幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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抜粋太字は本文の傍点部。
抜粋下線は引用者のお気に入り箇所。
・たそがれの内面世界
・創造的思考の仕組み
・能動的想像
・教育
・プルーストの探究
・シュタイナーの思想
・現実忘却と居着き
抜粋下線は引用者のお気に入り箇所。
・たそがれの内面世界
人間はゆったりとくつろぐとあの内面世界に旅することができる。本にすっかり夢中になっている子供は魂空間の「中」にいる。が、われわれのほとんどは内面世界の奥深くまで踏みこむことはきわめて難しいと感じる。それはあたかも、長いロープで客観的な世界──そして客観的な心──につながれているかのようである。われわれはある程度までは緊張を解くことができる。が、そのうちロープが伸びきってしまい、そこで停止を余儀なくされる。これに対し、途方もない安堵感を体験したり、誰かに強く魅せられて「心を奪われ」たりしたとき、われわれはロープを切り、われわれの内部にあるあの未知の世界の奥深くへ入ってゆく。
(…)
そのうえ、これが肝要な点なのだが、精神界の奥深くまで入れば入るほど、深くくつろぐことができ、直観力も冴えてくる。あの主観的な心の世界は、客観的な心のとげとげしい昼の光とはまったく異なっており、輪郭はもっとなだらかで柔らかく、色彩はもっと精妙であり、そこの日中はわれわれの世界のたそがれに近い。われわれの直観がしばしば最も強力に働くのは、たそがれ時である。したがって、この直観の世界においてわれわれは、昼間意識のぎらぎらしたとげとげしい光の中では見すごされ無視されているあらゆる種類の事柄を「知って」いることを、忽然と悟ることになる。
「4 長かりし徒弟時代」p.104-105
・創造的思考の仕組み
創造性には、鳥のように主題の上を舞い、取捨可能な多くの選択を見てとることが必要である。そうして、鳥は鷹のように舞い降り、こうした可能性のうちの一つを──別の可能性をつかむこともできるのに──敢えてつかみ取る。言うまでもなく、ここで私は「左脳思考」と「右脳思考」の違いについて語っているのである。人間は真に選択の自由を持っているという事実を証明するには、右脳はその「鳥瞰図的視野」で百の可能性を知覚し、左脳はそのうちのどれを選ぶかを決定する、という創造的思考の仕組みを理解しさえすればよい。
同上 p.112
・能動的想像
「もし魂が、意識を保ちながら超感覚的世界に入ることのできる能力を獲得しようと願うなら、まず第一に、根本的には創造活動にほかならない或る活動を内部から開花させることにより、魂自身の力を強くしなければならない」(…)人間は、地球にもたとえられるほど大きな内面世界をもっているというオルダス・ハックスリーの言葉は前にも引き合いに出したことがあるが、神秘学者はこの内世界を「アストラル界」と呼んでいる。魔術の伝統に従えば、物質界を旅するようにこの世界を”旅する”ことができるようになるという。根本的に要求されるのは、まざまざと思い浮かべる高度に発達した能力である。それには、現実の対象と同じくらいはっきりした表象を喚び起こすよう自分を訓練することが必要である。最も簡単な行の一つを例としてあげよう。木製のさいころを思い浮かべてみる。それをまざまざと思い浮かべるようにし、頭の中で、ころがしたり、いろいろな角度から眺めたり、木の感触を確かめたり、匂いを嗅いでみたりさえするのである。そして遂には、目を開けていてもまざまざと思い浮かべて、そのイメージを現実界に投射することができるところまで行かなくてはならない。この修行についてのある権威者が語るところでは、達成まで毎日十五分の行で約一か月かかるという。
ひとたびこれが達成されると、次の段階は、「タットワ・シンボル」──地、風、火、水およびエーテルの象徴──が描かれている五枚一組のカードを作ることである。これらの象徴はそれぞれ黄、青、赤、銀、黒で彩られなければならない。それが済んだなら、ひとつの象徴を選んで、「残像」が生じるまで凝視する。この残像はもとの色の補色で現れるだろう。さてここで目を閉じ、先に選んだ象徴をその補色でもってまざまざと思い浮かべてみる。これは門口とみなす必要があり、次の段階はこの門口を──創造裡に──くぐり抜けようとすることである。これが「アストラル旅行」の第一段階である。どういう象徴が選ばれるかによって、門口の向こうの”風景”は変わってくる。そして、熟達した「アストラル旅行者」の話では、この風景は現実界の風景と同じように探検することができるという。
