幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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(…)私は「自分の基準」にしか合わせられない。しかも、専門課程へ進級する時、「それでいい」と教授達から肯定されてしまった。なにしろ私は、「私達は、皆さんが講義に出て来ることを期待しません」ということを、二十一の年に大学教授から公式に告げられた学生だったのである。教授はそれに続けて、「論文にはなにを書いてもかまいませんが、私達に分かるように書いて下さい」と言った──その一言が、今に至ってもまだ生きている「私の文章の基本原則」なのである。(…)
「なにを書いてもいい」だから、私の書くものはアトランダムで、相互に連繋してるんだかしてないんだか分からない支離滅裂状態でもあるが、その支離滅裂に頭を抱えるのは、「ちょっと抱えてみるか」と思う当人なんだから、当人がよけりゃそれでいいだろうと思っている。この件に関して、私はどこまでも自由でありたくて、問題が生じるのだとしたら、その先である。つまり、「私達に分かるように」の部分である。
「在野というポジション」(橋本治『橋本治という行き方』p.70-71)
言わずもがな「ドラゴンボール」が念頭にあったタイトルなのだけど、では「スーパーザイヤ人」とは何かといえば、言い換えれば「"在野"を超える」になって、まあアカデミズムと"在野"の二項対立の外にいるということで、しかしそうなると「アカデミズムと対になっている在野」とはなんだろうと思うとどうもそれは在野ではないのではないか。
言論を世に展開するにおいて専らアカデミズムを意識して、権威に寄り掛からず一個人発を金科玉条とする、などと言ってみて、これが「ある性質においてアカデミズムと双生児的である」という前に取り上げた図式を結論ありきで先に当てはめてみると、性質以前に「アカデミズム⊃"在野"」だなと気付く。持ちつ持たれつ。餅つき食ってもたれる胃。
本来の言葉の意味を超えて、つまり組織というに留まらず価値観において集団に「所属」していなければ("在野"でなく)在野ということになる。
しかしそれは「社会からも外れている」わけではなく、集団と同じく在野も社会を成り立たせる役割を持っていて、進化論でいえば突然変異を引き起こす因子かもしれない。
ある生物種が急激な環境変化に遭遇した時、種の存続はその因子の発現如何にかかっている。
だから在野の存在意義があるとすれば、それは個を超えているということになる。
そして「突然変異」のメタファーの勘所は、この話の全てに蓋然性の極めて低い、「かもしれない」がくっつくということ。
もちろん、それは在野にとって織り込み済みのオリコカードなのである。
期限が再来月なんです…
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縁は「鶏」と「卵」をつなぐ関係性。
味噌汁がまた一段と進化を遂げようとしている。
それは未知なのだが同時に怪しげでもある。
深化でもなく神化なわけがなく、近いのはシンカー。
予想の斜め上ではなく「予想の斜め右下」という二重の意外性。
経緯といえば、部署の後輩(先輩方に対して忌憚なく渾名を付ける子で、僕が部署に移ってきて最初に「剥き牛蒡」と呼び、ロンゲの髪をばっさり切った後は「真面目なサラリーマン」になっている)と味噌汁の話をした時に「母親からは『味噌は火を止めてから溶きなさい』って散々仕込まれました」とか「めかぶを入れると美味しいんですけど煮込み過ぎるとみそ汁が緑色になっちゃいます」とか「ダシはやっぱりカツオですかね、顆粒ですけど」などの興味をそそる話があって、実際その日の味噌汁を作る時に味噌を全部具を煮込んでからの最後に溶かして食べたらやけにあっさりしていて「ちょっと自分の好みではないかな…」とこういう部分ではすぐ行動に移す自分に特に違和感を持たないがそれはよくて、昨日スーパーで買い物してる時にこの「味噌汁の進化の契機」を得ていたものだから普段と同じ陳列棚を見ていながら頭の中には光るものがあって、めかぶを買ったのはまあ話と直接繋がるのだけど同時に生姜も買った(パッケージに「隠し味に」と書いてあるのを見て言葉が浮かぶ前にカゴに放り込んでいた)。
味噌汁に生姜なんてまあ聞いたことはなくて、もしかして恐ろしいことにもなりかねないが、もう具を仕込んでしまったので後戻りはできない。この次タームの具は3日後の鍋に投入されることになるのだが、それとは別に明日から数日間はアスパラとちんげん菜も炒められた後に「いつもの具」達と合流することになっている。
それはなぜというに自分にとってこれほど自然な理由もないのだけど、サラダの野菜が余ったからである。社会人生活が始まった時に決めた「草を4種以上」というサラダルールが今まで破られたことはなくて、しかし何の欲求不満があるのか最近は6種になることが多く(いちおう考えて選んでいるのだけど、冷蔵庫の在庫を買い物の時にいつも完全に把握しているわけではなく、しかも毎日朝晩同じ料理を食べていながら品目が多くて複雑なので買い物において「完全な成功」を収める頻度は半々といったところである)、使う皿もこの3年間でほぼ変わっていない(4枚を使い回していて、いつか一度だけ1枚割れたので似たような大きさのものに買い替えている)ので盛りつけから溢れた分の野菜は他に回されることになるのだが、今の食生活からして行き先が味噌汁以外にありえないのである。
味噌汁が進化する時はいつもこのように複数の要素が一緒に変わるので、味の変化が整った筋道を通らないというか、言ってしまえば味噌汁に関しては「進むべき方向」なんて初めからなくて、それが味噌汁に限らないことを裏付けるというか、その思想の土台になるのもやはり味噌汁しかなくて、しかし最近昼休みに読んでいるTechOnの養老孟司と隈研吾の対談記事の「だましだまし生きていく」というテーマと共鳴していることも偶然ではないのである。
気付けば縁が、縁を呼ぶ。
(今の流行りは「円がドルを呼ぶ」ですかね)
味噌汁がまた一段と進化を遂げようとしている。
それは未知なのだが同時に怪しげでもある。
深化でもなく神化なわけがなく、近いのはシンカー。
予想の斜め上ではなく「予想の斜め右下」という二重の意外性。
経緯といえば、部署の後輩(先輩方に対して忌憚なく渾名を付ける子で、僕が部署に移ってきて最初に「剥き牛蒡」と呼び、ロンゲの髪をばっさり切った後は「真面目なサラリーマン」になっている)と味噌汁の話をした時に「母親からは『味噌は火を止めてから溶きなさい』って散々仕込まれました」とか「めかぶを入れると美味しいんですけど煮込み過ぎるとみそ汁が緑色になっちゃいます」とか「ダシはやっぱりカツオですかね、顆粒ですけど」などの興味をそそる話があって、実際その日の味噌汁を作る時に味噌を全部具を煮込んでからの最後に溶かして食べたらやけにあっさりしていて「ちょっと自分の好みではないかな…」とこういう部分ではすぐ行動に移す自分に特に違和感を持たないがそれはよくて、昨日スーパーで買い物してる時にこの「味噌汁の進化の契機」を得ていたものだから普段と同じ陳列棚を見ていながら頭の中には光るものがあって、めかぶを買ったのはまあ話と直接繋がるのだけど同時に生姜も買った(パッケージに「隠し味に」と書いてあるのを見て言葉が浮かぶ前にカゴに放り込んでいた)。
