幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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新しくブログを作ってみた。
理由は、単なる気分転換。
書き方は前のブログと変わらないと思う。
心持ちが何かしら変わっているかもしれないが。
唐突だけれど旅に出てきた。
会社の長期休暇を期に電車で無計画ふらり旅。
旅の内容を書くつもりはない。
道中思ったことを整理しておきたいと思った。
旅に出た直接のきっかけは、衝動だった。
旅の目的は道中で2つ(本当はもっとある?)考えた。
自分の居場所探し、感覚で動くことに対する興味。
今思えばどちらも頭の中で過剰に膨らんだ想像に過ぎなかったのだが。
2つのうち後者だけ触れておく。
普段の趣味が読書だけの自分には現場感覚が薄いと感じていた。
想像に重きを置き過ぎた日常を軌道修正したいという思いもあった。
電車から降り立ったその場の感覚を研ぎ澄ましたいという意味の「無計画」。
やってきた感想としては、「そんな大層なものではなかった」。
もちろん想像と実際(現場)は違うのだが、「その両者はいかに異なるか」と
想像で期待を膨らませるほどのものではなかった。
つまり想像が「現場感覚」という価値観を侵蝕(過大評価)していた、と。
今回の旅でその点を修正する余地が生まれたと思う。
さて、本題(=道中思ったこと)に戻ろう。
まずは「人の人に対する振る舞い方の多様性(違い)」について。
この点に衝撃を受けた都会育ちの自分はある意味「田舎者」だった。
多様性を体得していなければ都会人も田舎者も一緒なのだ。
自動改札機のない改札口での、駅員と乗客のスムーズな動き。
駅員の手元にも、乗客の足取りにも躊躇がない。
あるいは下校時間帯に高校生で埋まる電車内の雰囲気。
休み時間の教室と見紛うほどの騒々しさ。
他者への気遣いが希薄なのでは?
もう少し他人の視線を気にした方がよいのでは?
その場にいた自分は正直にこう思った。
しかし自分を除けば、その場は然るべき調和を保っている。
ここには育ってきた習慣の違いがある。
個人同士のやりとりが濃密な田舎では意思疎通が熟[こな]れている。
人の絶対数が少なく、また「もの」も少なければ、自然と人に意識がいく。
一方で人が多く騒音猛々しい都会では、人は感覚を遮断して平静を保つ。
それゆえ他者とのやりとりを始める段階でエネルギィが必要となる。
他者の視線を過剰に気にする自分は生粋の都会人なのだ。
そしてそれが過剰であるとは、頭でしか分かっていなかった。
今回の旅で得たのはこの点の実感の部分で、あらわれたのは
「(自分の中で)違和感なくいるはずの自分の、場に対する違和感」という形で。
「他者の視線を気にすることは他者への気遣いの一つの発揮形態である」
それは「全く周囲を気にかけない横暴さ」を想像すれば真に思えるが、
実際のところは程度問題であって「極端の逆も極端」なのだ。
大事なのは「場への気遣い」ではなく「場との調和」である。
これを抽象すれば「想像ではなく実質を見ろ」という自分にぴったりの戒めとなる。
確かに想像が実質を帯びる場面はある(本を読む時など)。
しかし他者とのやりとりにおいて自分の想像を尊重しても仕方がない。
むしろそこは「自分の想像を訂正する場」と考えた方がよい。
これは「本も他者だ」と豪語してきた自分には身に染みる認識である。
確かに本も他者ではあるが人と比べれば「想像と実質」と呼べるような違いがある。
読書を軽んじる気はないが、自分は確かに他者を軽んじていたと今は思う。
両者の区別をきっちりつけてこそ、読書生活も充実するはずだ。
途中から反省文になっているが、こんな調子で本ブログは書かれていくことになる。
すなわち主に自分のために、自分の思考や経験を文章化して整理する目的で書く。
これが自己満足に留まらず読み手の思考の琴線に触れられれば幸いである。
