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幸福も過ぎ去るが、苦しみもまた過ぎ去る。
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今ある頭の回り方があって、
それが以前のある時期と同じ調子に思えて、
しかし体調など「思考を取り巻く状況」が違うと思える時、
何が変わったのだろうか?

だいたいその「同じ」が、ほんとうに同じかどうかが分からない。
「同じ」と思わせる別の何かがあるかもしれない。
するとそれは回転の滑りを良くするものか。
あるいは(防衛反応として)鈍らせるものか。

後者である場合、「同じ」は実は違うということになる。
逆に前者であれば、「同じ」は同じでも違うでも構わない。
回転するならばそれでよいのだ。
その何かは以前から内にあったか、降って湧いたか?

ちょっと生活が落ち着いてきた感じがある。
つまり「思考の回転」関数がとる変数は変化量なのか。
「今の今」の展開を追って走る脳内回路は、ハードの動作環境に依存する。
その環境は過去を引きずっており、未知なる未来というノイズ入力もある。

脳は身体の一部とはいえ、身体の状態とはある程度分離して駆動できる。
それ自体はあらためて言うまでもないが、その分離の仕方に興味がある。
ふと、典型的ではない形の分離の仕方があるのではないかと思ったのだ。
例えば、即時的には相反しつつも未来の合流を予期しているような分離。

そのような芸当ができるとして、その実現にはまず「できる」という信頼がいる。
そしてその信頼の根拠に「確実なものがない」ことは確実だと言える。
そう、確実なものを担保するのは、ほんとうは不確実なものなのだ。
予定調和でないそれは、結果と名付けたものから事後的に確認できるのみだ。


指針はたくさんある。
たくさんあることに、素直に喜べるようになりたい。
それを喜べない理由は、実は複雑だ。
選べることの意味が、変わってしまった。

選択肢が多い喜びは、「この中に最適なものがある」ことにはない。
選択肢が増えることは、最適値が上がることと結びつかない。
そもそもこの言い方は「選べることの意味が変わった後」のものだ。
最適値などありはしない。

もとい、主観的な最適値などありはしない。
「主観を取り戻す」(@保坂和志)の一つの実践は、ことばを選びなおすことだ。
主観的な言葉を「思い出す」。
さあ、この主体は誰だろう?
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寝太郎ソリューション。

 なにもしないでいること。
 なにも生産しないでいること。
 なにも消費しないでいること?
 なにも思考しないでいること?

 結果を求めないでいること。
 価値を求めないでいること。
 意味を求めないでいること?
 変化を求めないでいること?


「なにもしない」の現代的な意味を考える。

何をするにも、「するよりしない方がいい」との思いが先にある。
あることをすることで、得られるものがあり、失われるものがある。
それをしないことで、何も得られないが、失われることを防げる。
得られるものより失われるものの方が大きければ、その行動はためらわれる。

ただ、「なにもしないでいること」は状態の不変を意味するのだろうか?
死体ですら朽ちるのに、生体が、時間の経過において不変でいられるだろうか?
つまり、何もしないことで失われるものがある。
それでは、何もしないことで得られるものはあるだろうか?

恐らくまず「する」ことを具体的にする必要がある。
…。
ここで行き詰まるところに、ひとつの問題がある。
具体化することで縛られるという予感がある。


視点を変えてみる。

「観察」することは、れっきとした行動である。
観察している人は、なにもしないでいる人ではない。
当たり前のようだが、現代の空気はこの論理を認めていないように見える。
すなわち、「観察」は「なにもしないでいること」とみなされる。

これを空気と呼ぶのは、明示的な要請があるわけではないからだ。
なんとなく、なにもしないでいることに落ち着けない。
なんとなく、なにかをせずにはいられない。
ここに論理はない。

ことばでつくられた世界の、ある場所で、論理が破綻している。
その破綻は、世界中の論理性に傷をつける。
グローバル化とは、この「ある場所」と「世界」の近接化のことだ。
現実を支える論理の強度が損なわれていく。


本来の「進化」の意味を考えよう。
ある変化が「進化」かどうかは、その変化の内容で決まるのではない。
集団を離れた特異点が環境の激変に耐え得た時に決まる。
特異点の発生が抑制された集団に「進化」は起きない。