味噌汁に生姜なんてまあ聞いたことはなくて、もしかして恐ろしいことにもなりかねないが、もう具を仕込んでしまったので後戻りはできない。この次タームの具は3日後の鍋に投入されることになるのだが、それとは別に明日から数日間はアスパラとちんげん菜も炒められた後に「いつもの具」達と合流することになっている。
それはなぜというに自分にとってこれほど自然な理由もないのだけど、サラダの野菜が余ったからである。社会人生活が始まった時に決めた「草を4種以上」というサラダルールが今まで破られたことはなくて、しかし何の欲求不満があるのか最近は6種になることが多く(いちおう考えて選んでいるのだけど、冷蔵庫の在庫を買い物の時にいつも完全に把握しているわけではなく、しかも毎日朝晩同じ料理を食べていながら品目が多くて複雑なので買い物において「完全な成功」を収める頻度は半々といったところである)、使う皿もこの3年間でほぼ変わっていない(4枚を使い回していて、いつか一度だけ1枚割れたので似たような大きさのものに買い替えている)ので盛りつけから溢れた分の野菜は他に回されることになるのだが、今の食生活からして行き先が味噌汁以外にありえないのである。
味噌汁が進化する時はいつもこのように複数の要素が一緒に変わるので、味の変化が整った筋道を通らないというか、言ってしまえば味噌汁に関しては「進むべき方向」なんて初めからなくて、それが味噌汁に限らないことを裏付けるというか、その思想の土台になるのもやはり味噌汁しかなくて、しかし最近昼休みに読んでいるTechOnの養老孟司と隈研吾の対談記事の「だましだまし生きていく」というテーマと共鳴していることも偶然ではないのである。
気付けば縁が、縁を呼ぶ。
(今の流行りは「円がドルを呼ぶ」ですかね)
変化の重層性について。
(「じゅうそう」と打って琴絵里氏が最初に「縦走」を提示してきたことを記念して、「生徒だけど網走縦走in師走」をツイッターのアカウント名にしようと思い付く。12月限定で、あとその時に覚えてたらね)
風邪らしきものが2週間以上前から治らない。
初期症状のいくつか(鼻水、喉の痛み)はもう鳴りを潜めたが、発熱と「振動が頭に伝わると頭痛」が完治しない。
発熱は起床時に強く自覚され、「(罪悪感の磨耗度から)会社休んでもいいかも…」と思えるレベルなのだが、起きて顔を洗って朝刊を取りに行く時にはふつうに動けるくらいにはなっている。
けれど夕方頃に押し寄せる疲労が風邪を引く前より重く、残業する意志がいつも以上に挫けて仕事が溜まっているにも関わらず(まあ期限切られてないので)就労カードに残業申請しない程度にしか残っていない(遠回しだな)。
そして夕食後に疲労主因の睡魔に襲われて15分ほどうたた寝することになっている。
単に残業したくない意志が身体を制御するほど発揮されているだけかもしれないし、昼寝と夕寝が欠かせない時期も前にあったのでそんな異常でもないような気もする。
ただ発熱について一つ書いておきたかったのは、体が熱を発するのは身体的な変化の途中であるという徴候ではないかということ。
前に花粉症の時期に風邪を引いて発熱した時に「身体が花粉の抗体を作っている…!」とお気楽な妄想をしていたが、あれよりは可能性が高いのではないか。
この変化は「何らかの環境の変化に対する適応」であるはずで、一番順当なのは昼夜の温度差が激しく気候が安定しないこの季節に対する適応(というかむしろ「適応し切れていなくてガタがきてる」が実情)なのだがそれ以外の可能性も捨て切れない。
その「それ以外」とは、前に「実験中なので詳しくは語れない」と書いた件なのだが、あの時から流れが変わっていなくてそろそろ対処した方がよいとも思われるのだが、その「流れ」(それはもろに身体的な徴候である)を思想(=自分の「いきざま」)に絡めるという複雑なこともしているので、いましばし保留。
その実験…というか経過観察が始まったのは去年の10月からだ、ということだけ記しておく。
(と書いて、これを別の出来事と混同している可能性もあって、どんどん実験内容が曖昧になっていくのだけどたぶん「人が人を見ているのだから仕方な」くて、それをそう思えることは良いことだと僕も思っているので特に問題はない)
つまり一行目は「変化の辿り方が変化する」ということで、収拾がつかん、と。
(「じゅうそう」と打って琴絵里氏が最初に「縦走」を提示してきたことを記念して、「生徒だけど網走縦走in師走」をツイッターのアカウント名にしようと思い付く。12月限定で、あとその時に覚えてたらね)
風邪らしきものが2週間以上前から治らない。
初期症状のいくつか(鼻水、喉の痛み)はもう鳴りを潜めたが、発熱と「振動が頭に伝わると頭痛」が完治しない。
発熱は起床時に強く自覚され、「(罪悪感の磨耗度から)会社休んでもいいかも…」と思えるレベルなのだが、起きて顔を洗って朝刊を取りに行く時にはふつうに動けるくらいにはなっている。
けれど夕方頃に押し寄せる疲労が風邪を引く前より重く、残業する意志がいつも以上に挫けて仕事が溜まっているにも関わらず(まあ期限切られてないので)就労カードに残業申請しない程度にしか残っていない(遠回しだな)。
そして夕食後に疲労主因の睡魔に襲われて15分ほどうたた寝することになっている。
単に残業したくない意志が身体を制御するほど発揮されているだけかもしれないし、昼寝と夕寝が欠かせない時期も前にあったのでそんな異常でもないような気もする。
ただ発熱について一つ書いておきたかったのは、体が熱を発するのは身体的な変化の途中であるという徴候ではないかということ。
前に花粉症の時期に風邪を引いて発熱した時に「身体が花粉の抗体を作っている…!」とお気楽な妄想をしていたが、あれよりは可能性が高いのではないか。
この変化は「何らかの環境の変化に対する適応」であるはずで、一番順当なのは昼夜の温度差が激しく気候が安定しないこの季節に対する適応(というかむしろ「適応し切れていなくてガタがきてる」が実情)なのだがそれ以外の可能性も捨て切れない。
その「それ以外」とは、前に「実験中なので詳しくは語れない」と書いた件なのだが、あの時から流れが変わっていなくてそろそろ対処した方がよいとも思われるのだが、その「流れ」(それはもろに身体的な徴候である)を思想(=自分の「いきざま」)に絡めるという複雑なこともしているので、いましばし保留。
その実験…というか経過観察が始まったのは去年の10月からだ、ということだけ記しておく。
(と書いて、これを別の出来事と混同している可能性もあって、どんどん実験内容が曖昧になっていくのだけどたぶん「人が人を見ているのだから仕方な」くて、それをそう思えることは良いことだと僕も思っているので特に問題はない)
