幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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直接的には表舞台に加わらない、「観客」が存在し、様々な視点から問題を注視していることによって、「政治」に「複数性」がもたらされるのである。私個人にとっての必然性もないのに、特定の立場にコミットして、無理に積極的なアクターになろうとする必要はないし、アクターになろうとしない人を、安易に卑怯者呼ばわりすべきでもない。(…)「傍観者」は、それというだけでダメなのではない。
『カント政治哲学講義』のある箇所でアーレントは、(「活動的生活」の裏面としての)「観想的生活」を「注視者的な生き方(spectator's way of life)」と読み替えている。「注視者=観客」として、「歴史」を公平=非党派的に注視し、判定しようとするまなざしが、孤独に陥っていく傾向のある「私の思考」を、政治的共同体を構成する他者たちのそれと結び付け、かつ、その共同体を存続させているのである。
仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』p.211,215(4章 「傍観者」ではダメなのか?)
問題の、あるいは対立の外からでしか全体像は見渡せない。
利害の絡む当事者だからこそ、その立場に適う選択ができる場合はある。
だがどのような問題にも客観的な視点=「傍観者」があって悪いことはない。
傍観者の居心地が悪いのは「見て見ぬ振り」をしていると思われるからだ。
当事者から見れば利害の絡まない第三者は気楽にさえ見える。
だからといって、一つの問題に対して全員が当事者になる必要があるだろうか?
「当事者が多ければ安心だ」という数頼みの短絡がそこにないとは言い切れない。
この抜粋とリンクする、なかなか辛辣な文章を最近読んだので抜粋しておく。
戦争に対するかかわりがその人の知性と倫理性の「査定」のための踏み絵となる、という考え方は一つのドクサにすぎない。このドクサのイデオロギー性についての無自覚。それが戦争を語るすべての知識人に深く蔓延しているように私には思われる。(…)
彼らは戦争「そのもの」には関心がなく、ただ戦争という「事件」のどうかかわるかをショウ・オフすることによってローカルな同職者集団のなかでのヒエラルヒーを高め、発言権を増し、自分に反対するものを黙らせることに主たる関心がある。(そしてそれこそが「主な関心」であることを、夫子ご自身は都合よく忘れているのである。)
内田樹『ためらいの倫理学』p.14,18
ここで最初に取り上げたかったのは上とは別のことで、自分のことなのだが、
それは「(具体的な)他者を志向した思考をすべきではないか」ということ。
「しかるべき時にしかるべき判断をするための日々の思考」では漠然としている。
"孤独に陥る"のはそのような思考が完全に宛先を見失った時だろう。
別に日常生活で同僚を口説けばいいというわけではない。
例えばその同僚が話題にするようなニュースについても考えてみる。
つまりリアルタイムな出来事も取り上げてみてはと思うのだ。
思考内容と他者をつなぐ線がよりはっきり見えてくるだろう。
もちろん大切なのは、「観想(思考)」と「活動(意志)」のバランスだ。
「活動」と「観想」は、ヒトが「人間」らしく生きるための両輪であって、一方が欠如すれば、他方も不十分になる。「活動」を通して他者のまなざしを知ることで、「観想」の視野が広がるし、「観想」を重ねることで、「活動」における言論の中身も洗練されていく。
同上(仲正) p.167
このような氏の指摘は励みになるが、これだけでは「思考」でしかない。
「思考」を「活動」に活かすために意志は必須で(その意味で上で括弧をつけた)、
その意志をしっかり発揮するために必要なのは集中力だ。
繰り返すがこれが今の自分に足りないものであり、常に意識すべきことだ。
気を張り詰めて集中した末の、心地よい疲れというものがある。
安穏とするはずいつの間にかが居心地の悪い怠惰に変わることがある。
どちらも、想像と実体の差が生み出す、幸福であり不幸だ。
実体を大切に、こつこつと経験を積んでいきたい。
今日のBGM:【東方自作アレンジ】ネクロファンタジア【ピアノ】
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