しかし、その抑制をかいくぐってこその特異点である。
均質化の圧力が極まった集団は滅びると、言うのは誰か?
今日まで太陽は昇ってきたから、明日も朝日を拝める?
笑止!(えー

つまり、そういうことだ(えー
あるいは考える前に書き始める。

状況論という言葉が頭から離れない。
保坂氏の本にあったのだが、「ちょっと考えれば誰でもたどり着きそうな構造論」のこと。
自分の身近な経験を普遍的な話に押し上げようとするとよく陥る。
それが悪いわけではなく、「ちょっと考えれば」がちょっと過ぎるといちゃもんを付けるわけでもない。
「ふつう」に考えればみんながたどり着く結論であれば、それは「ふつう」の、ありふれた思考なのだ。

「それが悪いわけではなく」などとすぐ保身にまわる癖は意識しないと抜けないので意識するとして、「それではいけない」と言いたいから、正確には自分の目指す「深い思考」をするにおいてはその「ふつう」はしがらみでしかない。
そうと分かっていればさっさと脱すればよい、と思ってもそう簡単にいかないのは、考えるのは自由であり時と場合に応じて考え方が変わるのも当たり前ではあれ、考える人間は一人なのであるからある場面で考えた事が他の場面での思考に影響を及ぼすのも当然のことで、その影響を全く無視できる状態は極めて現代的であり病的といえる。
どういう目線で病的かといえば動物から見ての話で(ちょっと極端かな)別にそれはよくて、自分が何かしらの病気を自覚していて、かつ(全般的にであれ)病気はよくないという認識に違和感がない以上、症状の進行は抑えようとするだろうし、可能であれば治癒の方向へもっていこうとするものだ。
病を自覚しつつその症状が生活を乱さないよう制御することを寛解という。
ある病気の完治が別の病気の発症をもたらす可能性があり、後者も前者なみにあるいはそれ以上に侮れないといった場合、現在進行中の日常生活を維持するうえでの次善の解決法は前者の病気の寛解ということになる。
「次善の解決法」といって、これは最善ではないし、そもそも寛解は解決ではないとも言えるが、ここでいう最善は願望の入った理想(つまり前者の病気が完治し後者の発症も抑制できるという結果)でしかなく、ここでいう解決の意味合いは「大学受験で合格することが人生のゴール」という時のゴールと同じものでしかない。

閑話休題。
構造は、正確に語られた場合、論理的な確実性を備えている。
それが現実的かどうかは、何ら論理性を傷つけない。
現実は論理を基盤にしているが、論理を基礎付ける現実というものはない。
現実が参考にされて論理が組み立てられることはあっても、その論理が完成した時点で現実とは手が切れる。
別の言い方をすれば、「論理を目指すもの」が現実の試行錯誤を経て洗練され、抽象として独立して初めて論理となる。
「構造を語る魅力」はその確実性にあり、法の(建前の)全能性の魅力と似るところがある。
ただ、これは分かりやすい入れ子になっていて、「構造を語る確実性」という表現が既に確実性を備えている。
そして上で触れた「(自分の目指す)深い思考」というのは、この魅力を駆動源にしつつも時に抗いながら、「入れ子」を常に意識しておくことが一つの前提となっている。
確実性を語ることは、その確実性が明示的であればあるほど、既存の論理と似通ってくる。
自分の経験から語られることが「既にどこかで言われているかどうか」は、本来のそれを語ることの魅力とは関係がない。
歴史に名を残すために語るのではないし、それはまた別の魅力であるからだ。
しかし既存の論理は多かれ少なかれ個人の経験に蓄積されている。
問題になってくるのは、自分の経験を語る時に「既知に還元するために語っている」のか、「独自の論理を生み出すために語っている」のか、という自分の認識である。
だから「還元するための既知」を忘却していればどんなにありふれた論理も独自性を獲得する。
数学的才能はあったが公教育を満足に受けられなかった農民の子が、半生をかけて編み出しかつて教育を受けた恩師に意気揚々と披露した理論が「二元連立一次方程式」だった(そして恩師は涙した)、という話をどこかで読んだが、これを悲劇だと思うのは「既知の論理」側の人間で、その農民の子が家の農作業の合間を見つけては思考に没頭していた半生の充実は否定されない。
それを否定することは「システムによる個人の否定」である。