つまり一行目は「変化の辿り方が変化する」ということで、収拾がつかん、と。
知の蓄積と俯瞰について。
知識が増えると、その分野を広く見渡せているような気になる。
しかしそれが「俯瞰できている状態」とは限らない。
高い所から街並を見下ろす。
大文字山でも、スカイツリーでもいい。
その見下ろしていることを「街並を一望俯瞰する」と言う。
これは目が米粒のような建物の膨大な散らばりを見ている以上のものではない。
そこから何かを考えることは「一望俯瞰」には含まれない。
頭の中での「俯瞰」を考える時、上記の一望俯瞰はメタファーとして機能している。
メタファーはその対象とイコールではないので、この場合の「俯瞰」には「そこから何かを考えること」が含まれている。
イコールでないことはいいのだけど、実際の行動や感覚を思考のメタファーに使う時に注意しなければならないのは、元の対象とは異なる(そして時に全く関係のない)事象が含まれ、そこから異なる意味が生まれることだ。
もちろんそれは概念の拡張作用というメタファーの主な効果の表れではあって、「元の対象と全く関係のない事象」の前には「このたびメタファーを介することがなければ」がくっついていて、それは「袖触れ合うも多生の縁」というか「シニフィアンとシニフィエの結合の恣意性」という言語の成り立ちと同じ感動がそこにはある。
注意するのは概念の拡張そのことではなく、「拡張」がその思考の目指す方向性に沿っているかどうかである。
閑話休題。
ある分野について勉強して、知識を蓄えて、詳しくなる。
その分野について人に語ることができるようになる。
この時、その分野について俯瞰できている、と表現する。
これを、高い所から街を見下ろすイメージでとらえるとどうなるか。
一望俯瞰に「その先の思考はない」と言った。
思考はないが、満足はある。
その満足はどこからくるか。
例えば擬似的な権力者の優越感としてみよう。
すると、知における俯瞰のもたらす満足が卑小に感じられてしまう。
なぜといって、知における俯瞰の僕のイメージは以下のようなものだからだ。
ある分野について、その細かい所を掘り下げる時に、その深化作業の分野全体における位置を把握できていること。
ディテールの構築やその組み合わせ方の発見(「要素作業」と呼んでみよう)の楽しさとは別に、要素作業の大枠の意味(一般にそれを含む分野における意味だけでなく、他分野との関係性、すなわち別の分野を枠にもってきた時に持つ意味やその別分野に含まれる要素との組み合わせが生み出す意味などを指す)にも想像が及ぶこと。
これは満足というよりは(不満でもないが)渇望だ。
分かることが増えると、同じだけあるいはそれ以上に分からないことが増える。
人は「分からないことを減らす」ために分かろうとするのではなく、全く逆で、「分からないことを増やす」ために分かろうとする。
ただそれを表面的に見ると矛盾していて気持ちが悪い。
だから満足ではない。
スカイツリーから東京の街並を眺めて(僕は見たことはないが)、不満になることがあるだろうか?
あるとすればそれは「一望俯瞰」とは関係のない、個別な事情によるものだろう。
そうとも限らないだろうけどそれはどうでもよくて、最初に言いたかった(と今思い付いた)ことは「俯瞰のメタファー」にちょっとした「いかがわしさ」を感じるということだ。
それは科学の発展してきた方向性(「要素技術の発展」とか「分類志向」とか)が生んだもののように感じる。
博物学的志向といえば簡潔にまとまりそうだが、きっとこれも、それが学問になる前には無かった発想なのだと思う。
ファーブルがその最初から昆虫を分類したくて虫の観察に没頭したのか。
きっとそうではないと思い、しかし分類が悪いと言いたいわけでもなく、むしろ「色んなものが身の回りにあって、それらに共通点を見出せたら(その洞察の表現として)分類したくなってしまうものだ」とまずは認めようじゃないか、と言いたいだけかもしれない。
そしてその分類志向が「手段に留まるか目的になるか」が運命の分かれ道なのだ。
知識が増えると、その分野を広く見渡せているような気になる。
しかしそれが「俯瞰できている状態」とは限らない。
高い所から街並を見下ろす。
大文字山でも、スカイツリーでもいい。
その見下ろしていることを「街並を一望俯瞰する」と言う。
これは目が米粒のような建物の膨大な散らばりを見ている以上のものではない。
そこから何かを考えることは「一望俯瞰」には含まれない。
頭の中での「俯瞰」を考える時、上記の一望俯瞰はメタファーとして機能している。
メタファーはその対象とイコールではないので、この場合の「俯瞰」には「そこから何かを考えること」が含まれている。
イコールでないことはいいのだけど、実際の行動や感覚を思考のメタファーに使う時に注意しなければならないのは、元の対象とは異なる(そして時に全く関係のない)事象が含まれ、そこから異なる意味が生まれることだ。
もちろんそれは概念の拡張作用というメタファーの主な効果の表れではあって、「元の対象と全く関係のない事象」の前には「このたびメタファーを介することがなければ」がくっついていて、それは「袖触れ合うも多生の縁」というか「シニフィアンとシニフィエの結合の恣意性」という言語の成り立ちと同じ感動がそこにはある。
注意するのは概念の拡張そのことではなく、「拡張」がその思考の目指す方向性に沿っているかどうかである。
閑話休題。
ある分野について勉強して、知識を蓄えて、詳しくなる。
その分野について人に語ることができるようになる。
この時、その分野について俯瞰できている、と表現する。
これを、高い所から街を見下ろすイメージでとらえるとどうなるか。
一望俯瞰に「その先の思考はない」と言った。
思考はないが、満足はある。
その満足はどこからくるか。
例えば擬似的な権力者の優越感としてみよう。
すると、知における俯瞰のもたらす満足が卑小に感じられてしまう。
なぜといって、知における俯瞰の僕のイメージは以下のようなものだからだ。
ある分野について、その細かい所を掘り下げる時に、その深化作業の分野全体における位置を把握できていること。
ディテールの構築やその組み合わせ方の発見(「要素作業」と呼んでみよう)の楽しさとは別に、要素作業の大枠の意味(一般にそれを含む分野における意味だけでなく、他分野との関係性、すなわち別の分野を枠にもってきた時に持つ意味やその別分野に含まれる要素との組み合わせが生み出す意味などを指す)にも想像が及ぶこと。
これは満足というよりは(不満でもないが)渇望だ。
分かることが増えると、同じだけあるいはそれ以上に分からないことが増える。
人は「分からないことを減らす」ために分かろうとするのではなく、全く逆で、「分からないことを増やす」ために分かろうとする。
ただそれを表面的に見ると矛盾していて気持ちが悪い。
だから満足ではない。
スカイツリーから東京の街並を眺めて(僕は見たことはないが)、不満になることがあるだろうか?
