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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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○月×日 晴れ

ちょっと遠出して沿線の主要駅へ。

駅前の広場。
朝晩と日中で通る人の種類が変わる。
通勤の時間帯を過ぎてもがらりとすることはない。

ある晴れた日に広場の端っこに陣取る。
端から長居するつもりでパイプ椅子を広げる。
変に人目を気にして立て看板を抱えている。
板には「(仕事じゃないけど)募集中」とある。
看板を作った人間は何を考えてこれを書いたのか。

看板の縦棒がちょうど良い長さなので猫背でもたれかかる。
なんらかの理由で人を募集している目で通行人を眺める。
一人あたりの所要時間がそれなりに長い。
看板のおかげで自意識が合わせ目を背けさせることはない。
なにしろこちらは募集しているのだから。
目的を抱えた好奇心の目で相手をとらえる。
その目的も好奇心も存在として嘘ではない。
少なくとも結果的に嘘でなくなる予定ではある。

歩き方を見る。
体の傾きに注目する。
早歩きの人はまず前傾姿勢をとっている。
通勤帯の駅前の歩き方としては自然な形。
スーツなどの服装にも合う。
逆に言えばその姿勢はのっぺりした昼の時間においては目立つ。
弛緩した広場の空気の中でその人の周りだけピリピリしている。
早歩きの当人はもちろんそんな事実に目もくれない。
そしてそれを見ている彼はその事実に自分の事実を付け足す。

全体として、空気は弛緩している。
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「要領の良さ」とはなにか。

だいたいのサラリーマンなら日々の仕事はやる内容があらかじめ決まっていて(「どうやるか」を自分で考えることはあっても「何をやるか」をいちから自分で決めなければならない人は少数だろう)、ある程度仕事に慣れれば、仕事内容が自分の理解を超えていても誰に頼ればよいかは分かるものである。
分業が進むほど「自分の仕事(専門)領域」と同僚のそれが明確に分かれ、発生した一単位の仕事を主導する人を選ぶことが明確にできる。
また分業体制を円滑に進める立ち位置の仕事であれば、その人の専門領域は「頼る人の選び方とその頼り方」であり、傍目には器用貧乏というか「多分野に中途半端に片足突っ込んだ半分素人」に見えて転職のアピール材料になりにくい…という話はどうでもいいのだが、組織運営上の必要性からいえば「狭く深くの人」も「浅く広くの人」も同格である。
なんにせよ、組織(もっと実際的には自分の所属部署)の抱える仕事と自分の立ち位置が分かっていれば、頭だけで要領の良い仕事はできる。(営業とか接客業はまた違うのかもしれない)
人間関係をこれと同じように考える場合、それは「仕事上の人間関係」に限定されることになる。
会社の中では人々は仕事を円滑に進めるという同じ目的を共有しており、建前として身体は脳に従属する。
だから「仕事上の人間関係」も基本的には頭だけで要領良くこなすことができる。
「頭だけで」というのは「ああすればこうなる」の想定とその(言ってしまえば確認的な)実行の流れのことで、極端な言い方をすればこの想定と実行の間に齟齬があったとすれば原因は「身体が邪魔をした」ことにある。

といった話は建前論で、実際は仕事においても(自分および他者の)身体性への配慮は欠かせないし、上記の建前を貫く人間は一つの理には適っていようとも組織の歩みを乱し仕事の効率を下げることになる。
そういう人間が僕のそばにいて一緒に仕事をするたびにこちらが負のオーラを浴びて大層迷惑している、という鬱憤をそういえば発散してなくて今ここに愚痴みたいに書いてしまったが、つまり最初に書きたかったことはもちろんこれではない。

「要領の良さ」というのは、「頭だけ」という枠を設定すれば話は簡単で、上に書いた「ああすればこうなる」の想定と実行結果の齟齬を小さくできる能力のことである。
じっさいは「頭だけ」ではないから、最初の想定は同じようにあっても身体という不確定要素を考慮に入れる余裕もそこに繰り込んであって、いつも思い通りにはいかなくともまあまあの出来は常にキープできるといった意味になる。
だから要領の良い仕事のできる人は仕事上の不安が(ほとんど)ない。
不安がないということは余計な気を回さなくてよく、気分良く過ごせるということだ。
そして、穿った見方に思われるだろうが、これらのこと(不安がない、余計なことを考えない、気分が良い)は全て、「今自分のいる枠組みを疑わない機制」に寄与している。