その意味で、至極個人的な話題ではあるが上手く抽象化していければと思う。
以後よろしくお願いします。
理由は、単なる気分転換。
書き方は前のブログと変わらないと思う。
心持ちが何かしら変わっているかもしれないが。
唐突だけれど旅に出てきた。
会社の長期休暇を期に電車で無計画ふらり旅。
旅の内容を書くつもりはない。
道中思ったことを整理しておきたいと思った。
旅に出た直接のきっかけは、衝動だった。
旅の目的は道中で2つ(本当はもっとある?)考えた。
自分の居場所探し、感覚で動くことに対する興味。
今思えばどちらも頭の中で過剰に膨らんだ想像に過ぎなかったのだが。
2つのうち後者だけ触れておく。
普段の趣味が読書だけの自分には現場感覚が薄いと感じていた。
想像に重きを置き過ぎた日常を軌道修正したいという思いもあった。
電車から降り立ったその場の感覚を研ぎ澄ましたいという意味の「無計画」。
やってきた感想としては、「そんな大層なものではなかった」。
もちろん想像と実際(現場)は違うのだが、「その両者はいかに異なるか」と
想像で期待を膨らませるほどのものではなかった。
つまり想像が「現場感覚」という価値観を侵蝕(過大評価)していた、と。
今回の旅でその点を修正する余地が生まれたと思う。
さて、本題(=道中思ったこと)に戻ろう。
まずは「人の人に対する振る舞い方の多様性(違い)」について。
この点に衝撃を受けた都会育ちの自分はある意味「田舎者」だった。
多様性を体得していなければ都会人も田舎者も一緒なのだ。
自動改札機のない改札口での、駅員と乗客のスムーズな動き。
駅員の手元にも、乗客の足取りにも躊躇がない。
あるいは下校時間帯に高校生で埋まる電車内の雰囲気。
休み時間の教室と見紛うほどの騒々しさ。
他者への気遣いが希薄なのでは?
もう少し他人の視線を気にした方がよいのでは?
その場にいた自分は正直にこう思った。
しかし自分を除けば、その場は然るべき調和を保っている。
ここには育ってきた習慣の違いがある。
個人同士のやりとりが濃密な田舎では意思疎通が熟[こな]れている。
人の絶対数が少なく、また「もの」も少なければ、自然と人に意識がいく。
一方で人が多く騒音猛々しい都会では、人は感覚を遮断して平静を保つ。
それゆえ他者とのやりとりを始める段階でエネルギィが必要となる。
他者の視線を過剰に気にする自分は生粋の都会人なのだ。
そしてそれが過剰であるとは、頭でしか分かっていなかった。
今回の旅で得たのはこの点の実感の部分で、あらわれたのは
「(自分の中で)違和感なくいるはずの自分の、場に対する違和感」という形で。
「他者の視線を気にすることは他者への気遣いの一つの発揮形態である」
それは「全く周囲を気にかけない横暴さ」を想像すれば真に思えるが、
実際のところは程度問題であって「極端の逆も極端」なのだ。
大事なのは「場への気遣い」ではなく「場との調和」である。
これを抽象すれば「想像ではなく実質を見ろ」という自分にぴったりの戒めとなる。
確かに想像が実質を帯びる場面はある(本を読む時など)。
しかし他者とのやりとりにおいて自分の想像を尊重しても仕方がない。
むしろそこは「自分の想像を訂正する場」と考えた方がよい。
これは「本も他者だ」と豪語してきた自分には身に染みる認識である。
確かに本も他者ではあるが人と比べれば「想像と実質」と呼べるような違いがある。
読書を軽んじる気はないが、自分は確かに他者を軽んじていたと今は思う。
両者の区別をきっちりつけてこそ、読書生活も充実するはずだ。
途中から反省文になっているが、こんな調子で本ブログは書かれていくことになる。
すなわち主に自分のために、自分の思考や経験を文章化して整理する目的で書く。
これが自己満足に留まらず読み手の思考の琴線に触れられれば幸いである。
その意味で、至極個人的な話題ではあるが上手く抽象化していければと思う。
以後よろしくお願いします。
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