からない時は分からないし間違うこともあって、しかし分からないことに納得できるし間違うことの必然性を悟ることができる、という意識のことだ。僕がその本のジャンル・内容に関わらず「著者買い」する書き手はだいたいこの意識をもっていて、それはそのような意識に憧れているからでもあるし、既に自分も仲間に入りつつあってそのような文章を読むと(「こんな風に考えてていいんだ」と)安心するからでもあるし、その安心は何よりその人が現に楽しげにこのような文章を書いて生きているという「先例」を示してくれることによるものだ。
少し話がとぶけれど、「(特定の)個人の時間」にも「世間の時間」にも、人ひとりに親しみを感じさせる性質がある。ここでいう時間とは時間の流れ方のことで、後者「世間の時間」は新聞やテレビであるような「人気のハイソな週末の過ごし方」とか「高視聴率のドラマ」といったものに個人がのっかる時に流れる時間のことで、「多くの人がこれをやっている」という安心感があり、実際に知り合いも同じ事をやっていてその話題を共有できたりする。一方の前者「個人の時間」とは、たとえば橋本治がうんうん唸って原稿を書いている時に流れている時間のことで、氏の本を読むことはそのような氏の時間を共有することでもある。どちらも幻想であることに変わりはない。また、どちらの時間に共調することが重要かという問いもあまり意味はなく、その人が過ごしたい時間がどういう性質かによるだろう。…僕は「個人の時間」への共調に大きな意味を見出しているし、安心すると同時に充実感を味わっている、としか言えないか。そしてそのことを普遍化(抽象化)したければ具体例から出発せねばならないだろう。
その具体例を書こうとして、途中から分類志向に吸い寄せられて話がつまらない方に流れてしまったようだ。分類への魅力は恐らく深く根を張っていて、それができればすっきりするし何かまともなことを言えた気になるし実際仕事上大事な作業であるために蔑ろには当然できないのだが、時間の限られたあるいは趣味的な思考における分類志向は「新たな思考を立ち上げる」よりも「思考に一区切りをつけて終わらせる」ベクトルを持っていて、端的に言って日常で思考を深めたい自分にとってそれはあまり好きではない。だから「時間の限られた思考」という捉え方をまず修正する必要があって、毎日コンスタントに(ある設定した枠内での)思考を積み重ねるという習慣をもつことがおそらく一つの方法で、それは習慣であると同時に技術でもあるのだが、技術は後回しにして習慣を先に身に付けてしまえば、必要が「本当の必要」になった時に自ずと技術が形成されていくものと思われる。
課題はたくさんあって、書いてるそばから同じ単語の指す意味(範囲)が変わっているようだし、最初に書こうと思っていたことからどんどん話が逸れていって戻って来れなくなるのもまあいいとしても勢いに任せて面白くなさそうな話に踏み込んでいってドツボに嵌ることもよく見受けられる。こうやって書きながら反省もして、それが身に染みていけば勝手に修正されていくだろう、というような意識を僕は「他律的」と呼びたいが、自分一人で文章を書いていて他律もないだろうという常識側の指摘もそれに対する回答もすぐに連想できて、それを書く前に(というかそれを書くことをすっ飛ばして)書くべき別のことに瞬時に思い至れば「流れるように書きかつ他人にももう少し読み易い文章」が書けるのかもしれない。
さて、「筆の勢い」と「読み返し易さ」との相関は正か負か、明日の自分が判断してくれるでしょう。
nは自然数(いまのところn>3)です。
橋本治の文章は表現が簡単で、使われている一つひとつの単語の意味で詰まることがまずない。
