幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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『遠い太鼓』(村上春樹)を読んでいる。
本書はイタリア・ギリシャ滞在中の氏の日記である。
ただ日記と言って、部屋を長期で借りて小説の執筆や翻訳をしており、旅行記と趣は少し異なる。
今日読んでいたクレタ島のくだりは1987年5月のことで、氏はこの年のはじめに『ノルウェイの森』をイタリアで書き終えている。
ノートや広告の裏に書きつけていた原稿を400字詰めの原稿用紙に清書する、という描写が時代の古さを表していて(考えてみればこの頃まだ僕は生まれて1年と経っていない)、クレタ島の「観光地的価値観の浸透していない長閑さ」や各国バックパッカーの特徴(ドイツ人は世界一旅好きだとかカナダ人は世界一暇だとか)といった話が現在でどこまで通用するのかわからないけれど、本書では「当時の地中海事情」をふんだんに味わうことができる。
だから小説ではないのだけれど、氏の小説と雰囲気が似たようなところがあって(同じ人が書いているのだから当然だが)、しかし現実の重みかしら(と言ってこれをノンフィクションの価値と思いたくはないのだが)文章の一つひとつに立ち止まって想像させる説得力があって、最初に手にとった時はすらりと読み通せると思ったのだが今や長編小説の趣が深い。
と書いていくと書評というか感想になっていくのだけど、最初に書きたかったのは脳内BGMのこと。
本書を読む少し前から「ゲーム音楽は脳内BGMに適しているのでは」と思い付いて、小中でよくやったゲームのサントラを聴き返していて、その流れで本書と偶然フィットしたのがバハムートラグーン(以下bl)の「砂漠の地ダフィラ」。
だいたい砂漠のBGMというとたいていのゲームでは「それっぽい曲調」になるのだけどblのは違って、乾いた風と打楽器(ボンゴだっけ?)がわずかに雰囲気を醸す程度で、きっと砂漠の曲だと言われないと分からない。
うっすら残る記憶を辿ると、blの世界では人々は宙に浮いた島に住み竜に乗っていくつもの島を行き来していて(しかし島には緑も川もあって、いちばん川下では水は重力に従い空に流れ落ちていく)、やはり砂漠のある島もあるのだけど世界の基調は「空の青」なのだ。
blで悲哀を帯びた曲に存在感があるのはストーリィのメインと言っていい人間ドラマがそうであるというだけでなく(うん、確か本当にドロドロしていた気がする。あのゲームやった人で「ヨヨ」と聞いただけで眉を顰める人は少なからずいることだろう)、茫洋と浮かぶ島々という世界観そのものを表しているからかもしれない。
という思い出話はさておき、このダフィラの曲でしばらく『遠い太鼓』を読んできて(まだ半分もいってないけど)、イメージが定着してきたな、と思っている。
耳で聞くのでなく頭で勝手に流れる音楽を僕が「脳内BGM」と呼んでいるのは、一つに読む本とBGMをくっつけて「脳内に(その本の内容の)確固とした居場所をつくろう」という意図がある。
もともと音楽というのは「ほんとうにただ聴くだけ」がとても難しいもので、それは初めてその曲を聴いた時の状況(空間的な環境や心理状態)がくっつくこともあれば曲のなりたち(生演奏やレコーディングであれば演奏される楽器が鳴るさま、歌ものであれば歌手の歌うさまあるいはその歌手からの連想あれこれ)が自然と思い浮かぶものである。
ゲーム音楽といえばさらに分かりやすく、その曲が流れていた時の場面がまっすぐ連想のベルトコンベアに乗っかってくる(そして「予め決められているように」という比喩の当コンベアの回転速度は実物と違いすこぶる速い)。
だからゲーム音楽を読書の脳内BGMに使うにはまず既定のイメージを引き剥がすのに苦労するはずで、実際やり込んだゲームなら言わずもがなのことなのだが、要はその難関をここにきて突破したように思われる、と言いたかった。
今ではこのダフィラの曲を聴けば地中海沿岸のうらさびれた街並が浮かぶ案配になっているのだ、僕の脳内は。
ということで、脳内BGMの活路が広がった記念に「今後の可能性」をメモしておく。
上記のバハムートラグーンのほかに、クロノトリガー、ロマンシングサガ3あたりが有望だと見込んでいる(以上メモ終わり)。
