幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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「正しい思考」について考えてみる。
この正しさは、もちろん論理的な整合性を指すものではない。
言い換えれば、「あるべき仕方で為されている」だろうか。
では「あるべき」とはどういう状態か?
表現そのものを細かく割っていけば理解に落ち着くものではなさそうだ。
換言し続けても堂々巡りになるか、好きな表現で納得してしまうだけだ。
一言で表現して万人に伝わるものでないことは確かだ。
「愛」と聞いて思い浮かべる感覚が一人ひとり異なるように。
まだスタート地点の手前での準備体操の途中だ。
「愛」と聞いて思い浮かべる感覚が千差万別で、しかしみんな幸福な気持ちになる。
これをして「愛の感覚」の共通性が存在するとしてよいのだろうか?
それを「よい」とする多数派の陰に「否」と呟く人は間違いなくいる。
始まりはやはり「自分一人にとっての正しさの感覚」だと思う。
その感覚が他者と共有できれば喜びを感じるだろう。
他者と共有できることがその感覚の強度を増すことにも繋がるだろう。
とすれば、自分の中で曖昧なその感覚を明示化することに実践的意義がある。
しかし明示化と言っても、意味が通ればそれで済むわけではない。
それが最初に「論理的な整合性ではない」と言った意味だ。
言葉にならない、掴みどころのない、しかし確かな位置を占めるある感覚。
それを言葉をもって再現させるアクロバシィを演じなければならない。
鍵は、保坂和志のいう「解析的に言葉を使う」ことだと思う。
状景を、現象を、正確な言葉をもって記述する。
上っ面をなぞる表現の使用に慣れると自分の言葉から強度が遊離する。
かちりと噛み合う歯車を一つひとつ拵え、絡繰りを組み上げていく。
だがこれは別方面からのアプローチになるので、当初の道筋に戻る。
まず、なぜこの記事を書こうと思ったかを振り返る。
実体を大切にし、「確かな感覚」を内に感じればそれを具体化する経験を積む。
「なんだか充実しているなあ」と曖昧な感覚に浸るのではなく、
その感覚を(身体ではなく)頭に刻むべく記述する。
そうしようと思っていた感覚にさきほど出会ったのだった。
小説の登場人物が二人、由緒正しき古民家の離れで寛いでいる。
初夏の日差しの強い午後、蝉時雨に包まれ、仄かに涼しい風が通り抜ける。
座布団を枕に縁側で昼寝する友人を横目に、
主人公は畳の上で仰向けになってしばし思考に耽る。
この場面に自分は引き込まれた。
主人公になり切った自分は、彼の思考内容をトレースしながら、
恐らくその思考以外の雑念がぴたりと動きを止めたのだった。
その場面のあいだ、主人公を通じて「理想の思考状態」を経験していた?
まず分かるのは、思考内容は付随的なものに過ぎないこと。
いかに心地よく頭の中の展開に意識を委ねられるか。
それは「いかに身体に対して無意識でいられるか」でもある。
この必要条件は、健康な身体ではなく「思考と同調できる身体状態」だ。
そう、恐らく思考に対しては、健康であればあるほど良いわけではない。
「電脳世界という理想」も頭の実感としては間違いではないのだ。
しかし実際のところ身体器官である脳は即物的な面を必ずもつ。
「幸せを過去に流す作法」はここにもあるのではないか?