ここから話が一般的(多数派的)でなくなってくる。
ある組織に所属する人間は、その組織の存続について基本的に疑わないのが正しい。
組織の存続を疑う、つまり「もうすぐこの会社は潰れる」という認識が構成員の多数にあるとすれば、組織人である以前に生活の維持を考えねばならない個人はその会社に見切りをつけて転職先を探すだろうし、そうなれば社内のモチベーションの低下が目に見えて仕事は成り立たなくなるだろう。
組織の維持を考える人間は「その会社を潰さない為に動くべき最低限の数」であればよく、それ以外の人間は会社の発展を第一に仕事に取り組むべきであり、つまりものを積み上げることに専念する人は足場を気にしていてはいけない。

仕事の要領の良い人は組織における自分の立ち位置、すなわち要求されている振る舞い方を理解しており、つまり自分が会社の発展に寄与すべき立場にいれば目先の仕事に邁進するのであり、一般的なニュアンスとしてはその中で「(プライベートな)自分を保つ余裕」を確保できている人である。
一つ前の記事に「ある種の要領の良さを捨てる」と書いたが、これはまず一言で言えば「組織の要求に逆らう」ということを意味する。
そして死ぬからこそ言葉も生きている。

「(…)さしあたり『思想は富貴の身分から生まれるものではない』という命題の真正性を担保するのは、一老学究の生身の肉体と、彼が固有名において生きた時間だけである。この命題はそれ自体が一般的に真であるのではなく、白川静が語った場合に限って真なのである。世の中にはそのような種類の命題が存在する。そのことを私は先生から教えて頂いた。」
(…)
その人ではない人間が「同じ言明」を語っても真としては通用しないような言葉は、その人ともに「死ぬ」。

「死ぬ言葉」(内田樹の研究室 2010年04月06日)

言葉が「生きた言葉」として自分に届くということ。

聴くと、自分の身体に響き、自分を動かし、自分を変えずにはいられなくなる言葉。
聴くと、自分も発したい、相手に届けたいと思うような言葉。
そのような言葉を発したいという思いはきっと、自分に笑いかけてくれる人に笑顔で応えたい、という思いと一緒。

そして言葉はその単線的な並び(表現)からは思いもよらぬ複雑な次元を展開し、方向と目盛りが定まっているはずの時間を軽々と飛び越える。
左から右に、あるいは上から下に流れる言葉は、過去と未来を今につなげる「特別な時空」を構成する。
その時空では過去が形を変えて生き返り、未来が先取りされた命をもとに生まれるが、それらは「歴史的事実」でも「未来予知」でもない。(なぜならそれらは変わることに意味があり、そして確実という表現から最も遠いものであるから)

変化すること、流れることの究極は死であり、死に生かされている人間を動かす言葉もまた、死と隣り合わせにある。
けれど、死をまっすぐ見つめて生活することはできない一方で、死の意識が全く抜け落ちた生活もまた「死んでいる」。
死ぬ言葉」とは実際的な死の抽象であり、その抽象的な死が身近にあること(つまり「生きた言葉」と触れ合っていること)が「生活としての生」を支えているのではないか、と思った。

