幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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旅の総括はこの3回目で最後にしようと思う。
書いておきたいことがあと2つ残っている。
ひとつは道中思った「人工を肯定すべきだ」という認識、
いまひとつは昨日今日振り返って思った「リセットの方法」について。
まずは、ひとつめ。
自分の頭の中で考える限り、科学技術の発達に対して懐疑的な印象を持っている。
確かに生活は豊かになったが、失われたものも大きいのではないか?
自分がこだわる身体性もその最たる一つだろう。
しかし産業革命以前の生活を礼賛するつもりはないし、
「昔に戻ろう」と現代技術をことごとく否定するのは非現実的である。
そうは言いながらも、自分の中で自然への憧れはいまだ強く、
気分転換と言っては街から離れる方向に散歩に出かける日常を過ごしていた。
半導体がらみの研究開発を職業としているが、その仕事内容に興味を持ちながらも
自分の生活とは結びつかないものとして捉えていた。
これも理念先行の偏った思考の短絡でしかないのだが、
普段の生活の細微に目を向けず「頭の中が充実していればよい」と思っていた。
今回の旅で「出たとこ勝負」ながら自然へと足が向いたのもその日常の延長だが、
自然が売りの観光の街を有り余る時間に任せて長く散策していると、
自然の隙間の至る所に人工物が、技術の粋が散在していることに気付いた。
そして「自分はこれら技術が全く存在しない世界を想像できるか?」と思った。
その疑問は発した最初から反語だと気付いており、つまり答えはNoである。
生まれた時から極度に発達した技術に囲まれて育った人間にとって、
ノスタルジィを感じるのは人工物であり、大自然は忌むべき排除の対象である。
「古き良き時代」のイメージは、数世代前からその実感が失われて久しい。
そしてその「実感の失われたイメージ」にとらわれ魅力を感じてしまうのは、
実体を見ず、理念に拘り思考に埋没する「現状に倦んだ現代人」であり、
自分は紛れもなくその一員に成り果てていたと気付いたのだった。
脳を通してしかものを見ていない自分には身体性のかけらもない。
つまり、「人工否定自然礼賛」思考は自分にとって極めて不自然であったのだ。
生活を振り返れば、自分がいかに自然から離れ人工物に囲まれて暮らしているか。
「実体を大切にする」とはまず、この現状をあやまたず認識することだ。
その後に思考を研ぎ澄ませ、あるべき自分の生き方を想像する。
…と書くと先走りになるので、まずは自分の生活の細微を捉え直す。
「現状肯定」は前から座右の銘としていたが、その「現状」には実体が無かった。
今文章を打ち込んでいるPCや美味しく戴いているコーヒー、あるいは沢山の本。
これら生活を豊かにしているものを成り立たせている「技術」をまず肯定する。
この認識がひいては仕事のモチベーション向上にも繋がる。間違いなく。
さて、最後の2つめ。
趣味が読書のみとなると、普段の生活からどうしても実体が抜け落ちる。
読書は好きだし思考を続けることは生き甲斐でもあるが、
これまでの生活を改めるためには「実体感覚の維持」の方法を考える必要がある。
本記事の最初に「リセット」と書いたのは思考基盤のリセットのことで、つまり
頭を回し過ぎて脳というか思考内容が身体を侵蝕し始めた時にどうするか、と。
これまでは散歩して体を動かしながら風景を眺めていればリセットできている、
と思っていたが歩きながらも思考をぐるぐる回していてはリセットにはならない。
散歩している時は机上で唸っているより「思考のキレがよい」とよく思うのだが、
これは単に身体(器官)としての脳が脚と連動して回りやすくなったからだろう。
だから散歩時の思考を「実体の伴った思考」と安易にとらえるのは間違いで、
頭が想像側に偏っていればどこでどう思考しようが身体と乖離することになる。
今回の旅のおかげで生活に対してポジティブになれたのでリセットできたはずだが、
それでは旅のどの部分がリセットの効果をもたらしたのだろうか?
