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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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溝口くんは、鶴川くんになんかしてもらうことばっかり考えて、自分でなんかしようとは思わないんだもんね。そんなのいけませんよ。あなたがこわがってたから、松枝清顕はいなくなっちゃうのサ。三島由紀夫がどういう人だったか、もう一行で言えるよ。こわがりすぎて皮肉にうっちゃりを喰わされた人──そんだけ。
「06=難渋(きつおん)の文学」(橋本治『ロバート本』p.34-46)
「うっちゃり」って最初チョップのことだと思ってたけど、調べてみると違ってた。
土俵際まで相手に寄られて、すんでの所で相手を外に投げ出すこと。
土壇場で大逆転、という意味らしい。
「うっちゃる」はたぶんちゃぶ台返し的な意味だと思うんだけど、あれもまあ追い詰められてるんだろうね。
仕事と家庭の板挟みで溜めた鬱憤にポン酒で亭主がイグニション。
あかんこれ。(←違う)
それはよくて…もう一つの抜粋と合わせると話が分かりやすくなる。
三島由紀夫は、結局、皮肉に足をとられた人なの。”人は理由があってひねくれるのと同時に、なんだか理由は分からなくてもひねくれざるをえない時にひねくれる”って前に書いたけど、自分に向けられる知性と言うのは結局、この後半分のひねくれの理由を解明することでしかないみたいね。そんで、ひねくれを戻すのは、結局”鶴川くん風の明るさ”というような、アンチ文学であるような勇気だけなのよ。
最近読んだ森博嗣本のあとがきにあった「素直な天の邪鬼」というのと似た感性かと思う。
「ひねくれる」と表現される振る舞いがひねくれて見えるのは外部の何か(習慣や常識や、心理学とかの学問)に照らし合わせればそうだというだけで、それが実は「素直」であると理解するためには知性が必要で、しかし知性を発揮するための道具は外から持ってくることもあるけれど知性の発揮場所と方法は自分の中で(に)しかありえない。
冷静に考えるというのは土俵の上で「皮肉」とがっぷり四つに組むということで、しかし思考以外を削ぎ落とした思考、知性の発揮の追求だけでは、(おそらく相手に押し出されたり土俵中央で上手投げといった「明白な負け」はなくて、)抜粋の通り「勝ちが見えた」所で足(というか体)をすくわれることになる。

だから勇気!
『合言葉は勇気』なんですね。
(あ、まだ読んでない…次の次くらいに読もかしら)
皮肉を避けるのでなく突き抜けることで身体を取り戻す。
現代に必要な知性の使い方は、これだろう。
そしてこれは決して目新しいものではない。

そしてつい言ってしまうけど、
「本では得られないものがあることを本によって知る」
ことは、もちろんある。ことによっては、
「本では得られないものを本によって得る」
こともあり得る。
それが橋本治。(おお!)
読めば分かる。
(あ、でも『ロバート本』は相当危険だけどね…『蓮と刀』よりゃマシか)
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