きっとそれは「在野の人」だからというのもありそうだが、吉本隆明の難解さ(晦渋なのかもしれないけど読み手との距離はそこそこ近くてきっと衒学的ではない)を例外と捉えるべきかは『母型論』しか読んだことないからわからない(実家で見つけた『共同幻想論』を持ち帰っているので近いうちに読みたい、と以前思ったことを今思い出した)。
表現が簡単なもんだからさらりと読めばするっと理解できそうで、しかし一文を読み飛ばさず思考を丁寧に展開していくと凄いことが惜しげもなくどどどと書かれていることに気付いてこちらの負担が一気に増えて、読み手の態度いかんで「さらり」が「どどど」になる文章はまず凄いのだが、その文章は色々な可能性をこちらに想像させてくれるものでもある。
引用のなかで特に下線を引いた箇所が「まさにその通り!」と僕は思って、読書が日常からの逃避というか気分転換なんかではなく読書と日常が密接に相互に影響を与えていて、この意味は「読書ばかりしている日常」ではなく「仕事とか炊事・食事とか散歩含めた日常に対する読書の影響力の大きいこと」であって、「評論でも小説でも一冊を読み終えるごとに自分が変わったように思える」ことがあながち嘘でもないのだがそれは併読する本が多過ぎて一冊ごとの区切りに意識が向かないことが原因でつまり「”変わってない”という意識がないなら変わってるんだろう」という大雑把な認識が実際のところである。
読書が日常に与える影響は小説だとわかりやすくて、気に入った小説はひとつ決めた音楽と一緒に(最初はスピーカで流しながら、慣れたらそれを脳内で再生させながら)読んでいて、その効果のひとつとして例えば仕事中でもその音楽を頭の中で流せば対応する小説世界が現前する。
現前といって具体的なものではなく、その小説がSFだったりすると具体的になるはずもないのだが、「その小説世界にいる主人公の心持ちが投影される」のがその一例で、ざっくり言えばなんとなくで、なんとなく哀愁を感じながら、とかなんとなく魂の高揚を感じながら仕事ができたりする。
ではその一方の日常が読書に与える影響といえば、本を読んでいる最中に日常の出来事が思い浮かんだりということもあるし、そもそもの「よし、これから何を読もうかな」と本棚を漠然と眺める時に頭を掠めて意識せざる所で決定的な影響を及ぼしているのがその時期の仕事における自分の立ち位置とか先週末にカフェで隣に坐った受験勉強する高校生たちの印象に残った言動だったりすることもある。
なんだか話が「とりたま」(タイトルを愛称化してみた)に近づきつつあるように見えて、べつに「読書と日常のどちらが先か」という話ではなく、というかそのまま当てはめて書いて「なんのこっちゃ?」と今僕も思うことがつまりそういうことで、でも最初に言いたかったことと繋がってはいる。
日常を充実させるために読書をする(ハウツー本読んで仕事の能率を上げる、とか)。
読書を充実させるために日常をこなす(お金ないと本変えないよね、とか)。
そう言って言えないことはないが、じっさいそんなことはないのだ。
物事の連鎖には起源があり、目的があるのかもしれない。
起源はじっさいあったのだろうし、目的が立てられたからこそ連鎖が起こったのかもしれない。
けれど実は、目的は、そして起源も、見出すものなのだ。
+*+*+*
中途半端だけど続く…のは確かだけど、この話自体が続く保証はないです。
今日の分は最初に設定した方向に戻る気配が全く無かった。
さてどこへ行くのか。
橋本治の文章は表現が簡単で、使われている一つひとつの単語の意味で詰まることがまずない。
きっとそれは「在野の人」だからというのもありそうだが、吉本隆明の難解さ(晦渋なのかもしれないけど読み手との距離はそこそこ近くてきっと衒学的ではない)を例外と捉えるべきかは『母型論』しか読んだことないからわからない(実家で見つけた『共同幻想論』を持ち帰っているので近いうちに読みたい、と以前思ったことを今思い出した)。