ま、まとまらない…
毎回が初回。

味噌汁の仕込みが上達しないなと思う。
その上達とは、仕込み時間の短縮のこと。
毎回、8日分を同じようにパックして冷凍しているはずなのに、気がつくとだいぶ時間が過ぎている。
朝のサラダは一度に4日分作るので、4日のうち1日は野菜をスパスパ切る日があって、野菜を切る日の2日に一度はサラダ分と味噌汁分を切っていることになる。
(出張があっても泊まりはほとんどないので、日常においてこのペースはほぼ守られている)
その8日に一度の「大仕込み日」の今日は一通りの作業を終えるのに2時間以上はかかった。
これは今までで最長。
別に時間短縮のために効率化を考えて作業しているわけではないが、慣れの効果で自然と手際良くできるようになるとは思っていて、しかしそうなっていない。
それは構わないのだけど理由を考えてみるに、「毎回同じように」という話の前段が怪しいのではないか。
スーパーでの買い物ではいちおう習慣に基づいた食材を買うような順路を辿るのだけど、自分のキャパシティを鑑みるに「習慣付けようとしている購入する食材の種類」が複雑に過ぎていて(レジに並んでから「何か忘れてるのではないか」と思い、朝と夜の食膳を想像しながら点検しない日はないし、それでも1/3くらいで何かを忘れている)、しかも値段に過敏に反応するし(決して学生の時みたいに安さを追求しているわけではない)特売に弱いしで、「毎回同じようなものを買う」という意識は確かにあるのだがその場の流れでその意識はあやふやになったりもして、そのような「習慣からのばらつき」の微調整は結局のところ仕込み日のまな板の上でなされているのである。
いろいろ言い訳はできて、けれど一番楽しそうな言い訳を選ぶなら、自分の言う習慣が「野菜を買ってサラダと味噌汁を作る」という階層でしかなくて、作業時間が短くならないのは習慣が惰性にならない秘訣である「習慣の構成要素(=行動単位)を割る」(「割る」というのは行動における主体と動作の相互作用の回数とスピードを上げることで、例えばポップスを4拍子でなく(リズム隊の刻みが4つでも)16ビートでノることを「拍子を割る」と言う)余地をとっておくための(習慣の)抽象化の結果なのだ。
だから8日に一度の大仕込みをやる前に「またあれをやるのか…面倒やな」と思うのは油断であって(じっさい滅多にないけどね)、その仕込みは(正月的な意味で)めでたくも毎回が初回なのである。
これ、「カウントダウンの効用」の逆なのかな…。
 私の「教養がない」はほんとであり、私は日常的に、「教養がない」ことで困っている。それはたとえば、「料理をしよう」と思って冷蔵庫のドアを開けたら空っぽで困っている──というのと同じである。私の教養冷蔵庫はすぐ空になるので、私は困っていることが多いのである。
(…)「教養」に関する私の困り方は、「ない」か、「扱ったことがないから、当然ウチにはない」のどちらかで、困り方としては、後者の方が多い。私はそういう困り方をしていて、しかし、別に「自分の料理の腕」では悩まない。扱ったことのない食材でも、自分の目で見て、手に取り、触って、匂いを嗅ぎ、ちょっとかじってみたり、扱ったことのある人の話を聞いたりして、試行錯誤をしてみれば、なんとなく扱えるようになるもんだと思っている。なんでそんなに自信があるのかと言えば、「料理をする」ということが、そもそもそういう試行錯誤を含んでいるからである

『橋本治という行き方 WHAT A WAY TO GO!』p.105(蚊柱のように)
この料理の喩え(「教養」=「食材」)がステキだと思うのは、自分で料理をする人間にとっては教養がとっても身近になるからである。
教養と聞けば油断すりゃ権威のようなものを感じてしまうが、いつもまな板でトストス切ってるニンジンやナスに権威なんてこれっぽっちもないのである。
カボチャなら豪州産と鹿児島産で値段に差があって、市場で格付けされた農家による食材は原価や間接費の想定を超えた値段がついていたりするけれど、もちろん僕らはスーパーに同列に並んだそれらを選べるし、自分の好きなように調理ができるし、その食材を用いた料理が美味しいかどうかは食材の格なんかよりも自分の料理のウデやその時の気分や体調といった自分自身にかかっている。
教養という言葉は現代の生活のなかではもはや死語となっていて、しかしそれは現代における教養という言葉の使われ方がそうさせているからで、自分の中に(あるいは自分の価値観の構成において)教養がないという状態はある意味で「料理に使う食材がないので外食しか選択肢がない食事情」と同じ寂しさをもっていることになる。
そして僕はハシモト氏の言う教養ならモノにできると思い、それに付随する自信はハシモト氏が「料理ってそういうもんだから」と言ってる内容が既に自分の生活の一部になっていて、要は京人参やちんげん菜をサラダに使ってみたりアスパラを炒めて味噌汁の具にしてみたり、あるいは生姜を味噌汁に大量に投入して「ぐえー」とか言ってればいいのだ。

実際を知っている人にとって、その実際を軸にした論理ほど身に染みるものはない。
当たり前だが、「ことばの力」とは、言葉だけのものではないのだ。
「教養」というものを「調理された料理」と思っていて、大学というところを「料理を食べるところ」くらいにしか思っていない人が、いくらでもいる。そういう人達が「教養という考え方自体が強迫観念だ」と思うのだとしたら、それは、よほどまずい料理ばかりを食わされた結果だろう。「料理というものは自分で作るものだ」と考える人にとって、こんな不思議な拒絶はない。「出す料理、出す料理が全部まずいレストラン」へばかり行って、「この料理はこうしたもの」と思い込んで、「この手の料理はもう食べない」と決めてしまうのは、料理や食材に対する冒瀆のようなものではないかと思うのだが、もしかしたら、「教養離れ」というのはそういうものかもしれない。だとしたら、「教養志向」というのも、かなり怪しいが。
同上 p.106
(1) 待つことの実践 について。その1