個人の生の充実はいつの時代でも追及されてきた。
(この言い方が正しく聞こえないのは「個人=近代的個人」という暗黙の了解(というか言葉の定義か)があるからで、ここでは「個人=一人の人間」で、近代以前は個人の境界が今よりずっと曖昧だったということだ)
生の充実を追及することは人間である以上どうしようもなくて、ただ時代によって追及の仕方が変わってくることも考えれば当たり前だ。
しかし、その方法が様々ということは分かりやすいが、「生の充実」がどのような状態を指すかも時代によって異なること、ある時代の価値観で別の時代のそれを理解する難しさなどは立ち止まって(つまり現代の日常から距離をおいて)考えなければ気付けない。
そして(「個人」が近代以降の産物であることと同様に)「生の充実」なるものを言葉からとらえようとする生活観が現代特有であることも。

自分がこの世界に(思考できる頭をもって)参入した時点で、既に言葉は溢れている。
言葉は溢れていて、色々な仕組みが言葉で出来上がっていながら、それに嫌気がさしたのか、世界は「言葉なんて軽いものだ」と主張しているように見える。
それは一つの大きな矛盾で、「矛盾はよくないからないことにする」でもなく、「矛盾は世界の至るところに満ちており、論理と現実は違うという以上を意味しない」と看過するでもなく、「それはどうしてだろう?」という(始まりとしてはとても素朴な)疑問を抱えて生きていくこと。
言葉を大切にすること、いや「自分の言葉を探すこと」の、これは過程である。
「既に始まっているゲーム」に途中参加した者は、試合開始のホイッスルも、試合終了のホイッスルも聞くことができない。
ゲームは続くのであり、既に始まっていて終わらないものこそゲームなのだ。
残り物?

「残り物には福がある」という諺からの連想。
残り物というからには、選択肢の多さが問題になっている。
 最初はたくさんあった選択肢が、少なくなってしまった。
そして、「選択肢は多いほどよい」という通念が前提となっている。
 この通念の起源は「選択肢が少なくて当たり前だった時代」にある。
 戦後すぐはろくに食糧の配給がなかった、とか。
その通念を引っくり返すような現実も往々にしてあるよ、というのが諺の意味。

そして「選択肢が多くて当たり前」の現代がある。
選択対象は消費者としての消費対象全てであり、情報だってそう。
(実際に選び取れるかという選択能力はまた別の話)
この現代における残り物とは何か?
かつては「もうこれしか選べない」という選択肢の無さを示していた。
対して今は「選択肢の無いことを選び取った状態」を意味している。
自ら視野を狭め、思考を停止させないと選択肢を消去できない。
残り物は自然発生しなくなったのである。

この諺は現代も生きているのか?
と考えてみると、起源とは別のかたちで生きていると答える。
残り物には、確かに「福」がある。
選択権の放棄が福をもたらすことがあるのだ。
しかしそれは意志的な行為というよりは防御反応である。
「なんかヤダ」と思い、該の欲望から遠ざかる。
つまり脳の暴走(の徴候)に対する身体の防御反応だ。

それでは「意志的な選択肢の放棄」は何をもたらすか?
それは脳と身体のバランスを考慮しての合理的行動ではある。
しかしその行動を脳だけで推し進めると、おそらく逆戻りとなる。
その始まりやよし、だがどこかで主導器官(?)のスイッチが必要となる。
あるいは両者のバランスを保つための身体的な安定を支える何か。
「自然な感覚」について。

自然な感覚、という言い方がある。
賢しらな企てなく、身体の赴くままに、なにか大きな流れにのる感覚。
その感覚は「大きなものの一部であること」からくる心地良い感覚だろうし、生物的な「適応」の源でもある(その感覚に従うことで生物は環境に適応して生き延びられる)。
しかしこと人間に関しては、この自然な感覚の全てを肯定するわけにはいかない。
誰もがそんなこと敢えて言わずと分かってると思うだろうけれど、その一方で、地道に考え続けないと判断できないような(環境を大きく変えるような)問題に対して「自然な感覚に従えばいいんじゃない」と即断する。
考えるのが面倒だから、という理由が目に見えて、そして「考え(過ぎ)るのは自然に反する」という意識も垣間見える。
もちろん「頭を使わずに身体(感覚)で判断すべき問題」もある。
あるけれど、ある問題が「頭の問題」なのか「身体の問題」なのかを判断すべきなのは、身体ではなく頭だ。
そうと断言できるのは、社会が頭でできている(現代は養老先生のいう「脳化社会」だ)からだ。