(…)
この視覚化という考えには「非科学的」なところは少しもないのである。心理学者ユングはこれを「能動的想像」と呼び、この力は、誰でも育てていくことのできる能力であることを少しも疑わなかった──もっとも、適切な指導者なしにこういった能力を育成することは危険だと警告してはいる。
「6 オカルティストと導師」p.174-176
・教育
わけても注目すべきは、子供たちに自分たちは教育されたがっているのだということを納得させることこそ教師の役割にほかならないとシュタイナーが考えていたという事実である──これは、ほとんどのドイツ人にはつむじまがりの逆説のように思えたにちがいない考え方である。
「8 大惨事」p.222
・プルーストの探究
「霊界」というものは実は人間の内面世界にほかならぬ、という認識である。シュタイナーは事実上こう言っていたにひとしい。鳥は空の生き物であり、魚は水の生き物、蚯蚓は地の生き物なのだが、人間は本質的に心の生き物であり、人間の真の故郷は自分の内部にある世界なのだ。なるほど、人間でも外面世界に生きなくてはならぬというのは事実だが、第1章で見たごとく、この外面世界を把握するには私たちは自分自身の内部に退く必要があるのだ。
(…)
ほとんどの人は、自分は個人であるという意識と、自分をとりまく世界の圧倒的な現実性との間の相克が人生なのだということに気づく。世界のほうが私たち個人よりも遙かに大きく、重要でもあるように見えるのだ。この感じは、私たちが疲れたり、がっくりしたときに増大し、そういうときには、自分が海岸に打ちあげられたクラゲみたいに外面世界に「立ち往生」していると感じる。(…)
それでも、心の奥底では、これが真実ではないのだ、と分っている。何かの匂いや味、あるいは一行の詩か数節の音楽のおかげであの内面世界を想起させられるだけで、もう私たちは、暖かさと強さが自分の内面にどっと溢れてくる不思議な体験をする。プルーストが紅茶にひたした菓子を味わったときに体験した感情がまさにこれであり、この感情はプルーストにこう書かせた。「私は凡庸で、偶然で、死すべきものであるとは感じられなくなっていた……」
プルーストは、この感情、この気持を意のままに甦らせるにはどうしたらよいか、という問題を探究する目的にあの厖大な長篇小説を充てた。ルドルフ・シュタイナーはこの問題への解答を発見した。初期に幾何学と科学を研究したおかげで、シュタイナーは自分の内部深くに沈潜する「こつ」をおぼえ、遂には、内面の領域もそれ自体で一つの世界、いわば、「代替的な現実」を成しているのだという考えがひらめいた。ひとたびこのことが分ると、シュタイナーはこれを忘れぬように気をつけ、毎日、一定の時間を割いて、この真理を自分自身に想起させた。
「9 後記──シュタイナーの業績」p.234-235
・シュタイナーの思想
シュタイナーは、「サイキックな能力」や隠れている師たちとの接触といった面で私たちの注意を惹く人物ではなかった。シュタイナーの真骨頂は、ゲーテを論じた本や『自由の哲学』や『自伝』に見出される思想にこそある。これらの本で自分が述べていたことは、のちの自分の思想の土台になった、とシュタイナーは主張しているのだが、実のところ、私たちとしては、のちの思想のほうは無視するか、または単なる知的好奇心でそれを研究し、右に記した初期の著書こそ重要なのだという気持から少しでも逸らされることがあってはならないのである。
同上 p.240-241
・現実忘却と居着き
シュタイナーの本質を把握するには、『ファウスト』の冒頭の場面を読み返してみさえすればよい。過労の学者が、気をめいらせ、疲労困憊したあげくに自殺したい誘惑に駆られる。だが、毒を口元まで持って行ったとき、復活祭の鐘が鳴りだして、子供時代の記憶が滔々と甦る。あの「プルースト効果」が生じたのだ。こうしたファウストは幸福の涙に溶けこみながら、人生は無限に複雑で、無限の刺戟に満ちたものであることを想い出すのである。
(…)
ファウストと荒野の狼(シュテッペンウォルフ)が抱えていた真の問題は、二人とも、この「別の」現実──モーツァルトと星々という現実ないしは実在を忘れてしまうことを自分に許したばかりか、反対側の極端にまで走って、人生は味気なく、むなしいという感情を土台としてその上に精神的視覚(ヴィジョン)を築いてしまったということなのである。
同上 p.243-244
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