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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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自分の書いたものを読み返していて、影について書いているものがあった。
ちょうど「とりたま」で影の話を続けていたのでこれを機会に載せておく。

といってこれは、メタファーを主題としていくつか書いた中の一つだけれど。
『海辺のカフカ』(村上春樹)に触発されて、数日にわたりこぼれた断片。
とりとめがないのだけど、「断片の中の断片」に、光るものがある。

自分で言うのも面映いが、2ヶ月以上前なのでもう他人である。
自分で書いたことに感心するということは、それは自分の中に定着してはいないということ。
ではそれが上っ面の話だったかといえばそうではなく、物語の力に因ったのだ。
それと、「まだ言い足りない何かがある」ということでもある。
もちろん量的には、言えた分が「全体(があるとして)のほんの一部」である。
自分で書いたことを何度か読み返しすことで、その残りに触れられるのかもしれない。
その残りは「最初に読んだ時に思い付いた時」から姿形を変えているが、そもそもその残りは「未来に形を変えて現われること」をあらかじめ宿命づけられていたのかもしれない。
その認識はその未来に訪れるのだが、つまり宿命性とはその意味と矛盾して、事後的に感得されることになる。

以下、抜粋と断片。

+*+*+*

「迷宮という概念を最初につくりだしたのは、今わかっているかぎりでは、古代メソポタミアの人々だ。彼らは動物の腸をーーあるいはおそらく時には人間の腸をーー引きずりだして、そのかたちで運命を占った。そしてその複雑なかたちを賞賛した。だから迷宮のかたちの基本は腸なんだ。つまり迷宮というものの原理は君自身の内側にある。そしてそれは君の外側にある迷宮性と対応している」
「メタファー」と僕は言う。
そうだ。相互メタファー。君の外にあるものは、君の内にあるものの投影であり、君の内にあるものは、君の外にあるものの投影だ。だからしばしば君は、君の外にある迷宮に足を踏み入れることによって、君自身の内にセットされた迷宮に足を踏み入れることになる。それは多くの場合とても危険なことだ」

村上春樹『海辺のカフカ』p.218-219

 森はときには頭上から、ときには足もとから僕を脅そうとする。首筋に冷たい息を吐きかける。千の目の針となって肌を刺す。様々なやりかたで、僕を異物としてはじきだそうとする。でも僕はそんな脅しをだんだんうまくやりすごせるようになる。ここにある森は結局のところ、僕自身の一部なんじゃないかーー僕はあるときからそういう見かたをするようになる。僕は自分自身の内側を旅しているのだ。血液が血管をたどって旅するのと同じように。僕がこうして目にしているのは僕自身の内側であり、威嚇のように見えるのは、僕の心の中にある恐怖のこだまなんだ。そこに張られた蜘蛛の巣は僕の心が張った蜘蛛の巣だし、頭上で鳴く鳥たちは僕自身が育んだ鳥たちなんだ。そんなイメージが僕の中に生まれ、根を下ろしていく。
 巨大な心臓の鼓動に後ろから押し出されるように、森の中の通路を進みつづける。その道は僕自身のとくべつな場所に向かっている。それは暗闇を紡ぎ出す光源であり、無音の響きを生み出す場所だ。僕はそこになにがあるのかを見とどけようとしている。僕はかたく封をされた重要な親書をたずさえた、自らのための密使なのだ。

同上 p.301


+*+*+*

2013/02/21 23:40
「投影」について。
投影は「影を投げかける」と書く。
つまり「自分の外にあるものは自分の内にあるものの投影」と言った時、「自分の外にあるもの」は「自分の内にあるもの」の「影」なのだ。
影は、その本体と比べると同じ縁取りをしているが中身が見えず、暗く曖昧にぼやけた姿をしている。
その姿は曖昧ではあるが、等しい輪郭を備えているために、影を見てその本体を連想することができる。
ただこの時の「曖昧さ」がカギで、この連想がまっすぐ影と本体を結びつけるただ一つのリンクではない理由はそこにある

この「影」は形であり構造であり、よってメタファーとなりうる。
相互メタファーとは、自分と、自分の外の事物との関係性を立ち上げる技術のことだ
両者に何かしらの共通点が見いだせれば関係が成立する。
この関係は意味とイコールで結んでよいのかもしれない。

そうか、「迷宮に足を踏み入れる」とは、「自分は今踏み入れた場所が迷宮である」という認識を伴ってはじめて発言できるのだ。そしてそれが迷宮たる所以が自分の中にある。

「世界は自分自身である」というメタファーにおいて、「自分自身である世界」の中にいる自分とは何だろうか?
しかもその自分が意思に因らず、なにかに衝き動かされているという時の自分とは?
きっと、それが「血液」なのだろう。
これは決して自我の肥大ではなく、つまり世界は自分の思い通りになるという認識の対極にある。
どちらも「世界とは自分自身である」という認識を共通にもっていながら、自我の大きさは蟻と宇宙のあいだの広大な範囲をとりうる
2013/02/22 00:06

