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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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現在メインで使用しているブログからこのブログの記事に飛んでくる時に、
広告だけのよくわからないページが最初に表示されて、
(表示を更新すれば元の記事にいけると後でわかりましたが)
どうやら1年以上更新がないとそうなるらしく、
それはいろいろ不便だと思ったので久しぶりにこちらに書いています。

過去に自分が書いたものでよく参照するのはこの記事で、
イェーツの詩をふと思い出した時に「原文どうだっけな」と見に行く。
最初に読んだ時(に恐らくこの記事を書いた)は「いい言葉だ」と思って、
感動して何か書きたくなってあのような文章を書いて、
今はこの言葉が僕の中に根を下ろし、生きる方針、思想の核となっている。

さっきその記事を探そうとして「カフカ少年」でブログ内検索をしたら、
もう一つ面白い記事を見つけました。
『海辺のカフカ』を当時読んでいた時の自分の頭の中はもはや想像できませんが、
(とはいえというか、偶然なのか、今はこの本を再読している最中ですが)
どうしてこんなことを思いついたのだろう、と今の自分が思うことが書いてあって、
いろんな意味で非常に興味深い。
なにかものすごく本質的なことを書いている気もするし、
微妙な事象を明確に言葉にし過ぎているような気もする。
過去の自分が書いた文章を今でも面白いと読めるのは、
当時の関心を今も持ち続けているということですが、
その文章の内容とは違うところに興味というか違和感を今持つのは、
今の自分が書く文章の、何かしら抽象的な性質が変わったことを意味する、
のではないかと思います。

ことをどれだけ、明確に、あるいは鋭く、あるいは意外な着想で表現するか。
「書きながら考える」という内田樹氏のスタイルを(勝手に)受け継ぎながら、
ということは「わかっていることを書いてもしょうがない」ということで、
それは当時も今も変わりませんが、
そのような、書く方針、動機といったものが…


書いてしまったものには意味はないのです

という、甲村図書館の館長室でナカタさんと会話する佐伯女史の言葉が、
今突然浮かんできました。
そう、当時と今とで違う点は、ひとつはここにある気がします。
自分が書いたものをあとで読む時の面白さや姿勢といったものは、
あまり変わらないかもしれない。
でも、自分が書いているその時に「あとで読む自分」が頭の中にどれだけいるか
今は、その「あとで読む自分」が、小さくなったような気がします。

その理由は、今は分析しないでおきましょう。


ボルダリングを4ヶ月ほど前に始めて、
以前よりも身体が賦活され、
「今を生きる」感覚が活性化されてきたように思います。
それは身体を動かしている(つまり「登っている」)間だけではなく、
部屋で読書している時も含まれます。

いま、外の天気は大荒れで、台風が来ているようです。
天気がどうあれ、明日も登りに行きます。
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抜粋太字は本文の傍点部。
抜粋下線は引用者のお気に入り箇所。

・たそがれの内面世界
人間はゆったりとくつろぐとあの内面世界に旅することができる。本にすっかり夢中になっている子供は魂空間の「中」にいる。が、われわれのほとんどは内面世界の奥深くまで踏みこむことはきわめて難しいと感じる。それはあたかも、長いロープで客観的な世界──そして客観的な心──につながれているかのようである。われわれはある程度までは緊張を解くことができる。が、そのうちロープが伸びきってしまい、そこで停止を余儀なくされる。これに対し、途方もない安堵感を体験したり、誰かに強く魅せられて「心を奪われ」たりしたとき、われわれはロープを切り、われわれの内部にあるあの未知の世界の奥深くへ入ってゆく
(…)
 そのうえ、これが肝要な点なのだが、精神界の奥深くまで入れば入るほど、深くくつろぐことができ、直観力も冴えてくるあの主観的な心の世界は、客観的な心のとげとげしい昼の光とはまったく異なっており、輪郭はもっとなだらかで柔らかく、色彩はもっと精妙であり、そこの日中はわれわれの世界のたそがれに近い。われわれの直観がしばしば最も強力に働くのは、たそがれ時である。したがって、この直観の世界においてわれわれは、昼間意識のぎらぎらしたとげとげしい光の中では見すごされ無視されているあらゆる種類の事柄を「知って」いることを、忽然と悟ることになる。
「4 長かりし徒弟時代」p.104-105

