幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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最後の方を書いてて思ったけど、自分が好んで読む方々の思想の折り合いを自分の中でつけねばならんなと思った。個々に読んでいる間は「なるほど!」と思っても、そのなるほどが別の本の否定に思ってしまうということはその両者の思想が自分の中で敵対しているということだ。これは昨日の記事を書き終えてからツイッターでつぶやいたもの。
だから、本の内容を自分の内に吸収するということは、別の著者の言うことと相性良く自分の中に住まわせるということだ。これは誤読というか一著者の思考の曲解にも繋がるのだけど、読み手に重要なのは誤読をしないことよりも「自分にとって良いように読む」ことだ。
(…)
つまりここに書いた方々のみんなから自分に取り込めるものを探すというのではなく、一つの本を読むその都度に感心したことについて、「なぜ自分が感心したのか」を問う、ということだ例えば。他者とか常識の価値観を借りて感心してるだけかもしれないんだ。
書き過ぎて疲れた後に、ふっと余韻のような、整理体操のような感じでこういう言葉が出てくるんですね。
無理はしてみるもんです。
調子に乗っただけだけど。
それでこの指摘が自分にとって革命的だと思ったのは、今まで自分の好きな本はだいたい「なるほど!」と納得しながら調子良く読んできたのだけど、その「なるほど」同士のリンク付けは興味を持ってやっていたけど「なるほど」そのものの質を問うという発想が無かったからだ。
つまり「なるほど」と思える何かしらの文脈を発見した時点で良しとしてきたということで、上記の通りその文脈を(自分が大していいとも思っていない)他者の考えや(自分が距離を置きたいと思っている)常識から持ってきている可能性を検討したことがなかった。
筋の出自がどうであれ筋が通っていれば論理的だ、というようなまるで主体的でない読み方を時々していた…と書いてもまだやわな方で、実際は客観的思考をすべく進んでそのような読み方をしていたのではないか。
そしてたまに自分の感覚に沿う文脈を見つければ「お、これはいいなぁ」と感心するのだけど、この感心と上記の(文脈が無文脈的な)「なるほど」との間に明確な差をつけていなかったのではないか。
もちろんそのような読み方で読書を楽しむことは達成できるけれど、「自分を変える」という意識を持って読むにしては無節操に過ぎるのだ。
…しかしこの無節操な読み方も「流れに呑まれりゃ流される」渡世法とちゃんと通じてしまっていてその点違和感はないのであって、けどそれはイヤだというのはやはり「自分が流されたいと思う”流れ”を選べていない」所にある。
ここが本当に難しくて、いやだんだん言い訳じみてきたけれど、なんか就活してる時に似たことを書いた記憶が甦ってきたけれど(これです)、「流される”流れ”を選ぶ」振る舞いは「(純粋な?)流されの作法」からすれば怠慢だみたいな今書けば屁理屈としか思えない論理が長いこと自分の中で幅を利かせてきたことは事実なのだ。
別に恨むつもりはないが、カント的直観によれば森見登美彦のせいかもしれない。
自分を読書生活に導いた作家がモリミーという点がまず壮大に怪しい(笑)
今『太陽の塔』を読みなおせば、何かが起きるのだろうか。
社会人になってからそれをすることにこれまで何度も躊躇してきたのは「もっかい読んでつまんなかったらどうしよう」という虞のためではなく、「社会人適性値が下がりそうで困る」なんて笑い話的な理由に留まらない、何かが。
…年末文庫版持って帰ろうかな。
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