あるとすればそれは「一望俯瞰」とは関係のない、個別な事情によるものだろう。
そうとも限らないだろうけどそれはどうでもよくて、最初に言いたかった(と今思い付いた)ことは「俯瞰のメタファー」にちょっとした「いかがわしさ」を感じるということだ。
それは科学の発展してきた方向性(「要素技術の発展」とか「分類志向」とか)が生んだもののように感じる。
博物学的志向といえば簡潔にまとまりそうだが、きっとこれも、それが学問になる前には無かった発想なのだと思う。
ファーブルがその最初から昆虫を分類したくて虫の観察に没頭したのか。
きっとそうではないと思い、しかし分類が悪いと言いたいわけでもなく、むしろ「色んなものが身の回りにあって、それらに共通点を見出せたら(その洞察の表現として)分類したくなってしまうものだ」とまずは認めようじゃないか、と言いたいだけかもしれない。
そしてその分類志向が「手段に留まるか目的になるか」が運命の分かれ道なのだ。
生まれたから生きる。
ウィスキーの肴に胡桃を食べている。
ミックスナッツではなく胡桃単体で買うと重量単価が一寸高く、普段のスーパーでの買い物で手に取ることはまずなくて、元は宅飲み用に買って余ったものだ。
だから食べる時も一日に数粒でひとかけ口に含むごとに味わって噛み砕くし、そもそも毎日食べるわけでもない。
(少なくとも焼いた小魚と胡桃を甘く絡めた「くるみ小女子」が夕食のおかずに並ぶ時は食べない)
そんな食べ方をしているといつまでも袋の中の胡桃は減らなくて、賞味期限は知らないが何にせよ開封後の食品を長期間置いていると気にはなるものである(このことが無意識を刺激する頻度を「主夫度」の一指標としてもよいだろう)。
という前段があって、さっき擬ショットグラスにウィスキーを注いでこたつに向かってさあ飲もうという時に胡桃の袋が目の隅に映って「あ、食べよう」と思って、「はて、これは…」と瞬間何かを考え、「ああ、生まれたから生きるようなものか」と思った。
本当は「期限が切れる前に食べよう」のはずなのだが、まずこの言い方は(当たり前に思われてはいるが)変で、しかしこれが変である理由を詰めるのではなく「変であるにも関わらず言わせてしまうもの(こと)」について思いを馳せたのち、いくつもの段を一度にすっ飛ばして出てきた言葉であるように思われる。
「生まれたから生きる」なんて言って、場合によっては何か達観やら諦観みたいなものを帯びて相手をたじろがせる響きがあるが、理由になってない理由というか単なる同語反復で意味をなさない言葉でもある。
これを同語反復と呼ぶのは論理の形式に純粋に従っている場合で、即ち「一つの言葉は一つの意味と対応する」という言葉のルール。
多義語があるじゃないかともちろん思われるだろうが、今はそれを別に考えようとしていて、つまりこのルールが意味しているのは「多数の人々の間で合意形成された(各々の言葉に対応する)意味を守りましょう、そうでないと意思疎通ができないから」ということ。
逆に「達観や諦観を思わせる」という時、そう思わされた人は「生まれたから生きる」の”生まれた”と”生きる”に(恐らく後者により多めに)過剰に意味を織り込んでいる。
その発言者の人となりも「複雑怪奇な織り物」の縦糸となるだろうが、その縦糸に厚みを持たせ、最終的に編み上げる横糸となるのは「そう思わされた人」の想像の中身である。
縦糸と横糸のどちらが重要といえばやはり横糸で、縦糸だけだといくら量があって束に厚みがあろうともまとまりがなく、かさばるだけで意味をなさない。
しかしスカスカの縦糸をしっかりした、言ってみれば極太の横糸でぎゅーっと結べばどうなるかといえば、もはやそれは編み物ではなく、火を点ければ良く燃えるね、というくらいのものに成り下がってしまう。
しかし子供はそれが何であっても、燃えれば喜ぶのだ。
ウィスキーの肴に胡桃を食べている。
ミックスナッツではなく胡桃単体で買うと重量単価が一寸高く、普段のスーパーでの買い物で手に取ることはまずなくて、元は宅飲み用に買って余ったものだ。
だから食べる時も一日に数粒でひとかけ口に含むごとに味わって噛み砕くし、そもそも毎日食べるわけでもない。
(少なくとも焼いた小魚と胡桃を甘く絡めた「くるみ小女子」が夕食のおかずに並ぶ時は食べない)
そんな食べ方をしているといつまでも袋の中の胡桃は減らなくて、賞味期限は知らないが何にせよ開封後の食品を長期間置いていると気にはなるものである(このことが無意識を刺激する頻度を「主夫度」の一指標としてもよいだろう)。
という前段があって、さっき擬ショットグラスにウィスキーを注いでこたつに向かってさあ飲もうという時に胡桃の袋が目の隅に映って「あ、食べよう」と思って、「はて、これは…」と瞬間何かを考え、「ああ、生まれたから生きるようなものか」と思った。
本当は「期限が切れる前に食べよう」のはずなのだが、まずこの言い方は(当たり前に思われてはいるが)変で、しかしこれが変である理由を詰めるのではなく「変であるにも関わらず言わせてしまうもの(こと)」について思いを馳せたのち、いくつもの段を一度にすっ飛ばして出てきた言葉であるように思われる。
「生まれたから生きる」なんて言って、場合によっては何か達観やら諦観みたいなものを帯びて相手をたじろがせる響きがあるが、理由になってない理由というか単なる同語反復で意味をなさない言葉でもある。
これを同語反復と呼ぶのは論理の形式に純粋に従っている場合で、即ち「一つの言葉は一つの意味と対応する」という言葉のルール。
多義語があるじゃないかともちろん思われるだろうが、今はそれを別に考えようとしていて、つまりこのルールが意味しているのは「多数の人々の間で合意形成された(各々の言葉に対応する)意味を守りましょう、そうでないと意思疎通ができないから」ということ。
逆に「達観や諦観を思わせる」という時、そう思わされた人は「生まれたから生きる」の”生まれた”と”生きる”に(恐らく後者により多めに)過剰に意味を織り込んでいる。
その発言者の人となりも「複雑怪奇な織り物」の縦糸となるだろうが、その縦糸に厚みを持たせ、最終的に編み上げる横糸となるのは「そう思わされた人」の想像の中身である。
縦糸と横糸のどちらが重要といえばやはり横糸で、縦糸だけだといくら量があって束に厚みがあろうともまとまりがなく、かさばるだけで意味をなさない。
しかしスカスカの縦糸をしっかりした、言ってみれば極太の横糸でぎゅーっと結べばどうなるかといえば、もはやそれは編み物ではなく、火を点ければ良く燃えるね、というくらいのものに成り下がってしまう。
しかし子供はそれが何であっても、燃えれば喜ぶのだ。
映画の話も出た。石川君はよく浅草あたりをうろついては映画館に入った。そして、映画館の暗闇の中で夢想するのが何より好きだったと言った。先生は映画を見られますかと石川君が言った。いや滅多に見ないと答えると、石川君は、僕のこの間軀の調子が良かった時に子供と『もののけ姫』を見に行きましたと言った。あれは大ヒットしたのに批評家や知識人にはあまり受けが良くないのです。何故だかわかりますかと石川君は言った。彼らは娯楽を期待していたのに、あれが芸術だったからですよ。知識人は芸術が嫌いだから、反発したのですと石川君は言った。