・創造的思考の仕組み
創造性には、鳥のように主題の上を舞い、取捨可能な多くの選択を見てとることが必要である。そうして、鳥は鷹のように舞い降り、こうした可能性のうちの一つを──別の可能性をつかむこともできるのに──敢えてつかみ取る。言うまでもなく、ここで私は「左脳思考」と「右脳思考」の違いについて語っているのである。人間は真に選択の自由を持っているという事実を証明するには、右脳はその「鳥瞰図的視野」で百の可能性を知覚し、左脳はそのうちのどれを選ぶかを決定する、という創造的思考の仕組みを理解しさえすればよい。
同上 p.112

・能動的想像
「もし魂が、意識を保ちながら超感覚的世界に入ることのできる能力を獲得しようと願うなら、まず第一に、根本的には創造活動にほかならない或る活動を内部から開花させることにより、魂自身の力を強くしなければならない」(…)人間は、地球にもたとえられるほど大きな内面世界をもっているというオルダス・ハックスリーの言葉は前にも引き合いに出したことがあるが、神秘学者はこの内世界を「アストラル界」と呼んでいる。魔術の伝統に従えば、物質界を旅するようにこの世界を”旅する”ことができるようになるという。根本的に要求されるのは、まざまざと思い浮かべる高度に発達した能力である。それには、現実の対象と同じくらいはっきりした表象を喚び起こすよう自分を訓練することが必要である。最も簡単な行の一つを例としてあげよう。木製のさいころを思い浮かべてみる。それをまざまざと思い浮かべるようにし、頭の中で、ころがしたり、いろいろな角度から眺めたり、木の感触を確かめたり、匂いを嗅いでみたりさえするのである。そして遂には、目を開けていてもまざまざと思い浮かべて、そのイメージを現実界に投射することができるところまで行かなくてはならない。この修行についてのある権威者が語るところでは、達成まで毎日十五分の行で約一か月かかるという
 ひとたびこれが達成されると、次の段階は、「タットワ・シンボル」──地、風、火、水およびエーテルの象徴──が描かれている五枚一組のカードを作ることである。これらの象徴はそれぞれ黄、青、赤、銀、黒で彩られなければならない。それが済んだなら、ひとつの象徴を選んで、「残像」が生じるまで凝視する。この残像はもとの色の補色で現れるだろう。さてここで目を閉じ、先に選んだ象徴をその補色でもってまざまざと思い浮かべてみる。これは門口とみなす必要があり、次の段階はこの門口を──創造裡に──くぐり抜けようとすることである。これが「アストラル旅行」の第一段階である。どういう象徴が選ばれるかによって、門口の向こうの”風景”は変わってくる。そして、熟達した「アストラル旅行者」の話では、この風景は現実界の風景と同じように探検することができるという。
(…)
この視覚化という考えには「非科学的」なところは少しもないのである。心理学者ユングはこれを「能動的想像」と呼び、この力は、誰でも育てていくことのできる能力であることを少しも疑わなかった──もっとも、適切な指導者なしにこういった能力を育成することは危険だと警告してはいる。
「6 オカルティストと導師」p.174-176

・教育
わけても注目すべきは、子供たちに自分たちは教育されたがっているのだということを納得させることこそ教師の役割にほかならないとシュタイナーが考えていたという事実である──これは、ほとんどのドイツ人にはつむじまがりの逆説のように思えたにちがいない考え方である。
「8 大惨事」p.222

・プルーストの探究
「霊界」というものは実は人間の内面世界にほかならぬ、という認識である。シュタイナーは事実上こう言っていたにひとしい。鳥は空の生き物であり、魚は水の生き物、蚯蚓は地の生き物なのだが、人間は本質的に心の生き物であり、人間の真の故郷は自分の内部にある世界なのだ。なるほど、人間でも外面世界に生きなくてはならぬというのは事実だが、第1章で見たごとく、この外面世界を把握するには私たちは自分自身の内部に退く必要があるのだ。
(…)
ほとんどの人は、自分は個人であるという意識と、自分をとりまく世界の圧倒的な現実性との間の相克が人生なのだということに気づく。世界のほうが私たち個人よりも遙かに大きく、重要でもあるように見えるのだ。この感じは、私たちが疲れたり、がっくりしたときに増大し、そういうときには、自分が海岸に打ちあげられたクラゲみたいに外面世界に「立ち往生」していると感じる。(…)
 それでも、心の奥底では、これが真実ではないのだ、と分っている。何かの匂いや味、あるいは一行の詩か数節の音楽のおかげであの内面世界を想起させられるだけで、もう私たちは、暖かさと強さが自分の内面にどっと溢れてくる不思議な体験をする。プルーストが紅茶にひたした菓子を味わったときに体験した感情がまさにこれであり、この感情はプルーストにこう書かせた。「私は凡庸で、偶然で、死すべきものであるとは感じられなくなっていた……」
 プルーストは、この感情、この気持を意のままに甦らせるにはどうしたらよいか、という問題を探究する目的にあの厖大な長篇小説を充てた。ルドルフ・シュタイナーはこの問題への解答を発見した。初期に幾何学と科学を研究したおかげで、シュタイナーは自分の内部深くに沈潜する「こつ」をおぼえ、遂には、内面の領域もそれ自体で一つの世界、いわば、「代替的な現実」を成しているのだという考えがひらめいた。ひとたびこのことが分ると、シュタイナーはこれを忘れぬように気をつけ、毎日、一定の時間を割いて、この真理を自分自身に想起させた。
「9 後記──シュタイナーの業績」p.234-235

