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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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「外れた部分」を持つこと。

個性とは、原理的には一人ひとりに備わっている。
それを殊更「個性を伸ばす」などと強調するのはなぜか。
「もともと個性はないから努力して獲得すべし」は嘘だ。
「役に立たない個性は役立つように改善すべし」は本当かもしれない。
「個性を意識し続けることで喜ぶ人がいる」ことも確からしい。
ここでは社会の要請はおいて、個人の内側における意識を考えよう。
すなわち「個性があるという意識がその人を安心させる」のはなぜか。

個性の存在は人を安心させるものだが、その一方で「人と同じであること」も安心をもたらす。
個性は「人とは違う性質」のことだから、ふつうに考えたら矛盾で、しかし両者が同時に成り立つということは、安心させる仕組みが両者では違うということだ。
一見どちらも脳的な安心(意識の産物)のように思えるが、個性が概念である(でしかない)のに対し「人と同じであること」は、そうであると意識して安心する「前段」がある。
すぐ思い付くのは「人の一部であること」、母の体内に住まう胎児だ。
胎内回帰願望という言葉もある。
その記憶の有無はおいて、全ての人間にはその体験がある。
「全ての人間にはその体験がある」という大きな事実が「そうであると意識することによる安心」を担保しているのだろうが、やはりその前段には体験がある。

純粋に意識の産物である「個性があると意識することによる安心」を掘り下げたい。
上で書いた社会の要請とは、「世間では個性があることが良いことだと思われている」ということだ。
言い換えて繋げると「みんなと同じように個性があることで人は安心する」となる。
「みんなと同じように個性がある」?
変な言い回しだが、ちゃんと考えるならばここの個性を「その人の置かれた場面に応じた(周囲の人間にとって)役立つ性質」と言い換える必要がある。
しかしここではそういう意味で「ちゃんと考える」のではなく、わざと意味を曖昧にさせて都合良く使われている「個性」という言葉を、社会がそうしているのと同じ目的で、しかし別の仕方で解釈してみたい。
「みんなと同じように個性がある」ことで僕らは安心することになっている。
実は「個性」の内容を細かく問わずとも、それをお題目として意識すれば安心する。
例えばそれが「社会的には全く役に立たない個性」であってもよい。
そして「個性」の"個"性というのは、内容よりも性質に宿るものである。
役に立つか立たないかではなく、独特であるか類型的であるか。
その判断主体は誰だろう?
世間が「君の個性は独特だ」と言った時、僕の個性は独特だろうか?
世間のみんなの間で意見の一致している「独特な個性」こそ類型的ではないのか?
かと言って、世間の言う類型的な性質が独特な個性に化けるわけではない。
マイナスのマイナスはプラスという話ではない。
これは数直線上の出来事ではなく、集合論の話である。
「世間の中で意見の一致している事柄」はその内容に関係なく、須く世間的である。
あるいは世間の中でのみ通用する独特さ、「世間的な独特」というものがある。
内田樹がブログで自著を解説する段においてこんなことを言っている。
辺境民が自分が辺境民であることを否定する際のわずかな身振りに、自らの辺境性が露呈している。辺境民は己の辺境性から逃れることはできない。
そうかもしれない。
この話を解釈に使うとどうなるだろうか?
「世間的な独特」を独特な個性だと疑わないことが自己の世間性を受け入れることになるのだろうか?
きっと半分は当たっている。
では当たっていない半分はといえば、それと意識しないことが全て「自己の世間性を受け入れる」ことにはならないということだ。

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