これがクロノクロスが△でクロノトリガーが◎だというのは、自分がやり込んだ度合いによるというだけでなく(実はクロノクロスは高校の友達にサントラを借りたというだけで本編をやったことはない。それに上では「やり込んだゲームほど元のイメージから引き離すのが大変」と書いたけどでは全くやっていないゲームの方がいいのかといえばそんなことはなくて、曲とゲームの具体的な一場面とのリンクは邪魔になるかもしれないが曲自体の雰囲気(これもやはり絵(視覚入力)なしで聴いただけよりゲームのストーリィ進行の中で絵付きで聴く方が情報量が多い)という曖昧なレベルのものは使えるし、もっと漠然と「曲に対する親密さ」の要素が実際とても大事)、実はスーファミとプレステの差と言ってよいものがある。
要するに「曲の抽象性」がクロノトリガーの方が高いのだが、つまりクロノクロスになるとBGMが楽器の生演奏に近くなる。
僕は脳内BGMは抽象的である方がよいと思っていて、その抽象的というのはファミコン時代のピコピコ系(チップチューンというのか)と生演奏系の間にある性質のことだ。
重要なのは雰囲気で、具体的なものは先にあって、その具体的なものを引き立てる機能を果たすためのスパイスは抽象的でなければならない。
「のりたまご」のふりかけだけを食べてもおいしくないのだ(おいしいけど)。
…と、既に分かりにくい話になっていると思われれば非難されそうなことを次に書くが、いちおうこれは単純化して書いたつもりで、何が込み入っていると言って実際に上でいう「具体的なもの」が何を指すかといえば例えば小説の内容の「読み手の脳内の展開」であってそれはそれで十分抽象的なのだ。
こんな話に一般性をもたせようなんて無理があるよな、と思いつつ、じっさいにその曲を頭の中で流しながらその小説を読めば感得はできるだろうと思って、去年つくったHPに自分がこれまで「聴き読み」してきて相性がよいと思ったものを列挙したりもしてきたのだが、まあ脳内BGMの件についても仕組みと呼べるものはあるはずで、小説を楽しんで読むこととは別に興味のあることではある。
+*+*+*
あ、途中書こうと思って忘れていたことなのだけど、ゲーム音楽のことを考えると思い浮かぶ友人がいて、上でも少し触れた(クロノクロスのサントラ貸してくれたのね)けど高校で2年間一緒だった彼の名はM安氏。
やたらと記憶力が良くて世界史とか暗記ものの点数が良く、数学の記述問題も暗記するというカメラ小僧的な人だったのだけど(そういえば暗記の原理は聞かなかったな…そしてカメラ小僧(小娘?)はたぶん彼ではなくM山嬢だ)、彼はセンター本番の国語で国語Ⅰをやってしまい悲惨な目に遭ったというへんなことは覚えている(というのも僕はプレセンターでそれをやって国語Ⅰ・Ⅱ42点という学年最下位をたたき出したからなのだが)。
しかし大学受験を思い出すとなんだかとても懐かしい…まだ10年も経っていないはずだけど隔世の感がある。
当時に活気づいていた種の精神的なエネルギィが今は悉く錆び付いている気がする(そしてそれをとても良いことだと根っから思える心証が「錆び付き」を裏付けている)。
当時はまだ今より人当たりが良かったはずで、それでも受験期に「逃避行動によって協調性を激しく乱す」という意味でいろんな人に迷惑をかけた記憶がうっすら残っており(そのきっかけだけは明確に覚えている。もう時効だろうし結果的によい方に転んだので言っちゃうけど、高3の冬に直ぐ後ろに座ってインフルエンザを2回も(!)うつしてくれたK東さんが僕が(受験期限定の)登校拒否になった元凶です(笑)で当時の教室の状況みたいなものを大学入ってから耳にしたのだけど、僕の授業放棄にUっとんがとても気分を害していたらしい。今更さらやけどごめんね)、そこは変わってないなと思う。
そこ、とは上に書いた根っこのさらに根っこのことで、俗っぽく言えば「追い詰められたら闘わずに逃げる」かしら。
成長して身に付けたのは「逃げ道の確保」と逃避の際の「体裁の良さ」。
いざとなれば現状からどう逃げるか、を細微にわたって想像できていれば、そもそも日常で(主に精神面での浸蝕による)逃げざるを得ない境地に陥ることがないと経験的に分かったのだった(そして「破綻の一歩手前」も十分経験たりうる)。
苦労してるのかしてへんのか…多分あんましてへんな。。
閑話休題。
M安元気かなあ、と言いたかっただけ。
今のところ栃木に飛ばされる予定はないけど、まあ関東組として何か機会があれば一杯やりたいね。