・シュタイナーの思想
シュタイナーは、「サイキックな能力」や隠れている師たちとの接触といった面で私たちの注意を惹く人物ではなかった。シュタイナーの真骨頂は、ゲーテを論じた本や『自由の哲学』や『自伝』に見出される思想にこそある。これらの本で自分が述べていたことは、のちの自分の思想の土台になった、とシュタイナーは主張しているのだが、実のところ、私たちとしては、のちの思想のほうは無視するか、または単なる知的好奇心でそれを研究し、右に記した初期の著書こそ重要なのだという気持から少しでも逸らされることがあってはならないのである。
同上 p.240-241

・現実忘却と居着き
 シュタイナーの本質を把握するには、『ファウスト』の冒頭の場面を読み返してみさえすればよい。過労の学者が、気をめいらせ、疲労困憊したあげくに自殺したい誘惑に駆られる。だが、毒を口元まで持って行ったとき、復活祭の鐘が鳴りだして、子供時代の記憶が滔々と甦る。あの「プルースト効果」が生じたのだ。こうしたファウストは幸福の涙に溶けこみながら、人生は無限に複雑で、無限の刺戟に満ちたものであることを想い出すのである。
(…)
 ファウストと荒野の狼(シュテッペンウォルフ)が抱えていた真の問題は、二人とも、この「別の」現実──モーツァルトと星々という現実ないしは実在を忘れてしまうことを自分に許したばかりか、反対側の極端にまで走って、人生は味気なく、むなしいという感情を土台としてその上に精神的視覚(ヴィジョン)を築いてしまったということなのである。
同上 p.243-244
『ルドルフ・シュタイナー その人物とヴィジョン』(C.ウィルソン)の抜粋です。
図書館から借りた本なので線が引けず、貼った付箋箇所からの抜粋。
今すぐに何かは書けません(あまりに頭ごちゃごちゃしている)が、時間をおいて、また何かに対して連想がはたらいた時に引用したくなるだろう箇所です。

