幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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あるいは考える前に書き始める。
状況論という言葉が頭から離れない。
保坂氏の本にあったのだが、「ちょっと考えれば誰でもたどり着きそうな構造論」のこと。
自分の身近な経験を普遍的な話に押し上げようとするとよく陥る。
それが悪いわけではなく、「ちょっと考えれば」がちょっと過ぎるといちゃもんを付けるわけでもない。
「ふつう」に考えればみんながたどり着く結論であれば、それは「ふつう」の、ありふれた思考なのだ。
「それが悪いわけではなく」などとすぐ保身にまわる癖は意識しないと抜けないので意識するとして、「それではいけない」と言いたいから、正確には自分の目指す「深い思考」をするにおいてはその「ふつう」はしがらみでしかない。
そうと分かっていればさっさと脱すればよい、と思ってもそう簡単にいかないのは、考えるのは自由であり時と場合に応じて考え方が変わるのも当たり前ではあれ、考える人間は一人なのであるからある場面で考えた事が他の場面での思考に影響を及ぼすのも当然のことで、その影響を全く無視できる状態は極めて現代的であり病的といえる。
どういう目線で病的かといえば動物から見ての話で(ちょっと極端かな)別にそれはよくて、自分が何かしらの病気を自覚していて、かつ(全般的にであれ)病気はよくないという認識に違和感がない以上、症状の進行は抑えようとするだろうし、可能であれば治癒の方向へもっていこうとするものだ。
病を自覚しつつその症状が生活を乱さないよう制御することを寛解という。
ある病気の完治が別の病気の発症をもたらす可能性があり、後者も前者なみにあるいはそれ以上に侮れないといった場合、現在進行中の日常生活を維持するうえでの次善の解決法は前者の病気の寛解ということになる。
「次善の解決法」といって、これは最善ではないし、そもそも寛解は解決ではないとも言えるが、ここでいう最善は願望の入った理想(つまり前者の病気が完治し後者の発症も抑制できるという結果)でしかなく、ここでいう解決の意味合いは「大学受験で合格することが人生のゴール」という時のゴールと同じものでしかない。
閑話休題。
構造は、正確に語られた場合、論理的な確実性を備えている。
それが現実的かどうかは、何ら論理性を傷つけない。
現実は論理を基盤にしているが、論理を基礎付ける現実というものはない。
現実が参考にされて論理が組み立てられることはあっても、その論理が完成した時点で現実とは手が切れる。
別の言い方をすれば、「論理を目指すもの」が現実の試行錯誤を経て洗練され、抽象として独立して初めて論理となる。
「構造を語る魅力」はその確実性にあり、法の(建前の)全能性の魅力と似るところがある。
ただ、これは分かりやすい入れ子になっていて、「構造を語る確実性」という表現が既に確実性を備えている。
そして上で触れた「(自分の目指す)深い思考」というのは、この魅力を駆動源にしつつも時に抗いながら、「入れ子」を常に意識しておくことが一つの前提となっている。
確実性を語ることは、その確実性が明示的であればあるほど、既存の論理と似通ってくる。
自分の経験から語られることが「既にどこかで言われているかどうか」は、本来のそれを語ることの魅力とは関係がない。
歴史に名を残すために語るのではないし、それはまた別の魅力であるからだ。
しかし既存の論理は多かれ少なかれ個人の経験に蓄積されている。
問題になってくるのは、自分の経験を語る時に「既知に還元するために語っている」のか、「独自の論理を生み出すために語っている」のか、という自分の認識である。
だから「還元するための既知」を忘却していればどんなにありふれた論理も独自性を獲得する。
数学的才能はあったが公教育を満足に受けられなかった農民の子が、半生をかけて編み出しかつて教育を受けた恩師に意気揚々と披露した理論が「二元連立一次方程式」だった(そして恩師は涙した)、という話をどこかで読んだが、これを悲劇だと思うのは「既知の論理」側の人間で、その農民の子が家の農作業の合間を見つけては思考に没頭していた半生の充実は否定されない。
それを否定することは「システムによる個人の否定」である。
個人の生の充実はいつの時代でも追及されてきた。
(この言い方が正しく聞こえないのは「個人=近代的個人」という暗黙の了解(というか言葉の定義か)があるからで、ここでは「個人=一人の人間」で、近代以前は個人の境界が今よりずっと曖昧だったということだ)
生の充実を追及することは人間である以上どうしようもなくて、ただ時代によって追及の仕方が変わってくることも考えれば当たり前だ。
しかし、その方法が様々ということは分かりやすいが、「生の充実」がどのような状態を指すかも時代によって異なること、ある時代の価値観で別の時代のそれを理解する難しさなどは立ち止まって(つまり現代の日常から距離をおいて)考えなければ気付けない。
そして(「個人」が近代以降の産物であることと同様に)「生の充実」なるものを言葉からとらえようとする生活観が現代特有であることも。
自分がこの世界に(思考できる頭をもって)参入した時点で、既に言葉は溢れている。
言葉は溢れていて、色々な仕組みが言葉で出来上がっていながら、それに嫌気がさしたのか、世界は「言葉なんて軽いものだ」と主張しているように見える。
それは一つの大きな矛盾で、「矛盾はよくないからないことにする」でもなく、「矛盾は世界の至るところに満ちており、論理と現実は違うという以上を意味しない」と看過するでもなく、「それはどうしてだろう?」という(始まりとしてはとても素朴な)疑問を抱えて生きていくこと。
言葉を大切にすること、いや「自分の言葉を探すこと」の、これは過程である。
「既に始まっているゲーム」に途中参加した者は、試合開始のホイッスルも、試合終了のホイッスルも聞くことができない。