思い出となった出来事は、ぜんぶ「いい思い出」。
やれやれ。
本書はイタリア・ギリシャ滞在中の氏の日記である。
ただ日記と言って、部屋を長期で借りて小説の執筆や翻訳をしており、旅行記と趣は少し異なる。
今日読んでいたクレタ島のくだりは1987年5月のことで、氏はこの年のはじめに『ノルウェイの森』をイタリアで書き終えている。
ノートや広告の裏に書きつけていた原稿を400字詰めの原稿用紙に清書する、という描写が時代の古さを表していて(考えてみればこの頃まだ僕は生まれて1年と経っていない)、クレタ島の「観光地的価値観の浸透していない長閑さ」や各国バックパッカーの特徴(ドイツ人は世界一旅好きだとかカナダ人は世界一暇だとか)といった話が現在でどこまで通用するのかわからないけれど、本書では「当時の地中海事情」をふんだんに味わうことができる。
だから小説ではないのだけれど、氏の小説と雰囲気が似たようなところがあって(同じ人が書いているのだから当然だが)、しかし現実の重みかしら(と言ってこれをノンフィクションの価値と思いたくはないのだが)文章の一つひとつに立ち止まって想像させる説得力があって、最初に手にとった時はすらりと読み通せると思ったのだが今や長編小説の趣が深い。
と書いていくと書評というか感想になっていくのだけど、最初に書きたかったのは脳内BGMのこと。
本書を読む少し前から「ゲーム音楽は脳内BGMに適しているのでは」と思い付いて、小中でよくやったゲームのサントラを聴き返していて、その流れで本書と偶然フィットしたのがバハムートラグーン(以下bl)の「砂漠の地ダフィラ」。
だいたい砂漠のBGMというとたいていのゲームでは「それっぽい曲調」になるのだけどblのは違って、乾いた風と打楽器(ボンゴだっけ?)がわずかに雰囲気を醸す程度で、きっと砂漠の曲だと言われないと分からない。
うっすら残る記憶を辿ると、blの世界では人々は宙に浮いた島に住み竜に乗っていくつもの島を行き来していて(しかし島には緑も川もあって、いちばん川下では水は重力に従い空に流れ落ちていく)、やはり砂漠のある島もあるのだけど世界の基調は「空の青」なのだ。
blで悲哀を帯びた曲に存在感があるのはストーリィのメインと言っていい人間ドラマがそうであるというだけでなく(うん、確か本当にドロドロしていた気がする。あのゲームやった人で「ヨヨ」と聞いただけで眉を顰める人は少なからずいることだろう)、茫洋と浮かぶ島々という世界観そのものを表しているからかもしれない。
という思い出話はさておき、このダフィラの曲でしばらく『遠い太鼓』を読んできて(まだ半分もいってないけど)、イメージが定着してきたな、と思っている。
耳で聞くのでなく頭で勝手に流れる音楽を僕が「脳内BGM」と呼んでいるのは、一つに読む本とBGMをくっつけて「脳内に(その本の内容の)確固とした居場所をつくろう」という意図がある。
もともと音楽というのは「ほんとうにただ聴くだけ」がとても難しいもので、それは初めてその曲を聴いた時の状況(空間的な環境や心理状態)がくっつくこともあれば曲のなりたち(生演奏やレコーディングであれば演奏される楽器が鳴るさま、歌ものであれば歌手の歌うさまあるいはその歌手からの連想あれこれ)が自然と思い浮かぶものである。
ゲーム音楽といえばさらに分かりやすく、その曲が流れていた時の場面がまっすぐ連想のベルトコンベアに乗っかってくる(そして「予め決められているように」という比喩の当コンベアの回転速度は実物と違いすこぶる速い)。
だからゲーム音楽を読書の脳内BGMに使うにはまず既定のイメージを引き剥がすのに苦労するはずで、実際やり込んだゲームなら言わずもがなのことなのだが、要はその難関をここにきて突破したように思われる、と言いたかった。
今ではこのダフィラの曲を聴けば地中海沿岸のうらさびれた街並が浮かぶ案配になっているのだ、僕の脳内は。
ということで、脳内BGMの活路が広がった記念に「今後の可能性」をメモしておく。
上記のバハムートラグーンのほかに、クロノトリガー、ロマンシングサガ3あたりが有望だと見込んでいる(以上メモ終わり)。