以下、下線は引用書の傍点部。

・心の顕微鏡
一万年くらい前から人間は主として個々のものに集中する能力のおかげで生存を保ってきた。人間は存在にまつわる無数の問題や複雑さを処理するために、いわば心の顕微鏡を開発した。今ではそれが第二の天性となっており、常に顕微鏡を通して世界を眺めている。しかしながら、問題はそれによって、視野が狭くなっている点にある。われわれは現在という狭い地平に閉じこめられてしまっているのだ。この顕微鏡の大きな欠点は、すべての問題を過大視し、ものごとを針小棒大に見てしまうということにある。
「1 内宇宙への門」p.31
・反唯物論
シュタイナーの時代には、学校や大學は、誰が見てもあきれるような嘘っぱちの思想を教えていたのである。つまり、人間は機械であり、宗教は迷信であり、進化は適者生存に基づく純然たる機械的プロセスであるということを、最新の考え方として教えていたのである。立派な聖職者はこれに対して烈火のごとく怒ったが、その偽らざる憤りは事態を悪くするだけだったようである。(…)したがって、唯物論は嫌いだがさりとて正統的な宗教にも与することのできないシュタイナーのような人間にとっては、唯物論者を論駁する科学的な方法を見つけることが肝要だった。それだからこそ、シュタイナーの自伝で若い頃のことが述べられている部分に、何十頁にもわたって、シュタイナーがむさぼり読んだ哲学者のことが書かれているのだ。シュタイナーは、唯物論が誤りであることをはっきり証明しているような思想を探していたのである。
「2 幻視者の少年時代」p.44-45
・フィヒテ
 シュタイナーにとって、こうした知的な同盟者のうちでとびぬけて重要だったのは哲学者フィヒテだった。百年ほど前にフィヒテはカント哲学によって絶望の淵に投げこまれていた。カント哲学は、われわれの感覚は嘘つきであり、「物自体」はけっして知ることができない、ということを証明しているらしかった。もしカント哲学が正しいなら、人間は虫けら同然のものになってしまう。ここでフィヒテは重要な精神的飛躍をなしとげた。われわれは坐って考えているときにはしばしば混乱し確信がもてないでいるが、活発な行動を始めるやいなや、疑念は、朝日を浴びた霧のように消えてしまう、ということにフィヒテは気がついた。
同上 p.45
・ブレンターノ
 フィヒテと同様ブレンターノも一つの単純で強力な洞察を有していた。ブレンターノによれば心的行為と肉体的行為のあいだには根本的な違いがあるという。もし私が雪の上ですべって仰向けにひっくりかえったとするなら、それは非志向的な肉体的行為である。非志向的な心的行為というようなものはありえない。私が思考する場合、何かについて考えなくてはならない。私はその何かに心の焦点を合わせなくてはならないのである。すべての心的行為(思考、意志、愛すること、何かを想い出そうとすること)は、暗闇を貫くサーチライトの光線になぞらえることができよう。すべての心的活動には意志の要素、つまり「志向性」の要素がある。だから、心的活動を化学になぞらえ、流れに浮かぶ葉のように心的活動もいわば漂流しているとみなすことは大変な間違いである。心的活動は目的をもって流れるか、それともまったく流れないかのどちらかなのだ。
同上 p.47
・ゲーテ
 ゲーテはシュタイナーの知的生活に他の誰よりも大きな影響を与えた人物だった。『ファウスト』を読んだシュタイナーは、これで私は唯物論的哲学者たちを退けることができると強い確信を抱いた。さらに嬉しかったのは、ゲーテが自分と同様、科学に熱中していて、独自の非唯物論的科学哲学を作り上げていたことだった。ゲーテにとって自然とは「神の生きた外被」であり、自然は絶えず創造のプロセスにあるという事実を認識したとき初めてわれわれは自然を理解できる、とゲーテは考えた。
同上 p.49
・ロボット
 現代人はワーズワースのようには自然の「実在」を経験することができなくなっているが、その理由を把握することは重要である。現代人は非常に複雑な生活に対処するために自分の存在の機械的な部分を発達させたのである。この機械的な部分は「ロボット」と呼ぶことができよう。車の運転とか外国語を話すといった難しいことを覚えようとする場合、意識的に、骨の折れる努力によってそれをしなければならない。が、そのうち「ロボット」がそれを引き継ぎ、「私」がするよりは遙かに速く効率的にやってのけるようになる。ただここで困るのは、ロボットは、車の運転とかタイプ打ちといったような、こちらがやってほしいと思っている事柄だけを”引き継ぐ”のではなく、音楽を聞いたり田舎を散歩したりといったような、こちらがやりたいと思っている事柄まで引き継ぐのである。急いでいるときなど、本当に楽しむことなく”自動的に”食事をすることだってある。ロボットはわれわれから経験を奪う傾向があるのだ。
同上 p.53
・深い静けさ
催眠術をかけられた人は、深い静けさの状態に入って物質界とのつながりを忘れるようにと説得される。現代人にとってはこれはめったにない状態であるが、それは外界が騒ぎ立ててあまりにも多くの注意力を要求するため、ついには外界から去ろうとする習慣を放棄してしまうからである。(…)しかしながら、われわれの内宇宙を訪れるには──書物に没頭したり音楽に聞き入ったりする場合でさえ──こうした過剰警戒の習慣は捨てなければならない。そして、心の底からくつろぎ、心配(結局のところ、そのほとんどは全く無用な心配である)のすべてを忘れる習慣を獲得することが必要である。シュタイナーはワーズワースと同様、生まれつきこの習慣をもっていたようであり、子供のころの牧歌的な環境のおかげでこの習慣が深く根づいていった。
同上 p.56
・つかみとる手
ハルトマンによれば、意識の目的は生物にもっと多くの知覚を与えることにほかならず、意識は電灯の発明にたとえられるという。事実、われわれのほとんどはこういう見方を当り前だと思っている。これに対してシュタイナーは、意識は能動的な力であり、その目的は問題に焦点を合わせ集中することだと本能的に感じていた。意識は光ではなくむしろつかみとる手だというのである。そして、このつかみとる手は建設し創造することもできる。
「3 ゲーテ学者」 p.66-67
・神智学
シネットは、神智学は科学と宗教を別々にしておく必要を認めないと断言する。物理学と霊性は融和させうるものであるどころか互いに依存しあってさえいるというのであるが、これはシュタイナー自身の深い確信でもあった。
同上 p.78
・時間が空間になる
>>
 霊的な意味では、「過去」の事柄は本当は消え去っておらず、依然としてそこにあります。物質生活においては人間は空間についてしかこういう考え方ができません。一本の木の前に立っていてからその場を離れ振り返って見ても、その木は消え去ってなどいません……霊界においてはこのことが時間についても言えるのです。もしあなたがある瞬間に何かを経験したとしても、物質的意識に関するかぎりそれは次の瞬間には消え去っています。が、霊的に見た場合は消え去ってはいないのです。木を振り返って見ることができるように、それを振り返って見ることができるのです。リヒャルト・ワーグナーはこのことを知っており、注目すべき言葉を残しています。「ここでは時間が空間になる」
(一九一八年に行った講演「死者はわれらと共にある」より)
<<
「4 長かりし徒弟時代」 p.93-94
・死者と交信する
 この講演においてはシュタイナーは死者との交渉という問題について雄弁に語っている。(…)
>>
 われわれは眠りこむ前や目ざめる前に死者に出会います。(…)
<<
 シュタイナーはさらに、眠りこむ前の瞬間は死者と交信するのに特に適していると言う。もしわれわれが死者に何かを尋ねたいのなら、眠りこむ瞬間まで「それを心の中に」保持し」、それから問を発しなくてはならない。(…)
 さらにもうひとつ人を面くらわせるようなことが書いてある。われわれが死者に問を発する場合、その問というのは実は死者から来ており、したがって、答えはわれわれから来るというのである。
同上 p.94-95
・右脳の「観賞」
右脳──「もう一人の自分」──は直観や「総体的な意味」や型(パターン)を扱う。それは音楽や詩を観賞する部分である。左脳は顕微鏡を通して世界を注視するのであり、「今ここにある目先のこと」に取り憑かれている。左脳は言語、論理、計算を扱う。
 脳のこの二つの部分が非常に密接に働き、その結果それらがお互いの存在を実際に感じることのできる時がある。心の底から緊張を解き、「観賞」の気分になったとき、私はくつろいで右脳の中へ入っていくように見える。こういう状態のとき、私は遙かに直観力が研ぎすまされ、記憶力も確かになっている。
 ところで、右脳はハドソンの言う「主観的な心」であり、左脳は「客観的な心」であると想定することのできる証拠がある。
 こうしたことすべてから生じる最も重要な点は、文明人のほとんどは左脳に閉じこめられ、能率的に働くことや外界に「対処」することの必要に取り憑かれて日々を過ごしている、という事実である。文明人は心の底からくつろぐことができず、言うならば、潜在意識的には緊張状態にあって常に電話が鳴るのを待っている人のようなものである。
同上 p.103
久しぶりに何日か連続して書いています。
ちゃんと考えた方がいいなあ、という思いが沸々とわいてきたからですが、
その「考えさせる原因」がとりあえず解消しそうなので一段落です。