表現が簡単なもんだからさらりと読めばするっと理解できそうで、しかし一文を読み飛ばさず思考を丁寧に展開していくと凄いことが惜しげもなくどどどと書かれていることに気付いてこちらの負担が一気に増えて、読み手の態度いかんで「さらり」が「どどど」になる文章はまず凄いのだが、その文章は色々な可能性をこちらに想像させてくれるものでもある。
引用のなかで特に下線を引いた箇所が「まさにその通り!」と僕は思って、読書が日常からの逃避というか気分転換なんかではなく読書と日常が密接に相互に影響を与えていて、この意味は「読書ばかりしている日常」ではなく「仕事とか炊事・食事とか散歩含めた日常に対する読書の影響力の大きいこと」であって、「評論でも小説でも一冊を読み終えるごとに自分が変わったように思える」ことがあながち嘘でもないのだがそれは併読する本が多過ぎて一冊ごとの区切りに意識が向かないことが原因でつまり「”変わってない”という意識がないなら変わってるんだろう」という大雑把な認識が実際のところである。
読書が日常に与える影響は小説だとわかりやすくて、気に入った小説はひとつ決めた音楽と一緒に(最初はスピーカで流しながら、慣れたらそれを脳内で再生させながら)読んでいて、その効果のひとつとして例えば仕事中でもその音楽を頭の中で流せば対応する小説世界が現前する。
現前といって具体的なものではなく、その小説がSFだったりすると具体的になるはずもないのだが、「その小説世界にいる主人公の心持ちが投影される」のがその一例で、ざっくり言えばなんとなくで、なんとなく哀愁を感じながら、とかなんとなく魂の高揚を感じながら仕事ができたりする。
ではその一方の日常が読書に与える影響といえば、本を読んでいる最中に日常の出来事が思い浮かんだりということもあるし、そもそもの「よし、これから何を読もうかな」と本棚を漠然と眺める時に頭を掠めて意識せざる所で決定的な影響を及ぼしているのがその時期の仕事における自分の立ち位置とか先週末にカフェで隣に坐った受験勉強する高校生たちの印象に残った言動だったりすることもある。
なんだか話が「とりたま」(タイトルを愛称化してみた)に近づきつつあるように見えて、べつに「読書と日常のどちらが先か」という話ではなく、というかそのまま当てはめて書いて「なんのこっちゃ?」と今僕も思うことがつまりそういうことで、でも最初に言いたかったことと繋がってはいる。
日常を充実させるために読書をする(ハウツー本読んで仕事の能率を上げる、とか)。
読書を充実させるために日常をこなす(お金ないと本変えないよね、とか)。
そう言って言えないことはないが、じっさいそんなことはないのだ。
物事の連鎖には起源があり、目的があるのかもしれない。
起源はじっさいあったのだろうし、目的が立てられたからこそ連鎖が起こったのかもしれない。
けれど実は、目的は、そして起源も、見出すものなのだ。
+*+*+*
中途半端だけど続く…のは確かだけど、この話自体が続く保証はないです。
今日の分は最初に設定した方向に戻る気配が全く無かった。
さてどこへ行くのか。
珍しく有言実行で、昨日の続き。
昨日書こうと思ったのは、まずもやもやとした思考の中で雑多な要素が時間を飛び越えてリンクを張る気配があって、それを整理する前に気の利いたフレーズ(タイトルのこと)を思い付いたから「これなら書きながら整理できるかな」と思ったからである。