+*+*+*

別の話になるが、その性質が対極にあると思われている二物の共通性を取り出す思考は内田樹の得意とするところだ。
最近読んだものでは、倫理の話の中で「徹底的に無私(愛他的)に振る舞う人と徹底的に自己中心的に振る舞う人は"世界がそのような人ばかりで構成されているとイヤになる"という点で選ぶところがない」といった表現があって(リンクはここ)、二項対立図式の単純性(が問題をより「こじらせる」こと)を批判するのに使い勝手が良い。
この思考は「違うと思われているものの中から同じものを見つける」という方向性を持っていて、「同じと思われているもの同士に違いを見出す」思考と逆向きだが同じ頭の使い方をしていると思う。
つまり「リンクを張る」ということなのだが(後者が分かりにくいが、二物の間に別の物(枠)を介在させると考える)…なぜこんな話をするのかといえば、上で自分が書いた最後の所(下線部)を読んで「ああ、ウチダ氏の影響を受けてるなあ」と思ったからであった。
この下線部も上の倫理の例と同じく「違うと思われているものの中から同じものを見つける」思考なのだが、この思考に慣れてくると色んな事象につながりを見つけることができる。
その見つけたつながりが一般的な認識でないことももちろん多くあって、感覚的な理解(いや、理解以前かもしれない)で満足できれば何も書き出す必要もないのだが、実は考えてみたら大嘘だったという結末も含めて自分の感覚が先行してリンクを張ったことには理由が必ずあるはずで、それを言葉にする努力は自分の感覚を発達させるはずで、言葉によるといっても論理的な正しさだけでなく「感覚そのものの鋭敏さ」も研ぎ澄まされていくと思っている。
この一つ前のブログで「併読リンク」というタグに書いた記事はこの趣旨に沿うものなのだが、そういえばパターン化してきたからか一年以上前に中断したきりである。今思えば「併読している本の間で」という自分が設定した枠がパターン化の原因だと分かるので、もっと広くそして軽く(二冊の本の抜粋となるとどうしても「重く」なるのだ)やればいいのだ。
まあ、それはぼちぼち。
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引き続き、影の話。

影は平面にできる。
歩道に電柱が一本立っていて、空が晴れていれば、アスファルトに電柱の影が映る。
アスファルトの床面は平面で、その凹凸を無視すれば電柱の影は二次元である。
抽象化すれば、影は「本体の次元を一つ落とした姿」として現れる。
この次元を一つ下げると、平面内の物質の影は線分として現れることになる。
既に机上の話になっているが、紙の上に絵を描けばよくて、それが(二次元の紙上から三次元を立ち上げるという)写実でなく「そのまんま」と捉えればよいのだけど、紙上の一点に光源を書き込んだ時に光は放射状に拡散していく。障害物がなければ紙の上では光源の点(の絵)以外は光で満たされていることになる。そこに、光源から離れた場所に物質(線分でも矩形でもよい)を書き加える。すると光源と物質の位置関係を考えて光源の両端と物質の両端をそれぞれ線分で結んだ時にその線分を物質後方に延長して半直線(なんて言葉普段使わないなそういえば)にすれば、物質の背中と半直線(と紙面の端)で囲われた領域には光が行き渡らなくなる(暗くなる)。この状況で影はどこにできているかといえば、暗くなった領域ではなく、紙面の端と二本の半直線の交点を結んだ線分にできる(たぶん)。
そしてアスファルトの凹凸は紙面の端の「よれ」に対応する。

といった「次元を落として(上げて)考える」という思考実験は、わりと楽しい。

上は次元を一つ落として考えたので、今度は逆に次元を一つ上げて考えてみる。
つまり四次元空間における物体の影は三次元ということだけど、x,y,zの三軸に加えるのはt軸(時間)なので、僕らの生活空間がある時刻で止まった状態が実生活における「影」である。それが存在するのかと言われるとするようなしないような、まあ頭では考えられるか、でも上で書いた「線分(一次元)の影」よりは実感に近いかな、といったところだろうか。いや、言葉で表そうとするもの(シニフィエ)が「三次元の影」と言えそうだ。例えば歴史は人間の生活の流れ(蓄積)の影だと。ほんと?
「思った通り」の先?