考えるだけ考えたから、ではなく、
上手い具合に人に頼ることができたからです。


嘘はつけない、のは昔からそうですが、
「前もって準備したことをそのまま言う」のも苦手です。
これは昔は違ったはずですが、きっと趣味が変わったのでしょう。

前に書いた「先回りの想定」を僕はぐるぐるやってしまうのですが、
例えば会話で、相手がその想定通りの言葉を返してきた時に、
既に頭の中で完成したフレーズを返すか、その場でアレンジするか、
あるいは全く異なる展開にもっていくのか。

趣向としては、ストックフレーズの低抵抗出力は面白くない。
相手との関係や仕事の要求などはもちろん除いての話で、
自身に対する自分の発言の影響を考えるとそうなります。
日常的な会話でこれを重視しても仕方がないですが…
(まず相手を見ろよ、と言われそうです)
会話における「いきいきした感じ」を重視するなら
自分の趣向を満たすこともプラスに活きるはずですが、
その前に気を遣うべき項目はたくさんあるのでしょう。


話を戻しましょう。
一人で事前にいろいろ考え、いくつもの展開を想定し、
それぞれ想定した過程における問答などを想像しました。
けれど、その場の雰囲気で対応を決めよう、と強く思っていました。

(そうか、「考える前に考えるんだ」とはこのことかもしれない)

で、その場の雰囲気に任せて喋り、
いくつかの助け舟に同時に乗ることができ、
状況の改善度としては上々の首尾となりました。


仕事環境がまたがらりと変わります。
業務内容は変わらないはずですが、まずは環境への適応が第一です。
「異質な個空間」から「まともな(はずの)公空間」への移行です。

