幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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私の知識のすべては、カテゴリー上は「雑」というところに属して、「雑なもの」しか私の頭には入らない。「雑なら入る」と思うから、教科書もテキトーに裁断されて「雑の一種」と化された上で、「入りそうな分だけは入る」で生きて来た。おかげで、知識間の結合がゆるくて、その結果「どうにでもなる」というメリットを生んだ。全然知らなくても、別に困らない──なぜならば、全ての知識間の結合がゆるくて隙間だらけだから、「全然知らない」という知識の欠落も、「よくあるゆるい隙間」の一種と解釈されて、別に困らない。「別に困らない」というのは偉大なことで、困らないものは困らない──そして、困らないでいると、「雑な知識」が入って来ることを妨げない。「雑な知識」があって、ゆるい隙間もいっぱいあると、「これとこれを結び合わせるとこういう考えが生まれるな」ということになって、いくらでも思考の構築が出来る──もちろんそれは「自分に必要な」の限定つきではあるけれど。
橋本治『橋本治という行き方 WHAT A WAY TO GO!』p.76-77 「アカデミズムを考える」
これは全部ものすごいことを言っていて、しかしハシモト氏にとってこれが当たり前だという前提は最後にある「自分に必要な(こと)」が自身にとって明確であることだ。
この文章だけを見るとこの「自分の必要」に他人に属する事柄が一切含まれていないように見える。
いろいろな氏の本の内容を思い返すと「身近な他人」がハシモト氏に決定的な影響を与える、とか他者の存在をして氏を衝き動かすとかいったことがないかなという印象が最初に浮かんで、でもそんなはずはなくて商家の息子でいた時の近所のおじさんおばさんやら学生の頃の担当教授やら作家になってからの助手をはじめ(身近ではないのだが)歴史上の人物である小林秀雄や三島由紀夫など色んな人がいるはずで、しかし彼らの話を社会批評のフリに使うところから著作を手当たり次第読み込んで本のタイトルにその著者名を冠してしまうような一心不乱まで幅広いグラデーションがあるにせよ氏が他者(本人なりその思想なり)と関わって綴られる文章は徹底的に私的でありながら普遍性に溢れている((人類)史的?)。
ひょっとして氏にとっての自分とは「世界」のことなのではないか?
「地球規模のお節介」とでも言えそうな。
それがぶっ飛んでいるように見えるのは現代では個人主義的価値観がデフォルトだからで、「意識の始まり」には氏の考え方が明らかに近く(という発想はさっき読んだウチダ氏ブログ↓からの連想)、考えを深めていけば(あるいはどこまでも身体に正直でいて思考をその正直な身体に沿わせていけば)違う経路を辿って同じ地点に至るのかもしれない(ここで「同じ」と感じたのがハルキ氏の文章↓)。
経済活動の起源にあるのは、沈黙交易であるが、これは「私は見知らぬ人から贈与を受けた」という自覚から始まる。(…)
たまたまそのへんに転がっていたものを「自分あての贈り物」と「勘違い」した人間の出現が経済活動の「最初の一撃」だったからである。
自分あての贈り物に対して反対給付の義務を感じたことによって親族も、言語も、経済活動も、すべては始まった。
だから、世界の起源にあるのは、厳密に言えば「贈与」ではなく、「贈与されたので反対給付しなければならない」という「負債」の感覚なのである。
内田樹の研究室 2010.04.12 「政治と経済と武道について語る終末」
(…)でも僕にはうまく表現できないのだけれど、どんなに遠くまで行っても、いや遠くに行けば行くほど、僕らがそこで発見するものはただの僕ら自身でしかないんじゃないかという気がする。狼も、臼砲弾も、停電の薄暗闇の中の戦争博物館も、結局はみんな僕自身の一部でしかなかったのではないか、それらは僕によって発見されるのを、そこでじっと待っていただけなのではないだろうか。
村上春樹『辺境 近境』p.190 「ノモンハンの鉄の墓場」
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