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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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 お客と「わたし」の関係は、この[お互いを信じるという]「建前」という概念上のインターフェースを境界として向き合っている。境界の向こう側によく見えない「本音」がある。こちら側にも相手に見せてはいない「本音」がある。この関係をもう半歩ひねってみれば、商品やトークを媒介にしてお互いの本音が沈黙のコミュニケーションをしている光景が見えるはずである
 売る人と買う人という擬似的な人間関係を、それがあくまでも擬似的な関係であると知りつつそれを演じる。この演じ方の中にお互いの「生身」を仮託し、信頼とか誠実と言った「本音」を見せ合う。

平川克美『ビジネスに「戦略」なんていらない』p.158-159(第六章 一回半ひねりのコミュニケーション)
「なぜ人は"なぜ人は仕事をするのか”と問うのか」というメタな問いがこの章の山場で、こういう「意味の手前」を探る話はいつもながら興味深いのだけど、僕がこの章を読んでタイムリーだと思ったのは、ビジネス(仕事)の場面に否応なく表出せざるをえない「個人としての自分」の扱いについての話だ。
それは仕事の効率的な遂行においては邪魔になることの方が多く、理想的にはない方がよいとされるのだが、その理想は会社の理想であって個人の理想とは折り合わない。
…というのは本当だろうか?
「効率」という概念が、そもそもは「人が仕事をする理由」とは関係がなくて、「効率的な業務の運用によって会社を存続させる」のは会社を生かす(延命させる)ためであって、「会社で働く理由」ではない。
そのことを見失いがちだと本章には書いていて、そして僕はそう読んだということなのだが、「そのことを見失わないためにどう考えるか」も書いてくれている。
 もしビジネスに面白さを見出すとすれば、それは自己の現実と自己の欲望との関係の中にあるのではなく、そういった欲望の劇や商品に値づけをして販売するという社会的な行動プロセスの背後に非言語的なコミュニケーションが行われているというところから来るのだろうと思います。つまり、ビジネスが提供する人と人との関係性の面白さに起因しているということなのです。(…)
 ここで重要なのは、ビジネスの舞台では、それぞれがそれぞれのキャラを身にまといながらも、そのキャラを操っている交換不可能な「わたし」という個性が同時に存在しているということなのです。(…)個人はここでは業務遂行的な課題と自己確認的な課題に引き裂かれたような関係にあります。この引き裂かれたような関係こそが仕事の面白さの源泉であり、エネルギーを生み出す源泉であると言えるのです。(…)自分の演じているキャラと自分の個性(=自分が自分であるところのもの)との落差の不断の交換プロセスが、ひとりの個人の中で生起しており、同時に他者とのあいだにおいても行われている。ビジネスのコミュニケーションは、遂行的な課題についての遂行的なコミュニケーションですが、同時にそれぞれの「社会的な自分」と「個としての自分」がつくる落差と落差のコミュニケーションでもあるわけです

同上 p.163-166
そう、「当たり前」でいいのだった。
仕事に自分の内側(「個としての自分」)が出てしまうのも(出てしまう、という意味で)当たり前で、それを何とかしようとするのは「社会的な自分」であって、その努力の上でどうしようもない部分が残るのも当たり前。
そのことを嘆いてもいいのだけど、嘆く主体は「社会的な自分」であって「個としての自分」ではない。
両者が仕事をする中で混ざり合ってしまうのは仕方なくて、しかしそのことは障害ではなく前提なのだった。

「自分はなぜ仕事をするのか」を常に問い続けること、と本書には書いてある。
それは答えを出すための問いではなく「コミュニケーションのための問い」なのだ。
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