期待はしません。
流れを感じ、ふわりと身体を浮かせて、ゆらりと前進する。
心機一転、柔軟に。

まあ、忙しいので、期限つきの仕事はしっかり間に合わせましょう。
「どっちでもいい」の、なげやりでない、肯定的な表現を考えたい。
達観したい、諦観を得たいわけではない。
分かれ道のどちらを進んでも、それぞれの過程がある。

後ろ向きに進むよりは、前向きに進みたい…
とも思うが、それは瞬間的な感覚でしかない。

蓄積を考えるのだけど、単純に加算するものでもない。
もちろん後ろ向きに進み続けて突然前向きになれるわけでもない。

 「否定」に敏感になっていると思う、現代は。
 何かを評価することが、別の何かを貶めることにつながる。
 人にそう思われてしまう、と思う暗黙の機制がある。
 他者と簡単に繫がれることに原因がありそうだが、
 実際に繋がれることよりはそれを可能にするツールの充実が大きい。
 展開の先読み傾向も同じことに起因する。

 検索可能性と想像力とを混同しやすい。
  想像力がありすぎるのかなさすぎるのか。
  意図的に減殺している人は機敏に動ける。
 特定の他者と匿名の他者の区別も曖昧になっている
 私的な人間関係が希薄だとその傾向に拍車がかかる。
 想像力を現実的な範疇に収めるのは具体的な他者との関係だろうか
 
 笑い続けてひきつる笑いがあれば、
 泣き続けて涙が枯れることもある。
 笑いも泣きもせず表情を失うこともある。

「必然に従う」のがひとつの答えになるが、
この必然は能動的に見出していくものだ

あらかじめ決まっていることなど何もないのに、
なぜ必然などという言葉が存在するのか?

つまりそれは願望で、遂行的で、事後的だからだ。
そして遂行的である限り、必然は活性化する

不活性な必然が諦観なのだろう。


同じ状態を維持したい欲望は脳のもの。
(寝て起きた今日の自分は昨日の自分と同じ)
そう思い続けること自体が、その欲望を肯定する。
これも言葉の機能で、この逆を考えるならば、

身体へ向かう言葉は不安定にならざるを得ない。
『権力を取らずに世界を変える』(ジョン・ホロウェイ)に、

アイデンティティ(「〜である」)の支配は時間を空間化する、過去も未来も現在に従属させてしまう(過去は現在の参照項として、未来は予見可能な現在の延長として)、とあった。

言いたいことはわかるし、同感だなと思う。

が、このことと、行為(〜すること)より状態(〜であること)を志向するという現在の自分の興味との関係がおかしいなと思った。


状態を志向する、という言葉がたぶん微妙で、
それはある特定の状態を維持したい、というものではないはず。

存分に変わるために、変わり続けるために環境を整えるという意味で、ある状態(基盤?)を目指す。

僕の使う「状態」は自分自身の内なるものではなく、アフォーダンスを考慮した「自分を含む周囲環境」を指していると気付いた。

ホロウェイさんによればそれはアイデンティティへの拘りとは遠く離れることになる…そんな気もする。


うーん、出たとこ勝負で言葉に意味を与える使い方をしていると面白いけど怪しいな。
「状態」は言いなおそう。
でも「環境」だと味気ないね。
何がいいだろう?

時間をとりもどす?
うーん。
やりたいことがある。


やりたくないことをやらない。

自分がやることの中に「やりたくないこと」が含まれないようにする。

「やりたくないことをやった」とやってから思わないようにことをやりたい。


やりたくないことが、ないはずはない。

けれど、「やりたくないこと」をやって、
「だからやりたくなかったのだ」と思いたくはない。

それは簡単で、簡単に自分を肯定できて、
そして否定的な自分を否定できない方向にどんどん追いやってしまうから。


やりたいか、やりたくないか、に関係なく「やらねばならないこと」がある。

やりたいか、やりたくないか、を問うのはそれが問えるから、選択肢があるから、
あるいは少なくとも選択肢があると思い込んでいるから。

でも実は、選択肢があるかないか「も」、自分で決めることができる。

それを「選択肢がある」と言うのだ、と、思うだろうか?