これがクロノクロスが△でクロノトリガーが◎だというのは、自分がやり込んだ度合いによるというだけでなく(実はクロノクロスは高校の友達にサントラを借りたというだけで本編をやったことはない。それに上では「やり込んだゲームほど元のイメージから引き離すのが大変」と書いたけどでは全くやっていないゲームの方がいいのかといえばそんなことはなくて、曲とゲームの具体的な一場面とのリンクは邪魔になるかもしれないが曲自体の雰囲気(これもやはり絵(視覚入力)なしで聴いただけよりゲームのストーリィ進行の中で絵付きで聴く方が情報量が多い)という曖昧なレベルのものは使えるし、もっと漠然と「曲に対する親密さ」の要素が実際とても大事)、実はスーファミとプレステの差と言ってよいものがある。
要するに「曲の抽象性」がクロノトリガーの方が高いのだが、つまりクロノクロスになるとBGMが楽器の生演奏に近くなる。
僕は脳内BGMは抽象的である方がよいと思っていて、その抽象的というのはファミコン時代のピコピコ系(チップチューンというのか)と生演奏系の間にある性質のことだ。
重要なのは雰囲気で、具体的なものは先にあって、その具体的なものを引き立てる機能を果たすためのスパイスは抽象的でなければならない。
「のりたまご」のふりかけだけを食べてもおいしくないのだ(おいしいけど)。
…と、既に分かりにくい話になっていると思われれば非難されそうなことを次に書くが、いちおうこれは単純化して書いたつもりで、何が込み入っていると言って実際に上でいう「具体的なもの」が何を指すかといえば例えば小説の内容の「読み手の脳内の展開」であってそれはそれで十分抽象的なのだ。
こんな話に一般性をもたせようなんて無理があるよな、と思いつつ、じっさいにその曲を頭の中で流しながらその小説を読めば感得はできるだろうと思って、去年つくったHPに自分がこれまで「聴き読み」してきて相性がよいと思ったものを列挙したりもしてきたのだが、まあ脳内BGMの件についても仕組みと呼べるものはあるはずで、小説を楽しんで読むこととは別に興味のあることではある。
+*+*+*
あ、途中書こうと思って忘れていたことなのだけど、ゲーム音楽のことを考えると思い浮かぶ友人がいて、上でも少し触れた(クロノクロスのサントラ貸してくれたのね)けど高校で2年間一緒だった彼の名はM安氏。
やたらと記憶力が良くて世界史とか暗記ものの点数が良く、数学の記述問題も暗記するというカメラ小僧的な人だったのだけど(そういえば暗記の原理は聞かなかったな…そしてカメラ小僧(小娘?)はたぶん彼ではなくM山嬢だ)、彼はセンター本番の国語で国語Ⅰをやってしまい悲惨な目に遭ったというへんなことは覚えている(というのも僕はプレセンターでそれをやって国語Ⅰ・Ⅱ42点という学年最下位をたたき出したからなのだが)。
しかし大学受験を思い出すとなんだかとても懐かしい…まだ10年も経っていないはずだけど隔世の感がある。
当時に活気づいていた種の精神的なエネルギィが今は悉く錆び付いている気がする(そしてそれをとても良いことだと根っから思える心証が「錆び付き」を裏付けている)。
当時はまだ今より人当たりが良かったはずで、それでも受験期に「逃避行動によって協調性を激しく乱す」という意味でいろんな人に迷惑をかけた記憶がうっすら残っており(そのきっかけだけは明確に覚えている。もう時効だろうし結果的によい方に転んだので言っちゃうけど、高3の冬に直ぐ後ろに座ってインフルエンザを2回も(!)うつしてくれたK東さんが僕が(受験期限定の)登校拒否になった元凶です(笑)で当時の教室の状況みたいなものを大学入ってから耳にしたのだけど、僕の授業放棄にUっとんがとても気分を害していたらしい。今更さらやけどごめんね)、そこは変わってないなと思う。
そこ、とは上に書いた根っこのさらに根っこのことで、俗っぽく言えば「追い詰められたら闘わずに逃げる」かしら。
成長して身に付けたのは「逃げ道の確保」と逃避の際の「体裁の良さ」。
いざとなれば現状からどう逃げるか、を細微にわたって想像できていれば、そもそも日常で(主に精神面での浸蝕による)逃げざるを得ない境地に陥ることがないと経験的に分かったのだった(そして「破綻の一歩手前」も十分経験たりうる)。
苦労してるのかしてへんのか…多分あんましてへんな。。
閑話休題。
M安元気かなあ、と言いたかっただけ。
今のところ栃木に飛ばされる予定はないけど、まあ関東組として何か機会があれば一杯やりたいね。
思い出となった出来事は、ぜんぶ「いい思い出」。
やれやれ。
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