世の中の進歩、あるいは利便性の向上が「欲求実現までの時間の短縮」とみなされていて、その価値観は容易に反転(「良いことを目指すのはよいことだ」が反転すれば「良いことを目指さない(が達成できない)のはよくないことだ」となる)して、無時間モデルの構築に汲々とすることになる。
それ自体が目的化して、中身のない達成に不満を抱き、しかし未達なら未達でやはり不満という泥沼に陥ることはよくある。
この目的を達成しても達成できなくても不満な状況を脱するためにまず思い付くのは「最初に立てた目的がおかしい」と思うこと。
けれどその目的が常識となって誰も明示的に問わない場合、もっと言えばそれを問うことを「意味がない」「時間のムダ」と自然に思えてしまう環境にいる場合、今考えようとしている話の入り口に立つことがまずとても難しい。
考えてみれば、行動に対する「時間のムダ」という価値判断こそが無時間モデルの思考法である。
だから世の中がこのモデルで動いているという認識のもとで、「ルールを守って」上手く立ち回ろうとする限りにおいて今考えている話が頭に浮かぶことはあり得ない。
簡単に言えば、ある種の「要領の良さ」を捨てて、「意味のないこと」をしてみることが、「待つこと」について無時間モデルを離れて考える素材の一つとなる。
「実験的な生活」について。

いくつかの要素がこの表現に含まれている。

(1) 待つことの実践=「無時間モデル的思考」からの脱却…実験結果は待たなくちゃ出てこない。シミュレーションですら計算時間が必要。
(そういえばdependというのは「依存」だけど「待てない」(pendingの逆)意味もあるのね。他者への依存とは相手の反応を待っているように見えて、実のところ「空虚な状態」の正視に耐える(=待つ)ことができない状況のこと)
(2) 未知を呼び込む、未知に浸る…ある案件が判断不能な理由はいろいろある。他責的でも自責的でもない第三の解(解以前の解?)。
(3) 仕事と生活のコンセプトの統一…実際的には公私が明確に分かたれていて、しかしある一つの価値観によって抽象的には包含されているという。
(4) 常態的な変化=思考(価値観)に流動性を与える…結果が分かる前に観察主体は変化している。まさに「とりたま」。
(そういえば「鶏と卵の関係」は「どっちが先か分からない」ということだけど、これを「分からないから考えてもしょうがない」ではなく「分からないけどとりあえず掘り下げてみる」方が考えるには面白くて、どう掘り下げるのかというと「最終的に"起源"を見つける」ためではなくて「"由来"を求めて思索を続ける」のであって、起源と由来のニュアンスの違いをどこかで読んでなるほどと思ったことを思い出した。つまり歴史学的思考と系譜学的思考、と。
[6/13追](5) 脳と身体の対話回路を拓く=「身体にお伺いをたてる脳」…(僕は男なので)脳-身体の関係を父-子関係になぞらえ、対話を通じて双方と同時に「関係」をも変化させ、母-子関係を目指す。

一つひとつ掘り下げていこう。
(内容が被っている項目もあるが、創造的に分類する目的は「きちんと分けること」ではなく「分けることで新たになにかを生み出すこと」にある)
うまく続けばタグを作ろうか。
(Experimental Lifeでどうだろう。そのまんまだけど)
言葉と言葉を架橋する「ことば」?