高橋源一郎『日本文学盛衰史』p.127
この「石川君」が誰かといえば、なんと石川啄木のこと。
そして「先生」は森鴎外。
どうやらこの本は明治あたりからの文学者たちの生活が現代の風俗事情を織り交ぜながら描かれているらしい。
(島崎藤村が蒲原有明に「ちょべりば!」と囁けば、横瀬夜雨が「フルメタリックボディの八段変速ギア、坂道はもちろん階段を登るのもへいちゃらの上、最新式の無公害エンジンとカーナビを搭載し、最高時速六十キロというモンスター車椅子」で夜ごと横根村を走り回り「横瀬の家のホーキング」と住民たちに噂される)
そのこころは、と考えていくつか思いつかないことはない。
古典の、現代誤訳というよりは超訳のような位置づけ。
「当時の文学人が今生きていたらこんなことをやりそうだ、言いそうだ」。
タカハシ氏は文芸時評集をいくつも出していて、『文学なんかこわくない』とか『文学じゃないかもしれない症候群』とかタイトルにもう氏のスタンスが前面に出ていて、そのどれかの中で「文学関係者の間で文学が閉じていてはいけない」というようなことを書いていた。
この本もきっとそれと同じ感覚で書かれたもののはずで(というか氏の著作すべてがそうなのかもしれない)、つまり啄木とか鴎外とか、あるいは幸徳秋水や島崎藤村を「国語の授業で習ったなあ」くらいの文学的知識しかなくても十分読めるようになっている。
ということに気付くのに、読み始めてから少し時間がかかった。
なにしろ本書のマジメな部分はとことんマジメで、(固有名詞が何を指すのか)さっぱり分からないからだ。
それが最初は「これは不勉強な自分が読む本なんだろうか」と不安にさせていたのだけれど、途中で「あ、別にいいのね」と気付いたのだった。
読んでいて細かいところが全然わからずとも、「文学と(一般人の)日常とは地続きである」ことはわかる。
そしてそれが、タカハシ氏が読者に分かってほしいことの一番のはずだ。
+*+*+*
という話と繋がるか繋がらないか、本書の読中脳内BGMはちょっと意外なところを選んでいる。
霜丘氏の和風曲。
→ 臨命終時 - simoka/kakoi
日本文学だし和風曲かなと思い、しかし読み始めでちょっと「おどけた(フマジメな?)感じ」を受けたので穏当な和風曲は合わないなと思い、べつにこの曲がおどけているわけでは全然ないのだけどパッと思い付いたから選んだのであって、おそらく本筋に対する何らかの意外性が共通しているかなと後付け解釈。
しかしダブステップをこんな風に使えるのは凄いな。
畦道を歩く。
社員寮の前に広い田んぼがある。
田んぼに沿って通りに出て、左に曲がって少し歩けば会社がある。
通勤の半分は田んぼのそばを歩いていることになる。
見るのは、道沿いの雑草か、田んぼか、近くの木々か、遠くの大山、そして空。
それらをぼんやり眺めながら、あるいは一心に見つめながら歩く。
いつも時間がぎりぎりなので足を止めたことはない。
散歩の時も足を止めない癖はこの通勤のせいにあるかもしれない。
道沿いの雑草を眺める時、「鳥の目」になっている。
雑草は種類豊かで秩序がなく、森のようでもある。
つまり飛行機に乗って一帯の森を眺め下ろしているイメージだ。
あるいは森を猛スピードで駆け抜ける未開の人となる。
田んぼは今は水を張る前の時期だが、耕地と休耕地が混在している。
休耕地は丈のある雑草が好き放題に伸び、見ていて気持ちが良い。
風が強い日は長い葉がなびき、その連鎖から風の軌跡が浮き上がってくる。
並んだ電球が順番に光るのと一緒で、それを軌跡と思う元の要素はデジタルだ。
通勤で歩いていて、毎日同じことをしている、という意識がない。
そう思ったこともあるはずだが、記憶にはない。
ある日歩いていてそう思って、過去に同じ経験をした記憶が甦るのかもしれない。
その再生の積み重ねの密度が、その意識を決めるのではないかと思う。
経験の量自体は変わらない。
何げない、取るに足りない経験こそ、その一つひとつをどう意識したかが問題になる。
それは蓄積されるもののようで、その蓄積もその都度フィードバックされる。
そうかと思えば、意識しない時には蓄積がいくらあっても浮かんでくることはない。
だからプレッシャーを感じる必要はない。
ここでいうプレッシャーは捏造で、つまり自分で勝手に作り出したもの。
要求元は社会なのだが、捏造というのは、社会の価値観を採用した自分の意識を隠蔽しているから。
それは惰性にも見え、勤勉にも見え、あるいはやさしさがある。
意識とは対象と主体を明確に分けることができない。
意識対象に、意識する主体が知らず知らずのうちに組み込まれてしまう。
これをよく量子力学の客観観測不可能性と並置する。
これは意識が量子力学的であることを示している。
言い方を変えると、意識は実感(体感)できないものなのだろうか?
脳を(身体が?)身体のように感じることはできない。
そのことが無限の可能性を秘めている。
可能性である限り、それは無限となる。
社員寮の前に広い田んぼがある。
田んぼに沿って通りに出て、左に曲がって少し歩けば会社がある。
通勤の半分は田んぼのそばを歩いていることになる。
見るのは、道沿いの雑草か、田んぼか、近くの木々か、遠くの大山、そして空。
それらをぼんやり眺めながら、あるいは一心に見つめながら歩く。
いつも時間がぎりぎりなので足を止めたことはない。
散歩の時も足を止めない癖はこの通勤のせいにあるかもしれない。
道沿いの雑草を眺める時、「鳥の目」になっている。
雑草は種類豊かで秩序がなく、森のようでもある。
つまり飛行機に乗って一帯の森を眺め下ろしているイメージだ。
あるいは森を猛スピードで駆け抜ける未開の人となる。
田んぼは今は水を張る前の時期だが、耕地と休耕地が混在している。
休耕地は丈のある雑草が好き放題に伸び、見ていて気持ちが良い。
風が強い日は長い葉がなびき、その連鎖から風の軌跡が浮き上がってくる。
並んだ電球が順番に光るのと一緒で、それを軌跡と思う元の要素はデジタルだ。
通勤で歩いていて、毎日同じことをしている、という意識がない。
そう思ったこともあるはずだが、記憶にはない。
ある日歩いていてそう思って、過去に同じ経験をした記憶が甦るのかもしれない。
その再生の積み重ねの密度が、その意識を決めるのではないかと思う。
経験の量自体は変わらない。
何げない、取るに足りない経験こそ、その一つひとつをどう意識したかが問題になる。
それは蓄積されるもののようで、その蓄積もその都度フィードバックされる。
そうかと思えば、意識しない時には蓄積がいくらあっても浮かんでくることはない。
だからプレッシャーを感じる必要はない。
ここでいうプレッシャーは捏造で、つまり自分で勝手に作り出したもの。
要求元は社会なのだが、捏造というのは、社会の価値観を採用した自分の意識を隠蔽しているから。
それは惰性にも見え、勤勉にも見え、あるいはやさしさがある。
意識とは対象と主体を明確に分けることができない。
意識対象に、意識する主体が知らず知らずのうちに組み込まれてしまう。
これをよく量子力学の客観観測不可能性と並置する。
これは意識が量子力学的であることを示している。
言い方を変えると、意識は実感(体感)できないものなのだろうか?