で、抽象的な話が好きな僕はしかし抽象に先立つ具象が必ずあって、それが具体的に何かやっていて意識的に帰納する場合とまず抽象が意識にのぼってきてその出所を探るうちに一つの具象にたどり着く(これがこじつけにならないとも限らないが)場合があるのだけど、なるべくならその思考を言語化する際に抽象と具象をセットにしたいとは思うが表現が慣れていないというか体系的な記述方法を(「体系」に対する関心しかないために)習得することに興味がないので昨日の最初に書いたような「書く時に先立つ具象がとんでしまって抽象だけ残る」というポカばっかりで、このことを不親切と呼んではいても自分の書いた記事を読み返す自分がこの不親切に苛立ったことがないのできっと自分は「他者の不親切に堪(こた)えない純粋に不親切な人間」なのかもしれなくて、これが事実認知的というよりは遂行的な認知(「認知的な認知」と書くとおかしく聞こえるけどちゃんと意味は通る)であるという事故認識はおいといて、「不親切は親切のツンデレ的な顕れ」という巷間の説にも一理あると思う。
結局言いたいのは「やっぱり思い出せなかった」ということで、タイトルから連想できる抽象だけ書いておく。
「鶏と卵」と書くのはそれからすぐわかる通り、物ではなく関係を指している。
どちらが先か、というやつで、起源のわからない事柄を表現する慣用句である。
人は生活するにおいて一つひとつの行動には起源がある。
ある目的のため、またはある指針に基づいて、または考えもなく単なる習慣で。
自分の日々の行動の起源を反省するとき、行動のいくつかが共通の指針や習慣の連鎖によって選択されていると気付くことがある。
「複数の行動に共通の指針」と言った時、きっとその指針に従って始められた時期が各々の行動で異なるはずである。
「習慣の連鎖」とは、特に目的もなく始められた行動があり、その行動に付随する(という以外に意味のない)行動が余地なく選択され、という「気が付けば日常に組み入れられていた行動群」の形成過程を指すが、これもやはり「複数の行動に先立つ唯一つの行動」があるはずである。
これらの意味での「最初の行動」を特定しようと思うのは、自分の生活の見直しが念頭にある場合もあるだろうし、「生活設計の仕組み」を考える好材料になるという興味もある。
自分が考えているのは言うまでもなく後者で、それは「よりよい生活を設計したい」という現実的な目的とは関係がなくて、「生活を設計するとはどういうことか」とか「"生活を設計する"という意識の外で生活の形成に寄与する部分とは何か」とか形而上的な興味なのだけど、その底には現実を超越した机上哲学を弄ぶのでなく「現実に影響を与える無意識にアプローチしたい」というかなり大変な目論見があって、もちろん無意識はモノではないので(意識もそうだけど)、簡単にまとめれば生活を抽象化してから具象化する「生活のフリーズドライ工法」で長期保存可能の湯戻し式即席味噌汁をいかに美味しく作るかに関する考察なのである。
ああ終わんない…
落としたかった引用を先に出しちゃおう。
次でたどり着けるとも思わないけど…はは。
昨日書こうと思ったのは、まずもやもやとした思考の中で雑多な要素が時間を飛び越えてリンクを張る気配があって、それを整理する前に気の利いたフレーズ(タイトルのこと)を思い付いたから「これなら書きながら整理できるかな」と思ったからである。
で、抽象的な話が好きな僕はしかし抽象に先立つ具象が必ずあって、それが具体的に何かやっていて意識的に帰納する場合とまず抽象が意識にのぼってきてその出所を探るうちに一つの具象にたどり着く(これがこじつけにならないとも限らないが)場合があるのだけど、なるべくならその思考を言語化する際に抽象と具象をセットにしたいとは思うが表現が慣れていないというか体系的な記述方法を(「体系」に対する関心しかないために)習得することに興味がないので昨日の最初に書いたような「書く時に先立つ具象がとんでしまって抽象だけ残る」というポカばっかりで、このことを不親切と呼んではいても自分の書いた記事を読み返す自分がこの不親切に苛立ったことがないのできっと自分は「他者の不親切に堪(こた)えない純粋に不親切な人間」なのかもしれなくて、これが事実認知的というよりは遂行的な認知(「認知的な認知」と書くとおかしく聞こえるけどちゃんと意味は通る)であるという事故認識はおいといて、「不親切は親切のツンデレ的な顕れ」という巷間の説にも一理あると思う。
