幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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本の本文は内容であるが、本の本分は家庭教師である。
+*+*+*
併読というのは面白いものだが、やり方によっては疲れるものでもある。
ここ最近併読に疲れてるなあと思い、似たような本を選んでるからだと気付き、しかしそもそも自分が手元に置こうと思う本が既にある種の(というか自分の趣味の)傾向の顕れなのである程度は構造的な問題である。
とはいえ「併読に堪えるラインナップ」を目指してこその併読家なので、自分の選定に文句をいうことは生産的でなければ自虐でしかない。
時々それに(どれに?)目覚めることがあるがそれはよくて。
併読書の傾向が似通ってきたので気分転換を図ってみた。
といってここでいう傾向とはジャンルではなく著者のことで、つまり最近読んでいなかった人を選ぼうと思い、仲正昌樹の本(『ポストモダンの左旋回』)を手に取る。
(仲正氏は「ジャケ買い著者」としてソーシャルライブラリーにも名指しで著書をジャンル分けさせてもらっているのだけど、意外に蔵書が少ない。本屋で眺めて読みたくなる本は沢山あるのだがブックオフに滅多に並ばないせいかもしれない。新品で買えよという話なのだが)
読み始めて、元気が出てくる。
「ああ、いつも通りだ」と。
(そういえばしばらく氏の本から遠ざかっていたのはこれの前に読もうとした『思想の死相』が期待外れで読むのを中断してしまったからだ。その「期待」の中身はこの下に書かれるはず)
氏の本の内容もとても身になるし(「単なる正しさで終わらない正しさ」を地に足着けて論じているという印象がある。語り口はおいて、小浜逸郎や中島義道と(その思想的な立ち位置の?)似たところを感じる)、文体も好きなのだけど(思えば最初に出会った著書は院生の頃に読んだ『なぜ「話」は通じないのか』で、この本は氏の辛辣な文体が激しく発揮されていて、(たぶん「怖いもの見たさ」で)終始眉間に皺ををぐぐと寄せながらなんとか読み終えたものだけど(だって「パブロフのワン君」ですよ)、きっとその時の衝撃体験に開発されたに違いない)、そういった自分の好みを自分なりに書いてみようと今日読み始めた途中に思い付き、読み進める中でそういう視点でいくつか拾えるところがあった。
思うに、「自分で考えたい」と思う人のための「実践的な教科書」のようなところがある。
僕が読んできた氏の本に偏りがあるのかもしれないが、現代思想の解説がとても上手くて、分類的興味を満たす整い方もしているけどそれより「現代思想を使えば(ツールという見方は今一つで「その中に身ごと飛び込む」ものなのかもしれないが)こんな考え方ができる」ことをしっかり示してくれていて、例えばローティやアーレントの解説本ではなく著書を読みたいと思わせてくれる。
(そう思わされた人にとっては、例えば上の抜粋で「新人」と書いてあるのを「お、俺のことか」と思って読めるのである)
僕は学部生の頃に読書に没頭し始めて、その時色々気付いたことの一つが「学びたい教授で大学を選ぶという発想がある」ことで(「電車で乗り換えなしで通える高校」の延長で大学を選んだ人間なので)、ちょうど理系から足を洗おうとしてもいたので、読んでいる本に惹かれることが書いてあってその著者が大学の教授なら「ここ行こうかな…」と思ったことが何度かあったのだけど、そう思わせるのも本の力の一つなのだろうけど仲正氏の著作はそれとはちょっと違う。
確かに氏に学ぶ(「氏」を「師」にしてしまう)のも非常に興味深いのだけど、そうではなく「今いるここで頑張ろう」と思わせてくれる力がそこにはあるのだ。
考えてみれば、読者に「この本を書いた人に学びたい」というより「この本に学びたい」と思わせることが本の本分ではないか(前者はある意味で「販促効果」だ)。
氏の本を読む時はいつも「元気が出る」とまず思うのだけど、それは自分が考えることが好きで、けど日常がその好みにいつも沿うてくれるわけではなく時に挫けそうになるけれど、氏の本は具体的な内容でもって「がんばれ」と思考を賦活してくれるからなのだった。
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併読というのは面白いものだが、やり方によっては疲れるものでもある。
ここ最近併読に疲れてるなあと思い、似たような本を選んでるからだと気付き、しかしそもそも自分が手元に置こうと思う本が既にある種の(というか自分の趣味の)傾向の顕れなのである程度は構造的な問題である。
とはいえ「併読に堪えるラインナップ」を目指してこその併読家なので、自分の選定に文句をいうことは生産的でなければ自虐でしかない。
時々それに(どれに?)目覚めることがあるがそれはよくて。
併読書の傾向が似通ってきたので気分転換を図ってみた。
といってここでいう傾向とはジャンルではなく著者のことで、つまり最近読んでいなかった人を選ぼうと思い、仲正昌樹の本(『ポストモダンの左旋回』)を手に取る。
(仲正氏は「ジャケ買い著者」としてソーシャルライブラリーにも名指しで著書をジャンル分けさせてもらっているのだけど、意外に蔵書が少ない。本屋で眺めて読みたくなる本は沢山あるのだがブックオフに滅多に並ばないせいかもしれない。新品で買えよという話なのだが)
読み始めて、元気が出てくる。
「ああ、いつも通りだ」と。
(そういえばしばらく氏の本から遠ざかっていたのはこれの前に読もうとした『思想の死相』が期待外れで読むのを中断してしまったからだ。その「期待」の中身はこの下に書かれるはず)
氏の本の内容もとても身になるし(「単なる正しさで終わらない正しさ」を地に足着けて論じているという印象がある。語り口はおいて、小浜逸郎や中島義道と(その思想的な立ち位置の?)似たところを感じる)、文体も好きなのだけど(思えば最初に出会った著書は院生の頃に読んだ『なぜ「話」は通じないのか』で、この本は氏の辛辣な文体が激しく発揮されていて、(たぶん「怖いもの見たさ」で)終始眉間に皺ををぐぐと寄せながらなんとか読み終えたものだけど(だって「パブロフのワン君」ですよ)、きっとその時の衝撃体験に開発されたに違いない)、そういった自分の好みを自分なりに書いてみようと今日読み始めた途中に思い付き、読み進める中でそういう視点でいくつか拾えるところがあった。
このようにネオ・マルクス主義の代表的理論家であった廣松でさえ、<古典としてのマルクス>、から何を新しい売りとして打ち出したらよいのか分からない、もどかしい状況になっていたのである。ここから”廣松の苦悶”は読み取れたとしても、このもどかしさの中から、新しいマルクス読解の可能性を見出す新人は極めて希であろう。
p.15-16
既に述べたように、マスコミに登場している「父親たち」のような象徴的なイメージ戦略を展開しても、彼[東浩紀]のエクリチュールを「自分自身の欲求に対応する思想として読みたい」と思う人がそれほど増えるわけではない(…)
p.29-30
思うに、「自分で考えたい」と思う人のための「実践的な教科書」のようなところがある。
僕が読んできた氏の本に偏りがあるのかもしれないが、現代思想の解説がとても上手くて、分類的興味を満たす整い方もしているけどそれより「現代思想を使えば(ツールという見方は今一つで「その中に身ごと飛び込む」ものなのかもしれないが)こんな考え方ができる」ことをしっかり示してくれていて、例えばローティやアーレントの解説本ではなく著書を読みたいと思わせてくれる。
(そう思わされた人にとっては、例えば上の抜粋で「新人」と書いてあるのを「お、俺のことか」と思って読めるのである)
僕は学部生の頃に読書に没頭し始めて、その時色々気付いたことの一つが「学びたい教授で大学を選ぶという発想がある」ことで(「電車で乗り換えなしで通える高校」の延長で大学を選んだ人間なので)、ちょうど理系から足を洗おうとしてもいたので、読んでいる本に惹かれることが書いてあってその著者が大学の教授なら「ここ行こうかな…」と思ったことが何度かあったのだけど、そう思わせるのも本の力の一つなのだろうけど仲正氏の著作はそれとはちょっと違う。
確かに氏に学ぶ(「氏」を「師」にしてしまう)のも非常に興味深いのだけど、そうではなく「今いるここで頑張ろう」と思わせてくれる力がそこにはあるのだ。
考えてみれば、読者に「この本を書いた人に学びたい」というより「この本に学びたい」と思わせることが本の本分ではないか(前者はある意味で「販促効果」だ)。