脳を(身体が?)身体のように感じることはできない。
そのことが無限の可能性を秘めている。
可能性である限り、それは無限となる。
雨の日のツバメ。
先週に鴨川沿いを歩く機会があった。
京都に住んでいた頃よく歩いていた、今出川から三条まで。
大学院を出て以来だから、3年ぶりのこと。
当時は精神の一部が腐敗していたから、鴨川の良さを味わえていなかった。
歩くだけで気分上々の今の自分には、とても素敵な場所に思えた。
出町柳の地下の駅から出ると、雨が降り始めていた。
京阪に乗っている間は晴れているように見えた。
雨は小雨で、雲間から太陽の光が街に降り注いでいる。
雲の不均質な配置と粒子を多く含んだ大気がおりなす光の柱。
何と呼ぶか知らないが、この光景はいつも僕の視線を引き付ける。
そしてそれを眺める僕の足は止まることなく、着実に下流に向かっている。
日常がもう、足を止めずに落ち着いてものを眺める姿勢を安定させている。
空は明るいままだが、雨粒が大きくなってきた。
すぐに止むと思い、橋の下で雨宿りをする。
鞄を地面に置き、スーツなので立ったまま、川面を眺める。
ツバメが低く飛んでいる。
雨が降る前には、とよく言う。
きっと雨脚が強くなるまで飛び続けるのだろう。
ツバメは橋脚のまわりを繰り返し旋回している。
不思議とその飛ぶ姿に見入る。
間近で羽が風を切る様を見る機会はこれまでほとんどなかったかもしれない。
何匹かが競うように低く飛んでいる。
川の石のすぐ上、ぎりぎりの所を跳ね回るように飛んでいる。
飛行の癖から個体識別を試みたが初心者には難しかったらしい。
そのスピードは速く、視線をツバメに追って合わせるだけで苦労する。
今の日常生活からは逸脱した眼の動きだ。
目が回って気持ち悪くなることはなく、だんだん面白くなってくる。
ツバメの飛行に関する意思について考える。
こういう風に飛ぼうと思って飛んでいるわけではないはずだと思った。
風がツバメをして、このように飛ばせている。
見ているうちに羽の動きにツバメ自身の意図などないように思えてくる。
最初はツバメの飛び方に出所不明の違和感をおぼえた。
とても速いのだが、ぎこちないとまで言わずとも、いびつに飛んでいるかに見えた。
なぜ、いびつに見えるのだろう。
考えて、「スケール効果」に思い至る。
S.J.グールドのエッセイによく出てくる話だ。
生物の大きさの違いは、ふつうに想像する以上に体の仕組みに変化をもたらす。
心臓と体の大きさの比は、ネズミとゾウで全く異なる。
例えばその理由のひとつは、体積増加は表面積増加に対して指数関数的であること。
話を戻せば、人の身体感覚でもって鳥の動きを実感することはできないということ。
ツバメは僕より遥かに体が軽く、重力を無視することができ、風の力を利用できる。
僕の違和感は、頭の中でツバメのように飛ぼうとしたことにあるようだ。
そうかもしれないと思い、そのままツバメの飛行を見つめ続ける。
見続けるうち、ツバメが風に見えてくる。
「風がツバメをして、このように飛ばせている」
羽ばたいていない時の動きがまさにそうだ。
あるいは飛ぶ向きが川の上流へ向かうのと下流へ向かうのとで明らかに速度が違う。
すると、いびつに見えた動きも、風の流れの複雑な現れだろうか。
突然跳ね上がるような、または不規則に左右にふらつくような動き。
その複雑さに僕の想像は到底及ばないが、思い浮かぶことが一つあった。
地表からの高さによって風速が大きく異なってくるという話。
そのために風速計は決められた高さに設置しなければならない。
去年(一昨年かもしれない)から少しずつ読み進めている『風の博物誌』にあった。
具体的な数値も具体的な状況とともに書いてあったが、細かくは思い出せない。
(膝の高さで草木がそよぐ時、頭の上では帽子を手で押えないと飛んでしまう、というような)
とても曖昧な記憶ではあるが、想像の助けにはなる。
ツバメが跳ね上がり急降下する、ジェットコースタのような軌跡において、その上昇と下降の速度差を決めるのは位置エネルギと運動エネルギの変換だけでなく空間位置における風速の違いでもあること、もしかすると(という表現は人間の体感が言わせるのだけど)その影響は前者よりも後者の方が大きいかもしれないこと。
そして森博嗣の小説を好んで読む者として当然の連想。
そういえば最初にシリーズを読んだのはここ京都でのことだ。
今、ツバメを目で追っていた一連の経験は確実に、再読時に違った体感をもたらすと思われた。
「スカイ・クロラ」シリーズ。
先週に鴨川沿いを歩く機会があった。
京都に住んでいた頃よく歩いていた、今出川から三条まで。
大学院を出て以来だから、3年ぶりのこと。
当時は精神の一部が腐敗していたから、鴨川の良さを味わえていなかった。
歩くだけで気分上々の今の自分には、とても素敵な場所に思えた。
出町柳の地下の駅から出ると、雨が降り始めていた。
京阪に乗っている間は晴れているように見えた。
雨は小雨で、雲間から太陽の光が街に降り注いでいる。
雲の不均質な配置と粒子を多く含んだ大気がおりなす光の柱。
何と呼ぶか知らないが、この光景はいつも僕の視線を引き付ける。
そしてそれを眺める僕の足は止まることなく、着実に下流に向かっている。
日常がもう、足を止めずに落ち着いてものを眺める姿勢を安定させている。
空は明るいままだが、雨粒が大きくなってきた。
すぐに止むと思い、橋の下で雨宿りをする。
鞄を地面に置き、スーツなので立ったまま、川面を眺める。
ツバメが低く飛んでいる。
雨が降る前には、とよく言う。
きっと雨脚が強くなるまで飛び続けるのだろう。
ツバメは橋脚のまわりを繰り返し旋回している。
不思議とその飛ぶ姿に見入る。
間近で羽が風を切る様を見る機会はこれまでほとんどなかったかもしれない。
何匹かが競うように低く飛んでいる。
川の石のすぐ上、ぎりぎりの所を跳ね回るように飛んでいる。
飛行の癖から個体識別を試みたが初心者には難しかったらしい。
そのスピードは速く、視線をツバメに追って合わせるだけで苦労する。
今の日常生活からは逸脱した眼の動きだ。
