幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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『ルドルフ・シュタイナー その人物とヴィジョン』(C.ウィルソン)の抜粋です。
図書館から借りた本なので線が引けず、貼った付箋箇所からの抜粋。
今すぐに何かは書けません(あまりに頭ごちゃごちゃしている)が、時間をおいて、また何かに対して連想がはたらいた時に引用したくなるだろう箇所です。
以下、下線は引用書の傍点部。
・心の顕微鏡
図書館から借りた本なので線が引けず、貼った付箋箇所からの抜粋。
今すぐに何かは書けません(あまりに頭ごちゃごちゃしている)が、時間をおいて、また何かに対して連想がはたらいた時に引用したくなるだろう箇所です。
以下、下線は引用書の傍点部。
・心の顕微鏡
一万年くらい前から人間は主として個々のものに集中する能力のおかげで生存を保ってきた。人間は存在にまつわる無数の問題や複雑さを処理するために、いわば心の顕微鏡を開発した。今ではそれが第二の天性となっており、常に顕微鏡を通して世界を眺めている。しかしながら、問題はそれによって、視野が狭くなっている点にある。われわれは現在という狭い地平に閉じこめられてしまっているのだ。この顕微鏡の大きな欠点は、すべての問題を過大視し、ものごとを針小棒大に見てしまうということにある。・反唯物論
「1 内宇宙への門」p.31
シュタイナーの時代には、学校や大學は、誰が見てもあきれるような嘘っぱちの思想を教えていたのである。つまり、人間は機械であり、宗教は迷信であり、進化は適者生存に基づく純然たる機械的プロセスであるということを、最新の考え方として教えていたのである。立派な聖職者はこれに対して烈火のごとく怒ったが、その偽らざる憤りは事態を悪くするだけだったようである。(…)したがって、唯物論は嫌いだがさりとて正統的な宗教にも与することのできないシュタイナーのような人間にとっては、唯物論者を論駁する科学的な方法を見つけることが肝要だった。それだからこそ、シュタイナーの自伝で若い頃のことが述べられている部分に、何十頁にもわたって、シュタイナーがむさぼり読んだ哲学者のことが書かれているのだ。シュタイナーは、唯物論が誤りであることをはっきり証明しているような思想を探していたのである。・フィヒテ
「2 幻視者の少年時代」p.44-45
シュタイナーにとって、こうした知的な同盟者のうちでとびぬけて重要だったのは哲学者フィヒテだった。百年ほど前にフィヒテはカント哲学によって絶望の淵に投げこまれていた。カント哲学は、われわれの感覚は嘘つきであり、「物自体」はけっして知ることができない、ということを証明しているらしかった。もしカント哲学が正しいなら、人間は虫けら同然のものになってしまう。ここでフィヒテは重要な精神的飛躍をなしとげた。われわれは坐って考えているときにはしばしば混乱し確信がもてないでいるが、活発な行動を始めるやいなや、疑念は、朝日を浴びた霧のように消えてしまう、ということにフィヒテは気がついた。・ブレンターノ
同上 p.45
フィヒテと同様ブレンターノも一つの単純で強力な洞察を有していた。ブレンターノによれば心的行為と肉体的行為のあいだには根本的な違いがあるという。もし私が雪の上ですべって仰向けにひっくりかえったとするなら、それは非志向的な肉体的行為である。が、非志向的な心的行為というようなものはありえない。私が思考する場合、何かについて考えなくてはならない。私はその何かに心の焦点を合わせなくてはならないのである。すべての心的行為(思考、意志、愛すること、何かを想い出そうとすること)は、暗闇を貫くサーチライトの光線になぞらえることができよう。すべての心的活動には意志の要素、つまり「志向性」の要素がある。だから、心的活動を化学になぞらえ、流れに浮かぶ葉のように心的活動もいわば漂流しているとみなすことは大変な間違いである。心的活動は目的をもって流れるか、それともまったく流れないかのどちらかなのだ。・ゲーテ
同上 p.47
ゲーテはシュタイナーの知的生活に他の誰よりも大きな影響を与えた人物だった。『ファウスト』を読んだシュタイナーは、これで私は唯物論的哲学者たちを退けることができると強い確信を抱いた。さらに嬉しかったのは、ゲーテが自分と同様、科学に熱中していて、独自の非唯物論的科学哲学を作り上げていたことだった。ゲーテにとって自然とは「神の生きた外被」であり、自然は絶えず創造のプロセスにあるという事実を認識したとき初めてわれわれは自然を理解できる、とゲーテは考えた。・ロボット
同上 p.49
現代人はワーズワースのようには自然の「実在」を経験することができなくなっているが、その理由を把握することは重要である。現代人は非常に複雑な生活に対処するために自分の存在の機械的な部分を発達させたのである。この機械的な部分は「ロボット」と呼ぶことができよう。車の運転とか外国語を話すといった難しいことを覚えようとする場合、意識的に、骨の折れる努力によってそれをしなければならない。が、そのうち「ロボット」がそれを引き継ぎ、「私」がするよりは遙かに速く効率的にやってのけるようになる。ただここで困るのは、ロボットは、車の運転とかタイプ打ちといったような、こちらがやってほしいと思っている事柄だけを”引き継ぐ”のではなく、音楽を聞いたり田舎を散歩したりといったような、こちらがやりたいと思っている事柄まで引き継ぐのである。急いでいるときなど、本当に楽しむことなく”自動的に”食事をすることだってある。ロボットはわれわれから経験を奪う傾向があるのだ。・深い静けさ