氏の本を読む時はいつも「元気が出る」とまず思うのだけど、それは自分が考えることが好きで、けど日常がその好みにいつも沿うてくれるわけではなく時に挫けそうになるけれど、氏の本は具体的な内容でもって「がんばれ」と思考を賦活してくれるからなのだった。
大事なのは、(集団ではなく)各自が、自分の「意識」と「存在」の間のねじれを”意識”し、緊張感を持って「闘い」続けることである。本書の最終章で述べるように、既に獲得した地盤を守り抜こうとする思想は、閉鎖的になって、いつか死滅していく。それこそが、「物象化」である。
p.34
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何をではなく、どう信頼するか。
まず導入として、「誰が」信じるかといえば、もちろん自分だ。
信じることで前向きになれたり活力が湧いたりするとして、それは誰か他人に信じてもらうことで前向きになれるわけではない。
もちろん他人の信頼なんかどうでもいいわけはなく、「自分を信頼してくれるその人」が自分にとって大切である、その人を信用しているからこそ、他人の信頼は自分の力となる。
「みんなから好かれるべきだ」と教条的に思っている人が、実際に信頼してくれる人の「数」に比例して自信が持てるというのならば、その人はよほど人を見る目があるか、よほど人を見る目がないかである。
というのは半分冗談で(今読んでるツチヤ教授のエッセイのせいだ)、半分以上本当のことを言うと、その人は理想的な慈善家か、全ての人を同じ色眼鏡(モノクロに見えるのかも)で見ているかだ。
ある人が自分を信頼してくれることで力をもらえるその人を信じるのは自分だ。
まどろっこしい言い方だが(上の話に対応させた)信じる主体は自分だということ。
その次だが、なにかを信じるにあたっては「拠り所」がいる。
それは理由と呼ばれるような、論理的に説明できるものである必要はない。
そもそもその拠り所は対象化して把握する必要もない(「信じるのに理由はいらない」とは要するにそういうことだが、それは対象化せずとも信頼の柱が確固として立つ意味もあれば、曖昧でよかったのに明示的に意識することで威厳が損なわれ効力が失われる意味もある)。
拠り所を対象化するにせよ心の奥底に仕舞っておくにせよ、それを支えとして信頼を確固とさせておくために両者に共通して必要なのは覚悟だ。
対象化の方針をとるなら(理由付けを手段とするなら)論理的整合性をとっておいたり(特定の感覚(身体性)をベースにするなら)感覚が鈍らないように普段から身体性を研ぎ澄ませておいたりしなければならない。
一方の対象化しない方針は先の対象化の後者と似ている(というか大部分が被っている)のだが、上辺の論理につられて自分の感覚が鈍らないようになる必要がある(簡単に考えればそのための方向性は2つあって、1つめは上に書いてあって、2つめは「論理性の軽視」だろう)。
「拠り所の対象化をするか否か」で分けたのは、その覚悟の持たせ方の実際として大きく異なると思われるからだ。
簡潔に言えば、社会(の多数派)と距離をおく場合は前者、社会の流れにそのまま従う場合は後者に対応する。
「多数派に与する」というのはそれだけでとても大きな信頼の拠り所となる。
文化の違いも多少はあろうが(付和雷同や日和見主義といった言葉はやはり日本人に馴染みがある)、それ以前にそれは人間が集団で社会を作り上げてからは欠かせない基本的な性質なのだと思う。
(もちろん「基本的」の意味は「その性質の欠けた者は人間に非ず」ということではない。集団の維持に必要な性質の一つというだけで、他にも「いつも集団とは違うことをする性質」(集団の生息環境が急変した時に活路が開けるように)も成員の一部には必要だろうし、それら諸々の比率は働きアリ(確か2:6:2だったか)を想像すればよくて、そこから「潜在的にはみんな同じ性質を持っていたとしても、それが発揮されるか否かは意志の問題ではなく周囲の状況に依存する」こともついでにわかる)
難しいのがもう一方である。
多数派と距離を置く人間は集団心理の効果のようなものを利用できないばかりでなく、その効果は反転して自分にのしかかってくるからだ。
赤信号をきちんと守るくらいなら構わないのだろうが、多数派と異なる行動をとった時に下手に目立ったり多数派に反省心を芽生えさせてしまったり(自分を全く疑わずに行動できるのも集団心理の効果だ)すると、その行動の是非に関わらず不審(時に不信)の目を向けられる。
実はこのフシンの目を真正面から受けて気にしないだけの鈍感さを身につけた人というのは上述の「信頼の拠り所を対象化しない方針」の方が対応しそうでもあるのだが、ここで書きたいのはそちらではなく、フシンの目を受け流したり跳ね返せるような(ロマサガ3で言えば「パリイ」と「切り落とし」の違いですね)別の拠り所を必要とする人についてである。
続く、はず…(だってまだ本題に入ってないし)
本記事にこのタグを選んだ意味も書きたい。
まず導入として、「誰が」信じるかといえば、もちろん自分だ。
信じることで前向きになれたり活力が湧いたりするとして、それは誰か他人に信じてもらうことで前向きになれるわけではない。
もちろん他人の信頼なんかどうでもいいわけはなく、「自分を信頼してくれるその人」が自分にとって大切である、その人を信用しているからこそ、他人の信頼は自分の力となる。
「みんなから好かれるべきだ」と教条的に思っている人が、実際に信頼してくれる人の「数」に比例して自信が持てるというのならば、その人はよほど人を見る目があるか、よほど人を見る目がないかである。
というのは半分冗談で(今読んでるツチヤ教授のエッセイのせいだ)、半分以上本当のことを言うと、その人は理想的な慈善家か、全ての人を同じ色眼鏡(モノクロに見えるのかも)で見ているかだ。
ある人が自分を信頼してくれることで力をもらえるその人を信じるのは自分だ。
まどろっこしい言い方だが(上の話に対応させた)信じる主体は自分だということ。
その次だが、なにかを信じるにあたっては「拠り所」がいる。
それは理由と呼ばれるような、論理的に説明できるものである必要はない。
そもそもその拠り所は対象化して把握する必要もない(「信じるのに理由はいらない」とは要するにそういうことだが、それは対象化せずとも信頼の柱が確固として立つ意味もあれば、曖昧でよかったのに明示的に意識することで威厳が損なわれ効力が失われる意味もある)。
拠り所を対象化するにせよ心の奥底に仕舞っておくにせよ、それを支えとして信頼を確固とさせておくために両者に共通して必要なのは覚悟だ。
対象化の方針をとるなら(理由付けを手段とするなら)論理的整合性をとっておいたり(特定の感覚(身体性)をベースにするなら)感覚が鈍らないように普段から身体性を研ぎ澄ませておいたりしなければならない。
一方の対象化しない方針は先の対象化の後者と似ている(というか大部分が被っている)のだが、上辺の論理につられて自分の感覚が鈍らないようになる必要がある(簡単に考えればそのための方向性は2つあって、1つめは上に書いてあって、2つめは「論理性の軽視」だろう)。
「拠り所の対象化をするか否か」で分けたのは、その覚悟の持たせ方の実際として大きく異なると思われるからだ。
簡潔に言えば、社会(の多数派)と距離をおく場合は前者、社会の流れにそのまま従う場合は後者に対応する。
「多数派に与する」というのはそれだけでとても大きな信頼の拠り所となる。
文化の違いも多少はあろうが(付和雷同や日和見主義といった言葉はやはり日本人に馴染みがある)、それ以前にそれは人間が集団で社会を作り上げてからは欠かせない基本的な性質なのだと思う。
(もちろん「基本的」の意味は「その性質の欠けた者は人間に非ず」ということではない。集団の維持に必要な性質の一つというだけで、他にも「いつも集団とは違うことをする性質」(集団の生息環境が急変した時に活路が開けるように)も成員の一部には必要だろうし、それら諸々の比率は働きアリ(確か2:6:2だったか)を想像すればよくて、そこから「潜在的にはみんな同じ性質を持っていたとしても、それが発揮されるか否かは意志の問題ではなく周囲の状況に依存する」こともついでにわかる)
難しいのがもう一方である。
多数派と距離を置く人間は集団心理の効果のようなものを利用できないばかりでなく、その効果は反転して自分にのしかかってくるからだ。
赤信号をきちんと守るくらいなら構わないのだろうが、多数派と異なる行動をとった時に下手に目立ったり多数派に反省心を芽生えさせてしまったり(自分を全く疑わずに行動できるのも集団心理の効果だ)すると、その行動の是非に関わらず不審(時に不信)の目を向けられる。