ある理想を描く。
思った通りになればいいな、と思う。
それが叶う。
頭に浮かべたことがそのまま現前している。
この眼でそれを見て、満足する。

これは何だろうか?
「思った通りになる」とはどういうことだろうか?
考えた内容が、眼で見て、手で触れて確認されて完了とする。
これでいいのだろうか?
いや、悪くはないが、これ「だけ」ではないと思った。
つまり「思った通り」の実現の形の、これは一つに過ぎない。

現実的に言えば、「これだけだ」という暗黙の了解が現実を回している。
それで回っていたし、まだ回っている。
けれど、同じようにしていつまで回り続けるかは分からない。
この「回る」は篩い分けでもある。
遠心分離器は必要な物質以外を跳ね飛ばしてしまう。
その「必要」は、ある判断に因っている。
判断ということは、意思が伴っているということだ。
意思が個人のものでないことは、意思が存在しないことを意味しない。
 ぼくは黙ってビールの残りを飲んで、真紀さんの言ったことがわかりにくかったからもう一度たどり直した。
 イルカの知能は人間のものさしでは計れないと、まず真紀さんは言った。言葉は光であるというヨハネの福音書の言い方を借りるなら、言葉の届かないところは”闇”だということになる。”闇”には言葉がない、つまり言語化されなければ人間にはそこに何があるかわからない。何かがあっても人間には理解できない。言葉が届かないということは、何もない状態と限りなく同じである──と、堂々めぐりのような論法だけれど意味としてはこういうことだろう。
 ぼくは、このとき真紀さんの言ったことは、真紀さんがその場で考えたことではないはずだと思った。こんなこと即席に考えられるはずがない。これはイルカについてのことではなくて、真紀さん自身のことなのだろうと思ったけれどぼくは黙っていた

「この人の閾」(保坂和志『この人の閾』)p.65-66
 毎度のことだが面白かった本(小説には線を引かないことにしているので気になる箇所があれば付箋をつけるのだけど、彩り豊かに付箋が貼られた小説はそれに含まれる)は読了後に付箋箇所を読み返している。保坂氏のこの中編集(短編よりは長いのかな?)を読み返していて、他は読んですぐ意味が分かったのだけど上で抜粋した部分だけ「自分が付箋を貼ったのも頷けるが何に惹かれたのかすぐに言葉にはできない」と思ったのでとりあえず書いてみて、何か浮かんでくれば書こうと思った。
 まず思ったのは「こんな女の人は現実にはいない」ということで、しかしこれは僕の言葉ではなくて小田嶋隆と岡康道の対談で聞いた言葉で、確か村上春樹の小説に登場する女性を指して二人で頷き合っていた記憶がある(日経BOの連載だったと思う)。もちろんそれは「実際にいたらいいんだけどなあ」という文脈の中での発言で、僕も共感したのだけど、この真紀さんについても同じ印象を持って、しかしそれに付け加えたいと思うのは「こんな女の人は現実にはいないけど、"もし言葉を持てばこんなことを言いそうな女の人"はいるのではないか」ということ。これも単なる願望かもしれないが。「言葉を持てば」と言ったのはこういうことを考える女の人なんていないという意味ではなく、頭で考えてはいても人に話すことはないだろうなと思ったからだ(そしてもし話すようなことがあるとすれば、女性同士よりは男に対して話す可能性の方がまだある)。
 そして僕がなるほどと思ったのは真紀さんの話の要約の「言葉が届かないということは、何もない状態と限りなく同じである」という部分だ。これがとても実際的な考え方であるなと、そしてこれが男女の違いの一つなのだろうなと思う。これに対して、言葉が届かなくとも届けようとした自分の努力は認めたいみたいな考えは「女々しい考え方」だと言いたくなるけれど、きっとこれは「"女々しい男"の考え方」なのだ。印象で話を進めるとややこしいけれど、きっと男らしさ、女らしさは昔と今とで違っていて(まあそれは当然だろう)、加えて女らしさと「女性性」の違いも新たに考えなくてはならなくなったのだと思う。社会的性差と生物学的性差、と言い換えれば意味はすっきりするがなんだか即物的な気もする(「社会的」を「即物的」というのも変か?では誰なら変でないと言うだろう?…と考えると余計ややこしくなるのでやめよう)けどそれはよくて、両者の差を意識するようになるのは健全なことで、それは学問が越境的に機能し始めたことを意味する。大きく言えば要素還元主義が「生そのもの」から離れ過ぎたことの揺り戻しである。
全然違う話になっていたので戻して、上の「こんな女の人はいない」という発言を掘り下げてみたいのだけど、まずこれは(ある系統の)男性の願望の裏返しであることは書いたが、これとは別に、この発言は女性がするべきもののようにも思うのだ。なぜかといって、たとえば真紀さんのような書かれ方をした女の人が実際にいるなあと男性に想像させるものだとして、女性はそのような想像の仕方をしないからだ。言い換えると、女性は実際の人物と小説の(つまり想像上の)人物を一緒にはしない。…ちょっと微妙な話だが、僕の想像入り交じる経験によれば、男は想像を現実に混ぜ合わせる傾向があるのに対し女は想像は現実と全く別ものと捉える傾向がある。この男と女をそれぞれ男性性、女性性と言い換えたいと思うのは、この傾向が生物学的性差に根ざすからだ。それは簡単に言って「脳と身体の関係の密接さの差」だ。