戻る見込みが薄いが、話を戻す。
理想の思考状態も、その本質は「一瞬の輝き」だ。
「その一瞬のための一生」と言って、大袈裟でないかもしれない。
その夢を実現する原動力は意志と集中力で、それは徹底的に脳的な力だ。
過去に逆戻りしてしまう可能性もあるが、少し現実に冷淡になってみようと思う。
これは思考と実体の齟齬をなくす方向性とは全く別で、
「思考を研ぎ澄ます」ことを最優先に日常のサイクルを回す。
恐らくうまくいかないので、「時に」でいいし「時がくれば」でいい。
本を読んでいる間だけでもいいかもしれない。
むしろ日常生活のバランスをとるならそれが妥当か。
そして一日の中で何度か「フェイズの切り替え」がスッパリできることは、
気持ちの滞留を防ぎ、リズムをつけることに繋がるだろう。
次は上で触れた「別方面からのアプローチ」を展開してみようか。
次の取っ掛かりになるか分からないが、書き終えてから思い付いたことを書く。
「言葉にならない感覚を言葉にするアクロバシィ」を実現させる方法。
前に「比喩がそれだ」と書いたことがあるが、別の言い方もある。
「○○ではない」をどんどん繋げていく方法もあるのでは、と思ったのだ。
比喩とは「言いたいことをそのまま言わないで伝える表現手法」の一つだ。
一つの比喩を挙げて、その解釈は読み手に委ねられる。
もちろん書き手の意図に照らしての誤読も大いに起こりうるが、
解釈が読み手の文脈ベースであるために、誠実な読み手の解釈には強度が備わる。
「○○ではない」も比喩と同じ効果があると考える。
○○が解釈の余地のほとんどないものであるとして、
しかしその否定からの連想には制限がないのだ。
そして散漫になる連想を収束させるのが「○○ではない」の数だ。
ベン図を描いて空間的に捉えれば分かりやすいが、
この方法の理解を空間的把握で留めるには少し惜しい。
つまり、ある枠組みの中での否定はその枠組みを飛び越える可能性を秘めている。
このことは論理的整合性に近視眼的になると見えなくなる。
「否定」というと聞こえが少し悪いが、ここではわりと適切な表現かと思う。
論理性の構築は基本的に「○○は△△である」の命題を精巧に繋ぎ合わせる作業だ。
万人が、異なる背景を持ちながらも、論理的な思考によって同じ認識にたどり着く。
しかし構築の段階であった意志が、万人の利用の段階では失われてしまう。
「否定」には意志が伴う。
ある命題が提示され、読み手がその内容を自分のものとして理解し、
しかしそれを否定だけされて先が示されなければ?
思考を進める限り、何かが生まれるだろう。
恐らくこの話は上の「別方面からのアプローチ」とはまた別の話だ。
だが面白そうなので別の機会に次につなげたい。
最近の自分の重要思考テーマである「意志と集中力」と深く関係している。
よし、「正しい思考」を本ブログ内でシリーズ化しよう☆
今日のBGM:【ボサノバ】Phantom Ensemble【東方自作アレンジ】
この正しさは、もちろん論理的な整合性を指すものではない。
言い換えれば、「あるべき仕方で為されている」だろうか。
では「あるべき」とはどういう状態か?
表現そのものを細かく割っていけば理解に落ち着くものではなさそうだ。
換言し続けても堂々巡りになるか、好きな表現で納得してしまうだけだ。
一言で表現して万人に伝わるものでないことは確かだ。
「愛」と聞いて思い浮かべる感覚が一人ひとり異なるように。
まだスタート地点の手前での準備体操の途中だ。
「愛」と聞いて思い浮かべる感覚が千差万別で、しかしみんな幸福な気持ちになる。
これをして「愛の感覚」の共通性が存在するとしてよいのだろうか?
それを「よい」とする多数派の陰に「否」と呟く人は間違いなくいる。
始まりはやはり「自分一人にとっての正しさの感覚」だと思う。
その感覚が他者と共有できれば喜びを感じるだろう。
他者と共有できることがその感覚の強度を増すことにも繋がるだろう。
とすれば、自分の中で曖昧なその感覚を明示化することに実践的意義がある。
しかし明示化と言っても、意味が通ればそれで済むわけではない。
それが最初に「論理的な整合性ではない」と言った意味だ。
言葉にならない、掴みどころのない、しかし確かな位置を占めるある感覚。
それを言葉をもって再現させるアクロバシィを演じなければならない。
鍵は、保坂和志のいう「解析的に言葉を使う」ことだと思う。
状景を、現象を、正確な言葉をもって記述する。
上っ面をなぞる表現の使用に慣れると自分の言葉から強度が遊離する。
かちりと噛み合う歯車を一つひとつ拵え、絡繰りを組み上げていく。
だがこれは別方面からのアプローチになるので、当初の道筋に戻る。
まず、なぜこの記事を書こうと思ったかを振り返る。
実体を大切にし、「確かな感覚」を内に感じればそれを具体化する経験を積む。
「なんだか充実しているなあ」と曖昧な感覚に浸るのではなく、
その感覚を(身体ではなく)頭に刻むべく記述する。
そうしようと思っていた感覚にさきほど出会ったのだった。
小説の登場人物が二人、由緒正しき古民家の離れで寛いでいる。
初夏の日差しの強い午後、蝉時雨に包まれ、仄かに涼しい風が通り抜ける。
座布団を枕に縁側で昼寝する友人を横目に、
主人公は畳の上で仰向けになってしばし思考に耽る。
この場面に自分は引き込まれた。
主人公になり切った自分は、彼の思考内容をトレースしながら、
恐らくその思考以外の雑念がぴたりと動きを止めたのだった。
その場面のあいだ、主人公を通じて「理想の思考状態」を経験していた?