自然な流れがあって、それに従った結果になにか「よくない」ものを感じた場合、疑うべきは「自然な流れ」か「その結果を吟味する自分の感覚」のどちらかである。
後者を疑えば楽である。
「よくない」と思ったのは自分の勘違いで、自然な流れに何も疑わず従えばいいのだから。
しかし自分の感覚を信じており(信じたいと思い)、自分の感覚が前者を疑うのならば、その判断を補強してくれるものを自前で用意しなければならない。
これは骨が折れる。
折れるし、明らかに「自然な感覚」に従っていない。

しかし意識とはそういうものではないのか、と思う。

視覚のメタファーを離れて…?

毎週同じコースを歩いている。
玉川沿いの道は車道だったり歩道だったりするのだけど、舗装された歩道がコースの一部にあって、そこは僕の歩く時間帯(日が暮れる直前くらい)にほとんど人が通らないので自由に歩ける。
右手は川が流れており、水草が元気よく繁茂していて心地よく緑に染まっている。
左手は田んぼで、近所ではこの時期にちょうど水が入り始めたようで、まだ水は土色に濁り、苗も植えられたばかりのひよっこである(寮の真ん前の田んぼは水が入ったその日の晩からカエルが鳴き始めた。オタマジャクシが流れてきてすぐに孵ったのだろうか)。
舗装された歩道は真っ直ぐで、前後も左右もほとんど傾斜はない。

何の話かといえば、最近また目を瞑って歩く方法(というか感覚)について考えている。
前の週末に寝不足で駅前まで歩いた時、その帰りは目を開けるのがつらいほどの疲労を感じて、安全なところでは「逆まばたき」(まばたきの瞬間だけ目を開けて、あとは目を閉じる)をしながら歩いていた。
「また」と書いたのは前にも一時期凝ったことがあって、その時に比べると目を閉じながらまっすぐ歩けるようになったなと今回感じたのだった。
前に考えていたのは、目を瞑る瞬間の視野を錐体に焼き付けて(つまり残像を残す(ん、これは重複表現?))、目を瞑った時にその残像を「じっさい目を開けて歩いている時と同じように動かす(風景を左右から後ろに流していく)」という無茶な話で、言った通りにできたとは思えないけれど、これは目を瞑ると言いながら視覚的イメージへの依存という点ではふつうに目を開けている状態とほとんど変わらない。
あれから(というわけでもないが)色々情報を得て(ツイッターで平尾剛が紹介してたDaniel Kishのextraordinary senseとか、人間が処理する入力情報の9割以上が視覚だとか、それゆえ視覚に関係しない現象や事柄の表現にも視覚のメタファーを無意識に使っているとか、あとは『目から脳に抜ける話』で養老孟司の展開していた「人間が左右の耳で音の発生源までの距離と方向を定位する精密なメカニズム」の話とか)、目を瞑るのだから視覚に頼らない歩き方があるのではと考えるようになった。

で、それは上で少し触れたように耳を使おうということで視野ならぬ「聴野」の構成について掘り下げてみようと思うのだけど、この言葉遣いが既に視覚のメタファーを使っているのだろうか…
まあそれが悪いってんじゃないし、そうあらざるを得ないという話らしいので、それと意識しながら展開していくとしよう。
知の蓄積と俯瞰について。

知識が増えると、その分野を広く見渡せているような気になる。
しかしそれが「俯瞰できている状態」とは限らない。
高い所から街並を見下ろす。
大文字山でも、スカイツリーでもいい。
その見下ろしていることを「街並を一望俯瞰する」と言う。
これは目が米粒のような建物の膨大な散らばりを見ている以上のものではない。
そこから何かを考えることは「一望俯瞰」には含まれない。