「自分を信頼するには」という話だった。
このことについてなるべく論理的に語りたいのだが、論理を尽くせば必ず納得できるとは思っていない。
論理的に微細な瑕疵も見当たらず納得することは、その話が自分の「身に染みる」こととは別である。
両者の近さはその人が「論理性をどれだけ信用しているか」に因るだろうし、その「信用」の決定因は論理性そのものではなく、その人がこれまで生きてきた中で、論理に従い、学び、活用する経験のうちに受けた恩恵の大きさにある。
一般的に論理を扱う際にこの「論理性の具体的な効果」をいちいち想像しないですっ飛ばすのは、論理それ自体が「そんなこと考えなくても通用するように構成されたもの」だからである。
何が言いたいかというと、この「想像」は普段の論理の活用の犀に表立つものではないが、(個々の、ではなく「言葉」と言い換えられるような)「論理」の始まりにはこの「想像」が伴っていたことを忘れてはいけないということ。
加えて、言葉の論理性が軽んじられるということは、もともとは手段であった論理の整合性が目的化してしまったからで、その手段とはすなわち「論理性の具体的な効果を得るための」であり、長い間「想像」をしなくなったことの一つの結果であるということ。
だから、「言葉は大事だ」あるいは「論理的に書く(話す)ことは大切だ」と思いそのことを身をもって示したい時は、文字通り自分の身体が共鳴するような「論理性の具体的な効果」を語らねばならず、その語りは論理性に依拠しつつも論理的であるとは限らない。
この「論理性に依拠しつつ論理的でない」という表現は(言葉の)創造性と関わっていて、例えば今まで言葉にしようとしてできなかった思いを見事に表現する言葉に出会った時の「ビリビリする感じ」が上記の「効果」の一つであって、これは感動主体の既存の論理性の範疇になかったという意味で論理的でないのであって、一般的にとか世間(マスコミ)の論理とは別にその人個人の論理性がアップデートされた経験なのである。

何が言いたいかというと(take2)、もう最初に言いたかったことと違うのだが、僕は本を読んでいて、古本を買うことが多いのでわりと昔の本が多くて、漠然と言えば昔の本と今の本とで言葉の語られ方が明らかに違う。
言葉は時代によって変わるし、流行語や死語といった個別の単語もそうだけどもっと大枠の「言葉への信の置き方」も時代によって変わる。
昔の本を読んでいてなにかよく分からない魅力を感じるが、それをそのまま現代に持ってくるとなにか違和感がある。
それはその昔の本を読んでいる間は僕の頭が「当時の言葉の使われ方」にシフトしていて、もちろんそうさせてくれる本の凄さあってこそで、読みながら納得していたことが本を閉じると「あれ…?」としばし惚けてしまうのは、「当時の言葉の使われ方で綴られた文章」を「今の言葉の使われ方」で翻訳する力が足りないからで、読書を生活(の変化)と結び付けたい僕はそのことに少し不満を感じる。
というと誤解で、満足したいわけでもなくて、この「生活の変化」が実のところ自分の内に留めておくのも勿体ない(←正味の感覚がこれなのがちと哀しいが)と思っていて、それはつまり自分の言葉で人に分かるように語り直したいという欲求が確実にある。

何を書いているのかよく分からないがまとめると(take3)、最初に「自分を信頼する」と書いたのは恐らく「言葉を通じて」のはずで、しかしそれは単に「今の言葉の使われ方」に依拠してのことではなく、昔の本を読んでいるというその「当時の言葉の使われ方」に魅力を感じており、かつ「言葉を通じて」の方法である「論理性の具体的な効果」を表現したいという思いを兼ね合わせると、

自分の(身体)感覚を媒介させて「当時の言葉の使われ方」を「今の言葉の使われ方」に架橋する、

ことを僕はしたいのだと思う。
…これ続くの?
というかまさか、まだ本題に入っていないのでは…。
あるく

木・金と二日連続で三重に日帰り出張のうえに土も出勤したおかげで日曜日の昨日はぐったり。
寝続けるのも辛くて(寝るのにも体力要るんです)朝起きて、ふらふらの頭にコーヒーで喝を入れて『認識と関心』の続きを読もうとして何度か昼寝をはさんで1時間で4ページ読んだところで放り出し(やっと本チャンのフロイトに入って面白くなってきたので元気な時のお楽しみ)、軽い本をうつらうつらしながら読んで(『子供の科学』を去年の2月分から毎月とっていて、いつも寝る前にしか読まないので最近5ヶ月分くらい溜まっている)、散歩に行く気力はないが食欲だけはあって部屋から一歩も出てないが三食ともしっかり食べた。

