幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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自分が何かを「やりたくない」「できない」という場合、自分にそれを納得させるためには、そのような倦厭のあり方、不能の構造をきちんと言語化することが必要だ。
「やりたくないこと」の言語化はむずかしい。(「できないこと」の言語化はもっとむずかしい。)
「だって、たるいじゃんか」とか「きれーなんだよ、きれーなの。そゆの」
とか言っていると一生バカのままで終わってしまう。
自分がなぜ、ある種の社会的活動について、嫌悪や脱力感を感じるか、ということを丁寧に言葉にしてゆく作業は自分の「個性」の輪郭を知るためのほとんど唯一の、きわめて有効な方法である。(…)
ひとは「好きなもの」について語るときよりも、「嫌いなもの」について語るときのほうが雄弁になる。
そのときこそ、自分について語る精密な語彙を獲得するチャンスである。
内田樹ブログ「夜霧よ今夜もクロコダイル」-2001年2月23日
自分は「嫌いなもの」について語る習慣を敢えて持たなかった。
特に人に関わる内容には嫌悪感をなるべく含まない努力をしていた。
そうしてきた理由は「自分がされると嫌だから」に他ならない。
だがその当初の理由はもはや実質が抜け落ちていると気付いた。
人に嫌われて良い気分がしないのは当たり前で、
自分の言動に問題があることが理由である場合はふつう改善に努める。
しかし、理不尽な理由で、あるいは自分の人間性と関係のないところで嫌われたら?
あるいは、振る舞いを改善した後の自分が全く好きになれないと分かっていたら?
嫌われても仕方のない場合がある。
「嫌われる」だと強いので、印象が良くない、あまり関わりたくない等も含めよう。
周囲に合わせる気遣いが無ければ、そう思われる機会も増える。
それで良いと自信を持つためには、「仕方のない」を詳述する必要がある。
嫌われても仕方がないこともあるが、自分から積極的になるのは抵抗がある。
もちろん日常で周囲の人間に嫌悪感を振りまくような無意味な行為は論外である。
場の空気を読みつつ、自分にとって違和感のない振る舞いをした結果、
相手の気を悪くさせるという展開は許容するのが「消極的にはOK」の意味だ。
だが、そのような自分の「積極性の位置づけ」に実際何の意味があるだろう?
それこそ自己満足にはなるが、相手にそのような違いが分かる筈がない。
自分の消極的な協調性の無さがコミュニケーションの開始時点で相手に
「この人とは合わない」と感じられてしまえば、「始まりにして終わり」である。
現状、嫌われて仕方のない場合はあるが実際嫌われると傷つく自分がいる。
それは「改善の余地の検討を真摯に行うための痛み」として重要ではある。
しかし明らかに、その痛みが必要な場合と全く不要な場合がある。
不要な痛みを感じる所以は自分(の考え方)に対する自信の無さにある。
正確に言えば、「自分の考え方を他人に示して納得させられるか」に自信がない。
もとより「他人は他人だからわざわざ納得してもらう必要はない」と思っている。
共感できる人間がもしいるならば、彼への説明も楽にできるだろう。
認識すべきは、このような態度は「社会性が全く欠けている」ということ。
自分の嫌悪感の内実を語るとは、自分の興味を語ることの裏返しである。
前者を為さず、後者には消極的であるとは、「コミュニケーションの否定」だろう。
自分の興味を語るその口(腰?)が重いのは、興味と嫌悪感が表裏一体だからだ。
そろそろ、レトリックで誤魔化さない「個性」を書いてもよいのではないか。
というまずは意思表明。
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