実はこのフシンの目を真正面から受けて気にしないだけの鈍感さを身につけた人というのは上述の「信頼の拠り所を対象化しない方針」の方が対応しそうでもあるのだが、ここで書きたいのはそちらではなく、フシンの目を受け流したり跳ね返せるような(ロマサガ3で言えば「パリイ」と「切り落とし」の違いですね)別の拠り所を必要とする人についてである。
続く、はず…(だってまだ本題に入ってないし)
本記事にこのタグを選んだ意味も書きたい。
以下も抜粋はすべて『橋本治という行き方 WHAT A WAY TO GO!』より。
「橋本治の本にはすべてが書いてある」と思って、そのすべてとは「終わりという始まり」とか「ゴールというスタート」と呼べるようなものなのだけど、ハシモト氏の文章に補足することなんて何もない(あるなんて口が裂けても言えない)が読めば無性になにかを書かなければならないという思いに駆られることになっており、そのなにかとは紛れもなく「自分のこと」なのであって、それは氏の本を読むことで今まで持っていなかった思考のツールが手に入ることに因っている。
読んで自分の何かが変わるのではなく、「自分の何かを変えられそうだという手応え」が得られる。
読んだ時にうっとりしたりわくわくしたりしてしまうのは、自分が「自分のことに関して」ハシモト氏のような思考を展開できたならば一体どんなことが出てくるのだろうという具体性抜きの予感の大きさだけでそうさせてしまうからであり、そしてそこから難儀なのは、当たり前だが「ハシモト氏のような思考」がすぐに使いこなせるわけがなくて先に感じた「うっとりやわくわく」に中身を与えることができなくてうずうずしてしまうことだ。
そのうずうずは不安定でもあって、ちょうど今みたいなミニバブルが割れるか割れないかみたいな社会状況と似ていなくもないがやっぱり全然関係はなくて、それは先は見えないが「プロセスの充実」の予感が霧中の一歩を踏み出させるという「知の目覚め」なのだと思う。
だから最初に言ったのは「あるフェーズが終わり」「別のフェーズが始まる」ということで、その相変化はすべて知の主体の内側で起こる。
「世界を変えるより自分を変えるのが手っ取り早い」とはこのことで、目標が必要なのも「達成して一皮むける」ためであり、人の皮とは結局のところタケノコの皮のようなもので剥かないまま放っておけば面は厚くなって外敵にも耐えられるが、内側の熟成は見えないしともすれば自分でそのことを忘れてしまうのだ(つまり人に「美味しい」と食べられて、おしまい)。
それはよくて。
恐らくハシモト氏の思考はある伝統を引き継いだ作法なのだと思う。
「作法を知らない型は間が抜けてしまう」という話を前にどこかで読んで、その文章で自分の下駄の歩き方が改善された経験もあって「その通りだ」と思って、このことは昔の日本文化に限らずあらゆることに言えるはずだとは思ったがしかし、自分の今の生活を構成する要素(その一番は「本を読む」こと)の作法なんてどこを参照すればよいのかとその時は少し途方に暮れた(「読書論」みたいな本は斎藤孝やら加藤周一やら何冊も読んでいて、それで自分の読み方に自信を持てたかといえばもちろんそんなことはなかった(から今こんなことを書いているのだが))。
読み方に自信を持てないことは「まあそんなもんだろう」と前から思ってはいるが、それはおいて「読書における作法」というのは読書の方法とか読書論とはなにか違うようで、しかしハシモト氏の思考についていくうちに「橋本治は"作法そのもの"なのではないか」と思えてきて(だってもう『橋本治という行き方』というタイトルがまさにそうだ)、すると「〜の作法」なんて限定せずにハシモト氏の思考を自分のものにできれば(←しかし大胆不敵もいいところだ)あらゆる作法が身につく…というのはどう考えてもウソで、しかし「作法とはなにか」が体得できることは確かなはずで、それは「あらゆる作法を身につけるためのスタート地点には立てる」ということなのだ。
結局のところ、日本に必要なのはゴールではなくスタートなのだろう。
(もちろん「ぜんぶリセットすりゃスタートに立てる」という発想は大間違い)
私は、教養というものを標準語と同じような意味合いをもったものだと理解している。自分の生活圏だけを基盤にして成り立っている方言は、生活圏の違う人間との意思疎通を不可能あるいは困難にする。だから、狭い生活圏を超えた、広い領域でのコミュニケーションを成り立たせるための共通語──標準語を必要とする。そして標準語は、個々の生活圏に特有の諸々を捨象──つまり切り捨ててしまうから、方言から標準語に入った者は、そこから再び自分の独自性を表すための方言を作り出す方向へ進まなければならない。方言と標準語は両極になって、人はその間をぐるぐると螺旋状に回り続けるのだと思う。
(…)
教養を捨てることは、自分の現在だけを成り立たせる興味本位の「雑」だけでよしとして、人としての思考のフォーマットを捨てることになる。そして、「雑」を吸収しえない教養だけでよしとしてしまったら、そこでは個なる人間の「生きることに関する実感」が捨てられてしまう。方言と標準語がそうであるのと同じように、「雑」と教養もまた、互いに還流してぐるぐると回るものだと思う。(…)教養というシステムを回復させない限り、情報という中途半端な知識に振り回される人間達は、孤立したままで終わるだろう──そういう逆転現象は、既に起こってしまっているのだと思う。
p.92-93(標準語としての教養)
私は、実のところ「私自身の方言」しか喋れないが、自分の外にある「標準語」も、かなりの程度で喋れると思う。それは、私が「標準語をマスターしよう」と思ったからではなくて、自分の外にある、「標準語」という言語を眺めながら、「あれが共有性を持つことによって”標準語”と言われるものであるのなら、その言語の中にあって共有性を成り立たせるものはなんだ?」と考えて、「自分自身の方言」を徹底的に分析した結果である。だから私は、「雑を突き抜ければ一般教養に届く」と思っている。そして、自分に可能な方法はそれしかないと思っている。
(…)
「教養」を「教養」たらしめる構造を理解すれば、「雑」として放置されているものも「教養」になる──大学の専門課程で、「何を書いても結構ですが、私達に分かるように書いて下さい」と教授に言われた時、私はその原則を理解した。それで正しいと思っているし、日本に足りないのは、その考え方だと思っている。
p.96-97(「キィワード」というキィワード)
「橋本治の本にはすべてが書いてある」と思って、そのすべてとは「終わりという始まり」とか「ゴールというスタート」と呼べるようなものなのだけど、ハシモト氏の文章に補足することなんて何もない(あるなんて口が裂けても言えない)が読めば無性になにかを書かなければならないという思いに駆られることになっており、そのなにかとは紛れもなく「自分のこと」なのであって、それは氏の本を読むことで今まで持っていなかった思考のツールが手に入ることに因っている。
読んで自分の何かが変わるのではなく、「自分の何かを変えられそうだという手応え」が得られる。
読んだ時にうっとりしたりわくわくしたりしてしまうのは、自分が「自分のことに関して」ハシモト氏のような思考を展開できたならば一体どんなことが出てくるのだろうという具体性抜きの予感の大きさだけでそうさせてしまうからであり、そしてそこから難儀なのは、当たり前だが「ハシモト氏のような思考」がすぐに使いこなせるわけがなくて先に感じた「うっとりやわくわく」に中身を与えることができなくてうずうずしてしまうことだ。
そのうずうずは不安定でもあって、ちょうど今みたいなミニバブルが割れるか割れないかみたいな社会状況と似ていなくもないがやっぱり全然関係はなくて、それは先は見えないが「プロセスの充実」の予感が霧中の一歩を踏み出させるという「知の目覚め」なのだと思う。
だから最初に言ったのは「あるフェーズが終わり」「別のフェーズが始まる」ということで、その相変化はすべて知の主体の内側で起こる。
「世界を変えるより自分を変えるのが手っ取り早い」とはこのことで、目標が必要なのも「達成して一皮むける」ためであり、人の皮とは結局のところタケノコの皮のようなもので剥かないまま放っておけば面は厚くなって外敵にも耐えられるが、内側の熟成は見えないしともすれば自分でそのことを忘れてしまうのだ(つまり人に「美味しい」と食べられて、おしまい)。
それはよくて。
恐らくハシモト氏の思考はある伝統を引き継いだ作法なのだと思う。