もちろんふつうの旅行と同じく「非日常を味わえた」こともあるだろうし、
大自然(これも非日常の一部だが)の中でリフレッシュできたこともある。
しかしそれらより自分に取って本質的だと思った要素がある。
(むしろ「それらを包含しており、抽象した要素」と言った方がよいか)
それは「偏った想像を実体ベースで修正すること」。
旅の中で自分が感じた様々な違和感がこれに該当する。
例えば駅改札での駅員との切符のやりとりの瞬間。
つまり、気遣いが野暮ったさに受け取られた瞬間。
例えば(自分が座っている)電車内での高校生たちのふるまい。
つまり、私的空間の大きさ、あるいは公共の場との折り合いの付け方。
簡単に言えば「人は自分が思うほど自分を気にしていない」ことの再認識。
言われれば誰もがそうだと思うが、頭でっかちになっていると実感が伴わない。
何しろ自分の頭の中のことこそが重要だと言い張って聞かない状態だから、
「人のことを考えている」も「自分のことを考えている」にしかならない。
その再認識は主に人とのやりとりを通じて成されるが、
自分に対する相手のふるまいが自分の思った通りだと逆効果となる。
偏った想像の修正のはずが、想像を補強することになってしまう。
だから大事なのは「違和感」なのだ。
都会人が田舎に行けば、ささいなことでも違和感が得られる。
だから今回の旅では(この件について)能動的でなくとも得るものが大きかった。
そしてしかしここでは普段の生活における想像偏重のリセット、
実体感覚を取り戻す方法を考えているのだった。
と言って別に難しく考える必要はなくて、プライベートでも人と会えばよいのだ。
そしてその場では現状維持でなく、変化をもたらすように動く。
「相手を傷つけないように」は自分の頭の中を肯定したいだけでしかない。
相手をそして自分を傷つけることを恐れないことが、実体と向き合う一つの方法。
変化の例が「相手を傷つけるか否か」というのも唐突な話だが、
これを書く自分がまず思い付いたことからも分かるが重要なのだ。
「自分発」でなければ相手が傷ついても構わない(「相手の勝手だ」)と
頭では思っていて、しかし相手が傷ついたことに自分も傷つく。
自分が傷ついたことは紛れもなく自分の身体反応のはずなのだが、
それを無視して「自分の中の理念の達成」に頭だけが満足している。
身体性を重視する自分のこの矛盾に、頭でっかちの自分は気付けなかった。
身に染みるべきは、読書では決して培われずして「自分は"生身"の素人だ」と。
これで書きたいことは全部書き終えた。
また思い付けば書き足すが、ひとまずこれで一区切りとする。
会社の長期休暇(GWがなかったのでその振替でした)は今日でおしまい。
心機一転、明日からお仕事頑張りましょう。
書いておきたいことがあと2つ残っている。
ひとつは道中思った「人工を肯定すべきだ」という認識、
いまひとつは昨日今日振り返って思った「リセットの方法」について。
まずは、ひとつめ。
自分の頭の中で考える限り、科学技術の発達に対して懐疑的な印象を持っている。
確かに生活は豊かになったが、失われたものも大きいのではないか?
自分がこだわる身体性もその最たる一つだろう。
しかし産業革命以前の生活を礼賛するつもりはないし、
「昔に戻ろう」と現代技術をことごとく否定するのは非現実的である。
そうは言いながらも、自分の中で自然への憧れはいまだ強く、
気分転換と言っては街から離れる方向に散歩に出かける日常を過ごしていた。
半導体がらみの研究開発を職業としているが、その仕事内容に興味を持ちながらも
自分の生活とは結びつかないものとして捉えていた。
これも理念先行の偏った思考の短絡でしかないのだが、
普段の生活の細微に目を向けず「頭の中が充実していればよい」と思っていた。
今回の旅で「出たとこ勝負」ながら自然へと足が向いたのもその日常の延長だが、
自然が売りの観光の街を有り余る時間に任せて長く散策していると、
自然の隙間の至る所に人工物が、技術の粋が散在していることに気付いた。
そして「自分はこれら技術が全く存在しない世界を想像できるか?」と思った。
その疑問は発した最初から反語だと気付いており、つまり答えはNoである。
生まれた時から極度に発達した技術に囲まれて育った人間にとって、
ノスタルジィを感じるのは人工物であり、大自然は忌むべき排除の対象である。
「古き良き時代」のイメージは、数世代前からその実感が失われて久しい。
そしてその「実感の失われたイメージ」にとらわれ魅力を感じてしまうのは、
実体を見ず、理念に拘り思考に埋没する「現状に倦んだ現代人」であり、
自分は紛れもなくその一員に成り果てていたと気付いたのだった。
脳を通してしかものを見ていない自分には身体性のかけらもない。
