幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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縁は「鶏」と「卵」をつなぐ関係性。
味噌汁がまた一段と進化を遂げようとしている。
それは未知なのだが同時に怪しげでもある。
深化でもなく神化なわけがなく、近いのはシンカー。
予想の斜め上ではなく「予想の斜め右下」という二重の意外性。
経緯といえば、部署の後輩(先輩方に対して忌憚なく渾名を付ける子で、僕が部署に移ってきて最初に「剥き牛蒡」と呼び、ロンゲの髪をばっさり切った後は「真面目なサラリーマン」になっている)と味噌汁の話をした時に「母親からは『味噌は火を止めてから溶きなさい』って散々仕込まれました」とか「めかぶを入れると美味しいんですけど煮込み過ぎるとみそ汁が緑色になっちゃいます」とか「ダシはやっぱりカツオですかね、顆粒ですけど」などの興味をそそる話があって、実際その日の味噌汁を作る時に味噌を全部具を煮込んでからの最後に溶かして食べたらやけにあっさりしていて「ちょっと自分の好みではないかな…」とこういう部分ではすぐ行動に移す自分に特に違和感を持たないがそれはよくて、昨日スーパーで買い物してる時にこの「味噌汁の進化の契機」を得ていたものだから普段と同じ陳列棚を見ていながら頭の中には光るものがあって、めかぶを買ったのはまあ話と直接繋がるのだけど同時に生姜も買った(パッケージに「隠し味に」と書いてあるのを見て言葉が浮かぶ前にカゴに放り込んでいた)。
味噌汁に生姜なんてまあ聞いたことはなくて、もしかして恐ろしいことにもなりかねないが、もう具を仕込んでしまったので後戻りはできない。この次タームの具は3日後の鍋に投入されることになるのだが、それとは別に明日から数日間はアスパラとちんげん菜も炒められた後に「いつもの具」達と合流することになっている。
それはなぜというに自分にとってこれほど自然な理由もないのだけど、サラダの野菜が余ったからである。社会人生活が始まった時に決めた「草を4種以上」というサラダルールが今まで破られたことはなくて、しかし何の欲求不満があるのか最近は6種になることが多く(いちおう考えて選んでいるのだけど、冷蔵庫の在庫を買い物の時にいつも完全に把握しているわけではなく、しかも毎日朝晩同じ料理を食べていながら品目が多くて複雑なので買い物において「完全な成功」を収める頻度は半々といったところである)、使う皿もこの3年間でほぼ変わっていない(4枚を使い回していて、いつか一度だけ1枚割れたので似たような大きさのものに買い替えている)ので盛りつけから溢れた分の野菜は他に回されることになるのだが、今の食生活からして行き先が味噌汁以外にありえないのである。
味噌汁が進化する時はいつもこのように複数の要素が一緒に変わるので、味の変化が整った筋道を通らないというか、言ってしまえば味噌汁に関しては「進むべき方向」なんて初めからなくて、それが味噌汁に限らないことを裏付けるというか、その思想の土台になるのもやはり味噌汁しかなくて、しかし最近昼休みに読んでいるTechOnの養老孟司と隈研吾の対談記事の「だましだまし生きていく」というテーマと共鳴していることも偶然ではないのである。
気付けば縁が、縁を呼ぶ。
(今の流行りは「円がドルを呼ぶ」ですかね)
味噌汁がまた一段と進化を遂げようとしている。
それは未知なのだが同時に怪しげでもある。
深化でもなく神化なわけがなく、近いのはシンカー。
予想の斜め上ではなく「予想の斜め右下」という二重の意外性。
経緯といえば、部署の後輩(先輩方に対して忌憚なく渾名を付ける子で、僕が部署に移ってきて最初に「剥き牛蒡」と呼び、ロンゲの髪をばっさり切った後は「真面目なサラリーマン」になっている)と味噌汁の話をした時に「母親からは『味噌は火を止めてから溶きなさい』って散々仕込まれました」とか「めかぶを入れると美味しいんですけど煮込み過ぎるとみそ汁が緑色になっちゃいます」とか「ダシはやっぱりカツオですかね、顆粒ですけど」などの興味をそそる話があって、実際その日の味噌汁を作る時に味噌を全部具を煮込んでからの最後に溶かして食べたらやけにあっさりしていて「ちょっと自分の好みではないかな…」とこういう部分ではすぐ行動に移す自分に特に違和感を持たないがそれはよくて、昨日スーパーで買い物してる時にこの「味噌汁の進化の契機」を得ていたものだから普段と同じ陳列棚を見ていながら頭の中には光るものがあって、めかぶを買ったのはまあ話と直接繋がるのだけど同時に生姜も買った(パッケージに「隠し味に」と書いてあるのを見て言葉が浮かぶ前にカゴに放り込んでいた)。
味噌汁に生姜なんてまあ聞いたことはなくて、もしかして恐ろしいことにもなりかねないが、もう具を仕込んでしまったので後戻りはできない。この次タームの具は3日後の鍋に投入されることになるのだが、それとは別に明日から数日間はアスパラとちんげん菜も炒められた後に「いつもの具」達と合流することになっている。
それはなぜというに自分にとってこれほど自然な理由もないのだけど、サラダの野菜が余ったからである。社会人生活が始まった時に決めた「草を4種以上」というサラダルールが今まで破られたことはなくて、しかし何の欲求不満があるのか最近は6種になることが多く(いちおう考えて選んでいるのだけど、冷蔵庫の在庫を買い物の時にいつも完全に把握しているわけではなく、しかも毎日朝晩同じ料理を食べていながら品目が多くて複雑なので買い物において「完全な成功」を収める頻度は半々といったところである)、使う皿もこの3年間でほぼ変わっていない(4枚を使い回していて、いつか一度だけ1枚割れたので似たような大きさのものに買い替えている)ので盛りつけから溢れた分の野菜は他に回されることになるのだが、今の食生活からして行き先が味噌汁以外にありえないのである。
味噌汁が進化する時はいつもこのように複数の要素が一緒に変わるので、味の変化が整った筋道を通らないというか、言ってしまえば味噌汁に関しては「進むべき方向」なんて初めからなくて、それが味噌汁に限らないことを裏付けるというか、その思想の土台になるのもやはり味噌汁しかなくて、しかし最近昼休みに読んでいるTechOnの養老孟司と隈研吾の対談記事の「だましだまし生きていく」というテーマと共鳴していることも偶然ではないのである。
気付けば縁が、縁を呼ぶ。
(今の流行りは「円がドルを呼ぶ」ですかね)
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