この生物学的性差は乗り越えようがなくて、それは「男女間での共感」はある程度以上は望めないということで、「お互いを理解する」とは「同じ感覚を共有する」ではなく「違いを認め合う」ことで、女の人はこんなこと言わないし考えるまでもなく分かっているのだけど、真紀さんなら三沢君(「この人の閾」の語り手)に言うかもしれないし、そんな真紀さんのような女性を僕は「現実にいるかもしれない」と思い、それには多分の願望が含まれているが、男にとってはその願望も含めての現実がある。前に僕が「男は身体が単純だから頭は複雑でいる方がバランスがとれる」と書いたことの例はひとつここにあると言ってよくて、しかしこれがバランスがよいと示すことがそう簡単であるとも思えない。

+*+*+*

回文は往々にして怪文なりき。
影(日陰)について。

森博嗣がウェブ日記(モリログアカデミーとして文庫化しているもの)で毎日載せている写真の中に、木や建物の影を撮ったものが多くある。
おそらく「何かを見つけた」からこそアップロードしたのだと思う。
全てに解題が付してあるわけではないので確信はもてないが、恐らく森氏が明確な意味を与えた写真がほとんどだと思う。

「秩序と無秩序」という二項をもってくると、まず無秩序の自然に大して秩序の人工物と言うことができる。
この場合の「秩序」とは「(頭が)考えた通り」という意味になる。
あるいは自然を秩序ある系と考えることもできて、動物の食物連鎖を想像すれば「生態系の秩序」になるけどそれが想像しやすいというだけで別に植物についても同じことだ(この辺の森一帯の生態系、とか)。
意味を与えるとは「秩序を見出す」と言い換えることが可能だ。
そして森氏はそれらの写真において(それが人工物であれ自然であれ)被写体の持つ元々の秩序があったとしても、その秩序とは異なる秩序としての意味を与えている。
その与えた意味そのものが面白い場合もあるだろうけど、「元々の秩序」からいかに離れた意味を見出せるかという飛躍(意外性といってもいい)が主要な面白さだと思っているはずで、その飛躍を評価するという方向性がともすれば野暮に陥りがちなのは、まず飛躍を見出すセンスが鋭角的であること、すなわち(発見者=森氏も含めて)見出す瞬間のキレを味わえるかどうかにかかっているからだ。
じっくり鑑賞して特徴を並べて分析するといった時間をかけたプロセスはその作品本来の意図とは別のものを見出すことになる。
もちろん見る方の勝手なのだが。

話を戻せば、森氏のウェブ日記の写真を解答の与えられぬまま数多く眺めているうち(「解答なき問い」というのは一度慣れればヤミツキになるものである。それが高じて唯一解を持っている問いも散漫に拡げてしまうところが善かれ悪しかれといったところではあって、その長期的な収支は予断を許さない)、「これは何か意味がありそうだ」という感覚が確証を離れて(?)日常化していき、自分が何を考えているかはおいといてまず対象に見入るという姿勢が自然になってきたように思う。
それを忘我状態と呼ぶのかもしれないが、目的を持って動いている時(つまり仕事中)はもちろんそんなことにはならない。
主に歩いている(散歩している)時の話で、(たぶん話変わるけど)足を止めないことがその忘我状態を推進することになっていると今思った。
歩きながら何かを見ていて、それをもっと良く見てみようと立ち止まるということは「ある対象を見るという目的を獲得した」ことになる。
その状態と、歩きながら何かを見つめていて、後ろ髪引かれつつも足が前に進むものだから自然と視点が前に戻るという「目的化されなかった流動的な注目」とに、大きな違いがあるのではないか。
それは思考過程である問いを見出した場合において、「短期的な解を求める姿勢」と「漠然とした方向性を探る程度でその先はペンディングする姿勢」との違いと対応しているのではないか。
「ブレイクする」とブレイクスルー。