「作法を知らない型は間が抜けてしまう」という話を前にどこかで読んで、その文章で自分の下駄の歩き方が改善された経験もあって「その通りだ」と思って、このことは昔の日本文化に限らずあらゆることに言えるはずだとは思ったがしかし、自分の今の生活を構成する要素(その一番は「本を読む」こと)の作法なんてどこを参照すればよいのかとその時は少し途方に暮れた(「読書論」みたいな本は斎藤孝やら加藤周一やら何冊も読んでいて、それで自分の読み方に自信を持てたかといえばもちろんそんなことはなかった(から今こんなことを書いているのだが))。
読み方に自信を持てないことは「まあそんなもんだろう」と前から思ってはいるが、それはおいて「読書における作法」というのは読書の方法とか読書論とはなにか違うようで、しかしハシモト氏の思考についていくうちに「橋本治は"作法そのもの"なのではないか」と思えてきて(だってもう『橋本治という行き方』というタイトルがまさにそうだ)、すると「〜の作法」なんて限定せずにハシモト氏の思考を自分のものにできれば(←しかし大胆不敵もいいところだ)あらゆる作法が身につく…というのはどう考えてもウソで、しかし「作法とはなにか」が体得できることは確かなはずで、それは「あらゆる作法を身につけるためのスタート地点には立てる」ということなのだ。
結局のところ、日本に必要なのはゴールではなくスタートなのだろう。
(もちろん「ぜんぶリセットすりゃスタートに立てる」という発想は大間違い)
もしかしたら私は、自分のすることすべてを、「古典芸能」のように扱っているのかもしれない。「自分としてはどうやるのか?」という問いは、「自分のやろうとしているものは、本来的にはどういうものなのか?」という問いとシンクロしていて、「自分のやろうとしているものの本来性」は、常に上位に来る。自分のやらんとすることの「本来形」が見えなかったら、「やろう」とも「やれる」とも思わない。私は、「自分」よりも「自分のやるべき対象」を信じているのである。
「自分のやるべきこと」は、「自分」なんかよりもずっと寿命が長い。昨日今日のポッと出である自分の主張なんかよりも、自分の前に存在しているものの「あり方」を尊重していた方が、ずっと確実である。だから私は、「自分」よりも「自分の外にある本来」を信用する。
p.27-28(「自分」を消す)
私の知識のすべては、カテゴリー上は「雑」というところに属して、「雑なもの」しか私の頭には入らない。「雑なら入る」と思うから、教科書もテキトーに裁断されて「雑の一種」と化された上で、「入りそうな分だけは入る」で生きて来た。おかげで、知識間の結合がゆるくて、その結果「どうにでもなる」というメリットを生んだ。全然知らなくても、別に困らない──なぜならば、全ての知識間の結合がゆるくて隙間だらけだから、「全然知らない」という知識の欠落も、「よくあるゆるい隙間」の一種と解釈されて、別に困らない。「別に困らない」というのは偉大なことで、困らないものは困らない──そして、困らないでいると、「雑な知識」が入って来ることを妨げない。「雑な知識」があって、ゆるい隙間もいっぱいあると、「これとこれを結び合わせるとこういう考えが生まれるな」ということになって、いくらでも思考の構築が出来る──もちろんそれは「自分に必要な」の限定つきではあるけれど。
橋本治『橋本治という行き方 WHAT A WAY TO GO!』p.76-77 「アカデミズムを考える」
これは全部ものすごいことを言っていて、しかしハシモト氏にとってこれが当たり前だという前提は最後にある「自分に必要な(こと)」が自身にとって明確であることだ。
この文章だけを見るとこの「自分の必要」に他人に属する事柄が一切含まれていないように見える。
いろいろな氏の本の内容を思い返すと「身近な他人」がハシモト氏に決定的な影響を与える、とか他者の存在をして氏を衝き動かすとかいったことがないかなという印象が最初に浮かんで、でもそんなはずはなくて商家の息子でいた時の近所のおじさんおばさんやら学生の頃の担当教授やら作家になってからの助手をはじめ(身近ではないのだが)歴史上の人物である小林秀雄や三島由紀夫など色んな人がいるはずで、しかし彼らの話を社会批評のフリに使うところから著作を手当たり次第読み込んで本のタイトルにその著者名を冠してしまうような一心不乱まで幅広いグラデーションがあるにせよ氏が他者(本人なりその思想なり)と関わって綴られる文章は徹底的に私的でありながら普遍性に溢れている((人類)史的?)。
ひょっとして氏にとっての自分とは「世界」のことなのではないか?
「地球規模のお節介」とでも言えそうな。
それがぶっ飛んでいるように見えるのは現代では個人主義的価値観がデフォルトだからで、「意識の始まり」には氏の考え方が明らかに近く(という発想はさっき読んだウチダ氏ブログ↓からの連想)、考えを深めていけば(あるいはどこまでも身体に正直でいて思考をその正直な身体に沿わせていけば)違う経路を辿って同じ地点に至るのかもしれない(ここで「同じ」と感じたのがハルキ氏の文章↓)。
経済活動の起源にあるのは、沈黙交易であるが、これは「私は見知らぬ人から贈与を受けた」という自覚から始まる。(…)
たまたまそのへんに転がっていたものを「自分あての贈り物」と「勘違い」した人間の出現が経済活動の「最初の一撃」だったからである。
自分あての贈り物に対して反対給付の義務を感じたことによって親族も、言語も、経済活動も、すべては始まった。
だから、世界の起源にあるのは、厳密に言えば「贈与」ではなく、「贈与されたので反対給付しなければならない」という「負債」の感覚なのである。
内田樹の研究室 2010.04.12 「政治と経済と武道について語る終末」
(…)でも僕にはうまく表現できないのだけれど、どんなに遠くまで行っても、いや遠くに行けば行くほど、僕らがそこで発見するものはただの僕ら自身でしかないんじゃないかという気がする。狼も、臼砲弾も、停電の薄暗闇の中の戦争博物館も、結局はみんな僕自身の一部でしかなかったのではないか、それらは僕によって発見されるのを、そこでじっと待っていただけなのではないだろうか。
村上春樹『辺境 近境』p.190 「ノモンハンの鉄の墓場」
高粘性味噌汁。
急がば回れで、まずスーパーの話をしたい。
今月始めに近所のTESCOが閉店した。
毎週歩いている「小町緑地〜愛名緑地(高松山)」コースの帰りにあったスーパーで贔屓にしていた。
直輸入のブランドが他にはなくて、シリアルとコーヒー(粉)とドレッシングは好んで買っていたが特徴はそれくらいで、店舗は少し小さく近所の他のスーパーと比べると通常の品揃えにおいて見劣りはしていた。
レジが4つ(うち2つは店員のいない自動レジ)というのも規模の小ささを示していて、終末の夜の混み方もフードワンやヨークマートと比べれば閑古鳥レベルであって、僕は人混みが根本的に嫌いなので居心地はよかったのだが閉店と聞いてむべなるかなと思ってしまった。
それで普段の買い物は4日周期で行っていて、買い忘れや不定期の消耗品を要する時に散歩帰りのTESCOを利用していたのだけどそれができなくなったので、ちょっと考えて、散歩コースの帰り道を若干変更すれば業務スーパーに寄れることを思い付いた。
長谷って遊ぶところがないけど(パチンコ店をそれに加えていいのかもしれないがどちらにしろ僕には関係ない)、買い物環境は非常に充実しているのだなあと4年目にして気付いた。
もちろん近所にスーパーが3つも4つも必要かと言われれば首を縦には振れないが、選べる数があれば自炊生活は充実するのである。
で、そのちょっとした転機は機会主義者の生活を幾らか余分に弾ませるもので、散歩コースそのものを変更すれば(具体的には愛名緑地を、高松山で下って森の里入り口に抜けるのではなく、そのまま森の里近くまで抜けてしまう)三和スーパーにもいけるなと思い付き、この間お試しで歩いてみた。
もちろんいつもの通りの無計画なので、スーパーに着いてから「帰りはバスやな…」と気付く(普通に歩いて30分以上かかる道を両手に買い物袋提げて歩こうとは思わない)。
駅まで出るのにいつも往復歩く身としてはたかだか買い物ごときで(何が「たかだか」なんだか)バスを使うというのが気に食わなくて、これはあまり日常に定着はしなさそうではあるが、それとは別にいつもと違うスーパーに来たので冒険心が湧いてきて、いつもは買わないものを買う。
それが長芋(安かった)とオクラ(ホマ?)で、購入を決めてから味噌汁の具の具体的な仕込みを考え始めたのでいつも一度に6日分作っていたのを8日分に増やして(というのも冷凍用のプラケースが1つ220mlとそんなに大きくなくて、それにいつも牛蒡1/2本、茄子2本、舞茸(たまに椎茸とか榎茸とか)1パック、玉葱1つを切ってギュウギュウに詰め込んでいるのだ)、そのnew具が今夜お披露目だったのだけど素晴らしく美味かった。