同上 p.53
催眠術をかけられた人は、深い静けさの状態に入って物質界とのつながりを忘れるようにと説得される。現代人にとってはこれはめったにない状態であるが、それは外界が騒ぎ立ててあまりにも多くの注意力を要求するため、ついには外界から去ろうとする習慣を放棄してしまうからである。(…)しかしながら、われわれの内宇宙を訪れるには──書物に没頭したり音楽に聞き入ったりする場合でさえ──こうした過剰警戒の習慣は捨てなければならない。そして、心の底からくつろぎ、心配(結局のところ、そのほとんどは全く無用な心配である)のすべてを忘れる習慣を獲得することが必要である。シュタイナーはワーズワースと同様、生まれつきこの習慣をもっていたようであり、子供のころの牧歌的な環境のおかげでこの習慣が深く根づいていった。・つかみとる手
同上 p.56
ハルトマンによれば、意識の目的は生物にもっと多くの知覚を与えることにほかならず、意識は電灯の発明にたとえられるという。事実、われわれのほとんどはこういう見方を当り前だと思っている。これに対してシュタイナーは、意識は能動的な力であり、その目的は問題に焦点を合わせ集中することだと本能的に感じていた。意識は光ではなくむしろつかみとる手だというのである。そして、このつかみとる手は建設し創造することもできる。・神智学
「3 ゲーテ学者」 p.66-67
シネットは、神智学は科学と宗教を別々にしておく必要を認めないと断言する。物理学と霊性は融和させうるものであるどころか互いに依存しあってさえいるというのであるが、これはシュタイナー自身の深い確信でもあった。・時間が空間になる
同上 p.78
>>・死者と交信する
霊的な意味では、「過去」の事柄は本当は消え去っておらず、依然としてそこにあります。物質生活においては人間は空間についてしかこういう考え方ができません。一本の木の前に立っていてからその場を離れ振り返って見ても、その木は消え去ってなどいません……霊界においてはこのことが時間についても言えるのです。もしあなたがある瞬間に何かを経験したとしても、物質的意識に関するかぎりそれは次の瞬間には消え去っています。が、霊的に見た場合は消え去ってはいないのです。木を振り返って見ることができるように、それを振り返って見ることができるのです。リヒャルト・ワーグナーはこのことを知っており、注目すべき言葉を残しています。「ここでは時間が空間になる」
(一九一八年に行った講演「死者はわれらと共にある」より)
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「4 長かりし徒弟時代」 p.93-94
この講演においてはシュタイナーは死者との交渉という問題について雄弁に語っている。(…)・右脳の「観賞」
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われわれは眠りこむ前や目ざめる前に死者に出会います。(…)
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シュタイナーはさらに、眠りこむ前の瞬間は死者と交信するのに特に適していると言う。もしわれわれが死者に何かを尋ねたいのなら、眠りこむ瞬間まで「それを心の中に」保持し」、それから問を発しなくてはならない。(…)
さらにもうひとつ人を面くらわせるようなことが書いてある。われわれが死者に問を発する場合、その問というのは実は死者から来ており、したがって、答えはわれわれから来るというのである。
同上 p.94-95
右脳──「もう一人の自分」──は直観や「総体的な意味」や型(パターン)を扱う。それは音楽や詩を観賞する部分である。左脳は顕微鏡を通して世界を注視するのであり、「今ここにある目先のこと」に取り憑かれている。左脳は言語、論理、計算を扱う。
脳のこの二つの部分が非常に密接に働き、その結果それらがお互いの存在を実際に感じることのできる時がある。心の底から緊張を解き、「観賞」の気分になったとき、私はくつろいで右脳の中へ入っていくように見える。こういう状態のとき、私は遙かに直観力が研ぎすまされ、記憶力も確かになっている。
ところで、右脳はハドソンの言う「主観的な心」であり、左脳は「客観的な心」であると想定することのできる証拠がある。
こうしたことすべてから生じる最も重要な点は、文明人のほとんどは左脳に閉じこめられ、能率的に働くことや外界に「対処」することの必要に取り憑かれて日々を過ごしている、という事実である。文明人は心の底からくつろぐことができず、言うならば、潜在意識的には緊張状態にあって常に電話が鳴るのを待っている人のようなものである。
同上 p.103
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