選択肢は、無数にあり、一つもない。

それは言葉だから。
久しぶりにこちらに投稿します。
(最近は頻度が減りつつも、一年半前からはてなブログの方に書いています)

「おもえばいたる」タグの記事を読み返してみて、昔の自分の考えになるほどと思いました。
今の自分が思いもしないようなことを過去の自分が考えていたことは、ポジティブにも、ネガティブにも捉えられると思います。
言い換えると、過去の自分が考えていたことを今の自分が知れることは、「道標」にもなり「進路規制」にもなる、ということです。
どちらに捉えるかは、思考の自由があるようで、実はその時の自分の状態と相性のよい方を選ぶことになる、つまり選択の自由が与えられているのは思考主体(僕)ではなく「時間」なのです。

これは必然に馴染むための思考になり得るでしょうか。


逸れた話を戻しまして、
今これを書いている僕にとっては、
さっき読み返した過去の自分の思考は「道標」になるだろうと思いました。

そして、その道標が指しているのは、
たとえば、獣道の入口、
あるいは、船頭のいない船着き場です。


過去の自分が他者である限り、
過去の自分も必然を導き得ます。

過去の自分を仲介に、未来の自分と出会う。
このような経験によって、自己の時間的な奥行きを感じることができます。

思えば、至る。
いつか、旅に出ようと思った。

有言実行、ではない。
今日「いつか」と思っただけのことだけど、
今の日常生活の中に根ざす感覚と関わってはいる。
言葉にすると引きずられるけど、ちょっと言葉にしておこうと思った。

きっかけは、たぶん、今朝の朝日新聞の天声人語だ。
いつからか天声人語を読んで気分が良くなった日を思い出せないけど、
今日のは冒頭で、本気でイラッときた。
 「泣きっ面に蜂は軽過ぎる」?
 それは語感の問題なのか?
 筆者は自分が何のつもりで書いているのだろう?
 世界(地球)が意識を持つとして、代弁しているのだろうか?
 あるいは世界に起きる度重なる不幸を我がことのように感じている?
 そう感じるのは自由だが、それをここに書く神経が分からない。
 読者がこれを読んで心から同意する絵を想像しているのだろうか?
 それはとても恐ろしい情景だ。
文章の宛て先について考えるようになってから、
新聞の中でまともに読める記事がとても少なくなった。
公正中立なんて絵空事だと分かってはいても、
わずかな陰翳もなくそれを表されると、心が乱れる。
つい最近まで1ヶ月ほど新聞を止めていたのだけど、
新聞の読み方を忘れてしまったのだろうか。
(その間毎朝プリントアウトした内田樹のブログを読んでいたせいかも)

なぜこれがきっかけなのか、書いていて全然分からないけれど本題に戻る。
いや、戻る前にきっかけをもう一つ思い出した。
同じく朝刊にあった「サイボーグ009」の全面広告だ。
何十年も前に言われたことが、そのまま現代に通じる。
それは、がらりと変わった世の中の、しかし変わらない部分への言及なのだ。
けれど世の中はそれを変えようと努力してきたはずだった。
そして、しかし何も変わっていない。
「しかし何も変わっていない」と、その広告は言っているように読めた。
そう言えるだろうけど、本当だろうか?と僕は思った。
変わっていないのは広告の方で、そしてこの事実認知が誤認なら、
これは行為遂行的な広告ということになる。
つまり「そう言っているうちにみんなそう思うようになる」という。
これはいかん、と思った。

草の根的な活動が大事、とは内田樹とその友人達の著書で散々指摘がある。
(ナマモノを扱う人はみんなそのことを言っているのだと思う。
 名越康文、甲野善紀、鷲田清一、釈徹宗、養老孟司、…)
その通りだと思って、そうしたいと思った。
そうしたいとは、ナマモノに接する、ということ。

なんというか、微妙な話だけれど、今の自分の所属は閉じている。
閉鎖的、とも言えるし、安定しているとも言えるし、
何よりここで関係する言い方をすれば「外界と接する必要性がない」。
平和といえばそうだが、僕はこれに染まりたくはない。
この意識は、仕事の効率を下げようとも、常に念頭にある。
僕にはそれは麻痺、鈍感になることに思える。
人がそうなるのを非難する気は全くないし、だいいちそれは適応で、
その集団内で推奨される正しい振る舞いだと思う。

まとまりがないけれど途中を飛ばすと…

今の生活は自分で選んでいるし、できる限り適応するつもりで、している。
今の生活が終わって、がらりと変わった別の生活のことを想像することも、
今の生活に適応することの中に含まれている。
この想像を止めれば、もっと公私ともに自信を持てるし、仕事効率も上がる。
きっとその通りで、しかしそれは僕は望んでいない。
きっと僕は、そういう人なのだ(になりたい?)と思う。