結局言いたいのは「やっぱり思い出せなかった」ということで、タイトルから連想できる抽象だけ書いておく。
「鶏と卵」と書くのはそれからすぐわかる通り、物ではなく関係を指している。
どちらが先か、というやつで、起源のわからない事柄を表現する慣用句である。
人は生活するにおいて一つひとつの行動には起源がある。
ある目的のため、またはある指針に基づいて、または考えもなく単なる習慣で。
自分の日々の行動の起源を反省するとき、行動のいくつかが共通の指針や習慣の連鎖によって選択されていると気付くことがある。
「複数の行動に共通の指針」と言った時、きっとその指針に従って始められた時期が各々の行動で異なるはずである。
「習慣の連鎖」とは、特に目的もなく始められた行動があり、その行動に付随する(という以外に意味のない)行動が余地なく選択され、という「気が付けば日常に組み入れられていた行動群」の形成過程を指すが、これもやはり「複数の行動に先立つ唯一つの行動」があるはずである。
これらの意味での「最初の行動」を特定しようと思うのは、自分の生活の見直しが念頭にある場合もあるだろうし、「生活設計の仕組み」を考える好材料になるという興味もある。
自分が考えているのは言うまでもなく後者で、それは「よりよい生活を設計したい」という現実的な目的とは関係がなくて、「生活を設計するとはどういうことか」とか「"生活を設計する"という意識の外で生活の形成に寄与する部分とは何か」とか形而上的な興味なのだけど、その底には現実を超越した机上哲学を弄ぶのでなく「現実に影響を与える無意識にアプローチしたい」というかなり大変な目論見があって、もちろん無意識はモノではないので(意識もそうだけど)、簡単にまとめれば生活を抽象化してから具象化する「生活のフリーズドライ工法」で長期保存可能の湯戻し式即席味噌汁をいかに美味しく作るかに関する考察なのである。
ああ終わんない…
落としたかった引用を先に出しちゃおう。
次でたどり着けるとも思わないけど…はは。
たとえば、私が高校生で、自分の周りにいるオッさんやオバちゃんや、兄ちゃんや姐ちゃん達に違和感を感じている。「一体、この人達ってなんなんだ? 自分のいるところって、そもそもどんなところなんだ?」という疑問を感じている。私の、「日本人の中にある仏教ってなんなんだ?」という疑問は、その疑問とシンクロしている。高校生の私が、「日本仏教史」の類を読むのなら、仏教への疑問が、「オレの周りにいる見知らぬ人達ってなに?」の答と重なるものだと思って読む。因果なことに、これは今でも私の中に生きている根本体質だから、動きようがない。
(…)
「なんか分からない。なんか難しい。でも、なんか分かるところがある」というものを抱えなければ、人間の問題意識なんか、絶対に伸びない。それを抱え込むことが、「読んでよかった」と思うことなのだから、私は、そういう高校生を内に抱えているような、抱えていたような人間にしか関心はない。
橋本治『橋本治という行き方 WHAT A WAY TO GO!』p.205-206
「雄にも産める、卵がある」
みたいなキャッチフレーズも思いついたけどそれはよくて。
さっき味噌汁の具を仕込んでいて、思い付いたことがあった。
あったのだけど、変な事を思い付いたせいでとんでしまった。
味噌汁の話をしていれば思い出すかもしれないのでそれを書く。
一月前くらいから味噌汁に凝り始めた。
味噌汁は社会人生活を始めたちょうど3年前からほぼ毎日飲んでいるが、
(実はもう4年目なのね…いつの間にか、とは言わない)
それはインスタントに毛を生やした代物であった。
毛にあたるのは乾燥わかめセットとか干し大根とかのことで、
要は「調理せずに少しだけ手間をかける」ことで満足していたのだった。