頭の中での「俯瞰」を考える時、上記の一望俯瞰はメタファーとして機能している。
メタファーはその対象とイコールではないので、この場合の「俯瞰」には「そこから何かを考えること」が含まれている。
イコールでないことはいいのだけど、実際の行動や感覚を思考のメタファーに使う時に注意しなければならないのは、元の対象とは異なる(そして時に全く関係のない)事象が含まれ、そこから異なる意味が生まれることだ。
もちろんそれは概念の拡張作用というメタファーの主な効果の表れではあって、「元の対象と全く関係のない事象」の前には「このたびメタファーを介することがなければ」がくっついていて、それは「袖触れ合うも多生の縁」というか「シニフィアンとシニフィエの結合の恣意性」という言語の成り立ちと同じ感動がそこにはある。
注意するのは概念の拡張そのことではなく、「拡張」がその思考の目指す方向性に沿っているかどうかである。

閑話休題。
ある分野について勉強して、知識を蓄えて、詳しくなる。
その分野について人に語ることができるようになる。
この時、その分野について俯瞰できている、と表現する。
これを、高い所から街を見下ろすイメージでとらえるとどうなるか。
一望俯瞰に「その先の思考はない」と言った。
思考はないが、満足はある。
その満足はどこからくるか。
例えば擬似的な権力者の優越感としてみよう。
すると、知における俯瞰のもたらす満足が卑小に感じられてしまう。
なぜといって、知における俯瞰の僕のイメージは以下のようなものだからだ。
ある分野について、その細かい所を掘り下げる時に、その深化作業の分野全体における位置を把握できていること。
ディテールの構築やその組み合わせ方の発見(「要素作業」と呼んでみよう)の楽しさとは別に、要素作業の大枠の意味(一般にそれを含む分野における意味だけでなく、他分野との関係性、すなわち別の分野を枠にもってきた時に持つ意味やその別分野に含まれる要素との組み合わせが生み出す意味などを指す)にも想像が及ぶこと。
これは満足というよりは(不満でもないが)渇望だ。
分かることが増えると、同じだけあるいはそれ以上に分からないことが増える。
人は「分からないことを減らす」ために分かろうとするのではなく、全く逆で、「分からないことを増やす」ために分かろうとする。
ただそれを表面的に見ると矛盾していて気持ちが悪い。
だから満足ではない。
スカイツリーから東京の街並を眺めて(僕は見たことはないが)、不満になることがあるだろうか?
あるとすればそれは「一望俯瞰」とは関係のない、個別な事情によるものだろう。
そうとも限らないだろうけどそれはどうでもよくて、最初に言いたかった(と今思い付いた)ことは「俯瞰のメタファー」にちょっとした「いかがわしさ」を感じるということだ。
それは科学の発展してきた方向性(「要素技術の発展」とか「分類志向」とか)が生んだもののように感じる。
博物学的志向といえば簡潔にまとまりそうだが、きっとこれも、それが学問になる前には無かった発想なのだと思う。
ファーブルがその最初から昆虫を分類したくて虫の観察に没頭したのか。
きっとそうではないと思い、しかし分類が悪いと言いたいわけでもなく、むしろ「色んなものが身の回りにあって、それらに共通点を見出せたら(その洞察の表現として)分類したくなってしまうものだ」とまずは認めようじゃないか、と言いたいだけかもしれない。

