幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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自分が「そこに居たい場所」を具体的に想像すれば叶う、という話でした。
それは「思ったその通りになる」のではなくて「発展形アリの数打ちゃ当たる」といったもので、願いが叶った時に何がいちばん嬉しいかといえば「ああ、うれしいな」と思えることでそれは叶い方にこだわると見失われるものだ。
という説明は前回したような気もするので、早速列挙をはじめてみよう。
・海か川がそばにある
流れているものが近くにあってほしい。今の寮でも部屋から空をぼーっと眺めることはあってそれは空の色のグラデーション(ディスプレイの品質に関わる仕事をしているので目は肥えている気がする)とか雲の動き(自分から見える雲の流れる速さが風速だけでなく雲のいる高さによっても違うことに最近気付いたがそれは簡単な話で今まで考えなかっただけ)を見ていて以前のロールシャッハ的な見方をしなくなったのだけど、それは単純に「流れ」を見ている。
頭がからっぽになっているのが心地よいのかもしれないが、空や雲を見る合間に鳥が飛ぶのが視界に入れば見えなくなるまで追いかけたりもしていて、鳥に関して言えば「秩序から無秩序を見出そうとしている」と考えたことがある。
自然とは秩序立っているように見えてじっさいのところそれは人が自然から物質的に無秩序を排除してきたことと人の目には無秩序より秩序の方が認識しやすいことに因っていて、意識的にと書くと矛盾しているように思えるがやはり意識的にならないと無秩序を感じることはできない。
鳥の動きは鳥が自分の意思で飛びたいように飛んでいると思うのは安直な想像の結果であって、もう少し考えれば「風を読んでいる、あるいは気流に従っている」とか「羽への負担が最小限になるように飛んでいる」とか想定できて、すると最初に行こうと思っていたところと違う所にたどり着くこともあるのかなと思って、いやそもそも行き先を最初に決めるなんてことは(雛が待っているとかではなくて、特に渡り鳥なら)ないかもしれない。
少し話が逸れたけれど無秩序の話をしていたので戻すと、地上から見える鳥の飛び方(羽ばたくタイミングや飛行コースなど)は気流や羽の形状(航空力学の分野?)や鳥の種別ごとの消費エネルギィなどを考えれば説明できるのかもしれないが、僕はそれらを駆使して鳥の飛行の完全なる原理解明を目指すつもりはなくて、「飛行コースと気流は密接な関係がある」という前提のもとに飛行コースから目には見えない気流を感じ取ろうとしていて(これはベランダからの視界に広がる田んぼの稲穂が風に揺れる様をマクロにとらえようとする意識が目指すところと一致している)、恐らく小さな領域であっても(もちろん三次元的な)気流の継時変化を完全に把握することはまだコンピュータの計算能力でカバーできないはずで、それはつまり部屋から見える田んぼや山々を取り巻く気流は無秩序であってその気流と戯れるように飛び回る鳥の飛行コースは無秩序を体現していることになる。
だから鳥の飛行コースをじっと眺めているとある程度以上のところで言葉がついてこなくなる(最初から言語化しないでぼーっと見ることもあるが、そうではなく言葉で表現しようとして観測している場合)。
…話をぐーんと戻すと、川の流れも同じ様な無秩序を体現していて、それをぼーっと眺められる日常に憧れているのだ。
とだけ書けば今と変わらないと思われそうだが、ポイントは水だ…のはずだが、どうやらこの先は考えていなかったらしいので今回はパス。
これまで川の近くに住んだことがなく旅行先でしか触れ合ったことがないからちょっと頑張って想像しないといけない…と言ったそばから大学院の時に鴨川のそばに住んでいた(しかもよく散歩していた)ことを思い出した。あの時は精神状態が今ほど自由でなかった(時間は有り余るほどあったが基調がネガティブであった)ので当時に感じた印象を思い起こすのとは違う想像をした方がよいかもしれない。
話の筋を整える気が全くない文章で恐縮だけれど、川だけでなく海も入れたのは次に書こうと思っていた「港があってすぐそばから傾斜が始まって坂道に展開する街並が河口から見渡せるところ」が念頭にあったからで、そうすると「海か川」でなくて「海と川」になる。
