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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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このとき、なにがあったのだろう?

+*+*+*

祝いと呪いと予感

2013/04/05 22:52
「祝い」と「呪い」は同じものだ。
対象を縛る効果として。
その効果の呼び名を対象自らが選びとるのは難しいが、
結果としてそれを決めるのは受け手である。
「祝い」を束縛と呼ぶことに違和感があるかもしれない。
では、「祝い」は対象を生と祝福の(あるいは命の)赤い糸で結わえるものとしてみよう。
するともう一方は、対象に死を負わせる「呪い」となる。
ここでいう死は「不変」に近い。

ある効果の呼び名を決める因は「予感」にあるのではないかと思う。
時の止まった祝福は「呪い」であり、
苦境を乗り越えんとする呪詛は「祝い」となる。


当人がそれと知らずにかける「呪い」を、受け手が「祝い」に変える、
「祝い」として受け取るためにはどうすればよいか。
それは「呪い」を隠蔽したり抑圧したりすることではない。
「呪い」から逃れる意思も大事かもしれないが、
それは受け手の余力が少ない時の非常手段で、
さらなる「呪い」の増大のリスクを伴う。
「呪い」をそれと分かって耐える、という表現もあまりよく響かない。
「予感」の力を失わないために、常に変化を厭わない境地でいるために、
流れを淀ませてはいけない。
実際的な表現を使うと身も蓋もないが、
”「呪い」の変化にその都度対応する”しかない。
「予感」が完全に失われ、その足を鎖で繋がれ、その固着の状態を良しとし、周囲を飲み込まんとするものの発する「呪い」は、その対象と己との一体化が果たされないと分かれば変化せざるを得ない。
その変化が表層であれ、稀なる根本であれ、
受け手はその変化に応じて変化するべきである。
その変化と変化の応酬がどのような結果をもたらすにせよ、
両者にとって良いに違いない。
両者が己の生を信じる限りにおいて。

人は、自分が何を望んでいるかすら、完全には把握できていない。
この信念は譲るわけにはいかない。

いまのところ。

2013/04/05 23:15

+*+*+*

読み返してみてもよく思い出せないけれど、
どうもこの話と繋がっているみたいだ。
うーん。
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