 選択と集中という言葉があるが、それは費用を切り詰めることではないし、ムダ遣いを厳守(いや「厳禁」なんだけど、こういう(会社の壁に貼られたりすれば)シニックな標語もいいなと思って書いてみた。「ムダ遣い厳守!」)することでもないし、省エネに努める(この場合の「つとめる」にあてる感じはどれが正しいのだろう?「努める」が一番近いと思ったけど、これでも「省エネが仕事」みたいな響きがあって、これに「仕事は生きがい」を繋げるとなんとまあシニカルな)ことでもない。集団の指針として、あるいは個人の中ででも意図しての選択と集中だとそうなってしまうけれど、意図しないで、つまり(「そうせざるを得ない状況」を先に設定してもよいが)勘をはたらかせての「選択と集中」のコツみたいなものがあるのではと思った。
「そうせざるを得ない状況」の具体的なところが、昨日に引き続き僕自身まだ風邪が治ってなくて身体がへばっている状況で、これが身体の調子の良い普段とは違う頭の回し方をさせてはいて、良い所を先に言えば「いつもの過剰なこだわりを(余裕がないがゆえに)抑制できている」点がそう。細かい表現とか言い回しが重複する時に無理して普段使わない表現で言い換えようとするとか。それはそれで練習になるというか自分の言葉を獲得するプロセスとしてアリなのだけど、書きたいことをさらりと書く時にやっていると回り道にはなる。「急がば回れ」は大体において本当だが、急いでいない時に回ると大体において戻ってこれなくなる。急いでないので別にそれで構わないのだが、回ってばかりいるとカーブの曲率が険しくなってきて、つまりだんだん回転になってきてしまいには眼が回ることになる。眼が回ることは狂うことと近からず遠からずであって、狂いたいと思う人間は二種類いて「自覚なく狂いたい人」と「自覚をもって狂いたい人」に分かれるのだけどもちろん後者の方がレベルが高い。というのも自分の振る舞いを適度に制御できなくなる状態を狂うというのであって、「狂わずに狂う」と言っているようなものだからだ。そしてこれは可能であって、断言できるような実例がちゃんとある。
 と言って過剰なこだわりを解除することを狂いに繋げるのは極端というかすっ飛んでいて、書こうと思ったのはその解除の具体的なところだった気がする。ただそれ自体を分析的に、ある程度(歩いて井戸?)抽象的に書けるのは元気な時で、今はそれ自体(=その解除の具体的なところ)ではなく解除がなされた状態のアウトプットをそのまま吐き出して、そこから間接的に推論を重ねていく方法がやりやすい気がしていて、しかしその推論は元気になってからやることのように思われるので今は煩雑に書き散らすことしかできない。書き散し寿司。握り鮨の絵をえんぴつで描き飛ばすわけです。そういえば寿司食べてないなあ…ある時期からスーパーで生魚を買うことに抵抗をおぼえてしまったことが一因で、たぶん漬け物かなにかで食中毒が起こった時からだろう。よく考えるとあんまり関係ないような…想像のリンクのさせ方をあまり奔放にやっていると戻ってこれなくなりそうだな。
風邪をひいて何をするにも億劫なのだけど、サラダと味噌汁の具の仕込みは日課なので体調に関わらずやる、ということで野菜を切っていると元気になった。
主夫の素質は家事の出来不出来ではなく「家事をやっていて元気になれるかどうか」だと思った。

以下、野菜を切る間に頭の中でくるくる回っていたものを膨らまそうとしたもの。

・真っ直ぐだった牛蒡を縦に切ると反るというか"くねる"のだけど、これは繊維の細胞の並びに異方性があってそれが円状に配置することで安定していたのがホールケーキを食べる時みたく分割することで潜在していた力が発揮されたことによる。この潜在力こそが「牛蒡力」なのだなあと感心した。(そのこころは…?)しかし真っ先に「ご暴力」を出力することえり氏はホントかわいいなあ。今度から琴絵里氏と書いてあげよう。

・「有機的な知」なるものについて思いが及んだのが有機物と戯れている時というのも頷ける。有機とは生きていることであって、有機的な知とは「変化する知」ということだ。だから間違いなく正しい(これ重複表現だよね)ことは、それそのものは有機的な知ではない。四則演算とか法律とかが有機的たりうるのはその活用時においてなのだが、たとえば法曹の「有無を言わさぬ正しさの力」に憧れるなどと言う時、彼は法律の有機性(通常の言い方では「弾力性」か)を疎ましく思っていることになる。それはいいのだけど、たとえばレタスを冷蔵庫で保存していて芯(の断面)がだんだん赤くなってくるのを見て、「これは動物でいうところの血だろうか」と思ったら、それは知なのだ。チだけに…と言いたいわけではもちろんなく、たぶんじっさいは酸化とか植物の色素が関わっているはずで、けれどそれを本で調べるのではなく時間の経過を細かく長く追うとか他の野菜で同様の観察を行うとかすることで証明(あるいは反証)されていく過程は変化であるし、反証された時には最初の印象(に思考の過程で深められたもの)が知識ではなくメタファーとして頭の中に新たな位置を占めることも変化である。そんな曖昧な把握でいいのか、と言われれば「ええんです。テストに出るわけやないんで」と答えよう。だからテストに出るならちゃんと事実を勉強した方がよいということだ。当たり前だが。

