幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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影(日陰)について。
森博嗣がウェブ日記(モリログアカデミーとして文庫化しているもの)で毎日載せている写真の中に、木や建物の影を撮ったものが多くある。
おそらく「何かを見つけた」からこそアップロードしたのだと思う。
全てに解題が付してあるわけではないので確信はもてないが、恐らく森氏が明確な意味を与えた写真がほとんどだと思う。
「秩序と無秩序」という二項をもってくると、まず無秩序の自然に大して秩序の人工物と言うことができる。
この場合の「秩序」とは「(頭が)考えた通り」という意味になる。
あるいは自然を秩序ある系と考えることもできて、動物の食物連鎖を想像すれば「生態系の秩序」になるけどそれが想像しやすいというだけで別に植物についても同じことだ(この辺の森一帯の生態系、とか)。
意味を与えるとは「秩序を見出す」と言い換えることが可能だ。
そして森氏はそれらの写真において(それが人工物であれ自然であれ)被写体の持つ元々の秩序があったとしても、その秩序とは異なる秩序としての意味を与えている。
その与えた意味そのものが面白い場合もあるだろうけど、「元々の秩序」からいかに離れた意味を見出せるかという飛躍(意外性といってもいい)が主要な面白さだと思っているはずで、その飛躍を評価するという方向性がともすれば野暮に陥りがちなのは、まず飛躍を見出すセンスが鋭角的であること、すなわち(発見者=森氏も含めて)見出す瞬間のキレを味わえるかどうかにかかっているからだ。
じっくり鑑賞して特徴を並べて分析するといった時間をかけたプロセスはその作品本来の意図とは別のものを見出すことになる。
もちろん見る方の勝手なのだが。
話を戻せば、森氏のウェブ日記の写真を解答の与えられぬまま数多く眺めているうち(「解答なき問い」というのは一度慣れればヤミツキになるものである。それが高じて唯一解を持っている問いも散漫に拡げてしまうところが善かれ悪しかれといったところではあって、その長期的な収支は予断を許さない)、「これは何か意味がありそうだ」という感覚が確証を離れて(?)日常化していき、自分が何を考えているかはおいといてまず対象に見入るという姿勢が自然になってきたように思う。
それを忘我状態と呼ぶのかもしれないが、目的を持って動いている時(つまり仕事中)はもちろんそんなことにはならない。
主に歩いている(散歩している)時の話で、(たぶん話変わるけど)足を止めないことがその忘我状態を推進することになっていると今思った。
歩きながら何かを見ていて、それをもっと良く見てみようと立ち止まるということは「ある対象を見るという目的を獲得した」ことになる。
その状態と、歩きながら何かを見つめていて、後ろ髪引かれつつも足が前に進むものだから自然と視点が前に戻るという「目的化されなかった流動的な注目」とに、大きな違いがあるのではないか。
それは思考過程である問いを見出した場合において、「短期的な解を求める姿勢」と「漠然とした方向性を探る程度でその先はペンディングする姿勢」との違いと対応しているのではないか。
森博嗣がウェブ日記(モリログアカデミーとして文庫化しているもの)で毎日載せている写真の中に、木や建物の影を撮ったものが多くある。
おそらく「何かを見つけた」からこそアップロードしたのだと思う。
全てに解題が付してあるわけではないので確信はもてないが、恐らく森氏が明確な意味を与えた写真がほとんどだと思う。
「秩序と無秩序」という二項をもってくると、まず無秩序の自然に大して秩序の人工物と言うことができる。
この場合の「秩序」とは「(頭が)考えた通り」という意味になる。
あるいは自然を秩序ある系と考えることもできて、動物の食物連鎖を想像すれば「生態系の秩序」になるけどそれが想像しやすいというだけで別に植物についても同じことだ(この辺の森一帯の生態系、とか)。
意味を与えるとは「秩序を見出す」と言い換えることが可能だ。
そして森氏はそれらの写真において(それが人工物であれ自然であれ)被写体の持つ元々の秩序があったとしても、その秩序とは異なる秩序としての意味を与えている。
その与えた意味そのものが面白い場合もあるだろうけど、「元々の秩序」からいかに離れた意味を見出せるかという飛躍(意外性といってもいい)が主要な面白さだと思っているはずで、その飛躍を評価するという方向性がともすれば野暮に陥りがちなのは、まず飛躍を見出すセンスが鋭角的であること、すなわち(発見者=森氏も含めて)見出す瞬間のキレを味わえるかどうかにかかっているからだ。
じっくり鑑賞して特徴を並べて分析するといった時間をかけたプロセスはその作品本来の意図とは別のものを見出すことになる。
もちろん見る方の勝手なのだが。
話を戻せば、森氏のウェブ日記の写真を解答の与えられぬまま数多く眺めているうち(「解答なき問い」というのは一度慣れればヤミツキになるものである。それが高じて唯一解を持っている問いも散漫に拡げてしまうところが善かれ悪しかれといったところではあって、その長期的な収支は予断を許さない)、「これは何か意味がありそうだ」という感覚が確証を離れて(?)日常化していき、自分が何を考えているかはおいといてまず対象に見入るという姿勢が自然になってきたように思う。
それを忘我状態と呼ぶのかもしれないが、目的を持って動いている時(つまり仕事中)はもちろんそんなことにはならない。
主に歩いている(散歩している)時の話で、(たぶん話変わるけど)足を止めないことがその忘我状態を推進することになっていると今思った。
歩きながら何かを見ていて、それをもっと良く見てみようと立ち止まるということは「ある対象を見るという目的を獲得した」ことになる。
その状態と、歩きながら何かを見つめていて、後ろ髪引かれつつも足が前に進むものだから自然と視点が前に戻るという「目的化されなかった流動的な注目」とに、大きな違いがあるのではないか。
それは思考過程である問いを見出した場合において、「短期的な解を求める姿勢」と「漠然とした方向性を探る程度でその先はペンディングする姿勢」との違いと対応しているのではないか。
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