幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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知の蓄積と俯瞰について。
知識が増えると、その分野を広く見渡せているような気になる。
しかしそれが「俯瞰できている状態」とは限らない。
高い所から街並を見下ろす。
大文字山でも、スカイツリーでもいい。
その見下ろしていることを「街並を一望俯瞰する」と言う。
これは目が米粒のような建物の膨大な散らばりを見ている以上のものではない。
そこから何かを考えることは「一望俯瞰」には含まれない。
頭の中での「俯瞰」を考える時、上記の一望俯瞰はメタファーとして機能している。
メタファーはその対象とイコールではないので、この場合の「俯瞰」には「そこから何かを考えること」が含まれている。
イコールでないことはいいのだけど、実際の行動や感覚を思考のメタファーに使う時に注意しなければならないのは、元の対象とは異なる(そして時に全く関係のない)事象が含まれ、そこから異なる意味が生まれることだ。
もちろんそれは概念の拡張作用というメタファーの主な効果の表れではあって、「元の対象と全く関係のない事象」の前には「このたびメタファーを介することがなければ」がくっついていて、それは「袖触れ合うも多生の縁」というか「シニフィアンとシニフィエの結合の恣意性」という言語の成り立ちと同じ感動がそこにはある。
注意するのは概念の拡張そのことではなく、「拡張」がその思考の目指す方向性に沿っているかどうかである。
閑話休題。
ある分野について勉強して、知識を蓄えて、詳しくなる。
その分野について人に語ることができるようになる。
この時、その分野について俯瞰できている、と表現する。
これを、高い所から街を見下ろすイメージでとらえるとどうなるか。
一望俯瞰に「その先の思考はない」と言った。
思考はないが、満足はある。
その満足はどこからくるか。
例えば擬似的な権力者の優越感としてみよう。
すると、知における俯瞰のもたらす満足が卑小に感じられてしまう。
なぜといって、知における俯瞰の僕のイメージは以下のようなものだからだ。
ある分野について、その細かい所を掘り下げる時に、その深化作業の分野全体における位置を把握できていること。
ディテールの構築やその組み合わせ方の発見(「要素作業」と呼んでみよう)の楽しさとは別に、要素作業の大枠の意味(一般にそれを含む分野における意味だけでなく、他分野との関係性、すなわち別の分野を枠にもってきた時に持つ意味やその別分野に含まれる要素との組み合わせが生み出す意味などを指す)にも想像が及ぶこと。
これは満足というよりは(不満でもないが)渇望だ。
分かることが増えると、同じだけあるいはそれ以上に分からないことが増える。
人は「分からないことを減らす」ために分かろうとするのではなく、全く逆で、「分からないことを増やす」ために分かろうとする。
ただそれを表面的に見ると矛盾していて気持ちが悪い。
だから満足ではない。
スカイツリーから東京の街並を眺めて(僕は見たことはないが)、不満になることがあるだろうか?