・料理本のレシピには「調理時間」が書いてないものは恐らくないと思う。それは別に構わなくて、しかしそれを読む方がいざ作る時に時間にとらわれることにつながってしまうのは、生活における料理の位置づけを狭めているのではないかと思った。というのも何よりまず学生時代の自分が調理時間を「居酒屋バイトの時給換算」して材料費と合わせて一食にかかる費用を計算した挙げ句「憩食堂(仮)で食うた方が安いやんけ!」と憤っていたりして、今の自分からみてちょっと切なくなったのだった。調理時間の時給換算というのは(バイトでの仕事がそうと言うのではなく)包丁の手応えから切る野菜の新鮮度を推し測るとか計量カップを使わずに味噌汁用の水を鍋に入れて煮込んだ後の汁の少なさ(多さ)から自分の体調・精神状態を想像するとかいった経験を全て捨象する(要するに「金にならん」と)考え方なのだ。実際その時も調理をしている間は楽しんでいたのかもしれないけど、それが「自分が(良いと?)思う生活」からは切り離されていたのではないかと想像されたのが切ないと言った所以だ。今も調理時間を気にすることはするが、それは読書や睡眠の時間と比べてのことだ。そして上のようなことをあらためて整理してみて、(睡眠時間が減るのは困るけど)「読書時間が減ってもいいや」と自然に思えるようになりたいと思った。…実はこの「睡眠時間」というのも曲者で、「7時間半寝たから大丈夫」とか「6時間寝れなかったから今日しんどいかも」とかいう発想は高校時代から変わらず健在なのだけど、その発想自体が良き睡眠を妨げている、というような話が『経験を盗め』(糸井重里)にあったので今度取り上げてみたい。この本ホントいいですよ。オールジャンルの魅力イイトコ取りでどのテーマも「もっと知りたいなあ」と思わせてくれます。うん、ちょうどいい機会だから付箋つけた所読み返そう。

羽生善治氏の著作抜粋だけど保坂氏のタグをつけている。
保坂氏の興味があってはじめて羽生氏の思想に興味がわいたから。
こういうリンクで本を読むと、視点が安定するのがいい。
「保坂氏の琴線に触れるものを羽生氏が持っている」という情報ひとつで、
保坂氏の本を読むのと同じように羽生氏の本を読むことができる。
もちろん最初から視点が固定される弊害もあるかもしれない。
けれど「今の自分の興味を掘り下げていく」方向性で読むにおいては、
得られるものの方が多いと思っている。
タグの付け方はあまり考えてなかったので、その場に応じて意味を加えていこう。

+*+*+*
 情報化社会を上手に生き抜いてゆく方法は、供給サイドに軸足を置くことだと思う
 自分自身は常に消費サイドにいて消費を続けているわけだから、自主的に、いや、半ば強制的にでも出力を上げていかないと、個人としても組織としても需給バランスを崩してしまうのではないかと考えている。
 ずっと情報ばかり食べていると、ふと気がついた時、”情報メタボ”になっている可能性があるのだ。
(…)
 必要な情報・知識というのは、日々刻々と変わってゆくものだから、大胆に捨ててしまい、必要なタイミングで拾い上げればいい。
 そして、拾い上げた情報を基本に新たな創造をして、供給側に回るわけである。

羽生善治『大局観』p.126-127
この「供給サイドに軸足を置く」という言葉が自分の中に強く響いた。
現代社会における「消費者」から、もちろん逃れようはないのだけど、思想的な立場として離れていたいという日常的な思い(それは「いつもそのことについて考えている」というより深くて、「日々の行動指針としてそうである」ということ)に共鳴したのだ。
この言葉を僕は「需要側としての必要・不必要を見分ける力につながる」と捉えた。
だからここでの供給サイドというのはモノを売る立場ではなくて、自分に必要なものを自分で用意するスタンスのことなのだ。
腹が減っていて、懐手で食べ物が並んでいれば、好きなものから満腹になるまでどんどん食べていくだろう。
けれど食材の調達から調理・配膳・片付けまで自分でやるとなれば、そして食うために生きるのでなく人生の中で数あるうちの一場面として食事を捉えているならば、食べ物の種類や量は自ずと決まってくるはずだ。
情報はいくら溜め込んでも膨満感に苦しむことが(表面的には)ないために、「情報メタボ」は通常のメタボよりたちが悪い。
あるいは「膨満感からくる虚脱感」は両者に共通してあって、後者ではそれが意識下から忍び寄ってくるからかもしれない。