…列挙しようとして一つ目で力尽きるのは予想外でした。。
というわけで次回以降まだまだ続きます。
それは「思ったその通りになる」のではなくて「発展形アリの数打ちゃ当たる」といったもので、願いが叶った時に何がいちばん嬉しいかといえば「ああ、うれしいな」と思えることでそれは叶い方にこだわると見失われるものだ。
という説明は前回したような気もするので、早速列挙をはじめてみよう。
・海か川がそばにある
流れているものが近くにあってほしい。今の寮でも部屋から空をぼーっと眺めることはあってそれは空の色のグラデーション(ディスプレイの品質に関わる仕事をしているので目は肥えている気がする)とか雲の動き(自分から見える雲の流れる速さが風速だけでなく雲のいる高さによっても違うことに最近気付いたがそれは簡単な話で今まで考えなかっただけ)を見ていて以前のロールシャッハ的な見方をしなくなったのだけど、それは単純に「流れ」を見ている。
頭がからっぽになっているのが心地よいのかもしれないが、空や雲を見る合間に鳥が飛ぶのが視界に入れば見えなくなるまで追いかけたりもしていて、鳥に関して言えば「秩序から無秩序を見出そうとしている」と考えたことがある。
自然とは秩序立っているように見えてじっさいのところそれは人が自然から物質的に無秩序を排除してきたことと人の目には無秩序より秩序の方が認識しやすいことに因っていて、意識的にと書くと矛盾しているように思えるがやはり意識的にならないと無秩序を感じることはできない。
鳥の動きは鳥が自分の意思で飛びたいように飛んでいると思うのは安直な想像の結果であって、もう少し考えれば「風を読んでいる、あるいは気流に従っている」とか「羽への負担が最小限になるように飛んでいる」とか想定できて、すると最初に行こうと思っていたところと違う所にたどり着くこともあるのかなと思って、いやそもそも行き先を最初に決めるなんてことは(雛が待っているとかではなくて、特に渡り鳥なら)ないかもしれない。
少し話が逸れたけれど無秩序の話をしていたので戻すと、地上から見える鳥の飛び方(羽ばたくタイミングや飛行コースなど)は気流や羽の形状(航空力学の分野?)や鳥の種別ごとの消費エネルギィなどを考えれば説明できるのかもしれないが、僕はそれらを駆使して鳥の飛行の完全なる原理解明を目指すつもりはなくて、「飛行コースと気流は密接な関係がある」という前提のもとに飛行コースから目には見えない気流を感じ取ろうとしていて(これはベランダからの視界に広がる田んぼの稲穂が風に揺れる様をマクロにとらえようとする意識が目指すところと一致している)、恐らく小さな領域であっても(もちろん三次元的な)気流の継時変化を完全に把握することはまだコンピュータの計算能力でカバーできないはずで、それはつまり部屋から見える田んぼや山々を取り巻く気流は無秩序であってその気流と戯れるように飛び回る鳥の飛行コースは無秩序を体現していることになる。
だから鳥の飛行コースをじっと眺めているとある程度以上のところで言葉がついてこなくなる(最初から言語化しないでぼーっと見ることもあるが、そうではなく言葉で表現しようとして観測している場合)。
…話をぐーんと戻すと、川の流れも同じ様な無秩序を体現していて、それをぼーっと眺められる日常に憧れているのだ。
とだけ書けば今と変わらないと思われそうだが、ポイントは水だ…のはずだが、どうやらこの先は考えていなかったらしいので今回はパス。
これまで川の近くに住んだことがなく旅行先でしか触れ合ったことがないからちょっと頑張って想像しないといけない…と言ったそばから大学院の時に鴨川のそばに住んでいた(しかもよく散歩していた)ことを思い出した。あの時は精神状態が今ほど自由でなかった(時間は有り余るほどあったが基調がネガティブであった)ので当時に感じた印象を思い起こすのとは違う想像をした方がよいかもしれない。
話の筋を整える気が全くない文章で恐縮だけれど、川だけでなく海も入れたのは次に書こうと思っていた「港があってすぐそばから傾斜が始まって坂道に展開する街並が河口から見渡せるところ」が念頭にあったからで、そうすると「海か川」でなくて「海と川」になる。
…列挙しようとして一つ目で力尽きるのは予想外でした。。
というわけで次回以降まだまだ続きます。
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