そして、がらりと変わった別の生活を始めることになったら、
たぶん、旅に出る。
戻ってくる家のない、片道切符の旅。
戻ってくる家がある時、旅は否応なく旅行になるのだと思う。
けれど、僕がしたいのは、旅行ではなく旅なのだ。

一冊読むごとに、自分の何かが変わる。
僕にとっての読書は、これも、旅行ではなく旅だ。
だから、読書の旅を続けているうちに、本当の旅に出ることもあり得る。

このような想像を阻害されない今の生活は、上出来だと思う。
(…)フランスの革命の時に、バステユという牢屋を打壊して中から罪人を引出してやったら、喜こぶと思いの外、かえって日の眼を見るのを恐れて、依然として暗い中に這入っていたがったという話があります。ちょっと可笑しな話であるが、日本でも乞食を三日すれば忘れられないといいますからあるいは本当かも知れません。乞食の型とか牢屋の型とかいうのも妙な言葉ですが、長い年月の間には人間本来の傾向もそういう風に矯めることが出来ないとも限りません
 こんな例ばかり見れば既成の型でどこまでも押して行けるという結論にもなりましょうが、それなら何故徳川氏が亡びて、維新の革命がどうして起ったか。つまり一つの型を永久に持続する事を中味の方で拒むからなんでしょう。なるほど一時は在来の型で抑えられるかも知れないが、どうしたって内容に伴れ添わない形式はいつか爆発しなければならぬと見るのが穏当で合理的な見解であると思う

夏目漱石『私の個人主義』p.87-88(「中味と形式」)

この本は年末年始に読もうと思って帰省前に自室の本棚から選んだ一冊である。
普段読まなさそうなものをと思い、行き帰りで読み終えられそうな薄さだったのも好材料だったのだけど、結局行き帰りで読み終えることはできず(読んだのは行きだけで、帰省してから戻ってくるまでは『太陽の塔』に夢中になっていた)、週末カフェ本にスライドしたのだった。
それで今日もブックオフで良い出物があり(赤瀬川源平と尾辻克彦の共著って一人二役やないですかの『東京路上観察記』とかつて一世を風靡したらしい小田実の貧乏旅行記『何でも見てやろう』の2冊)、ほくほくしながらベローチェに向かい続きを読んでいると、何の因果か今の自分にタイムリーな話が出てきたので抜粋してみた。
(関係ないけど、抜粋の最後で「爆発」と「穏当」が並んでいるのが面白い。同じ意味の文章を書いても僕にはこのような表現を選べないなあと思った)
分かりにくい言い方だけど、行きに読んでた中ではこういった感じの内容はなかったはずで(小節のタイトルは「道楽と職業」と「現代日本の開化」)、そうはいっても本書全体に通ずるテーマというか通奏低音はあるはずで、ならば今回のゆくくるの進行を導いたのはこの本だったのかもしれない。
読書において本の偏りはあっても「偶然の出会い」はとても頻繁に起こっていて(この内容はあの本にも書いてあったとか、これはまさに今自分が知りたいと思っていたことだとか、この部分は昨日カフェでみたあの高校生のような人のことを言っているのではないかとか)、それは単なる偶然ととらえるよりはこの読書こそが自分の生活を形作っているあるいはベースとなっていると考えたい。
そう考えた方が、前向きになれるからだ。
その方が、自分は変われるのだと思えるからだ。
今回のゆくくるを書く間深く考えてから、自分の価値観や対人挙動の一つひとつに今までは意識していなかった「刻印」が見えるようになった。
一度知るともう後戻りはできなくて、これから僕がしていくべきことは、その一つひとつをしっかり見る、把握することだ。
それをどうするかは個々別々だし見てみないと分からないが、見ようとしなかったことが見えるだけで状況は変わるし、対処法もその時に分かるのだと思う。
習慣の力は恐ろしいが、習慣を克服するために必要なのも習慣の力だ。
「考える前に考えるんだ」(これも偶然今日の夕食時に読んだ内田氏ブログにあった話)と同じことかもしれない。
急がば回れと言うけれど、急がずとも回ろう。
くるくると。
既に内面生活が違っているとすれば、それを統一する形式というのも、自然ズレて来なければならない。もしその形式をズラさないで、元の儘に据えて置いて、そうしてどこまでもその中に我々のこの変化しつつある生活の内容を押込めようとするならば失敗するのは眼に見えている。(…)内容の変化に注意もなく頓着もなく、一定不変の型を立てて、そうしてその型はただ在来あるからという意味で、またその型を自分が好いているというだけで、そうして傍観者たる学者のような態度を以て、相手の生活の内容に自分が触れることなしに推して行ったならば危ない。
同上 p.89-90
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