つまり、「人工否定自然礼賛」思考は自分にとって極めて不自然であったのだ。
生活を振り返れば、自分がいかに自然から離れ人工物に囲まれて暮らしているか。
「実体を大切にする」とはまず、この現状をあやまたず認識することだ。
その後に思考を研ぎ澄ませ、あるべき自分の生き方を想像する。
…と書くと先走りになるので、まずは自分の生活の細微を捉え直す。
「現状肯定」は前から座右の銘としていたが、その「現状」には実体が無かった。
今文章を打ち込んでいるPCや美味しく戴いているコーヒー、あるいは沢山の本。
これら生活を豊かにしているものを成り立たせている「技術」をまず肯定する。
この認識がひいては仕事のモチベーション向上にも繋がる。間違いなく。
さて、最後の2つめ。
趣味が読書のみとなると、普段の生活からどうしても実体が抜け落ちる。
読書は好きだし思考を続けることは生き甲斐でもあるが、
これまでの生活を改めるためには「実体感覚の維持」の方法を考える必要がある。
本記事の最初に「リセット」と書いたのは思考基盤のリセットのことで、つまり
頭を回し過ぎて脳というか思考内容が身体を侵蝕し始めた時にどうするか、と。
これまでは散歩して体を動かしながら風景を眺めていればリセットできている、
と思っていたが歩きながらも思考をぐるぐる回していてはリセットにはならない。
散歩している時は机上で唸っているより「思考のキレがよい」とよく思うのだが、
これは単に身体(器官)としての脳が脚と連動して回りやすくなったからだろう。
だから散歩時の思考を「実体の伴った思考」と安易にとらえるのは間違いで、
頭が想像側に偏っていればどこでどう思考しようが身体と乖離することになる。
今回の旅のおかげで生活に対してポジティブになれたのでリセットできたはずだが、
それでは旅のどの部分がリセットの効果をもたらしたのだろうか?
もちろんふつうの旅行と同じく「非日常を味わえた」こともあるだろうし、
大自然(これも非日常の一部だが)の中でリフレッシュできたこともある。
しかしそれらより自分に取って本質的だと思った要素がある。
(むしろ「それらを包含しており、抽象した要素」と言った方がよいか)
それは「偏った想像を実体ベースで修正すること」。
旅の中で自分が感じた様々な違和感がこれに該当する。
例えば駅改札での駅員との切符のやりとりの瞬間。
つまり、気遣いが野暮ったさに受け取られた瞬間。
例えば(自分が座っている)電車内での高校生たちのふるまい。
つまり、私的空間の大きさ、あるいは公共の場との折り合いの付け方。
簡単に言えば「人は自分が思うほど自分を気にしていない」ことの再認識。
言われれば誰もがそうだと思うが、頭でっかちになっていると実感が伴わない。
何しろ自分の頭の中のことこそが重要だと言い張って聞かない状態だから、
「人のことを考えている」も「自分のことを考えている」にしかならない。
その再認識は主に人とのやりとりを通じて成されるが、
自分に対する相手のふるまいが自分の思った通りだと逆効果となる。
偏った想像の修正のはずが、想像を補強することになってしまう。
だから大事なのは「違和感」なのだ。
都会人が田舎に行けば、ささいなことでも違和感が得られる。
だから今回の旅では(この件について)能動的でなくとも得るものが大きかった。
そしてしかしここでは普段の生活における想像偏重のリセット、
実体感覚を取り戻す方法を考えているのだった。
と言って別に難しく考える必要はなくて、プライベートでも人と会えばよいのだ。
そしてその場では現状維持でなく、変化をもたらすように動く。
「相手を傷つけないように」は自分の頭の中を肯定したいだけでしかない。
相手をそして自分を傷つけることを恐れないことが、実体と向き合う一つの方法。
変化の例が「相手を傷つけるか否か」というのも唐突な話だが、
これを書く自分がまず思い付いたことからも分かるが重要なのだ。
「自分発」でなければ相手が傷ついても構わない(「相手の勝手だ」)と
頭では思っていて、しかし相手が傷ついたことに自分も傷つく。
自分が傷ついたことは紛れもなく自分の身体反応のはずなのだが、
それを無視して「自分の中の理念の達成」に頭だけが満足している。
身体性を重視する自分のこの矛盾に、頭でっかちの自分は気付けなかった。
身に染みるべきは、読書では決して培われずして「自分は"生身"の素人だ」と。
これで書きたいことは全部書き終えた。
また思い付けば書き足すが、ひとまずこれで一区切りとする。
会社の長期休暇(GWがなかったのでその振替でした)は今日でおしまい。
心機一転、明日からお仕事頑張りましょう。
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