いつも煮過ぎるほど煮込んでいるので長芋なんて跡形無く完全に汁と一体化していたが、それが旨味と共に喉が喜ぶ粘り気を生み出していて(やっぱり長芋は高級食材なんだ)、そしてオクラは問答無用で旨かった。
他の事情(いろいろあるんです)もうまく合えば、彼らも成員に迎えるとしよう。
急がば回れで、まずスーパーの話をしたい。
今月始めに近所のTESCOが閉店した。
毎週歩いている「小町緑地〜愛名緑地(高松山)」コースの帰りにあったスーパーで贔屓にしていた。
直輸入のブランドが他にはなくて、シリアルとコーヒー(粉)とドレッシングは好んで買っていたが特徴はそれくらいで、店舗は少し小さく近所の他のスーパーと比べると通常の品揃えにおいて見劣りはしていた。
レジが4つ(うち2つは店員のいない自動レジ)というのも規模の小ささを示していて、終末の夜の混み方もフードワンやヨークマートと比べれば閑古鳥レベルであって、僕は人混みが根本的に嫌いなので居心地はよかったのだが閉店と聞いてむべなるかなと思ってしまった。
それで普段の買い物は4日周期で行っていて、買い忘れや不定期の消耗品を要する時に散歩帰りのTESCOを利用していたのだけどそれができなくなったので、ちょっと考えて、散歩コースの帰り道を若干変更すれば業務スーパーに寄れることを思い付いた。
長谷って遊ぶところがないけど(パチンコ店をそれに加えていいのかもしれないがどちらにしろ僕には関係ない)、買い物環境は非常に充実しているのだなあと4年目にして気付いた。
もちろん近所にスーパーが3つも4つも必要かと言われれば首を縦には振れないが、選べる数があれば自炊生活は充実するのである。
で、そのちょっとした転機は機会主義者の生活を幾らか余分に弾ませるもので、散歩コースそのものを変更すれば(具体的には愛名緑地を、高松山で下って森の里入り口に抜けるのではなく、そのまま森の里近くまで抜けてしまう)三和スーパーにもいけるなと思い付き、この間お試しで歩いてみた。
もちろんいつもの通りの無計画なので、スーパーに着いてから「帰りはバスやな…」と気付く(普通に歩いて30分以上かかる道を両手に買い物袋提げて歩こうとは思わない)。
駅まで出るのにいつも往復歩く身としてはたかだか買い物ごときで(何が「たかだか」なんだか)バスを使うというのが気に食わなくて、これはあまり日常に定着はしなさそうではあるが、それとは別にいつもと違うスーパーに来たので冒険心が湧いてきて、いつもは買わないものを買う。
それが長芋(安かった)とオクラ(ホマ?)で、購入を決めてから味噌汁の具の具体的な仕込みを考え始めたのでいつも一度に6日分作っていたのを8日分に増やして(というのも冷凍用のプラケースが1つ220mlとそんなに大きくなくて、それにいつも牛蒡1/2本、茄子2本、舞茸(たまに椎茸とか榎茸とか)1パック、玉葱1つを切ってギュウギュウに詰め込んでいるのだ)、そのnew具が今夜お披露目だったのだけど素晴らしく美味かった。
いつも煮過ぎるほど煮込んでいるので長芋なんて跡形無く完全に汁と一体化していたが、それが旨味と共に喉が喜ぶ粘り気を生み出していて(やっぱり長芋は高級食材なんだ)、そしてオクラは問答無用で旨かった。
他の事情(いろいろあるんです)もうまく合えば、彼らも成員に迎えるとしよう。
水の話の続き。
前回は少しインスピレーションが湧いたので勢いに任せて書いてみた。
全てが頭の中の話、というわけでもない。
「水」を媒介ワードとして、日常の場面のいくつかが繋がる。
田んぼが広がる視界の開けた道を歩いていて、あたりを見回して、「なにかに覆われている」と感じたことがある。
遠くの山(大山のことだが)がはっきり見える時とかすんで見える時があって、後者の場合は天気が悪かったり、晴れていても黄砂だったり光化学スモッグ(前に一度注意報が出た)だったりするのだが、そういう特別な場合の時ではない。
その時は山が少しだけかすんで見えていたのだと思う(十全に視界良好の時に空気中の粒子に思い至ることはないだろうから)が、きっと湿度が高かった日のことだ。
話はそれるけれど、会社が寮から近いので天気予報には関心が低くて、そのかわりでもないのだが「降るか降らないか」を匂いで判断しようとしている。
もちろん空模様も考慮に入れてはいて、というか朝の湿気の状態で夕方の降雨の予測ができるかどうかも不明だがそこは気分の話で、天気予報は雨って書いてるけどあんまり湿っぽくないから大丈夫だろうと傘を置いて行ってじっさい夜まで降らなかったことはある。
その逆がないのは「自前の天気予報」を楽しむよりも手ぶらで通勤する方が優先度が高いからで(実は必要ない限り鞄は持たないのである。傍から見て散歩と変わらない姿で、じっさい空を見上げつ山を眺めつと前を見て歩いていない所がもう散歩でしかなくて、始業時間ギリギリでなければ左に曲がるところを右に曲がって会社に背を向けて悠々と歩き続けるなんてこともあり得ない話ではない。そこのところを勘案して敢えて通勤時間に余裕をつくらないでいるのだろうと自己分析している)、「予報が晴れなら晴れるだろう」と信頼の仕方がテキトーで信頼になってなくて、まあ申し訳ないとは思わない。
話を戻して、視界が多少かすんでいる日に外を歩いていて、空気中の粒子を感じたのだった。
その粒子が水なのだと言いたかっただけなのだが…
この話自体はここでおしまいで、けれどさっきこの経験を思い出して閃いたことがあったのだった。
前に書いた詩にもあるのだが(これを書いた時は想像に留まっていた)、もちろんメタファーとしてだが、僕は溶けようとしているのかもしれない。
ある空間に、違和感なく、溶け込もうとしている。
この「ある空間」には人がいることもあるのだけど、「違和感なく」という意味は空間内の人々の主観と関係はない。
僕は小さい頃から自然との一体化を「実践」することに関心があって、けれどそれは公園の木のそばに立って目を瞑って「自分の足が地面に根を張り土の養分を吸い上げて…」とイメージする程度のことで、それは猫の目をじーっと見て「猫と会話する」と思い込むことと大差はない(が、小学生の頃下校時にこの「猫との会話」を5分だか10分だかやった後、猫が家の玄関までついてきて、ドアを開けたら中にひょいっと入った(そして母はブチ切れた)経験をした時は本当に会話ができるのだと思った)。
おそらくそのイメージの延長なのだけど、人間も「自然」であって、人々の間にあって人の意識とは別の次元での「違和感のなさ」が、森に溶け込む一本の木の自然さと同じような佇まいがあり得るのではないか。
もちろんこれを昔と同じように「実践」しているなどという意識はなく、このような発想が人との触れ合いにおける怠慢の正当化につながりかねないとも思いはするのだけれど、「そのような怠慢ではなくて…」と自覚がありつつも遂行的KYを止めることができない時に、その自分の感覚を言葉にしようとすると一つの候補になるのかもしれない。
しかしこのような思いがいつ(それはものすごく先のことになるのだろう)、何に(本当に、何に?)どのような形での結実を見せるのか、到底想像が及ばない。
…「溶け込む」の話が昔話に引きずられて変な方向に進んでしまった。
元々は「自我を薄めかつ充実させる」みたいな話をしようとしていた。
気が向けばそっちの話も…そして最初に「幾つか」と言った「水」の話も。
あ、一応書いておくと、前回の詩は今読んでいる『海に住む少女』(シュペルヴィエル)の影響を受けています、確実に。
前回は少しインスピレーションが湧いたので勢いに任せて書いてみた。
全てが頭の中の話、というわけでもない。
「水」を媒介ワードとして、日常の場面のいくつかが繋がる。
田んぼが広がる視界の開けた道を歩いていて、あたりを見回して、「なにかに覆われている」と感じたことがある。
遠くの山(大山のことだが)がはっきり見える時とかすんで見える時があって、後者の場合は天気が悪かったり、晴れていても黄砂だったり光化学スモッグ(前に一度注意報が出た)だったりするのだが、そういう特別な場合の時ではない。
その時は山が少しだけかすんで見えていたのだと思う(十全に視界良好の時に空気中の粒子に思い至ることはないだろうから)が、きっと湿度が高かった日のことだ。
話はそれるけれど、会社が寮から近いので天気予報には関心が低くて、そのかわりでもないのだが「降るか降らないか」を匂いで判断しようとしている。
