幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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私の文章は、すごく長いか、すごく短いかのどっちかである。「バカじゃねーの」でカタをつけたがる自分を前面に出すと、すごく短い。それをひっこめると、「相手の思考体系全体をカバーして、それを引っくり返す」ということになるから、とめどもなく長くなる。(…)「バカ野郎、手前ェで考えろ!」と、昔の職人風に怒鳴りつければ、説教はその一言ですむが、この一言をひっこめてしまうと、説教はやたらと長くくどくなる。だから、品位を問題にする紳士は、その一方で、悪口の表現を洗練させ、「もって回った攻撃」の訓練をしなければならなくなる。クドクドともって回った、悪口とも思えないような悪口を言っているのは、きっと、相手の存在を認めているからである。認めなかったら、さっさと手っ取り早い”排除”に移ってしまう。さっさと殴りつけるのも体力だろうけれど、しつこいほどに紳士をやっているのも、別の種類の体力だ。ある出来事あるいはその対応の仕方に問題を感じた時、説教の必要性が生まれる。
「「バカげたこと」をもう一度」(橋本治『橋本治という行き方 - WHAT A WAY TO GO!』p.136-137)
実際は相手と自分の立場もあって「説教」などという表現すら思い浮かばないこともあるが、一般的に説教というのは(「自分ならもっと上手く解決できる」といった)他人の問題を自分に引き寄せてこそ発生するもので、立場云々はどうでもよくて、その「相手」が目の前にいる必要もない(本を読んでいて登場人物や著者に説教したくなることもあるのだから)。
その説教が「バカ野郎!」の一言ですむ場合はいくつか考えられて、「自分がバカげたことをしている認識すらない相手にまず一喝」とか、「それを気付かせれば自分で解決手法を思い付くだろう(というこれは相手の力を認めている言い方)」とか、「この問題は頭でウジウジ考えても仕様がないからまず考えるのをやめろ」とか。
で、僕がなるほどと思ったのはそのもう一方で、もう一方というのは抜粋前半の「相手の思考体系全体をカバーして、それを引っくり返す」のことである。
これは自分が「相手の思考体系」そのものに興味を持った場合や、情状酌量の余地がある(「気持ちは分かる」てやつ)場合の展開である。
相手の抱える問題の解決法がこちらにズバリと見えて、しかしそれと同時に相手がその問題を抱える必然が見えたり、一般的に思えた自分の解決法を相手が採用しなかった理由に思い当たりかつ納得できる場合、問題の解決法だけを相手に伝えておしまいというのは何だか不親切だし、だいいち自分が面白くない。
そして「クドクドともって回った、悪口とも思えないような悪口」が「相手の存在を認めていること」になるためには、”そこ”が相手に伝わらなければならない。
それは「君のそれはこういうことなんやないかな」という説教が、決めつけでなく仮説の提示に聞こえるということなのだけど、「相手の存在を認めている」というのは、「この説教が"仮説”であるというメタ・メッセージが相手に伝わる」と自分が信じているということで、しかしこのような状況が生活の一場面として全く想像できないし実現できるとも思えないから本ばかり読んでいるのだろう。
寂しいのかもしれない。
まあそれはよくて、前にも「前提の話」をしたけれど、今書いていて気付いたのは、「構造を語る(考える)魅力は"ある確実性"にある」ことだ。
学部生の時に法律に憧れた時期があって、工学部だったからナカとって(?)弁理士の資格をとろうと勉強もしたのだけれど、あの憧れは「法律は揺るぎなく確実なもの」という認識に因っていた。
弾力的な解釈とか「法は破るためにある」とか、実際の運用として揺るぎないわけはないので、もちろん建前の話である。
精神的に不安定な時期は確実なものに憧れるというやつで(法のほかには「権力」とかね)、当時の不安を蒸し返す気はないけれど、自分が(どっぷり読書を始めてこのかた)「構造」に興味を持ち続けているのも同じことのような気がしたのだ。
4回生時の研究室のテーマも「最適設計」で、これも要は構造の話なのだ(経済でも建築でも意味論でも、共通の計算ツール(線形計画法、モンテカルロ法、…中身は記憶にない)を使って目的関数と変数を設定して最小(大)化を目指すのだけど、共通のツールが使えるということは「異なる分野の物事にある共通の構造を見ている」ということ)。
そして復習(もちろん自分にとって。これまで何度か書いてきたことなのだ)はここまでで、また気付いたのだけど、僕は昔から「確実なもの」を求め続けていて(そして大体みんな同じようなものだとも思う)、しかしそれは「(思考する頭にとっての)確実なもの」なのだった。
こっからすぱーんと言ってしまえば、それは男だからで、女にとっての確実なものとは身体で、しかし男にとって身体は(女に比べて安定しているというのに)「不安定なもの」でしかないから確実なものではなく、一方で女にとっての身体は「(安定か不安定かとは関係なく)確実なもの」で、この捉え方の差は「頭で生きる」か「身体で生きるか」という生物学的性差に起因する、と。
だから例えば「他人の芝は青く見える」と言って、身体という確実なものを基盤に生きる女を羨ましいと思う男がいて、その彼の「じゃあその逆で女が"思考の自由に従って生きる男"に憧れることもあるはずだ」という認識が誤っているのは、この話の最初から最後までが「頭の中の話」だからである(何の例えなんだろう…)。
まあもちろん例外はいくらでもあって、しかし原則は揺るぎない、というこれが上で触れた「構造を語る魅力」の一例です。
そしてこれが現代であまり魅力とならないことと「男性の女性化」が繋がっていたりして、しかし言葉を軽く見る者には呪いがかかると言いつつ「呪いを信じない人には呪いの効果がない」こともあって、まこと世の中も頭の中も錯綜しているのであります(そして前者は後者に含まれるってのが「脳化社会」)。
「入れ子っ子」ですね。
(以下、引用で話を戻して〆)
私は、その初めには、自分の親から「なにバカげたこと言ってんだ」の類をさんざっぱら言われて、そのことに慣れて、「自分の言うことは、親の所属する世界の世界観からすればバカげているのだな」ということを学習してしまった。そんな学習が起こるのは、「それとは別の世界では、別にバカげてはいない」ということを知ったからである。
同上 p.139
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