そしてその分類志向が「手段に留まるか目的になるか」が運命の分かれ道なのだ。
「ブレイクする」とブレイクスルー。

 選択と集中という言葉があるが、それは費用を切り詰めることではないし、ムダ遣いを厳守(いや「厳禁」なんだけど、こういう(会社の壁に貼られたりすれば)シニックな標語もいいなと思って書いてみた。「ムダ遣い厳守!」)することでもないし、省エネに努める(この場合の「つとめる」にあてる感じはどれが正しいのだろう?「努める」が一番近いと思ったけど、これでも「省エネが仕事」みたいな響きがあって、これに「仕事は生きがい」を繋げるとなんとまあシニカルな)ことでもない。集団の指針として、あるいは個人の中ででも意図しての選択と集中だとそうなってしまうけれど、意図しないで、つまり(「そうせざるを得ない状況」を先に設定してもよいが)勘をはたらかせての「選択と集中」のコツみたいなものがあるのではと思った。
「そうせざるを得ない状況」の具体的なところが、昨日に引き続き僕自身まだ風邪が治ってなくて身体がへばっている状況で、これが身体の調子の良い普段とは違う頭の回し方をさせてはいて、良い所を先に言えば「いつもの過剰なこだわりを(余裕がないがゆえに)抑制できている」点がそう。細かい表現とか言い回しが重複する時に無理して普段使わない表現で言い換えようとするとか。それはそれで練習になるというか自分の言葉を獲得するプロセスとしてアリなのだけど、書きたいことをさらりと書く時にやっていると回り道にはなる。「急がば回れ」は大体において本当だが、急いでいない時に回ると大体において戻ってこれなくなる。急いでないので別にそれで構わないのだが、回ってばかりいるとカーブの曲率が険しくなってきて、つまりだんだん回転になってきてしまいには眼が回ることになる。眼が回ることは狂うことと近からず遠からずであって、狂いたいと思う人間は二種類いて「自覚なく狂いたい人」と「自覚をもって狂いたい人」に分かれるのだけどもちろん後者の方がレベルが高い。というのも自分の振る舞いを適度に制御できなくなる状態を狂うというのであって、「狂わずに狂う」と言っているようなものだからだ。そしてこれは可能であって、断言できるような実例がちゃんとある。
 と言って過剰なこだわりを解除することを狂いに繋げるのは極端というかすっ飛んでいて、書こうと思ったのはその解除の具体的なところだった気がする。ただそれ自体を分析的に、ある程度(歩いて井戸?)抽象的に書けるのは元気な時で、今はそれ自体(=その解除の具体的なところ)ではなく解除がなされた状態のアウトプットをそのまま吐き出して、そこから間接的に推論を重ねていく方法がやりやすい気がしていて、しかしその推論は元気になってからやることのように思われるので今は煩雑に書き散らすことしかできない。書き散し寿司。握り鮨の絵をえんぴつで描き飛ばすわけです。そういえば寿司食べてないなあ…ある時期からスーパーで生魚を買うことに抵抗をおぼえてしまったことが一因で、たぶん漬け物かなにかで食中毒が起こった時からだろう。よく考えるとあんまり関係ないような…想像のリンクのさせ方をあまり奔放にやっていると戻ってこれなくなりそうだな。
春めいた空気。

事務机のある棟と評価解析を行う棟が違うので、毎日徒歩5分程度の道を最低2往復している。
最近は風が強くて落ち着かない時もあるけれど、日差しと空気はぽかぽかしている。
また今週末も少し冷える(そして雨?)とのことで、散歩する日に限ってコンディションが整わない。
けれど、いつもお天気、いつも朗らか、支障なき道のりでは飽きるのだ。
道のりの具体的な構成物に関わらず、その佇まいの「変わらなさ」のために。
あるいは、その「変わらなさ」を求める自分の心のために。

「変わる」という主体の認識は、主体と客体の相互作用だ。
「変わる」ことで生きている人間が「変わらない」ことを求めるとはどういうことだろう?
身体が「変わる」ことに反して脳が「変わらない」ことを求めること以外に何があるか。
往々にして脳が身体と逆に志向することを脳自身が考慮に入れるとき、脳と身体は顔を並べることになるのだろうか?
「一貫性」が脳の宿命であるとして、それを崩そうとする意志を一貫性を獲得せずに発揮することはできるのだろうか?
「脳が身体に従う」とはどういうことか?
身体器官の一つである脳が自分の赴くまま振る舞うのを「脳が身体に従う」というのは単なる言葉遊びに過ぎない。
言語が脳の専売特許である以上、「脳が身体に従う」さまを言語で記述できないのだろうか?
「身体言語」を開発するべきなのだろうか?
たしか保坂和志が自身のハード(「硬派な」ってこと)エッセイで「量子力学を表現するためには量子力学的な言語を用いなければならない」と書いていた。
きっとそれらは不可解さにおいて宇宙人の喋る言葉に引けを取らないだろう。
意思疎通に全く不都合な言語が存在する意味はあるだろうか?
何か重要なすれ違いがある。

本当に伝えたい事柄を正確に表す言葉(言語)は、誰にも理解されない。
そんな言語がもしあるとすれば、そういうことにならないだろうか。
そしてそのことは、何を意味するだろうか。
苦痛に対処する時にそれが抽象化される点について。