もちろん空模様も考慮に入れてはいて、というか朝の湿気の状態で夕方の降雨の予測ができるかどうかも不明だがそこは気分の話で、天気予報は雨って書いてるけどあんまり湿っぽくないから大丈夫だろうと傘を置いて行ってじっさい夜まで降らなかったことはある。
その逆がないのは「自前の天気予報」を楽しむよりも手ぶらで通勤する方が優先度が高いからで(実は必要ない限り鞄は持たないのである。傍から見て散歩と変わらない姿で、じっさい空を見上げつ山を眺めつと前を見て歩いていない所がもう散歩でしかなくて、始業時間ギリギリでなければ左に曲がるところを右に曲がって会社に背を向けて悠々と歩き続けるなんてこともあり得ない話ではない。そこのところを勘案して敢えて通勤時間に余裕をつくらないでいるのだろうと自己分析している)、「予報が晴れなら晴れるだろう」と信頼の仕方がテキトーで信頼になってなくて、まあ申し訳ないとは思わない。
話を戻して、視界が多少かすんでいる日に外を歩いていて、空気中の粒子を感じたのだった。
その粒子が水なのだと言いたかっただけなのだが…
この話自体はここでおしまいで、けれどさっきこの経験を思い出して閃いたことがあったのだった。
前に書いた詩にもあるのだが(これを書いた時は想像に留まっていた)、もちろんメタファーとしてだが、僕は溶けようとしているのかもしれない。
ある空間に、違和感なく、溶け込もうとしている。
この「ある空間」には人がいることもあるのだけど、「違和感なく」という意味は空間内の人々の主観と関係はない。
僕は小さい頃から自然との一体化を「実践」することに関心があって、けれどそれは公園の木のそばに立って目を瞑って「自分の足が地面に根を張り土の養分を吸い上げて…」とイメージする程度のことで、それは猫の目をじーっと見て「猫と会話する」と思い込むことと大差はない(が、小学生の頃下校時にこの「猫との会話」を5分だか10分だかやった後、猫が家の玄関までついてきて、ドアを開けたら中にひょいっと入った(そして母はブチ切れた)経験をした時は本当に会話ができるのだと思った)。
おそらくそのイメージの延長なのだけど、人間も「自然」であって、人々の間にあって人の意識とは別の次元での「違和感のなさ」が、森に溶け込む一本の木の自然さと同じような佇まいがあり得るのではないか。
もちろんこれを昔と同じように「実践」しているなどという意識はなく、このような発想が人との触れ合いにおける怠慢の正当化につながりかねないとも思いはするのだけれど、「そのような怠慢ではなくて…」と自覚がありつつも遂行的KYを止めることができない時に、その自分の感覚を言葉にしようとすると一つの候補になるのかもしれない。
しかしこのような思いがいつ(それはものすごく先のことになるのだろう)、何に(本当に、何に?)どのような形での結実を見せるのか、到底想像が及ばない。
…「溶け込む」の話が昔話に引きずられて変な方向に進んでしまった。
元々は「自我を薄めかつ充実させる」みたいな話をしようとしていた。
気が向けばそっちの話も…そして最初に「幾つか」と言った「水」の話も。
あ、一応書いておくと、前回の詩は今読んでいる『海に住む少女』(シュペルヴィエル)の影響を受けています、確実に。
四季と塩飴。
単調な生活の役得は、自分の内側の変化に敏感になれることである。
この「単調」とは、毎日同じ事をする、ということだ。
内田樹に感化されて形成された幾つかの価値観のうち最たるものがこれで、面倒臭がりには使い勝手のよい生き方だと思うのだけどこれは効率主義の語法であって、自信をもって言えば「もともとこの生き方が合っていた」。
そう断言してしまえば傍証はいくらでも浮かんでくるものだが昔話をしたいわけではない(ついさっき西部邁『サンチョ・キホーテの旅』を読み終えた所で、また文章表現がいつもと変わりそうである。氏の思想にはとても共感するところがあり、偶然にも今日の昼休みに読んだミシマガジンの(平川克美との)対談記事で中島岳志が「若い頃に西部氏の思想に影響を受けた」と言っていて、恐らくこれも同じ部分を指していて久しぶりにシンクロニシティを感じた)。
「単調な生活」という言葉にはふつう「飽きる」と続くものでネガティブな印象が定着していて、「単調で充実した生活」が矛盾めいて聞こえるのがちょっと哀しい現代社会といったところではある。
それはよくて、ネガティブなニュアンスで「単調」と言った時、もちろんその単調さは愛されておらず、個性があるとも思われていない。
その把握が自分の生活に何らかの躍動や覇気をもたらすこともあるだろうし、それはそれでいいと思うけれど、「単調な生活」は身体の各細胞の日々の活動が単調であるのと同じように基礎的であるはずで、自分の生活の基礎を愛せないというのは生物として(と言うのは意識を持つ人間としてはむしろその方が自然であるかもしれないからだが)安定していないように思える。
ただ意識が生物性というか原始性?を超越する志向性を潜在的に持っているとしてもそれさえ叶えばよいわけではなくて、人は人間としてだけでなく生物としても生きてこそ人なのだ。
何が言いたいって「単調な生活」が指す具体的な生活要素は人間的であるよりは生物的であって、そのことを意識がきちんと捉えておくことで意識の基盤となる身体が安定する。
で、その単調さの個性(他の人と違うかどうかは関係なく、まず自分はこうだということ。「ナンバーワンでなくオンリーワン」も同じことなのだけど、この表現が関係筋で評判が良くないのはその個性の把握や記述が全くなおざりにされているからだろう)を書き出すことの意味を、最初は内容だけ書こうと思ったのに前段を準備するうち問い始めてしまったのだけどここでおしまいにして本題をば。
詳細はおいて、僕は塩飴が好きである。
原料は、砂糖と塩。
「伯方の塩」を使った塩飴で、分量の違いでパッケージが赤と青の二種類ある。
食べる時はいつも夕食後、読書中かブログ執筆中に一粒か二粒を食べている。
これを食べるか食べないかの気分を左右するものの話なのだけど、まず最初に気付いたのは3日ほど前に食べた塩飴の塩っけがやけに「身体に染み込む」ようだったこと。
そういえばその日に食べた味噌汁には塩を入れていないのだった。
味噌汁に塩を入れるかどうかは大体がその日の気分(ここ数日の味噌汁の出来が左右していると思われる)で決まるもので、砂糖は大体入れるけど塩は入れない日の方が多く、しかし気温が暖かくなってから塩を入れなかったのは3日前が初めてだったように思う。
つまり暖かくなってから汗をかくようになって、すると体が必要とする塩分が増えるわけで、塩飴が美味しく感じられたのはそれだけ体が塩を欲していたからだ、と。
そう考えると、今までなめてきた塩飴が「やけに甘ったるい」とか逆に「体が喜ぶ甘さを感じる」こともあったのかもしれない。
そして塩飴を特に食べたいと思わない夜は塩分も糖分も既に足りているのかもしれない。
毎日同じだけ食べることは惰性にもなりうるはずで、それはきっと食べていることを脳が主に意識している状態で(もちろんそれで「毎日美味しい」と感じることもあるだろう)、そうではなく「体の必要に応じて食べる」ことができていればまた違う感じ方ができるのだと思う。
「単調な生活」のその単調さを愛することのひとつは、後者のような「違う感じ方」を日々実践する(できている)ことなのかなと思う。
これを「実践する」などという表現が既に気負っていて、まあ過渡期だろうという解釈もできるけれど、惰性に堕ちない意識の維持を考えているのかもしれない。
この「考える」主体はもしかして僕ではなく、言葉なんじゃないかと思う。
ええと四季の話が…とりあえず通常の意味です。
博士のことではありません。
あ、「β」読みたいな。
単調な生活の役得は、自分の内側の変化に敏感になれることである。
この「単調」とは、毎日同じ事をする、ということだ。
内田樹に感化されて形成された幾つかの価値観のうち最たるものがこれで、面倒臭がりには使い勝手のよい生き方だと思うのだけどこれは効率主義の語法であって、自信をもって言えば「もともとこの生き方が合っていた」。
そう断言してしまえば傍証はいくらでも浮かんでくるものだが昔話をしたいわけではない(ついさっき西部邁『サンチョ・キホーテの旅』を読み終えた所で、また文章表現がいつもと変わりそうである。氏の思想にはとても共感するところがあり、偶然にも今日の昼休みに読んだミシマガジンの(平川克美との)対談記事で中島岳志が「若い頃に西部氏の思想に影響を受けた」と言っていて、恐らくこれも同じ部分を指していて久しぶりにシンクロニシティを感じた)。