今日は少し回復したのか9時間寝て、朝食を昼前に食べて、体が若干重いが動けないことはないと思って駅前まで歩いて、いつものようにBookOff→Veloce→KYD2 (ケーヨーD2は花粉症が始まる時期から巡回コースに加わった)と歩く。頭の中を流れるのは行きはトトロの「風のとおり道」のアコースティックアレンジだったが、帰りはプレーヤーでボカロを聴く。デジタルブルーハーテッドジェラシーが平地を歩く時の歩調にピッタリで、16分で身体にノって歩くうちにみるみる元気になってゆく。その後の曲はどれも耳に心地よく聴こえて、笑いが顔に出そうになる(そういえばこの癖は高校で誰かに指摘されて卒業までに直したのだったが、あれでほんとうに良かったのかどうか)。

歩くと元気になる。

それはそうなるように自分で生活をこしらえたからで(意識してそうしたかったか、と言われると判然としないのだが)、そして今あらためて、そのような自分を好ましいと思う。
この状態はベースで、何を始めるにも、この状態を維持していたい。
自分が望んだ生活の変化がこの状態をも変化させてしまった時(歩くのが面倒臭くなる、というような)、その「自分の望み」(恐らく脳先行の願望なのだろう)を疑えるようになっておきたい。
変化のうちには、望ましい変化と望ましくない変化がある。
その判断を身体に託せるように、身体には悠々として頂きたいと思う。
そして脳の仕事は、身体が悠々とできるように生活を整えること。
センサーの感度を鋭敏に保つ方法は経験的には一つしかない。
それは「不快な情報にはできるだけ触れない」ことである。
不快な情報は不快であるから、私たちはその入力を遮断するか、(うるさい音楽に対してするように)「ヴォリュームを絞る」ようにする。
つまりセンサーの感度を意図的に下げるのである。
それによって、外界からの不快な入力は「カット」される。
けれども、それは同時に危機シグナルに対するセンサーも「オフ」になるということである。
「不快な」シグナルといっしょに「危険な」シグナルもカットされてしまう。

越くんとリーダーシップについて話す(内田樹の研究室 2010年05月09日)

視覚のメタファーを離れて…?

毎週同じコースを歩いている。
玉川沿いの道は車道だったり歩道だったりするのだけど、舗装された歩道がコースの一部にあって、そこは僕の歩く時間帯(日が暮れる直前くらい)にほとんど人が通らないので自由に歩ける。
右手は川が流れており、水草が元気よく繁茂していて心地よく緑に染まっている。
左手は田んぼで、近所ではこの時期にちょうど水が入り始めたようで、まだ水は土色に濁り、苗も植えられたばかりのひよっこである(寮の真ん前の田んぼは水が入ったその日の晩からカエルが鳴き始めた。オタマジャクシが流れてきてすぐに孵ったのだろうか)。
舗装された歩道は真っ直ぐで、前後も左右もほとんど傾斜はない。

何の話かといえば、最近また目を瞑って歩く方法(というか感覚)について考えている。
前の週末に寝不足で駅前まで歩いた時、その帰りは目を開けるのがつらいほどの疲労を感じて、安全なところでは「逆まばたき」(まばたきの瞬間だけ目を開けて、あとは目を閉じる)をしながら歩いていた。
「また」と書いたのは前にも一時期凝ったことがあって、その時に比べると目を閉じながらまっすぐ歩けるようになったなと今回感じたのだった。
前に考えていたのは、目を瞑る瞬間の視野を錐体に焼き付けて(つまり残像を残す(ん、これは重複表現?))、目を瞑った時にその残像を「じっさい目を開けて歩いている時と同じように動かす(風景を左右から後ろに流していく)」という無茶な話で、言った通りにできたとは思えないけれど、これは目を瞑ると言いながら視覚的イメージへの依存という点ではふつうに目を開けている状態とほとんど変わらない。
あれから(というわけでもないが)色々情報を得て(ツイッターで平尾剛が紹介してたDaniel Kishのextraordinary senseとか、人間が処理する入力情報の9割以上が視覚だとか、それゆえ視覚に関係しない現象や事柄の表現にも視覚のメタファーを無意識に使っているとか、あとは『目から脳に抜ける話』で養老孟司の展開していた「人間が左右の耳で音の発生源までの距離と方向を定位する精密なメカニズム」の話とか)、目を瞑るのだから視覚に頼らない歩き方があるのではと考えるようになった。

で、それは上で少し触れたように耳を使おうということで視野ならぬ「聴野」の構成について掘り下げてみようと思うのだけど、この言葉遣いが既に視覚のメタファーを使っているのだろうか…
まあそれが悪いってんじゃないし、そうあらざるを得ないという話らしいので、それと意識しながら展開していくとしよう。
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