目が回って気持ち悪くなることはなく、だんだん面白くなってくる。
ツバメの飛行に関する意思について考える。
こういう風に飛ぼうと思って飛んでいるわけではないはずだと思った。
風がツバメをして、このように飛ばせている。
見ているうちに羽の動きにツバメ自身の意図などないように思えてくる。
最初はツバメの飛び方に出所不明の違和感をおぼえた。
とても速いのだが、ぎこちないとまで言わずとも、いびつに飛んでいるかに見えた。
なぜ、いびつに見えるのだろう。
考えて、「スケール効果」に思い至る。
S.J.グールドのエッセイによく出てくる話だ。
生物の大きさの違いは、ふつうに想像する以上に体の仕組みに変化をもたらす。
心臓と体の大きさの比は、ネズミとゾウで全く異なる。
例えばその理由のひとつは、体積増加は表面積増加に対して指数関数的であること。
話を戻せば、人の身体感覚でもって鳥の動きを実感することはできないということ。
ツバメは僕より遥かに体が軽く、重力を無視することができ、風の力を利用できる。
僕の違和感は、頭の中でツバメのように飛ぼうとしたことにあるようだ。
そうかもしれないと思い、そのままツバメの飛行を見つめ続ける。
見続けるうち、ツバメが風に見えてくる。
「風がツバメをして、このように飛ばせている」
羽ばたいていない時の動きがまさにそうだ。
あるいは飛ぶ向きが川の上流へ向かうのと下流へ向かうのとで明らかに速度が違う。
すると、いびつに見えた動きも、風の流れの複雑な現れだろうか。
突然跳ね上がるような、または不規則に左右にふらつくような動き。
その複雑さに僕の想像は到底及ばないが、思い浮かぶことが一つあった。
地表からの高さによって風速が大きく異なってくるという話。
そのために風速計は決められた高さに設置しなければならない。
去年(一昨年かもしれない)から少しずつ読み進めている『風の博物誌』にあった。
具体的な数値も具体的な状況とともに書いてあったが、細かくは思い出せない。
(膝の高さで草木がそよぐ時、頭の上では帽子を手で押えないと飛んでしまう、というような)
とても曖昧な記憶ではあるが、想像の助けにはなる。
ツバメが跳ね上がり急降下する、ジェットコースタのような軌跡において、その上昇と下降の速度差を決めるのは位置エネルギと運動エネルギの変換だけでなく空間位置における風速の違いでもあること、もしかすると(という表現は人間の体感が言わせるのだけど)その影響は前者よりも後者の方が大きいかもしれないこと。
そして森博嗣の小説を好んで読む者として当然の連想。
そういえば最初にシリーズを読んだのはここ京都でのことだ。
今、ツバメを目で追っていた一連の経験は確実に、再読時に違った体感をもたらすと思われた。
「スカイ・クロラ」シリーズ。
「外れた部分」を持つこと。
個性とは、原理的には一人ひとりに備わっている。
それを殊更「個性を伸ばす」などと強調するのはなぜか。
「もともと個性はないから努力して獲得すべし」は嘘だ。
「役に立たない個性は役立つように改善すべし」は本当かもしれない。
「個性を意識し続けることで喜ぶ人がいる」ことも確からしい。
ここでは社会の要請はおいて、個人の内側における意識を考えよう。
すなわち「個性があるという意識がその人を安心させる」のはなぜか。
個性の存在は人を安心させるものだが、その一方で「人と同じであること」も安心をもたらす。
個性は「人とは違う性質」のことだから、ふつうに考えたら矛盾で、しかし両者が同時に成り立つということは、安心させる仕組みが両者では違うということだ。
一見どちらも脳的な安心(意識の産物)のように思えるが、個性が概念である(でしかない)のに対し「人と同じであること」は、そうであると意識して安心する「前段」がある。
すぐ思い付くのは「人の一部であること」、母の体内に住まう胎児だ。
胎内回帰願望という言葉もある。
その記憶の有無はおいて、全ての人間にはその体験がある。
「全ての人間にはその体験がある」という大きな事実が「そうであると意識することによる安心」を担保しているのだろうが、やはりその前段には体験がある。
純粋に意識の産物である「個性があると意識することによる安心」を掘り下げたい。
上で書いた社会の要請とは、「世間では個性があることが良いことだと思われている」ということだ。
言い換えて繋げると「みんなと同じように個性があることで人は安心する」となる。
「みんなと同じように個性がある」?
変な言い回しだが、ちゃんと考えるならばここの個性を「その人の置かれた場面に応じた(周囲の人間にとって)役立つ性質」と言い換える必要がある。
しかしここではそういう意味で「ちゃんと考える」のではなく、わざと意味を曖昧にさせて都合良く使われている「個性」という言葉を、社会がそうしているのと同じ目的で、しかし別の仕方で解釈してみたい。
「みんなと同じように個性がある」ことで僕らは安心することになっている。
実は「個性」の内容を細かく問わずとも、それをお題目として意識すれば安心する。
例えばそれが「社会的には全く役に立たない個性」であってもよい。
そして「個性」の"個"性というのは、内容よりも性質に宿るものである。
役に立つか立たないかではなく、独特であるか類型的であるか。
その判断主体は誰だろう?
世間が「君の個性は独特だ」と言った時、僕の個性は独特だろうか?
世間のみんなの間で意見の一致している「独特な個性」こそ類型的ではないのか?
かと言って、世間の言う類型的な性質が独特な個性に化けるわけではない。
マイナスのマイナスはプラスという話ではない。
これは数直線上の出来事ではなく、集合論の話である。
「世間の中で意見の一致している事柄」はその内容に関係なく、須く世間的である。
あるいは世間の中でのみ通用する独特さ、「世間的な独特」というものがある。
内田樹がブログで自著を解説する段においてこんなことを言っている。
この話を解釈に使うとどうなるだろうか?
「世間的な独特」を独特な個性だと疑わないことが自己の世間性を受け入れることになるのだろうか?
