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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』(講談社文芸文庫)を読了。

先に書いておくと、脳内BGMはこれまた偶然、読み始める前に出会ってハマっていた、不始末氏の「ちいさい音ダイアル」。
曲の透き通るイメージがそのまま作品と重なり、生々しい場面もはちゃめちゃな描写も、リアリティがないというか「少し遠いところで起こっている」ような淡さが漂っていた。
(遠くで鳴っているラジオもとてもいい味を出している、とは本書を読み終えて聴きなおした時に気付いたのだが)
「リアリティがない」という言い方は小説について語る時にマイナスイメージとして用いられることが多いが、それはたぶん「リアリティが重要な作品」についてだけ当てはまるのであって、タカハシ氏の本作(に限らないけど)においてその点は重要ではない。
たとえば読み手が文章の一つひとつを遺漏なく出来る限り正確に頭の中でイメージ変換していって、そのイメージを時間軸にのせて展開させていったとして、「しっくりくる」とか「うん、僕も主人公のように振る舞うだろうな」とか、読み手にとってその展開が自然と思われる時に「その文章(小説)にはリアリティがある」とみなすとすれば、『ジョン・レノン対火星人』にその要素を期待するのは無謀というものだ。
ともすれば、小説のリアリティは「凡庸な読み手と同じだけの凡庸さ」を意味する。

では本作は描写の逐一がメタファーや本歌取りで構成されていて、執筆当時の日本社会の価値観やシンボリックな事件などの時代背景を網羅的に把握し、かつ今昔の文学作品に通暁していれば「解読」できるのかといえば、たぶん「知っていればそれだけ面白く読める」程度には重要であるのだろう。
…と書いたが、それは内田樹氏の解説があってこそ言えることで、この解説がなければ僕は本作について「ナンセンス」以外に継げる言葉が見つからなかった。
この解説を読んで初めて、タカハシ氏の小説の(もちろん「ひとつの」ということだが)読み方がわかったような気がした。
(ウチダ氏の解説によれば60年代(後半?)の学生運動の経験が重要であるらしい。ウチダ氏が執拗に「ためらい」にこだわる理由がこの経験にあることは氏のブログや著書で繰り返し読んできたが、氏によればタカハシ氏も、違うアプローチであれ、等しく「暴力的なもの」の犠牲になった「もの」(これは直接的には同士ともいえる人々(学生)だと思うのだけど、たぶんエートスとかもっと抽象的なもの)を弔っている、とのこと。正しく供養しなければ先祖に限らず思想だって化けて出る、と言ってウチダ氏がフェミニストを批判しているのを思い出した、唐突だけど)
これは書評家が発すれば「廃業宣言」のようなものだが、理解が進むように要約できたりエッセンスを取り出せる小説なんてものは、小説である必要がない。
それは「読み方がわかった」と書いた時にその読み方を簡単に言葉にできるわけではないのも同じことで、だから僕が文章にしたいと思うなら結局「何を感じたか」という私的な感想になってしまう。

ということで感想なのだけど、そして「本作の」ではなく「ウチダ氏やタカハシ氏の文章を読んできての」というひろーい話にいきなりなってしまうのだけど、僕にとっての「なりたい大人像」が彼らの文章を通じて形になってきたことが今さらながら嬉しい。
というのも、僕自身「憧れの人」とか「理想の人」が昔から全く想像できなくて、歴史的偉人や身の回りにいる「大人」(小さい頃はそうで、長じてから(ゆーてお前何歳やねん、というツッコミもありえましょうが)は「年配方」)など「年齢的に将来の自分に当てはまる人々」を数多く、「そういう目で」見てきても見出せないでいて、それがなんだか良くないことのように思っていたのだ。
(なりたくなくて大人になるよりはなりたくて大人になった方がいい、という程度のことかもしれない。事後認知的であれ…というか、はなから手遅れである以上そう思うしかないのも事実ではある)
この形になりつつある「なりたい大人像」は個人名で特定できるものでなく「ある気質を備えた人」といった抽象的な像である。そして普遍的であるがこその抽象的で、具体的にはその時代に合わせて別な形となって表れる(はず。先のことだからもちろん知らない)。
そしてウチダ氏の言論を信じれば、そのような性質に憧れる人は現代日本で極めて少なく、僕はまずそのことを以てその「像」に魅力を感じている。

ふふ、曖昧にするとわからなくなってくね…

最後に、ウチダ氏の解説からひとつ引いておく。講談社文芸文庫のこの解説は「いつものウチダ節(でもちょっとだけ真面目バージョン)」ではあるのだけど「文庫の作品解説」という括りで見れば異例であって、それは簡単に言えば「解説してんのに”分からない”って言い過ぎ」という点なのだが、「”分からない”と言うことで何を伝えたいかが分かるという意味でとても分かりやすい」ので特に問題はない。

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 どうしてそういうことになるのか、私にも分からない。よく分からないけれど、「いかなる根拠もなしに、人を傷つけ損なうもの」の対極には、「いかなる根拠もなしに、人を癒し、慰めるもの」が屹立しなければ、私たちの世界は均衡を失するだろうということだけは分かる。
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言われれば当たり前だと思うが、言われなければ気付かない(普段全く意識していない)ことが世の中にはたくさんあって、加えてそれらは一度言われても(大変重要であるにも関わらず)すぐ忘れてしまうもので、「耳タコになるまで同じことを飽きずに言い続ける」ことの大切さはそこにある。
「センチネル」(@内田樹)や「キャッチャー」(@村上春樹)とは、その役目を担ったものの名だ。
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