幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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「他人に迷惑をかけない人間」というのを、やたらと持ちあげることに、ぼくはおおいに不満なのである。(…)むしろ、迷惑をかけあうことこそ、人間の社会性と言えるくらいだ。それに、社会的弱者にとって、この「迷惑をかけるな」は差別として作用することが多い。問題は、迷惑をかけていることに鈍感になるな、ということだろう。これも自覚の話。
森毅『ひとりで渡ればあぶなくない』p.30
自覚の話は「言うは易し、行うは難し」であることが多くて、例えばこの場合だと、自分が他人に迷惑をかけている自覚を実際に迷惑をかけることの抑制作用と切り離すことが難しい。
自覚さえあれば傍若無人でも大丈夫なわけはないし(自覚が言葉だけになるとこうなるのだが)、過剰な自覚を背負い込んで縮こまっていてもいけない(僕は主にこちらに属する)。
だから「行動を伴う自覚」とするにはこの論理一つでは足りない。
もちろん森先生のことだから続きにちゃんと書いてある。
うろうろして首をつっこむときは、迷惑をかけないようにするわけにはいかない。(…)それで、やじ馬のマナーくらいはあろう。たぶんそれはオジャマムシの妙なやつと自己規定する道化気分でもあろうか。人にとって、ややこしさは必要なのである。
道化の気分というのは、人間としてかなり高級なことに属するから、うろうろと人に交わるというのは相当にややこしいことだ。しかし、人間はややこしさを避けていると、どんどん縮こまっていく。してみると、小さな仲間にオジャマして迷惑をかけるというのは、ややこしさを注入してあげることでもある。
(…)
だから、目的といったものがあるとすれば、なにかを探し求めるのではなくて、とかく閉じこもりがちな自分の心を、ややこしく解きほぐすことにありそうだ。この点で、目標を求めることへの無精さと、ややこしさを求めるやじ馬性とは両立し得る。
同上 p.30-31
そんなもの必要ないと思っている人にこそ必要なのだ。
それだから、相手に流されるだけでは決して、ややこしさを必要としている人にややこしさを注入してあげることができない。
しかし、話はわかるが、果して話だけでこうも動けるものか。
きっと、それは難しい。
だから感じなければならない。
「他人がややこしさを必要としていること」を、その人に自覚なんてなくても、その人が暗に発しているものから。
そしてそれを感じる力や方法といったものは、おいそれと会得できるものではない。
その力を持っている人が近くにいれば、きっとその人とある程度一緒に過ごす時間があるだけでわかってくるものだ。
けれど近くにそんな人がいない場合はどうするか。
自分でその力や方法を開発するしかない。
なんだか話がずれている。
その方法の開発に興味はあるがそれはまた別の話。
この抜粋の中で「おっ」と思ったのが下線部で、簡単に言うと「ばらばらに思えた性質が一つの筋道で繋がると強くなる」と思ったのだった。
強くなるというか、意味があると思えるというか、「自分のこの性格、面倒臭い短所としか思ってなかったけど、自分のやりたいことに活かせるやん」と思えるというか。
一人の人にはいろんな性質があって、人の性格を一言で言い表せるなんてことはないけれど、それは決して一つひとつの性質が何の関係もなく散漫に存在しているわけではなくて、何せそれらのいろんな性質は全て一つの身体に宿っているのだ。
だから、お互い関係ないように思える自分の性質たちも、視点によっては一つの文脈を介して繋げることができるし、そうやって繋げることができると、個々に独立して発揮されていた以上の効果を(その効果を発揮する場面も分かってくるし)発揮することができるようになる。
この「視点を持つ」「文脈を発見する」ことは言葉によってしか行えない。
上で一度ずれた話とつなげるなら、自分でその力や方法を開発するにおいて、言葉は非常に重要な役目を果たすことになる。
この場面で「誰もそんなこと言ってないから…」と自信をなくすことは論理的に間違っている。
「自分の文脈」を発見できるのは自分しかいないからだ。
他人の共感が登場するのは、自分で見つけた「自分の文脈」を他人に向けて発揮した時になって初めてのことだ。
論理の力は、このような所で日の目を見る。
そのはじまりは実質を伴わなくとも、論理を実際に適応して効果が実感できれば、論理への信頼に実質が伴うことになる。
これは論理が使われるのではなく、新たな論理が作られる場面の話である。
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