それがとあるきっかけがあって(これはまだ実験中なので詳しく書けない)、
味噌汁の具をぜんぶ初期状態(つまり生)で買って、味噌にこだわるまでになった。
まあこだわると言って経験が浅いのでこれからなのだけど、
とりあえず味噌は愛知の赤味噌(400g)を二度試して、次は秋田の寝かせ味噌の予定。
それで具の方が多分本題で、スタートのコンセプトが
「食べたい野菜をぜんぶ入れる」で、最初から王道を逸れている。
味噌汁を手作りしようと思った日のスーパーで「舞茸と牛蒡の即席味噌汁」を見て
「これだ!」と思ってまず舞茸と牛蒡は決まって、
長ネギと玉葱が好きなのでこれも入れることにして初期の野菜はこの4種類だった。
実はこのことがあって玉葱を買ったのが一年以上ぶりで、
(弁当・外食に頼らない意味で自分は社会人生活を始めた時から自炊人なのだけど、
品目が多くても1、2日周期で同じものを食べているので偏りは大きい)
それを手製味噌汁一号を食べる前に気付いて、食べる時に涙が出そうになった。
じっさい一号は美味しくて、そしてという繋げ方もアレだけど味付けがテキトーで、
豆腐に使ってるかつお節と毎朝ミルクコーヒーに入れるトウキビ砂糖という
その場にあるものを思いつきで入れただけで理想型を思い描いてなかったというか
「これを入れればどうなる」という想像を逐一やっていたのでその想像に対して
出来上がりが合ってようが違ってようが「なるほど!」と驚く所はいっしょで、
つまりそれが美味しいことに変わりはないという「ブリコラージュ味噌汁」が
このひと月で刻々と変化を遂げていて(進化かどうかは現時点では不明)、
今は具が13種で僕はこれを「倍々コック長の孤独の豚汁」と命名した。
(解題は次回のお楽しみ)
で、今はと言ったけどさっき仕込んだ具はここからまた変化していて、
それは具の野菜を買ったスーパーがいつもと違ったせいなのだけど、
具体的には「舞茸と長ネギ」が「椎茸と茄子」に変わっていて、
その理由が他の野菜との相性でもこれを食べたかったからでもなく、
「そこで売っていた野菜の中で一度に使い切る分量がちょうどよかったから」
という一般的にはもうどうでもよい理由であって、
(でも主婦って案外そういう選び方してんちゃうやろか…主夫やのうて、ね)
そのどうでもよい理由につき動かされつつ「あれ、俺キノコ嫌いやったような…?」
とふと思って、もう舞茸は毎晩食べてて口には馴染んでいて、
でも椎茸って見た目不気味やな、毛生えててちょっと不気味やけど食えるのこれ、
いやしかしよく考えると不気味さでいって椎茸より舞茸の方が…
というどうでもよい混乱が面白くて、
「これが生活するってことか」って思った。
+*+*+*
…言いたいことまでたどり着かなかったけど時間がアレなので続きは明日。
みたいなキャッチフレーズも思いついたけどそれはよくて。
さっき味噌汁の具を仕込んでいて、思い付いたことがあった。
あったのだけど、変な事を思い付いたせいでとんでしまった。
味噌汁の話をしていれば思い出すかもしれないのでそれを書く。
一月前くらいから味噌汁に凝り始めた。
味噌汁は社会人生活を始めたちょうど3年前からほぼ毎日飲んでいるが、
(実はもう4年目なのね…いつの間にか、とは言わない)
それはインスタントに毛を生やした代物であった。
毛にあたるのは乾燥わかめセットとか干し大根とかのことで、
要は「調理せずに少しだけ手間をかける」ことで満足していたのだった。
それがとあるきっかけがあって(これはまだ実験中なので詳しく書けない)、
味噌汁の具をぜんぶ初期状態(つまり生)で買って、味噌にこだわるまでになった。
まあこだわると言って経験が浅いのでこれからなのだけど、
とりあえず味噌は愛知の赤味噌(400g)を二度試して、次は秋田の寝かせ味噌の予定。