あるとすればそれは「一望俯瞰」とは関係のない、個別な事情によるものだろう。
そうとも限らないだろうけどそれはどうでもよくて、最初に言いたかった(と今思い付いた)ことは「俯瞰のメタファー」にちょっとした「いかがわしさ」を感じるということだ。
それは科学の発展してきた方向性(「要素技術の発展」とか「分類志向」とか)が生んだもののように感じる。
博物学的志向といえば簡潔にまとまりそうだが、きっとこれも、それが学問になる前には無かった発想なのだと思う。
ファーブルがその最初から昆虫を分類したくて虫の観察に没頭したのか。
きっとそうではないと思い、しかし分類が悪いと言いたいわけでもなく、むしろ「色んなものが身の回りにあって、それらに共通点を見出せたら(その洞察の表現として)分類したくなってしまうものだ」とまずは認めようじゃないか、と言いたいだけかもしれない。
そしてその分類志向が「手段に留まるか目的になるか」が運命の分かれ道なのだ。
知識が増えると、その分野を広く見渡せているような気になる。
しかしそれが「俯瞰できている状態」とは限らない。
高い所から街並を見下ろす。
大文字山でも、スカイツリーでもいい。
その見下ろしていることを「街並を一望俯瞰する」と言う。
これは目が米粒のような建物の膨大な散らばりを見ている以上のものではない。
そこから何かを考えることは「一望俯瞰」には含まれない。
頭の中での「俯瞰」を考える時、上記の一望俯瞰はメタファーとして機能している。
メタファーはその対象とイコールではないので、この場合の「俯瞰」には「そこから何かを考えること」が含まれている。
イコールでないことはいいのだけど、実際の行動や感覚を思考のメタファーに使う時に注意しなければならないのは、元の対象とは異なる(そして時に全く関係のない)事象が含まれ、そこから異なる意味が生まれることだ。
もちろんそれは概念の拡張作用というメタファーの主な効果の表れではあって、「元の対象と全く関係のない事象」の前には「このたびメタファーを介することがなければ」がくっついていて、それは「袖触れ合うも多生の縁」というか「シニフィアンとシニフィエの結合の恣意性」という言語の成り立ちと同じ感動がそこにはある。
注意するのは概念の拡張そのことではなく、「拡張」がその思考の目指す方向性に沿っているかどうかである。
閑話休題。
ある分野について勉強して、知識を蓄えて、詳しくなる。
その分野について人に語ることができるようになる。
この時、その分野について俯瞰できている、と表現する。
これを、高い所から街を見下ろすイメージでとらえるとどうなるか。
一望俯瞰に「その先の思考はない」と言った。
思考はないが、満足はある。
その満足はどこからくるか。
例えば擬似的な権力者の優越感としてみよう。
すると、知における俯瞰のもたらす満足が卑小に感じられてしまう。
なぜといって、知における俯瞰の僕のイメージは以下のようなものだからだ。
ある分野について、その細かい所を掘り下げる時に、その深化作業の分野全体における位置を把握できていること。
ディテールの構築やその組み合わせ方の発見(「要素作業」と呼んでみよう)の楽しさとは別に、要素作業の大枠の意味(一般にそれを含む分野における意味だけでなく、他分野との関係性、すなわち別の分野を枠にもってきた時に持つ意味やその別分野に含まれる要素との組み合わせが生み出す意味などを指す)にも想像が及ぶこと。
これは満足というよりは(不満でもないが)渇望だ。
分かることが増えると、同じだけあるいはそれ以上に分からないことが増える。
人は「分からないことを減らす」ために分かろうとするのではなく、全く逆で、「分からないことを増やす」ために分かろうとする。
ただそれを表面的に見ると矛盾していて気持ちが悪い。
だから満足ではない。
スカイツリーから東京の街並を眺めて(僕は見たことはないが)、不満になることがあるだろうか?
あるとすればそれは「一望俯瞰」とは関係のない、個別な事情によるものだろう。
そうとも限らないだろうけどそれはどうでもよくて、最初に言いたかった(と今思い付いた)ことは「俯瞰のメタファー」にちょっとした「いかがわしさ」を感じるということだ。
それは科学の発展してきた方向性(「要素技術の発展」とか「分類志向」とか)が生んだもののように感じる。
博物学的志向といえば簡潔にまとまりそうだが、きっとこれも、それが学問になる前には無かった発想なのだと思う。
ファーブルがその最初から昆虫を分類したくて虫の観察に没頭したのか。
きっとそうではないと思い、しかし分類が悪いと言いたいわけでもなく、むしろ「色んなものが身の回りにあって、それらに共通点を見出せたら(その洞察の表現として)分類したくなってしまうものだ」とまずは認めようじゃないか、と言いたいだけかもしれない。
そしてその分類志向が「手段に留まるか目的になるか」が運命の分かれ道なのだ。
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