まず分かるのは、思考内容は付随的なものに過ぎないこと。
いかに心地よく頭の中の展開に意識を委ねられるか。
それは「いかに身体に対して無意識でいられるか」でもある。
この必要条件は、健康な身体ではなく「思考と同調できる身体状態」だ。
そう、恐らく思考に対しては、健康であればあるほど良いわけではない。
「電脳世界という理想」も頭の実感としては間違いではないのだ。
しかし実際のところ身体器官である脳は即物的な面を必ずもつ。
「幸せを過去に流す作法」はここにもあるのではないか?
戻る見込みが薄いが、話を戻す。
理想の思考状態も、その本質は「一瞬の輝き」だ。
「その一瞬のための一生」と言って、大袈裟でないかもしれない。
その夢を実現する原動力は意志と集中力で、それは徹底的に脳的な力だ。
過去に逆戻りしてしまう可能性もあるが、少し現実に冷淡になってみようと思う。
これは思考と実体の齟齬をなくす方向性とは全く別で、
「思考を研ぎ澄ます」ことを最優先に日常のサイクルを回す。
恐らくうまくいかないので、「時に」でいいし「時がくれば」でいい。
本を読んでいる間だけでもいいかもしれない。
むしろ日常生活のバランスをとるならそれが妥当か。
そして一日の中で何度か「フェイズの切り替え」がスッパリできることは、
気持ちの滞留を防ぎ、リズムをつけることに繋がるだろう。
次は上で触れた「別方面からのアプローチ」を展開してみようか。
次の取っ掛かりになるか分からないが、書き終えてから思い付いたことを書く。
「言葉にならない感覚を言葉にするアクロバシィ」を実現させる方法。
前に「比喩がそれだ」と書いたことがあるが、別の言い方もある。
「○○ではない」をどんどん繋げていく方法もあるのでは、と思ったのだ。
比喩とは「言いたいことをそのまま言わないで伝える表現手法」の一つだ。
一つの比喩を挙げて、その解釈は読み手に委ねられる。
もちろん書き手の意図に照らしての誤読も大いに起こりうるが、
解釈が読み手の文脈ベースであるために、誠実な読み手の解釈には強度が備わる。
「○○ではない」も比喩と同じ効果があると考える。
○○が解釈の余地のほとんどないものであるとして、
しかしその否定からの連想には制限がないのだ。
そして散漫になる連想を収束させるのが「○○ではない」の数だ。
ベン図を描いて空間的に捉えれば分かりやすいが、
この方法の理解を空間的把握で留めるには少し惜しい。
つまり、ある枠組みの中での否定はその枠組みを飛び越える可能性を秘めている。
このことは論理的整合性に近視眼的になると見えなくなる。
「否定」というと聞こえが少し悪いが、ここではわりと適切な表現かと思う。
論理性の構築は基本的に「○○は△△である」の命題を精巧に繋ぎ合わせる作業だ。
万人が、異なる背景を持ちながらも、論理的な思考によって同じ認識にたどり着く。
しかし構築の段階であった意志が、万人の利用の段階では失われてしまう。
「否定」には意志が伴う。
ある命題が提示され、読み手がその内容を自分のものとして理解し、
しかしそれを否定だけされて先が示されなければ?
思考を進める限り、何かが生まれるだろう。
恐らくこの話は上の「別方面からのアプローチ」とはまた別の話だ。
だが面白そうなので別の機会に次につなげたい。
最近の自分の重要思考テーマである「意志と集中力」と深く関係している。
よし、「正しい思考」を本ブログ内でシリーズ化しよう☆
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