ゲームは続くのであり、既に始まっていて終わらないものこそゲームなのだ。
状況論という言葉が頭から離れない。
保坂氏の本にあったのだが、「ちょっと考えれば誰でもたどり着きそうな構造論」のこと。
自分の身近な経験を普遍的な話に押し上げようとするとよく陥る。
それが悪いわけではなく、「ちょっと考えれば」がちょっと過ぎるといちゃもんを付けるわけでもない。
「ふつう」に考えればみんながたどり着く結論であれば、それは「ふつう」の、ありふれた思考なのだ。
「それが悪いわけではなく」などとすぐ保身にまわる癖は意識しないと抜けないので意識するとして、「それではいけない」と言いたいから、正確には自分の目指す「深い思考」をするにおいてはその「ふつう」はしがらみでしかない。
そうと分かっていればさっさと脱すればよい、と思ってもそう簡単にいかないのは、考えるのは自由であり時と場合に応じて考え方が変わるのも当たり前ではあれ、考える人間は一人なのであるからある場面で考えた事が他の場面での思考に影響を及ぼすのも当然のことで、その影響を全く無視できる状態は極めて現代的であり病的といえる。
どういう目線で病的かといえば動物から見ての話で(ちょっと極端かな)別にそれはよくて、自分が何かしらの病気を自覚していて、かつ(全般的にであれ)病気はよくないという認識に違和感がない以上、症状の進行は抑えようとするだろうし、可能であれば治癒の方向へもっていこうとするものだ。
病を自覚しつつその症状が生活を乱さないよう制御することを寛解という。
ある病気の完治が別の病気の発症をもたらす可能性があり、後者も前者なみにあるいはそれ以上に侮れないといった場合、現在進行中の日常生活を維持するうえでの次善の解決法は前者の病気の寛解ということになる。
「次善の解決法」といって、これは最善ではないし、そもそも寛解は解決ではないとも言えるが、ここでいう最善は願望の入った理想(つまり前者の病気が完治し後者の発症も抑制できるという結果)でしかなく、ここでいう解決の意味合いは「大学受験で合格することが人生のゴール」という時のゴールと同じものでしかない。
閑話休題。
構造は、正確に語られた場合、論理的な確実性を備えている。
それが現実的かどうかは、何ら論理性を傷つけない。
現実は論理を基盤にしているが、論理を基礎付ける現実というものはない。
現実が参考にされて論理が組み立てられることはあっても、その論理が完成した時点で現実とは手が切れる。
別の言い方をすれば、「論理を目指すもの」が現実の試行錯誤を経て洗練され、抽象として独立して初めて論理となる。
「構造を語る魅力」はその確実性にあり、法の(建前の)全能性の魅力と似るところがある。
ただ、これは分かりやすい入れ子になっていて、「構造を語る確実性」という表現が既に確実性を備えている。
そして上で触れた「(自分の目指す)深い思考」というのは、この魅力を駆動源にしつつも時に抗いながら、「入れ子」を常に意識しておくことが一つの前提となっている。
確実性を語ることは、その確実性が明示的であればあるほど、既存の論理と似通ってくる。
自分の経験から語られることが「既にどこかで言われているかどうか」は、本来のそれを語ることの魅力とは関係がない。
歴史に名を残すために語るのではないし、それはまた別の魅力であるからだ。
しかし既存の論理は多かれ少なかれ個人の経験に蓄積されている。
問題になってくるのは、自分の経験を語る時に「既知に還元するために語っている」のか、「独自の論理を生み出すために語っている」のか、という自分の認識である。
だから「還元するための既知」を忘却していればどんなにありふれた論理も独自性を獲得する。
数学的才能はあったが公教育を満足に受けられなかった農民の子が、半生をかけて編み出しかつて教育を受けた恩師に意気揚々と披露した理論が「二元連立一次方程式」だった(そして恩師は涙した)、という話をどこかで読んだが、これを悲劇だと思うのは「既知の論理」側の人間で、その農民の子が家の農作業の合間を見つけては思考に没頭していた半生の充実は否定されない。
それを否定することは「システムによる個人の否定」である。
個人の生の充実はいつの時代でも追及されてきた。
(この言い方が正しく聞こえないのは「個人=近代的個人」という暗黙の了解(というか言葉の定義か)があるからで、ここでは「個人=一人の人間」で、近代以前は個人の境界が今よりずっと曖昧だったということだ)
生の充実を追及することは人間である以上どうしようもなくて、ただ時代によって追及の仕方が変わってくることも考えれば当たり前だ。
しかし、その方法が様々ということは分かりやすいが、「生の充実」がどのような状態を指すかも時代によって異なること、ある時代の価値観で別の時代のそれを理解する難しさなどは立ち止まって(つまり現代の日常から距離をおいて)考えなければ気付けない。
そして(「個人」が近代以降の産物であることと同様に)「生の充実」なるものを言葉からとらえようとする生活観が現代特有であることも。
自分がこの世界に(思考できる頭をもって)参入した時点で、既に言葉は溢れている。
言葉は溢れていて、色々な仕組みが言葉で出来上がっていながら、それに嫌気がさしたのか、世界は「言葉なんて軽いものだ」と主張しているように見える。
それは一つの大きな矛盾で、「矛盾はよくないからないことにする」でもなく、「矛盾は世界の至るところに満ちており、論理と現実は違うという以上を意味しない」と看過するでもなく、「それはどうしてだろう?」という(始まりとしてはとても素朴な)疑問を抱えて生きていくこと。
言葉を大切にすること、いや「自分の言葉を探すこと」の、これは過程である。
「既に始まっているゲーム」に途中参加した者は、試合開始のホイッスルも、試合終了のホイッスルも聞くことができない。
ゲームは続くのであり、既に始まっていて終わらないものこそゲームなのだ。
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