たとえば、目が痛いというときに、いつも通り夕食をとった後でお腹もいつも通り膨れているにも関わらず、何か食べたいと思ってしまうこと。
食べている間の喜びというのは身体とは別に脳も感じるもので、お腹が減っていなくとも食べ始めると食欲が湧いてくる…というのは抑圧していた身体の声が聴こえてくることで別の話で、お腹が膨れていてもまだ箸が進むのは「摂食行為に浸っていたい」という脳の欲求ゆえかと思う(しかしこれも「いったん手に取った箸は動かし続けるという惰性」のせいかもしれないが)。
苦痛の発生源とは別領域で快楽を発生させてなんとかしようとするのは、もしかすると当たり前なのかもしれないが、だから本質を捉え切れていないからいつも失敗するという認識はネガティブに過ぎるのかもしれないが、失敗した時は(前段のないところから、あるいは必要以上に快楽を生み出すから後でそれが苦痛となって戻ってくるために)泥沼に陥ることは少し冷静に考えれば気付ける。
上の例でいえば目の痛さに食べ過ぎが相まって「泣きっ面に腹痛」ということになる。

そこで冷静に考えるというときに、しかし求めたいのは快楽であることに変わりはないのだから、「長期的な快楽」(長い目で見た時の快い状態の積分値)についてなんとか想像を巡らせてみる。
今は大きなマイナスがひとつあって、別件でプラスをもってくることも可能だがそれが反転してマイナスになるリスクもあって、しかし「大きなマイナス」がどう推移するかは現状を加味する限り予断を許さない。
プラスもマイナスもそもそもはスカラーに方向を与えたものなのだけど、心身の状態はプラスやマイナスそのものではなくて、ある初期値にそれらプラスやマイナスを加えた時の位置であって、するとその位置の目盛りというのは「ある初期値」の取り方で決まることになる。
つまり時間(横)と心身状態(縦)の二元座標軸を考えた時、状態はとりあえず今なわけだから縦軸を左右にずらすことはできなくとも(と単純に考えておくけど、こだわり出すとなかなか面白そうではある)、横軸を上下に移動させることは実は簡単なのだ。
前に経済学の新書を読んで「サンクコスト」という用語が頭に残っているのだけど、これは確かsunk (沈むsinkの過去分詞形) costで「回収不能の元手」とかそんな意味だったはず(あ、思い出した「逸失利益」だ)で、これを僕に覚えさせた印象に残る例というのが「食べ放題のお店で支払う前金がサンクコストにあたる」という高校〜大学時代に数え切れぬ不毛な挑戦と後悔を残した自分の経験の身に染みる(切り傷にレモン汁を垂らすような)もので、つまり「原価の高いもん食って元取ったる!」という貧乏症の自分には避けられない勝負に勝とうが負けようが敗北していた若かりし頃が懐かしい。
あるいは「若さを満喫していた時期がちゃんとあった」という思い出だけが残る今となってはプラスが残っているという考え方もできるがそんなことはどうでもよくて(というか貧乏性エネルギィの有効な使い途が他にあったと考え始めるとそのプラスも吹っ飛ぶのだが)、話を戻せばサンクコストなる概念は(経済学で使われる時よりも)ここでは自由に使えることが言いたかった。

で、自分の状態の基準をずらすのは「言うは横山やすし」というけれど(あれ、言わない?)それは「昨日の自分と今日の自分は同じ自分」と思ってるような人にとっては難しいという意味であって、しかし社会人であってそうでない人なんていないはずはなくて(例が極端なんだな)、そこで「人間の細胞は3日間くらいで全部入れ替わる」みたいな生物学的事実をメタファーとして援用して感覚を少し「そっち」に傾ける、というようなことが実際効果的だったりする。
そして後で戻ってこないといけないので「身体を傾ける」だけで「軸足は動かさない」という。

話を一番始めに戻せば、苦痛がある時にその根源を除去しようとしないのは端的に「それができればやっとるわ」ですね。
だからまず本質から逸れるところからスタートするのは常道で、しかしそれが「複雑さをなんとかやりくりする」か「泥沼で喘ぐ」ことになるかの分かれ道が厳然とあって、進むべき方向を過たない秘訣は「比重からして泥沼でも人体は浮く」という認識でしょうね。
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