幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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nは自然数(いまのところn>3)です。
橋本治の文章は表現が簡単で、使われている一つひとつの単語の意味で詰まることがまずない。
きっとそれは「在野の人」だからというのもありそうだが、吉本隆明の難解さ(晦渋なのかもしれないけど読み手との距離はそこそこ近くてきっと衒学的ではない)を例外と捉えるべきかは『母型論』しか読んだことないからわからない(実家で見つけた『共同幻想論』を持ち帰っているので近いうちに読みたい、と以前思ったことを今思い出した)。
表現が簡単なもんだからさらりと読めばするっと理解できそうで、しかし一文を読み飛ばさず思考を丁寧に展開していくと凄いことが惜しげもなくどどどと書かれていることに気付いてこちらの負担が一気に増えて、読み手の態度いかんで「さらり」が「どどど」になる文章はまず凄いのだが、その文章は色々な可能性をこちらに想像させてくれるものでもある。
引用のなかで特に下線を引いた箇所が「まさにその通り!」と僕は思って、読書が日常からの逃避というか気分転換なんかではなく読書と日常が密接に相互に影響を与えていて、この意味は「読書ばかりしている日常」ではなく「仕事とか炊事・食事とか散歩含めた日常に対する読書の影響力の大きいこと」であって、「評論でも小説でも一冊を読み終えるごとに自分が変わったように思える」ことがあながち嘘でもないのだがそれは併読する本が多過ぎて一冊ごとの区切りに意識が向かないことが原因でつまり「”変わってない”という意識がないなら変わってるんだろう」という大雑把な認識が実際のところである。
読書が日常に与える影響は小説だとわかりやすくて、気に入った小説はひとつ決めた音楽と一緒に(最初はスピーカで流しながら、慣れたらそれを脳内で再生させながら)読んでいて、その効果のひとつとして例えば仕事中でもその音楽を頭の中で流せば対応する小説世界が現前する。
現前といって具体的なものではなく、その小説がSFだったりすると具体的になるはずもないのだが、「その小説世界にいる主人公の心持ちが投影される」のがその一例で、ざっくり言えばなんとなくで、なんとなく哀愁を感じながら、とかなんとなく魂の高揚を感じながら仕事ができたりする。
ではその一方の日常が読書に与える影響といえば、本を読んでいる最中に日常の出来事が思い浮かんだりということもあるし、そもそもの「よし、これから何を読もうかな」と本棚を漠然と眺める時に頭を掠めて意識せざる所で決定的な影響を及ぼしているのがその時期の仕事における自分の立ち位置とか先週末にカフェで隣に坐った受験勉強する高校生たちの印象に残った言動だったりすることもある。
なんだか話が「とりたま」(タイトルを愛称化してみた)に近づきつつあるように見えて、べつに「読書と日常のどちらが先か」という話ではなく、というかそのまま当てはめて書いて「なんのこっちゃ?」と今僕も思うことがつまりそういうことで、でも最初に言いたかったことと繋がってはいる。
日常を充実させるために読書をする(ハウツー本読んで仕事の能率を上げる、とか)。
読書を充実させるために日常をこなす(お金ないと本変えないよね、とか)。
そう言って言えないことはないが、じっさいそんなことはないのだ。
物事の連鎖には起源があり、目的があるのかもしれない。
起源はじっさいあったのだろうし、目的が立てられたからこそ連鎖が起こったのかもしれない。
けれど実は、目的は、そして起源も、見出すものなのだ。
+*+*+*
中途半端だけど続く…のは確かだけど、この話自体が続く保証はないです。
今日の分は最初に設定した方向に戻る気配が全く無かった。
さてどこへ行くのか。
橋本治の文章は表現が簡単で、使われている一つひとつの単語の意味で詰まることがまずない。
きっとそれは「在野の人」だからというのもありそうだが、吉本隆明の難解さ(晦渋なのかもしれないけど読み手との距離はそこそこ近くてきっと衒学的ではない)を例外と捉えるべきかは『母型論』しか読んだことないからわからない(実家で見つけた『共同幻想論』を持ち帰っているので近いうちに読みたい、と以前思ったことを今思い出した)。
表現が簡単なもんだからさらりと読めばするっと理解できそうで、しかし一文を読み飛ばさず思考を丁寧に展開していくと凄いことが惜しげもなくどどどと書かれていることに気付いてこちらの負担が一気に増えて、読み手の態度いかんで「さらり」が「どどど」になる文章はまず凄いのだが、その文章は色々な可能性をこちらに想像させてくれるものでもある。
引用のなかで特に下線を引いた箇所が「まさにその通り!」と僕は思って、読書が日常からの逃避というか気分転換なんかではなく読書と日常が密接に相互に影響を与えていて、この意味は「読書ばかりしている日常」ではなく「仕事とか炊事・食事とか散歩含めた日常に対する読書の影響力の大きいこと」であって、「評論でも小説でも一冊を読み終えるごとに自分が変わったように思える」ことがあながち嘘でもないのだがそれは併読する本が多過ぎて一冊ごとの区切りに意識が向かないことが原因でつまり「”変わってない”という意識がないなら変わってるんだろう」という大雑把な認識が実際のところである。
読書が日常に与える影響は小説だとわかりやすくて、気に入った小説はひとつ決めた音楽と一緒に(最初はスピーカで流しながら、慣れたらそれを脳内で再生させながら)読んでいて、その効果のひとつとして例えば仕事中でもその音楽を頭の中で流せば対応する小説世界が現前する。
現前といって具体的なものではなく、その小説がSFだったりすると具体的になるはずもないのだが、「その小説世界にいる主人公の心持ちが投影される」のがその一例で、ざっくり言えばなんとなくで、なんとなく哀愁を感じながら、とかなんとなく魂の高揚を感じながら仕事ができたりする。
ではその一方の日常が読書に与える影響といえば、本を読んでいる最中に日常の出来事が思い浮かんだりということもあるし、そもそもの「よし、これから何を読もうかな」と本棚を漠然と眺める時に頭を掠めて意識せざる所で決定的な影響を及ぼしているのがその時期の仕事における自分の立ち位置とか先週末にカフェで隣に坐った受験勉強する高校生たちの印象に残った言動だったりすることもある。
なんだか話が「とりたま」(タイトルを愛称化してみた)に近づきつつあるように見えて、べつに「読書と日常のどちらが先か」という話ではなく、というかそのまま当てはめて書いて「なんのこっちゃ?」と今僕も思うことがつまりそういうことで、でも最初に言いたかったことと繋がってはいる。
日常を充実させるために読書をする(ハウツー本読んで仕事の能率を上げる、とか)。
読書を充実させるために日常をこなす(お金ないと本変えないよね、とか)。
そう言って言えないことはないが、じっさいそんなことはないのだ。
物事の連鎖には起源があり、目的があるのかもしれない。
起源はじっさいあったのだろうし、目的が立てられたからこそ連鎖が起こったのかもしれない。
けれど実は、目的は、そして起源も、見出すものなのだ。
+*+*+*
中途半端だけど続く…のは確かだけど、この話自体が続く保証はないです。
今日の分は最初に設定した方向に戻る気配が全く無かった。
さてどこへ行くのか。
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