「単調な生活」という言葉にはふつう「飽きる」と続くものでネガティブな印象が定着していて、「単調で充実した生活」が矛盾めいて聞こえるのがちょっと哀しい現代社会といったところではある。
それはよくて、ネガティブなニュアンスで「単調」と言った時、もちろんその単調さは愛されておらず、個性があるとも思われていない。
その把握が自分の生活に何らかの躍動や覇気をもたらすこともあるだろうし、それはそれでいいと思うけれど、「単調な生活」は身体の各細胞の日々の活動が単調であるのと同じように基礎的であるはずで、自分の生活の基礎を愛せないというのは生物として(と言うのは意識を持つ人間としてはむしろその方が自然であるかもしれないからだが)安定していないように思える。
ただ意識が生物性というか原始性?を超越する志向性を潜在的に持っているとしてもそれさえ叶えばよいわけではなくて、人は人間としてだけでなく生物としても生きてこそ人なのだ。
何が言いたいって「単調な生活」が指す具体的な生活要素は人間的であるよりは生物的であって、そのことを意識がきちんと捉えておくことで意識の基盤となる身体が安定する。
で、その単調さの個性(他の人と違うかどうかは関係なく、まず自分はこうだということ。「ナンバーワンでなくオンリーワン」も同じことなのだけど、この表現が関係筋で評判が良くないのはその個性の把握や記述が全くなおざりにされているからだろう)を書き出すことの意味を、最初は内容だけ書こうと思ったのに前段を準備するうち問い始めてしまったのだけどここでおしまいにして本題をば。
詳細はおいて、僕は塩飴が好きである。
原料は、砂糖と塩。
「伯方の塩」を使った塩飴で、分量の違いでパッケージが赤と青の二種類ある。
食べる時はいつも夕食後、読書中かブログ執筆中に一粒か二粒を食べている。
これを食べるか食べないかの気分を左右するものの話なのだけど、まず最初に気付いたのは3日ほど前に食べた塩飴の塩っけがやけに「身体に染み込む」ようだったこと。
そういえばその日に食べた味噌汁には塩を入れていないのだった。
味噌汁に塩を入れるかどうかは大体がその日の気分(ここ数日の味噌汁の出来が左右していると思われる)で決まるもので、砂糖は大体入れるけど塩は入れない日の方が多く、しかし気温が暖かくなってから塩を入れなかったのは3日前が初めてだったように思う。
つまり暖かくなってから汗をかくようになって、すると体が必要とする塩分が増えるわけで、塩飴が美味しく感じられたのはそれだけ体が塩を欲していたからだ、と。
そう考えると、今までなめてきた塩飴が「やけに甘ったるい」とか逆に「体が喜ぶ甘さを感じる」こともあったのかもしれない。
そして塩飴を特に食べたいと思わない夜は塩分も糖分も既に足りているのかもしれない。
毎日同じだけ食べることは惰性にもなりうるはずで、それはきっと食べていることを脳が主に意識している状態で(もちろんそれで「毎日美味しい」と感じることもあるだろう)、そうではなく「体の必要に応じて食べる」ことができていればまた違う感じ方ができるのだと思う。
「単調な生活」のその単調さを愛することのひとつは、後者のような「違う感じ方」を日々実践する(できている)ことなのかなと思う。
これを「実践する」などという表現が既に気負っていて、まあ過渡期だろうという解釈もできるけれど、惰性に堕ちない意識の維持を考えているのかもしれない。
この「考える」主体はもしかして僕ではなく、言葉なんじゃないかと思う。
ええと四季の話が…とりあえず通常の意味です。
博士のことではありません。
あ、「β」読みたいな。
先取り未来。
「えー、このたびはこのような私事(わたくしごと)のためにお集まり頂き、誠にありがとうございます。本来人前で長々ととりとめのない話をするような人間ではありませんが、このような会に自ら足をお運び頂いた身様は十分に覚悟ができているとこちらで一方的に判断させて頂きまして、まあ右から左にするっと、掴まえる気の全くない流し素麺の如くに聞き流して頂けますと幸いです。さて、やはり事の発端といいますか、どのような成り行きがあって今ここに二人が並んでいるかということに皆様もしかすると興味がおありかもしれません。ご多分にもれず当方も同じ気持ちでございまして、まあ隣の人はどう思っているか知りませんが(苦笑)、当方の口から出任せに当方の耳が興味津々ということで、無責任にも語り手とオーディエンスの一人二役をやらせて頂こうという算段であります。分かりやすく喩えれば田子作の身の上話に聞き入るいっこく堂、うしくんとかえるくんの応酬を無表情で見つめるパペットマペット(の中の人)、といったところでしょうか。一人二役と言っても彼らの面白さを見れば一足す一は二より大きいという事実は明らかでして、しかしそれが半分の事実でしかないのも本当のことでありまして、要するに算数でないところでは一足す一の答は二より小さくもなるすなわち不定ということで、この値を定めるのは皆様の暖かいお耳にかかっているわけであります。さて、そろそろ本題に入りますが…」
「太え(不定)野郎だぜ!」
「えー、このたびはこのような私事(わたくしごと)のためにお集まり頂き、誠にありがとうございます。本来人前で長々ととりとめのない話をするような人間ではありませんが、このような会に自ら足をお運び頂いた身様は十分に覚悟ができているとこちらで一方的に判断させて頂きまして、まあ右から左にするっと、掴まえる気の全くない流し素麺の如くに聞き流して頂けますと幸いです。さて、やはり事の発端といいますか、どのような成り行きがあって今ここに二人が並んでいるかということに皆様もしかすると興味がおありかもしれません。ご多分にもれず当方も同じ気持ちでございまして、まあ隣の人はどう思っているか知りませんが(苦笑)、当方の口から出任せに当方の耳が興味津々ということで、無責任にも語り手とオーディエンスの一人二役をやらせて頂こうという算段であります。分かりやすく喩えれば田子作の身の上話に聞き入るいっこく堂、うしくんとかえるくんの応酬を無表情で見つめるパペットマペット(の中の人)、といったところでしょうか。一人二役と言っても彼らの面白さを見れば一足す一は二より大きいという事実は明らかでして、しかしそれが半分の事実でしかないのも本当のことでありまして、要するに算数でないところでは一足す一の答は二より小さくもなるすなわち不定ということで、この値を定めるのは皆様の暖かいお耳にかかっているわけであります。さて、そろそろ本題に入りますが…」
「太え(不定)野郎だぜ!」
思考の宛て先の自覚について。
過去を振り返っていて、いつの間にか離れられなくなり、今が色褪せて見えてしまうことがある。
その時、頭の中の自分は過去にいるが、その自分の中身は今のものである。
そこにすれ違いがあり、価値基準が過去に置かれてしまうために、現在の自分(の中身)がつまらないものに思えてくるのだ。
「思考の宛て先」と勢いで書いてみたが、これは「誰に向けて思考がなされているか」と言い直すと分かりにくい。
そこで、手紙はふつう出せば返ってくるように、何らかのフィードバックがあると期待される思考には宛て先がある、という考え方をしてみたい。
つまり言いたいことは、過去に埋没してしまうような想起や思考は「宛て先がない」のだ。
とはいえ「思い出に耽る」ことに実利的なアウトプットなど期待しないのであってこれは当たり前の話ではある。
どうも一般性の低い、自分への戒めで終わる話になりそうだが、思考に過剰な価値を与えてしまうと「実りのない思考」(上記の「思い出に耽る」など)に足を取られてしまうよ、という教訓でした。
「脳と身体のバランスを整える」といったって、一人の人間は脳偏重にも身体偏重にもなるだろうし、それを自覚といっても自覚する行為そのものは意識の産物(つまり脳偏重の行為)だから、自覚だけではバランスを整えるだけでは不可能で、やはり『フェーズの切り替え」の技術を学ばないといけないなと思う。
やっぱり合気道やってみたいなということで、その辺の所を「おもいえばいたる」にまた詳しく書き出してみよう。
相変わらず腰は重くて、しかしその「腰の重さ」の効能を納得しておかないといけないのかもしれない。
あるいはその効能が勘違いだったと気付く可能性もあるのだからして。
過去を振り返っていて、いつの間にか離れられなくなり、今が色褪せて見えてしまうことがある。
その時、頭の中の自分は過去にいるが、その自分の中身は今のものである。
そこにすれ違いがあり、価値基準が過去に置かれてしまうために、現在の自分(の中身)がつまらないものに思えてくるのだ。
「思考の宛て先」と勢いで書いてみたが、これは「誰に向けて思考がなされているか」と言い直すと分かりにくい。