それで具の方が多分本題で、スタートのコンセプトが
「食べたい野菜をぜんぶ入れる」で、最初から王道を逸れている。
味噌汁を手作りしようと思った日のスーパーで「舞茸と牛蒡の即席味噌汁」を見て
「これだ!」と思ってまず舞茸と牛蒡は決まって、
長ネギと玉葱が好きなのでこれも入れることにして初期の野菜はこの4種類だった。
実はこのことがあって玉葱を買ったのが一年以上ぶりで、
(弁当・外食に頼らない意味で自分は社会人生活を始めた時から自炊人なのだけど、
品目が多くても1、2日周期で同じものを食べているので偏りは大きい)
それを手製味噌汁一号を食べる前に気付いて、食べる時に涙が出そうになった。
じっさい一号は美味しくて、そしてという繋げ方もアレだけど味付けがテキトーで、
豆腐に使ってるかつお節と毎朝ミルクコーヒーに入れるトウキビ砂糖という
その場にあるものを思いつきで入れただけで理想型を思い描いてなかったというか
「これを入れればどうなる」という想像を逐一やっていたのでその想像に対して
出来上がりが合ってようが違ってようが「なるほど!」と驚く所はいっしょで、
つまりそれが美味しいことに変わりはないという「ブリコラージュ味噌汁」が
このひと月で刻々と変化を遂げていて(進化かどうかは現時点では不明)、
今は具が13種で僕はこれを「倍々コック長の孤独の豚汁」と命名した。
(解題は次回のお楽しみ)
で、今はと言ったけどさっき仕込んだ具はここからまた変化していて、
それは具の野菜を買ったスーパーがいつもと違ったせいなのだけど、
具体的には「舞茸と長ネギ」が「椎茸と茄子」に変わっていて、
その理由が他の野菜との相性でもこれを食べたかったからでもなく、
「そこで売っていた野菜の中で一度に使い切る分量がちょうどよかったから」
という一般的にはもうどうでもよい理由であって、
(でも主婦って案外そういう選び方してんちゃうやろか…主夫やのうて、ね)
そのどうでもよい理由につき動かされつつ「あれ、俺キノコ嫌いやったような…?」
とふと思って、もう舞茸は毎晩食べてて口には馴染んでいて、
でも椎茸って見た目不気味やな、毛生えててちょっと不気味やけど食えるのこれ、
いやしかしよく考えると不気味さでいって椎茸より舞茸の方が…
というどうでもよい混乱が面白くて、
「これが生活するってことか」って思った。
+*+*+*
…言いたいことまでたどり着かなかったけど時間がアレなので続きは明日。
2013/02/11 11:48
『海辺のカフカ(下)』の付箋箇所を読み返している。
その途中から、メタファーについて考えている。
まず単純化していえば、「メタファーのメタファー」は「現実」になりうるのではないだろうか?
メタファーは比喩であり、抽象化でもあり具体化でもあり、現実をそれとは違うものとして表すことができる。
現実を具体的なものと考えた時にメタファーは抽象的になるだろうし、文脈や流れといったものがうまくつかみきれない現実のなかでのメタファーは具体化のはたらきを見せる。
現実と比喩の関係はおそらく「入れ子構造」として捉える見方が一般的かと思われる(と言った時のメタファーは抽象化を指すと考えられる)。
メタファーは現実の一部をくるみ、さらなるメタファーはより外側でそれらを薄く包み込む。
最初に見ていた現実はどんどん漠然としてくるが、その大きな意味や流れのようなもののイメージが姿を表してくる。
もちろんその姿は可能性の一つに過ぎない。
一方で、比喩を「現実のベクトル成分」と捉えることもできる(この時のメタファーは抽象化でも具体化でもよいように思われる)。
固定化した現実に、ある意味で「意味の失われた」現実に、方向と動きを与えるためのメタファー。
現実も本来スカラーとベクトルの両成分を持っているが、散文的な把握はスカラーを強調してしまう。
