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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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糧生く過程。

最近疲労が溜まっていてカタめの本を読む体力が足りなくて困っているのだけど(でもこれは「ヤラワかい本=今しか読めない本」という価値付けで納得できるので良し)、もちろん疲れて困ることは他にいくらでもあって、その一つが昨日サラダを仕込んでいる時に元気にならなくて(いつもはしんどい時も野菜切ってると元気になるのです)ちょっと愕然とした。
昨日はサラダと味噌汁の具の仕込みが重なる日で全部やれば2時間かかるのだけど、野菜切りながら疲れが意識から離れなくて右肩が震えてきたりして(これは最近肩こりがひどいせい。原因不明だが液だだ漏れのアンメルツヨコヨコにて対処中)「こらあかんわ」とサラダだけ作って止めて、次の日の夕食前に仕込もうと決めた。
それが今日で、じつは今週から土曜出勤のサイクルがしばらく続くのだけど、仕事終わってから夕食をつくる前に具を仕込む元気が果してあるものかと昨日は心配したが人がほとんどいない土曜出勤の楽さもあってそこは杞憂に終わって(あと昼がパン1個の粗食なのに夕食の時間を遅らせて大丈夫だろうかとも思ったしじっさい仕込み中は空腹で不安になって水でごまかしていたけど、よく考えれば不安に思ってるのは頭だけで身体のほうは「飢餓場の底力」を注ぎ込んで躍動してるんじゃないかしらと思い、それが寿命を縮めるのでなく潜在力を引き出す経験になっていると信じてみる)いつも通りプラケース8個に野菜を詰め終えて、そこからいつもと違ってそのうち1つは冷凍せずにそのまま使うのだけど凍ってない野菜を鍋の前に持って来ると煮る前に炒めたくなるのが男の性というもので(たぶん)、豚肉に焼き色をつけてから味噌汁の具(最近はずっと固定のゴボウ、タマネギ、オクラ、舞茸、茄子)も一緒に炒めて、ついでのついでにいつもは同じく煮るから始めるカボチャも一緒に炒めて焦げ目をつける。適度に焦がせばなんでも旨くなるという安直な認識がそうさせたのだけど、今回それでじっさいに旨くなったかといえば違いを認識できるほどではなく、煮ている間の汁がいつもより粘度高いかなあと思ったくらい。
というわけで味が改善されたわけではないのだけど、仕込みを(前日の夕食後から当日の夕食前に)遅らせて憂鬱しか発生しなかったはずが思わぬ発見があったことが書きたかったことで、何を発見したかといえば「冷凍した具を使う日の朝に冷蔵庫に移しておけば(冬なら外に置いてもいいかもしれない)夜は解凍された状態で使える」ことで、そんなことちょっと考えれば当たり前過ぎる話なのだけど驚かねばならないのは「とはいえそんなことちっとも考えない」ことだ。

考えれば当たり前で大発見でもなんでもないことにずっと気付かなかったことに後悔する(「今までさんざん手間かけてきたあの時間はなんだったんだ!」とか。今回の話は違うけど)必要は全くなくて、というのも情報化社会では検索ツールを日常の(効率面の)最適化に使いそれにハマってしまうと際限がなくなると早々に見切りを付けた自分は建前上他者の要請のないところでは効率を無視して我流(というか成り行き)に方法を見出すことに価値を置くことにしたのだった。
つまり保坂和志が(確か『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』の最初の方に)書いている「主観を取り戻す」ということで、そのことが他者に理解されるかどうかはおいといて、まず自分が「これでいいのだ」と思えることが大事なのだ。
自分の思考においてついつい客観性を考慮してしまうのは「他者に理解されるかどうか」を一番に考えてしまっているのであって、それが個別具体の「あの人」と共感できるかどうかは、実は直接は結びつかない。
そこで共感が成り立つのだとすれば、それは自分とあの人とを「客観性」が媒介された上でのことだからだ。
その共感がウソなんてことはもちろんなくて、常識はこの原理で機能しているのだから集団生活において不可欠なのは間違いない。
が、言いたいのは、「それだけではない」ということ。
こう言えば当たり前だが、「常識だけ」で人と深く付き合うことはできない。
だからといって常識がなければ「深くなる前の付き合い」すらできないのだが(>自分)。
その加減が難しいなんてこともなくて(人を観察してればわかる)、問題は「(社会における)加減の行き先」で、それを自分の問題にするならその「行き先」に納得いかないということ。
まあ、「納得する必要なんてない」という意見ももっともだけども。

味噌汁の話をしていたはずだが…?
まあいいや、せっかくなので引用で〆。
 体験というものは”主観”であり数値化できない。しかし、”主観”であり数値化できないがゆえに、個人の生き方を左右する力を持っている。堂々巡りみたいだが、その力もまた数値化できない。(…)しかし数値化があまりに広く深く浸透してしまっているために、私たちは自分一人の”客観化”されざる体験を自分自身に向かって思い返すときにまで、ついうっかり数字を一緒に出してきてしまい、そこで”主観”と”客観”を混同して、考えを違う方向に持っていかれてしまう。(…)
 これは数値化だけではない。”主観”はいろいろなものによって切り崩されている。”主観”と思われがちの「私らしさ」とか「私にしかできないこと」というような、自我に縛られたちっぽけな考えは、そのような時代に生まれた先のない感傷的な思考でしかない。これは”主観”とは別のことだ。
 数値化を含む共通了解の誘惑に抗して”主観”を”主観”として保持しつづけ、それを一人でも多くの人が共有することのできる言葉や思考として練り上げること。小説・音楽・絵画・映画……etc.の芸術はそのためにある

「歳月は数値化されない」(保坂和志『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』p.53-54)
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