そこで、手紙はふつう出せば返ってくるように、何らかのフィードバックがあると期待される思考には宛て先がある、という考え方をしてみたい。
つまり言いたいことは、過去に埋没してしまうような想起や思考は「宛て先がない」のだ。
とはいえ「思い出に耽る」ことに実利的なアウトプットなど期待しないのであってこれは当たり前の話ではある。
どうも一般性の低い、自分への戒めで終わる話になりそうだが、思考に過剰な価値を与えてしまうと「実りのない思考」(上記の「思い出に耽る」など)に足を取られてしまうよ、という教訓でした。
「脳と身体のバランスを整える」といったって、一人の人間は脳偏重にも身体偏重にもなるだろうし、それを自覚といっても自覚する行為そのものは意識の産物(つまり脳偏重の行為)だから、自覚だけではバランスを整えるだけでは不可能で、やはり『フェーズの切り替え」の技術を学ばないといけないなと思う。
やっぱり合気道やってみたいなということで、その辺の所を「おもいえばいたる」にまた詳しく書き出してみよう。
相変わらず腰は重くて、しかしその「腰の重さ」の効能を納得しておかないといけないのかもしれない。
あるいはその効能が勘違いだったと気付く可能性もあるのだからして。
「生姜事件」の顛末やいかに。
数日前から味噌汁に加えた「ちんげん菜とアスパラ炒め」はJ・アタリ。
いつも汁(というか水)を煮る前に豚肉をきつめウェルダンに炒めていて、その時に一緒に入れると野菜たちはけっこう焦げ目が付くのだけど、それがいい感じに「九州大分の麦味噌」の味を濃厚に引き立たせてくれる。
味噌はやはり煮込みの序盤から溶かし入れるのが好みで、味噌本来の風味がそれで飛んでしまうのかもしれないが、具と味噌がよく絡まり、イメージだけど濃厚になる気がする(煮込みの最後に味噌を入れた時は味が軽くなってしまったように思った。「すっきりまろやか」とも言えるのかもしれないが)。
食膳にメイン料理(肉や魚など、味の濃いもの…とも限らないが)があれば味噌汁の味付けは薄くてもよいのだが、今の夕食は味噌汁が(食材の多様さや器の重さからいって)堂々たるメイン料理になっていて、その味は物足りないよりは「物足りる」方がよいのである。
で、ほぼ同時に投入した生姜なのだが、これは一回目に作っている間から既に不穏な空気が漂っていて、煮込まれている他の野菜を押しのけて「ワイが生姜やで、よう嗅いどきや」と言わんばかりの自己主張の強い香りを発散させていて、でも僕自身生姜は好きで飴や葛湯として日頃から親しんでいるから「味噌と仲良くさえやってくれれば…」とやきもきしつつ見守るしか術が無く、いつも通りの手順で作り上げて食卓に並べてみるとなんだかやけに汁が黄色い。
一口飲んでみて、生姜以外に主張してくるものが見当たらず「一に生姜二に生姜、三四は抜きで五に生姜」とでも言えばいいのか、味噌もいつもと同じ分量で入れてるのに「あのう、わたくし本日は味噌汁ということでよろしかったんでしょうか…?」とか細い声もかき消されるようで、つまりこれは紛れもなく「生姜汁」なのだった。
ここからブリコルール的機転を利かせようと味噌と生姜の相性を取り持つ何かがないかとしばらく考えたのだが、「二重の予想外」のさらに裏をかいたこの生姜の排他性に気圧されるばかりで、結局なすすべなく次善策をとることにした。
次善とはすなわち「野菜スープにしちゃう」ということで、炒め油を米油からオリーブオイル(なぜかEXV)に変え、ダシを焼きあご(飛魚)からコンソメに変えて洋風スープに早変わり。
その一回目が今日で、一口飲んで本当に驚いたのは、昨日の生姜汁と味が「全く一緒」だったこと。
昨日は味噌汁として飲んだから終始違和感があったけど今日は最初からスープとして飲んだから平気だった、と言って「そうね」と納得しかねない程に同じなのだった。
恐るべし生姜…と結論付けるのは尚早で、単に生姜の分量が多過ぎたのだ、きっと。
隠し味として使うには恐らく今回の1/5くらいには減らさねばならず、生姜をまるまる一個購入してその分量で使い切る期間を考えると扱いが難しいのであるなと学習した次第(しかし生姜ってどれくらいもつのか…今回の経験による計算だと6×2÷1/5=60日は冷蔵庫内で健康を保ってもらいたいのだが、まず無理だろう)。
ま、思いつきもたまには失敗しますわ。はは。。
味の複合に関する想像は難度が高いということで、精進。
+*+*+*
味噌汁の話が何度か出てきたので、新タグ作りました。
そいえば「とりたま」も味噌汁の話から始まったのだった…か?
いや正確には「味噌汁の話に逸れて戻って来れなくなった所から始まった」か。
今後もちょくちょく顔を出すテーマになると思います。
もうすっかり習慣として定着したことだし。
ただ上記の通り、時々スープになることも今後増えそうだ。
更なる進化を祈念しましょう。
(今回の「生姜事件」(「生麦事件」ではない)は退化ではなく派生ですね)
数日前から味噌汁に加えた「ちんげん菜とアスパラ炒め」はJ・アタリ。
いつも汁(というか水)を煮る前に豚肉をきつめウェルダンに炒めていて、その時に一緒に入れると野菜たちはけっこう焦げ目が付くのだけど、それがいい感じに「九州大分の麦味噌」の味を濃厚に引き立たせてくれる。
味噌はやはり煮込みの序盤から溶かし入れるのが好みで、味噌本来の風味がそれで飛んでしまうのかもしれないが、具と味噌がよく絡まり、イメージだけど濃厚になる気がする(煮込みの最後に味噌を入れた時は味が軽くなってしまったように思った。「すっきりまろやか」とも言えるのかもしれないが)。
食膳にメイン料理(肉や魚など、味の濃いもの…とも限らないが)があれば味噌汁の味付けは薄くてもよいのだが、今の夕食は味噌汁が(食材の多様さや器の重さからいって)堂々たるメイン料理になっていて、その味は物足りないよりは「物足りる」方がよいのである。
で、ほぼ同時に投入した生姜なのだが、これは一回目に作っている間から既に不穏な空気が漂っていて、煮込まれている他の野菜を押しのけて「ワイが生姜やで、よう嗅いどきや」と言わんばかりの自己主張の強い香りを発散させていて、でも僕自身生姜は好きで飴や葛湯として日頃から親しんでいるから「味噌と仲良くさえやってくれれば…」とやきもきしつつ見守るしか術が無く、いつも通りの手順で作り上げて食卓に並べてみるとなんだかやけに汁が黄色い。
一口飲んでみて、生姜以外に主張してくるものが見当たらず「一に生姜二に生姜、三四は抜きで五に生姜」とでも言えばいいのか、味噌もいつもと同じ分量で入れてるのに「あのう、わたくし本日は味噌汁ということでよろしかったんでしょうか…?」とか細い声もかき消されるようで、つまりこれは紛れもなく「生姜汁」なのだった。
ここからブリコルール的機転を利かせようと味噌と生姜の相性を取り持つ何かがないかとしばらく考えたのだが、「二重の予想外」のさらに裏をかいたこの生姜の排他性に気圧されるばかりで、結局なすすべなく次善策をとることにした。
次善とはすなわち「野菜スープにしちゃう」ということで、炒め油を米油からオリーブオイル(なぜかEXV)に変え、ダシを焼きあご(飛魚)からコンソメに変えて洋風スープに早変わり。
その一回目が今日で、一口飲んで本当に驚いたのは、昨日の生姜汁と味が「全く一緒」だったこと。
昨日は味噌汁として飲んだから終始違和感があったけど今日は最初からスープとして飲んだから平気だった、と言って「そうね」と納得しかねない程に同じなのだった。
恐るべし生姜…と結論付けるのは尚早で、単に生姜の分量が多過ぎたのだ、きっと。
隠し味として使うには恐らく今回の1/5くらいには減らさねばならず、生姜をまるまる一個購入してその分量で使い切る期間を考えると扱いが難しいのであるなと学習した次第(しかし生姜ってどれくらいもつのか…今回の経験による計算だと6×2÷1/5=60日は冷蔵庫内で健康を保ってもらいたいのだが、まず無理だろう)。
ま、思いつきもたまには失敗しますわ。はは。。
味の複合に関する想像は難度が高いということで、精進。
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味噌汁の話が何度か出てきたので、新タグ作りました。
そいえば「とりたま」も味噌汁の話から始まったのだった…か?
いや正確には「味噌汁の話に逸れて戻って来れなくなった所から始まった」か。
今後もちょくちょく顔を出すテーマになると思います。
もうすっかり習慣として定着したことだし。
ただ上記の通り、時々スープになることも今後増えそうだ。
更なる進化を祈念しましょう。
(今回の「生姜事件」(「生麦事件」ではない)は退化ではなく派生ですね)