このような比喩の捉え方をしたときの「メタファーのメタファー」は、入れ子構造とは違った構造をとる。
ある地点に位置する現実が、比喩を通して別の位置に移動する。
その前後の位置を結ぶベクトルは、「現実が進んだ方向」を示す。
そして次に別の比喩を通した時に、例えばそれが最初の移動と全く逆向き(でスカラー量も等しい)であれば、二度の比喩を通じた現実が最初の地点に戻ってくることになる。
もちろん「比喩の比喩は現実となる」という理想状態を強調したいのではなく、「比喩を重ねることで(最初は離れるいっぽうだったかもしれないが)現実に近づいていく」ことがあるのだ、と言いたい。
小説とは、その存在自体がメタフォリカルなものだ。
小説の中で用いられるメタファーに、読み手は神経を研ぎ澄ませなければならない。
書物の中のものが、書物を越えて出てくる瞬間が、小説にはある。
それはたとえば、
「この世の中のすべてのものはメタファーなんだよ」と大島さんがカフカ少年に諭す時、「この世の中のすべてのもの」には佐伯さんや甲村図書館やさくらの夢だけでなく『海辺のカフカ(下)』もMacBookProもブラックコーヒーも含まれており、僕はカフカ少年と並んで、大島さんの端正な顔立ちに魅入って頷いているということ。
『海辺のカフカ(下)』の付箋箇所を読み返している。
その途中から、メタファーについて考えている。
まず単純化していえば、「メタファーのメタファー」は「現実」になりうるのではないだろうか?
メタファーは比喩であり、抽象化でもあり具体化でもあり、現実をそれとは違うものとして表すことができる。
現実を具体的なものと考えた時にメタファーは抽象的になるだろうし、文脈や流れといったものがうまくつかみきれない現実のなかでのメタファーは具体化のはたらきを見せる。
現実と比喩の関係はおそらく「入れ子構造」として捉える見方が一般的かと思われる(と言った時のメタファーは抽象化を指すと考えられる)。
メタファーは現実の一部をくるみ、さらなるメタファーはより外側でそれらを薄く包み込む。
最初に見ていた現実はどんどん漠然としてくるが、その大きな意味や流れのようなもののイメージが姿を表してくる。
もちろんその姿は可能性の一つに過ぎない。
一方で、比喩を「現実のベクトル成分」と捉えることもできる(この時のメタファーは抽象化でも具体化でもよいように思われる)。
固定化した現実に、ある意味で「意味の失われた」現実に、方向と動きを与えるためのメタファー。
現実も本来スカラーとベクトルの両成分を持っているが、散文的な把握はスカラーを強調してしまう。
このような比喩の捉え方をしたときの「メタファーのメタファー」は、入れ子構造とは違った構造をとる。
ある地点に位置する現実が、比喩を通して別の位置に移動する。
その前後の位置を結ぶベクトルは、「現実が進んだ方向」を示す。
そして次に別の比喩を通した時に、例えばそれが最初の移動と全く逆向き(でスカラー量も等しい)であれば、二度の比喩を通じた現実が最初の地点に戻ってくることになる。
もちろん「比喩の比喩は現実となる」という理想状態を強調したいのではなく、「比喩を重ねることで(最初は離れるいっぽうだったかもしれないが)現実に近づいていく」ことがあるのだ、と言いたい。
小説とは、その存在自体がメタフォリカルなものだ。
小説の中で用いられるメタファーに、読み手は神経を研ぎ澄ませなければならない。
書物の中のものが、書物を越えて出てくる瞬間が、小説にはある。
それはたとえば、
「この世の中のすべてのものはメタファーなんだよ」と大島さんがカフカ少年に諭す時、「この世の中のすべてのもの」には佐伯さんや甲村図書館やさくらの夢だけでなく『海辺のカフカ(下)』もMacBookProもブラックコーヒーも含まれており、僕はカフカ少年と並んで、大島さんの端正な顔立ちに魅入って頷いているということ。