きっと半分は当たっている。
では当たっていない半分はといえば、それと意識しないことが全て「自己の世間性を受け入れる」ことにはならないということだ。
個性とは、原理的には一人ひとりに備わっている。
それを殊更「個性を伸ばす」などと強調するのはなぜか。
「もともと個性はないから努力して獲得すべし」は嘘だ。
「役に立たない個性は役立つように改善すべし」は本当かもしれない。
「個性を意識し続けることで喜ぶ人がいる」ことも確からしい。
ここでは社会の要請はおいて、個人の内側における意識を考えよう。
すなわち「個性があるという意識がその人を安心させる」のはなぜか。
個性の存在は人を安心させるものだが、その一方で「人と同じであること」も安心をもたらす。
個性は「人とは違う性質」のことだから、ふつうに考えたら矛盾で、しかし両者が同時に成り立つということは、安心させる仕組みが両者では違うということだ。
一見どちらも脳的な安心(意識の産物)のように思えるが、個性が概念である(でしかない)のに対し「人と同じであること」は、そうであると意識して安心する「前段」がある。
すぐ思い付くのは「人の一部であること」、母の体内に住まう胎児だ。
胎内回帰願望という言葉もある。
その記憶の有無はおいて、全ての人間にはその体験がある。
「全ての人間にはその体験がある」という大きな事実が「そうであると意識することによる安心」を担保しているのだろうが、やはりその前段には体験がある。
純粋に意識の産物である「個性があると意識することによる安心」を掘り下げたい。
上で書いた社会の要請とは、「世間では個性があることが良いことだと思われている」ということだ。
言い換えて繋げると「みんなと同じように個性があることで人は安心する」となる。
「みんなと同じように個性がある」?
変な言い回しだが、ちゃんと考えるならばここの個性を「その人の置かれた場面に応じた(周囲の人間にとって)役立つ性質」と言い換える必要がある。
しかしここではそういう意味で「ちゃんと考える」のではなく、わざと意味を曖昧にさせて都合良く使われている「個性」という言葉を、社会がそうしているのと同じ目的で、しかし別の仕方で解釈してみたい。
「みんなと同じように個性がある」ことで僕らは安心することになっている。
実は「個性」の内容を細かく問わずとも、それをお題目として意識すれば安心する。
例えばそれが「社会的には全く役に立たない個性」であってもよい。
そして「個性」の"個"性というのは、内容よりも性質に宿るものである。
役に立つか立たないかではなく、独特であるか類型的であるか。
その判断主体は誰だろう?
世間が「君の個性は独特だ」と言った時、僕の個性は独特だろうか?
世間のみんなの間で意見の一致している「独特な個性」こそ類型的ではないのか?
かと言って、世間の言う類型的な性質が独特な個性に化けるわけではない。
マイナスのマイナスはプラスという話ではない。
これは数直線上の出来事ではなく、集合論の話である。
「世間の中で意見の一致している事柄」はその内容に関係なく、須く世間的である。
あるいは世間の中でのみ通用する独特さ、「世間的な独特」というものがある。
内田樹がブログで自著を解説する段においてこんなことを言っている。
辺境民が自分が辺境民であることを否定する際のわずかな身振りに、自らの辺境性が露呈している。辺境民は己の辺境性から逃れることはできない。そうかもしれない。
この話を解釈に使うとどうなるだろうか?
「世間的な独特」を独特な個性だと疑わないことが自己の世間性を受け入れることになるのだろうか?
きっと半分は当たっている。
では当たっていない半分はといえば、それと意識しないことが全て「自己の世間性を受け入れる」ことにはならないということだ。
「他者からの需要」がなければ、「自分の存在する余地」も生まれない。そんな風に考えるから、私には近代的な「自主性」がない。私の自主性は「他人の存在」を前提にして存在する前近代の自主性だから、あまり近代的ではないのである。
私は、近代的な自主性を持たないから、平気でぐずぐずしているし、一向に曖昧である。私はそれを、「他人に規定されない、自分の取り分としての自由」としか考えない。(…)
私の中にある、「前近代的な自主性」は、まず「他人の存在する自分の外側」を第一に設定する。「自分」が確固とする前に、他人に確固としていてもらえないと困る。確固としている「外側」があって、「自分」というものは、それに対応して確固としていく。だから、前近代的な人間は「世のあり方」を嘆くのである。
橋本治『橋本治という行き方 WHAT A WAY TO GO!』p.18 「小商人の息子」
橋本治のような人は近代人から見れば自主性のない、確固とした自己を持っていない人間ということになる。
論理的にはそういうことになって、ハシモト氏も揺るぎくそれを認めていて、しかし実際には読者(僕)からすればハシモト氏は「あまりにも自己が確固としていてまぶしいくらい」である。
そのように見えてしまうことも本当だとすれば、論理と感覚が一致していないということになるのだが、抜粋にあるようにこれは僕の論理が徹底されていないせいである。
つまり近代的な価値観にどっぷり浸かって暮らしている僕らにも前近代的な感覚は残っていて、それを自覚していないのだ。
あるいは近代的な価値観が「脳の独断専行」であるのに対し前近代的価値観が「脳と身体の折衷」であって、価値観に関係なく人は脳と身体をセットで持っているという言い方もできると思う。
まあそれはよくて、言いたかったのは「(あなたの)自己が確固としているか?」を問う時に「どういう価値観から見て」を言い落とすことはフェアではないなということ。
そう言いながらもこの言い落としは当たり前に行われていて、例えば教育の場がそうである。
「つべこべ言わずに言われた通りにしろ」が教師の生徒にたいする正当なスタンスなのだが、これが実際に正当となるのは前近代的な価値観で成り立っている社会においてであって、というのもこのスタンス自体が前近代的だからであって、近代的な社会でこのようなスタンスを教師がとる時(しかもその教師は近代的な価値観を持っている)、生徒は混乱することになる。
前提がはっきりしないからこそその都度前提込みで考えていかなければならない社会で、前提抜きで(つまり思考抜きの)服従を強制されることは理不尽である。
だからこそ近代的価値観を確固とさせた生徒は学習における前提(「将来のどんな役に立つんですか?」「金になりますか?」)の確認に余念がないのだが、それにきちんと(生徒の理解の及ぶレベルに落として)答える教師は教師でなくなってしまう。
だから近代的な社会でも教育の場は前近代的であるべきで、教師は「つべこべ言わずに…」だけでなく「○○○」も同時に言わねばならない。
いつの間にか教育の話になっていたが、言いたかったことに戻せば、社会に流布する様々な言説(特に当為の語法で語られているもの)が本来多様であるはずの前提を抜きにして展開されているということ。
言い方を変えればそれらは「宛て先不明の言説」であって、書き手の思いとは別に読み手はちょっと油断すれば「全てが自分に向けて書かれている」と思い込んでしまう。
ネット空間に浮かんでいる膨大な情報をネットユーザは(必要な手続きを行えば)自由に扱うことができるのだが、それを「自分を資する情報が膨大にある」と言った時、捉え方を間違えて「膨大な情報が自分のためにある、自分に関係している」と思い込んだユーザは身体的な限界を超える量のデータを前にして正常な判断ができなくなる、という状況と同じである。
このような場面での「言説(情報)の宛て先を適切に判断する能力」をうんたらリテラシーと言うと思うのだが、このリテラシーの涵養が進まないのは消費至上主義社会の要請するところである。