「需要側としての必要・不必要」は初めから分かっているわけではない。
新しい情報や知識に自分が触れるその都度の判断があって、その判断を適切に行うことで必要と不必要を見分けることになる。
新しい情報や知識を実際に自分で使ってみる経験がその力を養うことにつながる。
それを使って創造する。
本を読んでばかりでアウトプットをしないことを「情報を溜め込む」と言うのはたやすいけれど、読んだ分だけ書けばいいというものでもない。
同じ本でも、読む時期によって心の琴線に触れたり、自分の中を素通りしたりする。
”必要な情報・知識というのは日々刻々と変わってゆく”というのはこのことで、タイミングが合った時に「その情報を心に留めておく」から「自分なりの表現でアウトプットしておく」までの”拾い上げ”のグラデーションがある。
上記の力とは、僕にとっては読書が自分の血となり肉となるように”拾い上げる”力のことだ。
だから、この力を発揮するための技術を別枠で身に付けておくことも必要だ。
 有益な情報を抽出するためのプロセスは、コーヒー豆からコーヒーを創るのに似ている。まず、コーヒーを粉上にする作業(第一のプロセス)、次に、フィルターをかけ、お湯を注ぐ作業(第二のプロセス)。まったく異なる二つのプロセスを通す事によって、抽出されるものが有益な情報になるのではないかと考えている。
同上 p.118-119
コーヒーが好きなのでこの喩えが気に入った。
”第一のプロセス”、”第二のプロセス”のそれぞれを具体的な情報の選別・抽出作業に言い換えてみると、前者の「豆の挽き具合」は情報の細分化、「豆のブレンド」まで考えれば選別した情報の組み合わせ方になり、後者の「コーヒー液の抽出」は情報から必要な要素を取り出すことになるだろうか。
それはいいのだけど、僕が「おお!」と思ったのはこの両者が「まったく異なるプロセスである」という指摘だ。
まだうまく想像できていないのだけど、膨大な情報の渦の中から一掴みを選び、自分が必要と思われる要素を抽出し、形を変えてアウトプットするまでに、考え方のまったく異なるいくつかのプロセスがあるのだ。
それらはひとつにまとめることができないというか直線的でないというか、それぞれ脳の別のところを使っているのだろう、きっと。
何が言いたいのかというと…とにかく複雑だ、と。
きっとこのプロセスの組み合わせの複雑さが、(単なる消費でなく)情報を創造につなげることの魅力になっている。

そして何とか言いたいことを正確に言おうとすると、往々にしてアポリアに達する。
もちろん「これで言い切った」ではなく「ここまでしか言えない」ということ。
ある地点から、言葉を継ぎ足すことが迂回以外のものでなくなる。
ほとんどの新書はその「迂回」まで書くスペースはないのだけれど。
 選んでいるのと同時に、たくさんのことを排除していて、ユニークなこと、変わったことを考えたり、試したりする機会が減ってしまうのではないかと思うこともある。
 検索は検索で非常に有効・有能なツールであることは間違いないが、それと同時に、自分で責任を以て懸命に選択をすることも大事だ。
(…)
 検索をかけながら、検索の世界からは逃げて行く、そんな矛盾したテーマを眼前に突き付けられているような気がしてならない

同上 p.121-122

読書に目覚めてどこかで「"必要"の意味を真面目に考えねば」と思うようになった。

基本的な単語ほどそれそのものを問う隙間が日常のなかで視界に入らないもので、「必要」という言葉も他のいろいろな言葉の「意味をつくる方」であって、つまり辞書でいう「用語説明欄に頻出する単語」でその単語をあらためて辞書で引いても得られるところが特にないようなものなのだ。
辞書というものは全く経験のない単語に自分の経験を参照できるような(それは「そのような自分の知ってる単語を使って」ということだが)意味を与える手がかりにはなっても、またある単語に自分の経験が豊富につまっているとしてその経験から出力できる意味が世間一般から外れている時にそれを正す役割を担うことはできても、自分の経験により厚みを獲得している単語にさらなる厚みを加えることはできない。
だから基本的な単語は辞書で調べてもしょうがなくて、例から話を戻せば「辞書で調べるような行為一般」つまり「大きな(広い)もの」を参照するのは今回のようなことを考えるにおいて出だしの方向性が違うということ。
同語反復も甚だしいが「自分にとっての必要」とは全く個的なもので、「自分にとっての必要」が「みんなが必要としている(考えている)こと」と一致することがあっても、その一致は最初にあるのではなくて後から気付くものだ。と言って「みんなの必要」があって「自分にとっての必要」が生まれることも日常にはたくさんあるはずだと言いたくなりそうだが、それにしても「みんなの必要」が「自分の必要」を生み出すまでには個的なプロセスがあるはずで、それを飛ばして両者を必然にように直接繋げるような発想が「自分の必要」の範囲を無闇に拡げることになっている。

それはいいのだけど、「本当は必要というほどでもないことを必要と言う」ことに、確かに大きな意味はあるのだがそれはどこか誠実でないと思うようになった。
それがいけないことではないし、「本当の必要を見定める眼が濁る」こともその大きな意味に含まれているのだが、その濁りを認識しない一方で局所的に潔癖症が発揮されるバランスの悪さも不健康だとは思う。
ただ言いたいのは、僕は「"必要"の意味をはっきりさせておく」ことは「世間で必要と言われているがじっさいそうでもないもの」の価値を貶めることではないし、逆に必要でないものを「不必要だから切り捨てる」という一見まっとうな判断が巡り巡って自己の存在を危うくするような抑圧システムを起動させないためにもいいだろうということ。

ある一面で矛盾していて、別の一面で理に適っている状態はよくある。その状態が実際的に安定している場合が多いことこそ「矛盾」の面目躍如たるところなのだが、落とし穴といえば、その矛盾を抱えることが要求する体力が足りないばかりに矛盾をそれと認識しないで安定だけ享受してしまうことができる所で、人智の敵わぬ抑圧システムが「どっこいしょ」と腰を上げる瞬間がここにある。
Y染色体はX染色体に比べて著しくサイズが小さい。全部の染色体の中でも最も小さい。しかもY染色体上に配置されている遺伝子の数もきわめて少数で、かなりの部分が無意味な反復配列であることがわかっている。それに対してX染色体の方は非常に大きく、生存のために必須な重要な遺伝子が目白押しに並んでいる。血液凝固の遺伝子、色覚の遺伝子、免疫細胞を作るのに必要な遺伝子などいずれも重要な遺伝子である。X染色体を少なくとも一本持っていなければ生まれてくることさえできないことがわかっている。どうやら、Y染色体の方は他には重要な役割がなく、なんとかして男というものを作り出すためにだけ存在しているという印象を受ける
多田富雄『生命の意味論』p.104-105
余剰を生むのは余剰しかないのであって、「生む」を「創る」と言ってみたり「余剰」を「男性性」とか「文化」とか言ってみたりするのも必要ではなく余剰の側だ。
余生も「よじょう」と読めばいいと思う。

+*+*+*

『生命の意味論』が多田氏の著作で初めて読んだ本になるのだけど、免疫学が思っていた以上に面白い事を発見してしまった。(まあ「大して何とも思っていなかった」場合にも「思っていた以上に」という言葉が嘘ではないことは論理的に正しいことは指摘しておこう)
そういうわけなので多田氏のタグを新たに設け(実はタグの付けられた諸氏は「ジャケ買い」対象著者なのである。へえ)、機会があれば別の著作もずんずん読んでいこうと思う。
さしあたり次は『免疫の意味論』かなあ、こっちが先に出てたみたいだけど。
春めいた空気。

事務机のある棟と評価解析を行う棟が違うので、毎日徒歩5分程度の道を最低2往復している。
最近は風が強くて落ち着かない時もあるけれど、日差しと空気はぽかぽかしている。
また今週末も少し冷える(そして雨?)とのことで、散歩する日に限ってコンディションが整わない。
けれど、いつもお天気、いつも朗らか、支障なき道のりでは飽きるのだ。
道のりの具体的な構成物に関わらず、その佇まいの「変わらなさ」のために。
あるいは、その「変わらなさ」を求める自分の心のために。

「変わる」という主体の認識は、主体と客体の相互作用だ。
「変わる」ことで生きている人間が「変わらない」ことを求めるとはどういうことだろう?
身体が「変わる」ことに反して脳が「変わらない」ことを求めること以外に何があるか。
往々にして脳が身体と逆に志向することを脳自身が考慮に入れるとき、脳と身体は顔を並べることになるのだろうか?
「一貫性」が脳の宿命であるとして、それを崩そうとする意志を一貫性を獲得せずに発揮することはできるのだろうか?
「脳が身体に従う」とはどういうことか?
身体器官の一つである脳が自分の赴くまま振る舞うのを「脳が身体に従う」というのは単なる言葉遊びに過ぎない。
言語が脳の専売特許である以上、「脳が身体に従う」さまを言語で記述できないのだろうか?
「身体言語」を開発するべきなのだろうか?
たしか保坂和志が自身のハード(「硬派な」ってこと)エッセイで「量子力学を表現するためには量子力学的な言語を用いなければならない」と書いていた。
きっとそれらは不可解さにおいて宇宙人の喋る言葉に引けを取らないだろう。
意思疎通に全く不都合な言語が存在する意味はあるだろうか?
何か重要なすれ違いがある。

本当に伝えたい事柄を正確に表す言葉(言語)は、誰にも理解されない。
そんな言語がもしあるとすれば、そういうことにならないだろうか。
そしてそのことは、何を意味するだろうか。
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